Font-size: small medium big

Blog Calendar

サイト内 検索

 


 人気blogランキング(政治)に参加しました、応援お願いします。 人気blogランキング

2008年11月30日

パレスチナ問題 ー 絶望の中に希望を求めて

 しばらくの間忘れかけていた私の頭に再びあの「パレスチナ問題」が入り込んできた。

 何気なくチャネルをまわしていたら、NHK教育テレビがイスラエル占領下のパレスチナの映像を流している事を見つけた。

 イスラエル軍の戦車に少年たちが石を投げつけている。その少年たちを追い回して戦車が発砲する。

 究極のイジメである。

 しばらく見た後、チャネルを切り替えた。

 後で新聞の番組欄で調べたら、第35回日本賞受賞作品「ヨルダン川 二つの学校」というドキュメンタリー作品であることがわかった。

 どのような内容の映画であるか、数分見ただけでは勿論わからない。

 しかしこの映画の一コマは、しばらく忘れかけていたパレスチナ問題について、私の心に二つの思いを蘇らせてくれた。

 パレスチナ問題、その途方もない絶望と、かすかに見える希望、である。

 最近の日本の報道ではほとんど報じられる事はなくなったが、パレスチナでは連日絶望的な日々が続いている。昨日も今日も、そして果てしない明日も。

 ブッシュもライスも、何一つ問題を解決することなく、たち去ろうとしている。

 まるで世界が見捨ててしまったかのようなガザのパレスチナ人は、その間も日々巨大な監獄のような状況に置かれたままだ。

 行動の自由はおろか、食糧も医薬品も、何もかも欠乏した、想像を絶する非人間的な生活を強いられている。

 それにもかかわらず、国際社会は動かない。

 米国、イスラエルのパレスチナ政策を誰も糾弾できないでいる。

 この絶対的な不条理、これこそがオサマ・ビン・ラデンを反米テロに駆り立てたものだ。

 インドの武装テロ事件が与えた衝撃は、多くの犠牲者を出した組織的テロだったからだけではない。

 新興経済大国として日本や世界が経済関係を強化させようとしてきたインドでさえもテロ事件が起きたからだけではない。

 「私は(アフガン、イラクの)5000万人を自由にし、平和達成を手伝った大統領として名を残したい」(全米公共ラジオのインタビューで。11月30日毎日)というブッシュ大統領の願いをあざ笑うかのように、もはや反米テロが世界中に広がりつつあるのではないか、その思いが皆を戦慄に突き落としたからだ。

 オバマ大統領の最大の難問はここにある。

 世界金融危機はいずれ解決する。オバマ大統領でなくても、みながよってたかって解決策を講じる。

 しかしパレスチナ問題を解決しようとする指導者は間違いなく命を落とす。

 ましてや、金融危機の回避と違って、自分にとって一銭の得にもならないパレスチナ問題の解決に奔走する者はいない。

 ここに私は目がくらむような絶望感を感じるのだ。

 その一方で、パレスチナ問題に心血を注ぐ若者がこの日本にもいる。一銭の得にならないどころか、多大の負担と犠牲を払いながらパレスチナ人の怒りと苦しみを共有しようとする若者たちがいる。

 ここに私はかすかな希望を託するのだ。

 「パレスチナの平和を考える会」の若者たちもその一人だ。

 私の手元に、「パレスチナの平和を考える会」の定期会報である「ミフターフ(家を追われたパレスチナ難民たちは故郷の家の鍵を今も大切に持っている、その鍵を意味するアラビア語)」の11月号がある。

 そこに、鳴り物入りで日本が援助した「ヨルダン渓谷開発援助(俗称「平和と繁栄の回廊」構想)」の現地レポートが詳細に書かれていた。

 果たしてどれだけの読者の目にとまるのだろうと思うほどの小さな会報であるが、その報告はどこの新聞や雑誌にも書かれることのない上質の報告である。

 どこのメディアも書けないほど正確に、日本の中東外交、援助外交の欺瞞を見抜いたものである。

 小泉元首相の末期に提唱され、麻生外交が引き継いだ、「平和と繁栄の回廊」構想。

 それは、イスラエルの占領下にあるヨルダン川渓谷の農業開発に援助する事によって、日本がイスラエルとパレスチナの協力促進に一役を買う、そういう謳い文句の援助であった。

 それがまったく進んでいない現状を、現地を訪問し、関係者に直接会って確かめた、そのレポートである。

 外務省の中東政策にも、援助政策にも携わってきた経験がある私には、この援助が、かつての同僚や後輩たちが頭でつくりあげた、首相、外相の宣伝のための「援助」である事を知っている。

 うまく行くはずがない。

 占領者と被占領者という絶対的不平等下にあって、どうして真の協力関係を築けるというのか。

 作ったものが占領政策によってたちまち破壊されるような戦争状態の中で、どうして開発が進むというのか。

 それどころか、日本の援助はイスラエルのパレスチナ占領にお墨付きを与え、占領を固定化するものですらある。

 このレポートは、しかし、私のそのような批判めいた事に焦点を当ててはいない。

 占領政策でもがきながら生活を続けているパレスチナ人たちにとっては、それが占領の固定化であろうが、日本の宣伝であろうが、少しでも生活の糧になるのであればありがたい、と考える。

 しかし、この日本の援助は、イスラエルの対パレスチナ政策の硬化によって、プロジェクトそのものが満足に進められない状況になっている、というのだ。

 それにもかかわらず日本政府はイスラエル政府に文句一つ言わないというのだ。

 その結果、占領の固定化であっても援助が暮らしの助けになればありがたい、というパレスチナ人の最低限の願いさえ裏切っているという。

 これ以上ないほどの失策である。

 そのレポートはこうしめくくっている。

 ・・・当面、この構想(平和と繁栄の回廊構想)は、大々的に進める事もできず、かといって止めることもできず、規模を縮小したかたちで延命されていく可能性が大きいように思われる。その間にも、ヨルダン渓谷におけるイスラエル人の入植の拡大、パレスチナ人の家屋破壊、イスラエルによる水の一方的な収奪がますます強化されていく事は確実である。
   私たちは日本政府およびJICAや援助関係者、日本社会全体に、(パレスチナ問題に向き合うこと無しに援助を続ける事は)納税者に対する欺瞞であり税の無駄遣いでしかないことを訴えていく必要がある・・・

    外務省の官僚たちが権力と援助予算に胡坐をかいて進める血の通わない援助政策を、たった一人の若者が徒手空拳で調査して暴いて見せた。

    パレスチナ人の苦しみを共有しようとする若者がこの日本にもいる。

    ここに私は希望を見出す。

 

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月30日

正しい日中関係はどうしたら築けるかを考えてみる

 
 11月30日の産経新聞に、中国についての対照的な見方が掲載されていた。

 一つは一面に連載で掲載されている「人界観望楼」である。外交評論家・岡本行夫が「中国は穏やかになってきた」という論評を書いている。

 もう一つは論説欄における産経新聞中国総局・野口東秀氏の「最近の中国と、おごる平家は・・・」という論評である。

 「先週、外務省の依頼で中国に講演にいった・・・」という言葉で始まる岡本氏の論評は、中国での講演などを通じて聴衆たちと言葉を交わし、そこから得られた彼の印象論を、要旨次のように書いている。

 ・・・米国は日本にとっても中国にとっても重要な国と話せば聴衆は頷いた。それでは二番目に大事な国は?皆が答えないので私が、日本にとっては中国、中国によっては日本と思う、と言ったら笑いが起きた。その笑いは好意的なものだった。靖国参拝を繰返した小泉元首相の心情を説明して、どうぞ小泉さんを嫌いにならないでください、と結んだら聴衆から拍手が起きて驚いた。米中戦争になって中国が在日米軍基地を攻撃すれば日本は安保条約の下で中国と戦争することになるから、台湾海峡での中国の武力行使には反対です、と言っても、中国側の反応は、賛成はしないけど日本の立場は理解する、という理性的で穏やかなものだった。田母神論文は誤りだ。それを切っ掛けに歴史認識をめぐって対中強硬論が強まる動きがでているが、日本はそろそろ中国の悪口を言うのは止めて、中国と余裕をもって向き合う時だと思う・・・

 これに対して中国総局野口東秀氏の論評は、その殆どを中国の傲慢振りを示す次のような数々の引用で埋め尽くしている。

 ・・・「私は反日ではない」と自認する中国高官がこう言っている。日本の政治は内向き傾向が強い。内政の不安定は経済にも反映されており、日本は国際政治の舞台で影響力など発揮できない。日本人は中国人にとり信頼できる国ではまだない。ドイツは歴史を反省し、公の場でナチスを賛美する言論や出版を法律で禁止しているが日本で歴史認識をめぐって政府の見解と異なる見解がつねに出てくる。周囲で不信感を持たれ、信頼されない国が、どうして常任理事国になれるというのか。これを私だけの個人的意見と思わないほうが正確だ。米国は黒人大統領になることでソフトパワーを世界に示した。確かに米国と中国は政治体制は違う。しかし米中とも国家の行方と団結を指導者が論じる点では同じ。そうした演説は日本にはない。中国には問題があり、批判もあろうが、大国として邁進できる材料がある。米中2大国の時代へと中国は進む。資源獲得の為の中国の対アフリカ外交のどこが悪いのか。中国の国益を追求してどこが悪いのか。日本は資金もあるのに、なぜ中国と同じようにアフリカに多角的外交ができないのか。技術はあるのに戦闘機は自主開発できず原子力潜水艦も建造できず、米国の顔色ばかりうかがうのか・・・

 そして結論として次のように締めくくっている。

 ・・・「日本は軍事国家になる。強大な軍事力を持つようになる」。ひところの中国のそんな決まり文句など嘘のように、中国高官は日本の軍事力には一言も触れず、「中国にとり脅威なのは米露だけだ」とまで断言した。
   どこの国からであれ、脅威と見なされていない事は結構な話だ。ただ、単になめられているだけなのであれば、喜んでばかりもいられない。日本に対して中国にこうした対日認識があることへの覚醒を促したい。中国には、おごる平家は久しからず、とだけ言っておこう。

 皆さんはこの二つの論評をどのように読んだか。

 ここからが、今日のブログである。二つの論評に対する私の所感である。

 岡本氏の論評は、対中外交論ではなく、中国との良好関係を願う外務省の広報記事でしかない。そこから学ぶ事は何もない。講義の反応だけで中国は穏やかになって来た、などと判断するのは、あまりにも安易であり、誤りですらある。
 それよりも私が残念に思うのは、みずからの意思で外務省を離れた岡本氏が、外務省の政策と異なった事を言ってみたり、外務省の代弁者のような事を言ってみたり、と、ぬえのような評論を繰返し、恥じるところがない事である。そんな岡本氏に頼り続ける外務省の人材払底と閉鎖的な仲間意識である。これではコレクトな外交はできない。

 それに比較して、野口氏の評論は、中国高官の数々の言葉を通じて今の中国政府の考えをうかがい知らせてくれている。その言葉は興味深い。
 問題はそれに対する野口氏の反応である。
 それは一口で言えば、日本はこのままでは中国に負けてしまう。何とかしなければならない、という危機意識である。そしてここが重要なところであるが、それでは日本はどうすべきかという名案が提示できないまま、中国よ驕るな、と捨てゼリフを吐くしかなく論評を終えている事である。

 実はこの対応はまさしく田母神論文と通底している「考え」、というよりも、「感情」なのである。

 どうすればいいのか。

 私の確信は以下の通りである。もちろんこれは私の意見でしかない。大きな論争となるテーマである。しかし、私の外交官としての結論である。国際政治の観点からも、大きな歴史の流れを見据えた観点からも、正解はこれしかないと思っている。

 米国か中国かという選択は誤りだ。米国も中国も軍事力を国力の基本に据えた覇権国家である。そのいずれもが、過去と将来の歴史を直視すれば、誤った国である。
 日本は中国に対し、軍事的に競い合うのではなく、軍事大国を目指す中国の誤りをさとす事だ。
 そのためには、まず日本が日米軍事同盟から自立し、日本の過去の軍国主義の反省を国是として確立することだ。中国に対して経済・技術的な協力を通じて、中国国民の安全と繁栄を目指す事を唱えるべきだ。それはまた日本のためでもある。
 中国の将来を考えた時、そして世界人類の将来を考えた時、平和の為の日中協力しかないという事を中国に、中国国民に堂々と主張していく、日本が中国に勝てる事があるとすれば、まさに憲法9条を堅持して経済発展を成し遂げた「奇跡」であり、この事のほかはない。
 そのためには日本がその基本姿勢をもう一度取り戻すことだ。
 憲法9条を掲げて日中協力を迫る時、中国が日本を批判する余地は雲散霧消する。中国は日本に勝つ事はできない。憲法9条を掲げて日本政府と国民が一体となって日中友好関係の確立を呼びかける。その事に正面から反対できる国は、中国はもとより、米国を含め世界中どこにも存在しない。出来ない。なぜ日本人はその事がわからないのだろうか。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月29日

心が震えるほどの感動的な記事に遭遇した


 このところブログで政局がらみの事を書いていない。

 というよりも、あまりの馬鹿馬鹿しさに、書く気がしなくなった。

 解散・総選挙とか政権交代などという事は、もはやどうでもいいことのように思えてきた。

 所詮は、政治屋や、政治屋になりたいと思う、権力や利権に物ほしげな連中の間で繰り広げられている茶番ではないのか。

 そういう連中が、官僚と、つかず、はなれず結託し、国民の税金と司法、検察、行政という国家権力をほしいままにしている。

 そう考えると、腹立たしく、だからこそ政治から目が離せないのであるが、最近はそれさえも克服しつつある。

 人は正しく、強く、生きていかなければならない。

 自分自身が、そう生き生きていくことを目指す、それでいいのではないのか。

 この世の中には、およそ政治とは無縁の世界で、そのように正しく生きている人が無数にいる事を私は知っている。

 そこに希望を見る。

 11月29日の読売新聞に、久しぶりに心が震えるほどの感動的な記事に遭遇した。

 「時の余白に」というコラムだ。

 編集委員の芥川喜好という人が、アスベスト問題について書いていた。

 その要旨はこういう事だ。


  ・・・新聞社の図書室で調べ物をしていた芥川氏は一冊の本を見つけ懐かしく手に取る。それは彼が文化担当の若かりし頃に新刊紹介で著者に取材した事のある「労働基準監督官日記」(日本評論社)という本である。

  その本は、戦後誕生した労働基準監督官の一期生だった井上浩という人の、労働現場の報告である。

  それは芥川氏に言わせれば、成長を謳うこの国の経済政策の裏で、戦前と変わらぬ過酷な労働と低賃金にあえぐ『民』の現実をつぶさに綴った、静かな憤りの書である。

  官の立場と民の現実とのはざまで苦悩する井上浩という一役人の情熱に引かれて若かりし芥川は取材をした。そんな昔の事を芥川氏すっかり忘れていた。

  偶然に見つけたこの本のページをめくるうちに、芥川はあのアスベスト問題の箇所を見つけて「脳天を打たれたような衝撃」に襲われる。

  その箇所の日記の日付は昭和51年12月。

  32年も前に、行政の現場でアスベストの危険性を訴え、みずから患者を探し出し、救済に奔走した役人がいた、その役人こそ井上浩さんであった。

  アスベストについては、36年前に世界保健機構が発がん性を指摘し、欧米を中心に早々と厳しい規制が敷かれたのに、「民」への真の愛情と想像力を欠いているこの国の行政は手を打たなかった。

  そんな行政の最前線で、心を砕いてすばやく動いていた「官」がいた事は、いまさらながら感銘的であると芥川氏は書く。

  そして芥川氏は取材から29年経った今、井上さんを埼玉県に再訪する。

  アスベスト問題は、行田労働基準署長を最後に退官する間際の井上さんの最後の仕事だったという。

  下請け工場に肺がん死が出ていた事を突き止め、半年かけて調査報告書をまとめ、それを埼玉労働基準局に提出して対策を求め、後任の署長と会社の労組幹部に引き継いだ上で、井上さんは退職した。

  しかし、後事を託した人たちは動かず、井上さんの仕事が内部で生かせられる事はなかった。

 予測できたこの危険を、なぜ避けられなかったのか。それは人の命が経済活動よりも絶対に優先だという考え方が日本にはなかったからだ。そして、隠蔽という病がこの国を蝕んでいたからだ。

 芥川氏はその記事をこう締めくくる。

 アスベストの製造、輸入、使用等は、曲折の末、2年前に全面禁止になりました。しかし潜伏期間30年ー40年の病気の方はこれからが本番です。「だからこそすべての情報を開示し、一人一人を救わなければならないのです」と、退官後も労働問題に携わる井上さんは言います。

 アスベスト問題は、現代日本に生きている以上、ひとごとではない。その事を戦慄とともに語られている書に、「アスベスト禍」(粟野仁雄著・集英社新書)という書があります。アスベスト被害の現実、国家的不作為の実態など、アスベスト問題を徹底的に検証したこの書は自分の身の安全を守るためにも必読の書です・・・


 労働基準監督官であった井上浩さんの正しい生き方に感服する。

 その井上さんを取材し、それを記事にして称える芥川編集委員のジャーナリスト魂に感服する。

 それにしても、行政は、その後アスベスト対策に万全を期しているのだろうか。

 アスベストの製造、輸入、使用は確かに禁止されたが、今度急増してくるであろう被害者の救済は万全か。

 アスベストを使用して作られた建造物の解体対策は万全か。

 これは官僚としての私の勘であるが、あの耐震偽装問題の時と同じように、問題が表面化しない限り

 官は適切な対策を講じていないのではないか。

 被害者が次々に出てきて大騒ぎするのではないか。

 ドサクサにまぎれてアスベスト建築物を解体している事が発覚して大きな社会問題になるのではないか。

 これ以上官の不作為、隠蔽を見たくは無い。

 官もまた、正しく、強くあらねばならない。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月29日

やしきたかじんの「そこまで言って委員会」に出演して田母神前航空幕僚長らと闘論してきました


 毎週日曜日の午後、関西の読売テレビでやしきたかじんの「そこまで言って委員会」という番組がある。

 以前二度ほど出演したことがあったが、テレビ映りが悪いのか、しゃべりがへたくそなのか、まもなく出演の声がかからなくなった。

 それが突然の出演依頼だ。

 どういう風の吹き回しかと思ったら、収録日が11月28日(金)であったため、小沢、麻生党首討論とぶつかり護憲議員が軒並み出演を断ってきた、そのピッチヒッターだと聞かされた。

 ばからしくなって断ろうと思ったが、あの田母神前航空幕僚長が出てくると言う。本邦初のテレビ出演をするという。それを聞かされ、興味をそそられて、出演に応じた。

 結論から言えば出演して正解だった。じつに面白い闘論になった。

 田母神氏は不快な人ではなかった。いい人であった。正直で、単純で、そして、失礼な言い方をさせてもらえば、やはり軽率な人である。

 しかし、これはテレビでも発言した事だけれど、逆説的に言えば、我々は田母神氏に感謝しなければならない。

 なぜならば、この際、あの戦争はなんであったのかという事を、国民一人一人がよく考えなければならない、その切っ掛けを作ってくれたからだ。

 闘論の模様は11月30日(日)午後の関西読売テレビで見ていただきたい(東京、北関東を除いては全国ネットワークらしい。東京は検閲が厳しいからということらしい)。

 このブログでは二点に絞ってこの問題に関する私の意見を書いてみたい。

 ちなみに、新幹線を乗り繋いで栃木ー大阪を日帰り往復した私は深夜に帰宅したのであったが、テレビのスイッチをひねったら偶然にもテレビ朝日の田原総一郎「朝から生テレビ」で、やはり田母神論文の
闘論をやっているところであった。

 その模様を聞いて、次に書く私の思いは、更に固まった。

 まず第一点は歴史認識とは個人の意見ではないという事だ。

 私は今後どんどんこの問題が国民の前で論議されるほうがいいと思っている。衆院でも田母神氏を参考人として招致する動きがあるらしいが、どんどんやればいい。そして田母神氏に自由に喋らせ、それをテレビですべて放映したほうがいい。彼も喋りたくて仕方がないのだ。それで皆がハピーになるのだ。

 喋れば喋るほど、皆がだんだん辟易してくる。弁護できなくなるのだ。

 それは「朝生」でもそうだった。田母神論文を弁護する側にいた皇国史観の立場に立つ論者たちの立場がどんどんと不利になっていくことが誰も目にもわかった。

 それは当然である。歴史認識とは都合のいい記録や所見を伝聞的に繋ぎあわせてできるものではない。

 誰も知らないような瑣末な発言や記録を殊更強調してみたところで、皆を説得できる史実にはならない。歴史認識をめぐる論争は、特殊な知識の競い合いではないのだ。

 個人が知りうる知識は所詮限られている。おまけにすべての情報が公表されているわけではない。情報隠蔽や操作もある。だから歴史認識というものは、古今東西の多くの学者や専門家が膨大な時間とエネルギーをかけて検証した業績を総合的に吟味し、大勢とされる意見に従う、それが歴史認識なのだ。

 田母神氏の意見は意見として、そしてその田母神氏の意見を擁護する人たちの意見もまた、彼らの意見として主張するのは勝手であるが、今の時点における歴史認識として皆が共有するものにはなり得ない。それは彼らが決める事ではない。いくら議論しても勝ち目はない。

 それよりも重要な事は、歴史は国際政治の所産であるという事実である。

 日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦を認めたのだ。

 勝者が敗者を裁いた東京裁判の判決を受け入れて、A級戦犯を認めたのだ。

 その事によって日本は国体を護持し、戦後の国際社会に復帰し、今日の日本があるのだ。

 日本だけが悪くはなかった、米国にだまされた、などという事は部分的にはその通りであろう。

 しかし、それが如何に悔しくても、国際公約で受け入れた日本の責任を否定しようとすればどういう事になるか。

 それは国際孤立である。日本の国益を決定的に損なう事になる。

 酒場などで憂さ晴らしをするのは勝手だが、国際社会に向かってそれを日本政府が言えると思うのか。

 もう一度米国と戦争するつもりなのか。

 そういう事なのである。

 二つ目に言いたい事は、なぜ田母神論文事件が起きた遠因としての政治の怠慢である。

 政治が歴史認識問題を曖昧にしてきたからこそ田母神論文に象徴される歴史発言問題がいつまでたっても後を絶たないのだ。

 実はたかじんのそこまで言って委員会でパネリストたちが最も激しく攻撃したのが、あの村山談話であった。

 つまり田母神論文を擁護できない代りに、そのはけ口として社会党党首の名前を冠した村山談話を諸悪の根源であると攻撃することになる。

 これまで、日中共同宣言をはじめいくつかの外交文書において歴史認識を示した事はあったが、閣議決定を経て発表されたあの村山談話こそ、政府の歴史認識を示す公式見解であった。

 その公式見解である村山談話が、そしてその後の歴代の首相が踏襲し続けてきた村山談話が、なぜ今でもここまで貶められるのか。

 それは保守政治家たちが、社会党の党首が首相であった時に作った談話であるから仕方がない、とあの談話を内心で認めていないからだ。

 一方の村山元総理は、「自分だからできたのじゃ」と、自民党に担ぎ出された負い目と引き換えに、無理をして評価しているからだ。

 あの談話は外務官僚の作文でできた。それを政治の駆け引きでなんとか村山談話に纏め上げたに過ぎないものだった。

 敢えて政府統一見解という事なく社会党党首の名前をつけて、それ以降の自民党首相が踏襲していることこそ、自民党の責任転嫁だ。自民党もまた村山談話を貶めているのだ。

 そしてそこまで貶められても、村山元首相本人も、護憲政党も、怒る事はない。

 つまり自民党も、民主党も、護憲政党も、要するにこの国の政治そのものが、歴史認識から逃げているのだ。

 だから田母神論文事件が起きるのだ。

 田母神論文事件が起きても、迅速かつ適切な対応が出来ないのだ。

 たかじんのそこまで言って委員会においては政治の怠慢が繰り返し攻撃されていた。

 そしてその事については私も他の右翼パネリストと同感だ。

 歴史認識とは何の関係もないことであるが、テレビ収録とちょうどおなじ頃に行なわれていた麻生・小沢党首討論を後で知って、つくづくと思った。

 政権をあらそう二大政党の党首討論がこの体たらくである。

 堂々とした政策論争がまるでできていない。

 こんな政治で田母神論文問題を追及できるはずはない。

 解散・総選挙とか政権交代などという事以前の大問題がそこにある。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月28日

どこの職場も人間関係は大変だ


 少し前の記事になる。

 たいした記事ではないのだが、妙に印象に残ったので切り抜いていた記事がある。

 11月14日の毎日新聞「ダブルクリック」というコラムで池内恵という東大准教授(イスラム研究)がこんな事を書いていた。

 ・・・企業なら、困った上司もやり過ごしていればいつかは替わる。しかし、大学の世界では最初についた先生がずっとそのままだ。学部あるいは大学院に入った時の人間関係が一生続く。こんな風通しの悪い社会はない。
 大学では世の中一般以上に、理不尽な力関係が成立しやすく、是正されにくい・・・まともな会社なら
「35歳で部長に就任すると65歳まで留任し、部員の人事権を握り続ける」
などということはないだろう。しかし有力な研究系大学の教授などは、一度就任するとほとんど動かない・・・

 大学という世界もそういう事なのかと唸ってしまった。
 
 どこの職場も人間関係は苦労の種が尽きないものだなあとしみじみ思う。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月27日

人を見下す事はいけない事だ


 官僚なったぐらいだから、そして官僚を35年もつとめてきたぐらいだから、私も官僚の悪しき本性を見につけている。

 官僚の悪しき本性の中でも一番鼻持ちならないところは人を見下すところである。

 それは良くない事だと遅ればせながら気づいて改めようとしても、そう簡単には改まらない。

 もはや人の批判など気にしない私だが、「あいつはいつまでたっても官僚臭が抜け切らない奴だ」、と批判される事が一番こたえる。

 そんな私だが、次のような記事に出くわすと、やはり驚く。心が寒くなる。

  近ごろ水村美苗(みずむらみなえ)という女性作家の書いた「日本語が滅びる時ー英語の世紀の中で」(筑摩書房)という本が、評判されていると見えて、書評欄でよく取り上げられている。

  この本は、世界で流通する英語が唯一の「普遍語」として君臨する一方、他の言語は亡びる、という事を言っているらしい。それはまた、「愛する日本語」を滅ぼしてはいけないという逆説でもあるらしい(11月25日朝日新聞書評)。

 11月23日の毎日新聞「千波万波」においても、潮田道夫論説委員が、いまや国際語となった英語が学問や文芸の世界で他の言語を圧倒しほろぼしていくだろう、とする水村美苗氏の主張を、「文明論的見通しを雄弁に語っている」と褒めている。

 確かに英語はもはや英米人の言葉にとどまらず国際語となっている。

 だから日本という国が、そして日本人が世界に正しく理解され、評価されるには、日本人がもっと英語で自由に発信できるようにならなければいけない、と私も世界を渡り歩いて来て感じてきた。

 しかし、私が水村美苗氏の事について俄然興味を持ったのは、この本のそういう主張ではない。

 前掲の毎日新聞「千波万波」のコラムで潮田論説委員が書いていた次の文章を見つけたからである。


 ・・・(この本に書かれている)数々の挿話も面白く読んだ。水村氏の女友達の大学教授の感懐。小さいころ小説家を世の中で一番尊敬していたが「それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」。水村氏も同感だそうだ。そうだろうなあ・・・


 この見下し観はどうだ。

 こういう連中が官僚の世界に如何に多かった事か。

 そして官僚の周りに集まる経済人や有識者などの自称エリートたちもそうだった。

 この大学教授も水村氏もそしてコラムを書いている毎日新聞の潮田論説委員もその仲間たちに違いない。

 しかし、それは間違いである。

 人を見下す事も間違いだけれど、事実認識としても誤りだ。

 その大学教授がどの作家をさして自分より頭が悪いと言っているのか知らないが、人々に読まれるものを書いていること自体が評価に値する事なのだ。価値がある事なのだ。頭が悪くてはできない。

 そもそも頭がいい、悪いとは、どういう事なのか。

 自分こそ頭がいいと思いこんでいる頭の悪い連中が、つるんでこの国を動かしている、その現実こそ、国民を不幸にしていると思う。
 
 そこを変えなければこの国は変わらない。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月27日

国籍法改正を急いではいけない

 
 11月27日の各紙は月内成立の見通しだった国籍法改正案の参院可決、成立が自民、民主の話し合いでひとまず先送りされる事になった事を小さく報じている。

 これはもっと大きく報道されるべき問題である。今日のブログはその事について書く。

 実はこの国籍法改正問題については、このブログで取り上げてくれという書き込みが最近多く寄せられていた。

 それをあえて取り上げてこなかったのには勿論理由がある。

 その理由の一つは、このブログで取り上げるテーマは私の独断と偏見で、私が書きたいと思うテーマだけを取り上げるという原則を崩したくないからである。このブログは読者の期待に応えて書くものではない。

 しかし、もう一つの理由は、自分が自信の持てないテーマについて書く事は控えるという方針があるからだ。何を書いても必ず批判するものがでてくる。その批判に堪えられるのは、自分が書くことに対する絶対的確信である。たとえそれが妄信であるとしてもだ。

 しかし今日の新聞報道を見て、国籍法改正についてどうしても書きたくなった。

 11月27日の朝日新聞によれば国籍法改正は、ひとまず月内成立は見送られたけれど、自民、民主両党の間では今国会で成立させる合意が出来ているという。

 これはおかしい。

 国籍法改正についてはもっと慎重な審議が重ねられるべきだ。

 メディアがもっと大きく取り上げ、国民の間に問題点が周知される必要がある。

 それほど重要な国籍法改正である。

 いうまでもなく今度の国籍法改正のポイントは、単純化していえば、日本人の父親が認知すれば未婚の子供にも日本国籍を認めるというものだ。

 この国籍法改正反対に熱心なのは保守、右翼的な立場の人が多い。

 その例には枚挙にいとまがないが例えば11月27日の産経新聞で、あの稲田明美衆院議員が反対をし、今日発売の週刊新潮では桜井よしこ氏が平沼赳夫衆院議員と対談して「日本の危機」とまで酷評している。

 その背景にあるのは、国籍は国家の主権にかかわる需要な要素であり、正体不明の者に安易に国籍を付与しては日本が崩壊する、という国粋主義、愛国主義、排他主義の考えがある。

 その一方で、一体誰がこの法改正を推進しているか、それは公明党だとして、公明党の日本乗っ取りを警戒する意見などもある。

 しかし、国籍法改正に反対しているのは、なにも保守、右翼的な議員ばかりではない。

 11月27日の日刊ゲンダイで田中康夫参院議員が連載コラム「奇っ怪ニッポン」の中で次のように反対意見を述べている。

 つまり偽装認知を行なって国籍取得する事に道を開く事によって、子供たちを悪の犠牲者(闇の子供たち)に貶める憂慮すべき事態を助長しかねないというのだ。

 共産党や社民党の議員から声が聞こえない事もおかしなことだ。「人権といえば進歩的だとする浅薄な風潮」(平沼赳夫)とまでは言わないが、護憲政治家からももっと意見が出なくてはおかしい。

 結論からいうと、国籍法改正を急いではいけないということだ。

 今年の6月に最高裁が現行法は憲法14条「法の下の平等」に反するという違憲判決を下した。

 それをきっかけに法務省が改正を急いだとされている。

 しかし、最高裁の違憲判決はきわめて政治的だ。憲法9条がらみの違憲判断は決して行わないが、摩擦がないと判断すればあっさり違憲判決をする。

 人権重視の護憲政党が、日本国籍を取れない子供の人権を慮って改正案を賛成したとすれば、田中康夫氏のいうように悪の手にかかる子供たちの人権はどうなのか。

 それよりも何よりも、国会議員が何もわからずに改正案を通そうとしているあきれた現実がある。

 20日の自民党津島派の総会で「この中で、国籍法改正案を全部解している人は手を挙げてください」と某議員が呼びかけたら手を挙げた議員が一人もいなかったという(11月21日産経新聞)。

 実のところ殆どの法案が官僚の作ったものをそのまま通過させているのが日本の国会の現状だ。

   たしかに、国籍法改正に反対している議員の中にはとんでもない議員もいる。その反対の理由もまちまちだ。

 しかし、そのことと、国籍法改正の是非について冷静に判断する事は別だ。

  国会審議は尽くされていない。

  なによりも一般国民がその問題点を十分認識していない。

  国籍法改正を急ぐ理由はどこにもない。

 

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月26日

 米国金融資本主義の終焉は本当か?

 100年に一度の世界金融危機の割には、世界の指導者が本気になって危機打開の新たな枠組みづくりに邁進しているように感じられないのは私だけだろうか。

 書店に足を運ぶと金融危機がらみの本が溢れかえっている。

 やれドル崩壊とか、米国一極支配の時代は終わったとか、そんなタイトルの本ばかりだ。

 その中で、「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(神谷秀樹著 文春新書)という新書を購入して読みおえたばかりだ。

  住友銀行からゴールドマンサックスに転職し、今は独立してみずから投資銀行を経営しているという金融マンが書いたこの書は、米国金融資本主義の只中に在職しただけあって、「ウォール街」という言葉に象徴される米国金融資本主義の担い手たちのモラル喪失を、見事に教えてくれている。

  たとえば、ウォール街の強欲金融マンが米国政府の高官に抜擢された人事について、こんな会話を紹介している。

  ・・・「あんな欲深いヤツが政府の高官なんて、まったく政府の人事はどうなっているんだ」、
  「いい人事じゃないか。ウォール街にいる欲深い連中を監視するには、その中でも一番欲深い男を政府高官にするのがもっとも有効だろう。ジミー・カーター(信心深い良心的な元大統領)じゃ務まらないよ」
  「そりゃそうだ」・・・

  こんなエピソードから始まって、興味深い話が山ほど書かれている。それはもの凄い腐敗ぶりだ。

  金融界に生きる者にとっては目新しいことではない話でも、ウォール街の実態を知らない一般の我々にとっては、「ウォール街」がここまで犯罪的だったのか、これでは金融危機が起きるのも時間の問題だった、などと、あらためて思い知らされる。

  この書はまた、米国の行き過ぎた金融資本主義は、モノがつくれなくなった米国の行き着く先であり、それは実体のない詐欺的錬金術でしかなかった、それを「グローバル・スタンダード」という美名のもとにはやしたて日本に導入した小泉・竹中政権の対米追従政策こそ、日本国民を塗炭の苦しみに追いやったとして、つぎのように糾弾している。

 ・・・(世界金融危機を招いた)真犯人はいったい誰だったのだろうか。私は、まず真っ先に世界に過剰流動性をばら撒いた二つの国の政府を挙げる。一つはレーガノミックス以降、「財政赤字」、「貿易赤字」の「双子の赤字」を垂れ流したアメリカ政府であり、もう一つは(ゼロ金利を放置し)海外の高金利資産に投資する「円キャリー取引」を促進させた日本政府である・・・

 これも同感だ。

 今ではメディアも、小泉・竹中政権が唱えた「構造改革」が実は米国新自由主義時の手先でしかなかったという批評を遠慮がちに載せるようになった。

 せめてサブプライムローン問題が小泉・竹中政権の絶頂期に炸裂し、小泉・竹中政権を直撃していれば、日本国民ももっと早く目を醒ましたことだろう、と残念に思う。

 ここまではいい。

 ところが、読み終わってこの書を閉じたとたんに、いいようのない虚しさに襲われた。

 なぜかを考えてみた。

 著者は、経済学者下村治博士の警告を引用しながら、次のように結論づける。

 ・・・アメリカが、世界一の生産力を背景として、世界一の健全な経済を堅持してきたからこそ、アメリカのドルが世界の基軸通貨として成立しえたのであるが、もはや米国経済が世界経済の一つとして相対化され、米国経済に節度がなくなった現在においては、IMF,世銀を中心としたブレトンウッズ体制は新しい世界経済の枠組みに変わらなければならない・・・

 その通りである。

 そして、今度の金融危機を乗り切るには、これまでの世界金融システム、国際通貨システムを変える程の抜本的改革が必要である、という意見は、今ではあらゆる経済解説で見ることができる。

 ところが現実は決してそのようには動いていない。

 100年に一度の危機を乗り切ろうとする緊張感は感じられない。

 それは、単に国際政治の場において米国の覇権がいまなお衰えていない、という事だけではない。

 米国という国が決して覇権を手放さないだろうと思うからだけではない。

 IMF,世銀体制は終焉した、ドルの一極支配は終焉した、と唱えている人たちもまた、心の底では、米国の覇権主義は終わらないと思っているに違いないと思うからだ。

 そして、世界がここまで米国金融資本主義のうまみを味わった以上、各国もまたもとには戻れないと思うからだ。
 
 物欲主義、拝金主義に染め上げられた人々にとって、いまさらものづくりにはげめ、実物経済に戻れと言っても、それを素直に受け入れようとする者が多数を占めることになるだろうか。

 テレビで世界経済状況をまことしやかに語っている人々は、いずれも米国金融資本主義のおかげで高給を手にしてきた連中ではないのか。

 石川遼という少年ゴルファーの一億円プレーをメディアが騒いでいる。

 それでいいのか。

 彼には何の責任もないし、彼のプレーの素晴らしさは称賛ものである。

 しかし、未成年の少年が何億もの収入を手にする事をここまで喧伝する事自体が、拝金主義、勝ち組至上主義を煽ることではないのか。

 それが、金融危機の反省に立とうとしている時になすべきメディアの健全な姿なのか。

 派遣労働で酷使されている何百万人の若者の痛み少しでも思いを馳せる必要はないのか。

 経済番組で真っ先に報道されるのはニューヨークと東京の株式相場である。

 見ているがいい。

 もし株価がさらなる下落なしに上昇に転じていくのなら、もはや誰も金融危機の事は言わなくなるであろう。

 制度改革は遠のき、あらたなビジネスチャンスのテーマが模索されるに違いない。

 あれだけ金融危機が叫ばれても、株高が上昇し、資産価値が高まれば、それですべてが解決してしまうのだ。

 読後感に覚えた虚しさは、みなの心に潜む建前と本音の乖離を感じるからである。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月25日

なぜ日本はここまで対米従属なのか


  私はよく質問される事がある。なぜ日本外交はここまで対米従属なのかと。

  はっきりと「こうだ」と断言できる答えを、もとより私は持ち合わせていない。

  外務官僚の出世頭はすべて対米従属者であり、日米同盟至上主義者である。逆に、外務省では米国を批判する者は中枢を歩めない。それは事実だ。

  しかし、それはあくまでも偉くなりたいための保身のなせる業であり、対米従属の理由に対する答えにはならない。

 米国に逆らうと失脚させられる、脅かされる、あるいは命まで狙われる、という話が陰謀論のごとくささやかれるが、それを確認出来ない以上、これまた「答え」として公言する事は出来ない。

  昭和天皇とマッカーサーの歴史的会談の中で、国体護持と日米安保体制(日米同盟)が、昭和天皇の強い意向により表裏一体の形で作られた、という史実を知れば、なるほど対米従属はそこから始まったのか、と思ったりするが、戦後世代にまでそれが影響を与えているとは思えない。もはや過去の歴史の一こまだ。

  日本人は米国が好きなのだ、という理由は頷けるが、しかし米国への憧憬を抱く国民はなにも日本人だけではない。そのような国民は世界中に広く存在する。

  しかし、同時にまた、それらの国民は、米国の不当な政策に対しては激しくデモや抗議をする。米国が何をやっても「仕方がない」とあきらめる従順な国民は、世界ひろしといえど日本人くらいだ。

  結局は米国の占領政策が日本で大成功したという事ではないのか。

  この事についてはCIAの対日工作がつとに有名だ。自民党に政治資金を渡したり、読売テレビを動かしたり、A級戦犯を無罪釈放して総理に就けたりした、周知の工作である。

  しかし、また一つ米国の対日工作の史実が明らかにされた。

  11月17日の朝日新聞がその書評欄で「戦後日本におけるアメリカのソフトパワー」(岩波書店)という本を取り上げていた。

  松田武大阪大学教授の手によるその本は、1951年に「講和使節団」の一員として来日したロックフェラー3世が、東大を頂点とする日本の高等教育機関の序列化を図り、研究助成金をばら撒くことによって日本の指導的知識人たちが日米摩擦について口を閉ざすように仕向けて行った事を、明らかにしている、という。

  その本は定価6,000円もする本なので購読をためらっていたら、奇しくも発売中のサンデー毎日12月7日号で、フリージャーナリストの斉藤貴男が次のように書評していた。

 ・・・戦後60年以上を経てなお重要度を増す(米国の対日占領の)深層を、第一線の研究者が米国側の膨大な一次資料を駆使して描出した、刺激的な論考だ。
   米国の対日占領政策は、日本および日本人に関する仔細な研究に基づいていた。暴力的な押し付けではなく、ロックフェラー3世の掲げた文化交流が、露骨な人種差別意識にも彩られつつ進められた・・・圧巻は東京大学と京都大学とで繰り広げられたアメリカ研究セミナーの争奪戦だ・・・エリートとしての生き残りを賭けて米国に認められようとする大学人たちの生態は、そのまま現代日本の指導者の生き方に通じてしまっている・・・研究者らしく淡々としていた記述が、終盤に近づくにつれて強い苛立ちを帯びていく・・・


  なるほど、興味をひかれる。何としてでも読んでみたい本である。

 
 

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月24日

曖昧政治のなせるわざ


 11月20日のブログで書いた通りになった。

 真っ先に報道されるのが厚生次官OBの殺傷事件である日が続いている。

 ニュース解説もそのことばかりだ。

 犯人が捕まる前もはもとより、捕まった後も、そのことばかりが報じられている。

 確かに異常な事件だ。犯人が自首した後も不自然さが残る。

 真相解明までニュースが続く事はやむを得ないだろう。

 真相は国民が是非とも知りたいところだ。

 それにしても、その他のニュースがすべて吹っ飛んでしまった感がするのは、やはり危険である。

 あの田母神論文事件も、かき消されてしまったニュースのひとつだ。

 11月24日の毎日新聞の文化欄で、川副令(かわぞえれい)という若い学者が、田母神論文事件を招いた原因は、日本の政治がつねに曖昧なかたちで物事を終わらせている事にあるからだ、と、要旨次のように書いていた。

 ・・・田母神氏に対する大方の批判のよりどころになっているのは、同氏の歴史認識が政府の公式見解と大きく食い違っている事実である。ところが、この政府見解の基礎となっている1995年8月15日の村山談話は、歴史認識を殆ど語っていない。つまり村山談話の歴史認識としてもっとも頻繁に引用されるのは、日本が、「国策を誤って、戦争の道を歩んだ」とし、「植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に対して多大の苦痛と損害を与えた」とする箇所である。
   しかし、具体的に何政権のどういった政策が誤りだったか特定されていない。
   極めて抽象的な「談話」のほんの一部を「政府見解」に祭り上げて、以後の首相はただそれを「踏襲(天木註:ふしゅうではない、とうしゅうと読む)する」と言って済ませるだけで、本当にいいのだろうか。
  そうした曖昧な状態を放置しているがゆえに、今の日本には、歴史認識を公に語る場合の最低限の議論の水準すら確立されていないのではないか。
  だから田母神論文にその隙をつかれたのだ。
  「ネット右翼」と呼ばれる人々の極めて乱暴で、過激な発言も、突き詰めれば、そうした曖昧政治の副産物である。
  曖昧政治とは無責任政治でもある。
  そして、その弊害は、過去の歴史についてだけではなく、目の前の出来事についてもそのまま当てはまる。
  英国はフォーククランド戦争の時も、今回のイラク攻撃参加の場合も、調査委員会をつくって膨大な報告書を作成し、公表した。(米国も同様に検証している)
  翻って日本の場合、小泉政権のイラク攻撃支持表明について、英(米)のように調査・検証を期待できるだろうか。
  日本の政治が、ひいては我々国民が、曖昧なままに放置しているのは、遠い過去の問題だけではない・・・

  鋭い指摘である。

  このまま行けば、イラク攻撃を支持した日本政府の評価について、後世の国民はまったく判断できないまま放置される事になる。

  国民の目を誤魔化す為に社会党の党首を首相に担ぎ出だした自民党は、その社会党の党首が行なった「談話」を、魂を入れずに政治的利用として踏襲してきた。だから田母神論文事件が起きるのだ。そして田母神論文問題への対応も曖昧なのだ。

  自民党も、そして政権交代を果たした後の民主党も、曖昧な政治は禍根を残す事を肝に銘じなければならない。
  日本の将来のためにも、あらためて政府としての歴史認識を確立することだ。

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング

2008年11月23日

「私は貝になりたい」のヒットを願う

 「私は貝になりたい」が映画化され上映の運びになったという。

 この映画がヒットし、戦争を知らない一人でも多くの若者に戦争の不条理さを知らしめる切っ掛けになることを期待する。

 フランキー堺が主演した50年前のこのテレビドラマを、私は11歳の時に観た事がある。

 その時、子供心に感じた戦争と言うものへの不条理と漠然とした反発を、今でもよく覚えている。

 それから50年、今となっては、私は明確な問題意識を持って、このドラマを評価する事ができる。

 このドラマは復員兵の手記に基づいて創作されたドラマである。

 理髪店を営む平凡な男が、ある日一枚の召集令状受け取って戦争にかりだされる。戦地にあって上官の命令でアメリカ捕虜兵を銃剣で刺殺しようとし、負傷を負わせる。その男は、やがて戦争が終わり、もとの生活に戻って平凡だが幸せな暮らしを始める。その矢先に、ある日突然、戦犯容疑で逮捕され、B級戦犯の判決を受けて処刑される。
 上官の命令に逆らう事はできなかった、といくら叫んでも通じない。負傷させただけだと言っても通用しない。
 愛する家族と別れて死地に赴くその男が最後に語る言葉が、もう人間はいやだ、牛や馬もいじめられる、今度生まれ変わるのなら、海の深底で静かに暮らせる貝になりたい、というものである。

  自分が彼の立場に置かれたらどうするかを考えてみたらいい。

  そういう時代を知らない戦後に生きる幸せを考えてみたらいい。

  日本をそういう時代に二度と戻してはならないと考えてみたらいい。

  何も知らされない国民が、徴兵制の下で有無を言わされずに戦地に借り出され、その結果戦争犯罪者として処刑される。

  そんな不条理の一方で、A級戦犯容疑で処刑される立場にあったこの国の指導者たちは、占領国米国の手で無罪放免され、その後首相などになって日本を米国に従属させる手先となる、そういう不条理もあったのだ。

  ニューヨークタイムズ記者のティム・ワアイナーが書いたLegacy of Ashes がやっと邦訳されて「CIA秘録」という本になって発売中である。

  その中に、「CIAが主要国の指導者を選んだ最初の国が日本であった」という記述がある。我々は膨大な極秘資料に基づいて書かれたこの書の記述を、逃げることなく直視すべきだ。

  史実の一部を都合よくつまみ食いして日本の戦争を正当化した田母神前自衛隊航空幕僚長の言動に対し、元軍人たちが怒りの抗議の声を上げたというニュースを目にした。

  当然だろう。

  死地に赴き、実際の戦争の悲惨さを命を懸けを経験した軍人たちに、戦争というものを体験した事がない者が軍人気取りで何を言っても、かなうものではない。

  戦争は不条理で人を異常の中に放り込む。それは世界中のすべての戦争経験者が証言している事だ。

  そんな戦争を、これを観れば軽々に口にする事が出来なくなる、そんな映画が「私は貝になりたい」だ。

  この映画のヒットを通じて、平和憲法をいただく日本がいかに素晴らしい国であるかを、一人でも多く

の若者が、人に言われるのではなく、自分の考えで気づくようになる、それを私は期待する。
  

Copyright ©2005-2008 www.amakiblog.com
人気blogランキング