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2008年08月09日

中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪後の中国の対応を見てからだ

中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪後の中国の対応を見てからだ

  今から思えば、6日の読売新聞の中国ギョーザ問題に関するスクープは近年まれに見る大ヒットであったことになる。

  中国ギョーザ問題は、正しい日中関係を構築できるかどうかの試金石になりつつある。

  民主党が、中国政府からの通報を遅らせた事を批判する談話を発表したという。

  それより少し前には、不公表にした経緯を国民の前に明らかにすべきと、国会での追及姿勢を明らかにした。

  国会での真相追及は徹底して行なってもらいたい。そうすべきである。

  しかし、不公表とした事を、今の時点で直ちに「情報隠蔽である」と声高に糾弾する事は、政局に絡めた性急かつ軽率な対応である。

  その事を今日のブログで書く。

  8日福田首相は北京での胡錦涛主席との首脳会談で、ギョーザ事件の徹底究明と情報公開を求めたという。

  これに対して胡錦涛主席は、できるだけ早く解決する、全力をあげる、と約束したと言う。

  この約束の実行こそ五輪後の日中関係の最大の課題である。

  その成り行きを最後まで徹底して監視し、その結果を俟って日中双方の政府の責任に迫る、これこそが正しい対応なのである。

  情報公開でもっとも注目されるべきは、サミット前の中国側の通報が、どのタイミングでどのように通告されたのか、それに対し日本政府は、どのレベルの判断で、どのように応答したのか、それが正確に公表される事である。

  もし中国側が単に公表を差し控えて欲しいと言って来ただけであったなら、そして、それに対し日本政府が何も注文をつけずに、中国側が嫌がる事をする必要はないと考えて不公表にしていたとすれば、外務省と福田首相はいくら批判されても批判され過ぎる事はない。

  もし中国側が、約束した五輪後の公表において、それでも中国側の非を認めないようであれば、胡錦涛主席の中国は厳しく非難されるべきである。

 そして、真相がどちらにあるかは五輪後の日中双方の対応を見れば直ぐわかる。

 8月9日の日経新聞は日本政府高官が「五輪が終われば、中国側は捜査結果を公表するかも知れない」などと他人事のように言っている。

 同じく8月9日の産経新聞では、ギョーザ事件は北京五輪での首脳会談では「取り上げられない」(外務省関係者)方針だったが、日中両国の「隠蔽」が発覚したので、急遽主要テーマに浮上した、と報じている。

 このような報道を見る限り、五輪後の中国の対応は期待はずれに終わる事になると思う。

 その時福田首相はどう対応するかだ。

 それでも胡錦涛に厳しく迫ることが出来ないのなら、その時こそ福田首相を厳しく追及しなければならない。

 胡錦涛主席の中国を厳しく批判しなければならない。

 その時に向けて国民の関心を集中するためにも、今は隠蔽、隠蔽と騒がない方がよい。

 五輪後の日中双方の対応を注視していきたい、と冷静さを装った方が迫力がある。

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2008年08月09日

中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪の後の中国の対応を見てからだ

 中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪の後の中国の対応を見てからだ

  今から思えば、6日の読売新聞の中国ギョーザ問題に関するスクープは近年まれに見る大ヒットであったことになる。

  中国ギョーザ問題は、正しい日中関係を構築できるかどうかの試金石になりつつある。

  民主党が、中国政府からの通報を遅らせた事を批判する談話を発表したという。

  それより少し前には、不公表にした経緯を国民の前に明らかにすべきと、国会での追及姿勢を明らかにした。

  国会での真相追及は徹底して行なってもらいたい。そうすべきである。

  しかし、不公表とした事を、今の時点で直ちに「情報隠蔽である」と声高に糾弾する事は、政局に絡めた性急かつ軽率な対応である。

  その事を今日のブログで書く。

  8日福田首相は北京での胡錦涛主席との首脳会談で、ギョーザ事件の徹底究明と情報公開を求めたという。

  これに対して胡錦涛主席は、できるだけ早く解決する、全力をあげる、と約束したと言う。

  この約束の実行こそ五輪後の日中関係の最大の課題である。

  その成り行きを最後まで徹底して監視し、その結果を俟って日中双方の政府の責任に迫る、これこそが正しい対応なのである。

  情報公開でもっとも注目されるべきは、サミット前の中国側の通報が、どのタイミングでどのように通告されたのか、それに対し日本政府は、どのレベルの判断で、どのように応答したのか、それが正確に公表される事である。

  もし中国側が単に公表を差し控えて欲しいと言って来ただけであったなら、そして、それに対し日本政府が何も注文をつけずに、中国側が嫌がる事をする必要はないと考えて不公表にしていたとすれば、外務省と福田首相はいくら批判されても批判され過ぎる事はない。

  もし中国側が、約束した五輪後の公表において、それでも中国側の非を認めないようであれば、胡錦涛主席の中国は厳しく非難されるべきである。

 そして、真相がどちらにあるかは五輪後の日中双方の対応を見れば直ぐわかる。

 8月9日の日経新聞は日本政府高官が「五輪が終われば、中国側は捜査結果を公表するかも知れない」などと他人事のように言っている。

 同じく8月9日の産経新聞では、ギョーザ事件は北京五輪での首脳会談では「取り上げられない」(外務省関係者)方針だったが、日中両国の「隠蔽」が発覚したので、急遽主要テーマに浮上した、と報じている。

 このような報道を見る限り、五輪後の中国の対応は期待はずれに終わる事になると思う。

 その時福田首相はどう対応するかだ。

 それでも胡錦涛に厳しく迫ることが出来ないのなら、その時こそ福田首相を厳しく追及しなければならない。

 胡錦涛主席の中国を厳しく批判しなければならない。

 その時に向けて国民の関心を集中するためにも、今は隠蔽、隠蔽と騒がない方がよい。

 五輪後の日中双方の対応を注視していきたい、と冷静さを装った方が迫力がある。

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2008年08月08日

 日中両首脳の外交力が問われている


 日中両首脳の外交力が問われている

  昨年から育てたブルーベリーがたくさん実をつけた。それを摘み取ってこれからジャムをつくろうとしている。私の夢だった。上手く出来たら真っ先にそれを食べるのはもちろん自分である。最高の贅沢だ。

  その合間にこのブログを書いている。

  そう書けば、片手間のブログと読者は思うかもしれない。

  しかし、このブログは、私が今までに書いてきたどのブログよりも最も気合を入れて書いている。

  中国製ギョーザ問題の正しい解決が今こそ問われている時はない。

  福田首相と胡錦涛主席の二人の外交力が試されているのだ。

  その外交力の先には日本と中国の国民の未来がかかっている。

  今度の中国ギョーザ事件で最も糾弾されるべきは、事件が起きた原因である。

  それが事故であれば事故の原因を突き止め、改善策を講じればよい。

  それが人為的に引き起こされた事件であれば、その卑劣な犯人を見つけて処罰するのだ。

   中国側が、中国でも同じ商品での中毒事故がおきていた事を日本側に通報していた事が明るみになった。

   それを受けた日本政府が、中国側の要請にもとづいて公表を控えていた事を認めた。

   その事で、日中双方の政府の対応が批判されている。

   その事については、すべての真相が明らかにされるまでは正しい評価は下せない。

   もし中国側が事件の真相を未来永劫封印しようとして、公表を控えるよう要請してきたのなら、とんでもない話だ。

   それを受けた日本が、中国との関係に波風を立てたくないからといって、バレなければそうした方がいいと、事実を隠蔽しようとしていたのなら、もっと大きな問題だ。

   しかし、日中両国政府が、いずれ公表することになるが、その最善のタイミングを見計っていたとしたら話は別だ。

   つまり、どちらに責任があろうとも真実を明らかにしよう、そしてその真実を日中両国民に正しく公表し、責任を認め、そしてこれをきっかけに改善していこう、しかし、公表のタイミングは最善の時を選ぼう、と話し合っていたのであれば、話はまったく別である。

   その真相はいずれ明らかにされなければならない。

   しかしより重要な事は公表を遅らせたことが明らかになった、それ以降の日中両政府の対応である。

   福田首相は胡錦涛主席との首脳会談でなんとしてでも伝えるべきだ。

   原因を日中が捜査協力してつきとめよう、そしてその結果を公表しよう、その結果たとえ中国側に責任があったとしても、中国はそれを認めなければならない、それは長い目で見たら中国にとって正しい事だ、日中関係にとっても正しい事だ、この事件をきっかけに、より強固な日中両国の関係を目指していこう、もちろん日本側に責任があった場合も同様である、大切なことは日中両国民の信頼回復だ、と。

   胡錦涛主席はそれに応じるべきだ。政治的に如何に困難であろうとも、中国が国際社会に受け入れられる大国になるためには、避けて通れない試練と心得るべきである。

   日中両国の将来を見据えた時、中国が民主国家として政治的、経済的に発展していく事は、互恵であり、不可欠なことである。

   そのために日中が協力して友好関係を追求していくことは、双方の指導者の責務である。

   日中間には克服しなければならない歴史問題がある。

   それにくらべればギョーザ問題は小さい問題だ。

   しかし小さい問題であるからこそ正しい解決が望まれる。

   この小さい問題で正しい解決ができなければ、どうして歴史問題が克服できようか。

   何かと批判される福田首相である。

   いつまでたっても支持率の上がらない福田首相である。

   しかし見方によっては福田首相はいくつかの歴史的チャンスを与えられているのかもしれない。

   それを活かすも、失うのも、政治家福田康夫の器量である。

   五輪参加選手達が頑張っている時である。

   その選手達に負けずに、福田首相は本気になって仕事をしなければならない。

   

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2008年08月07日

田中康夫の政治感覚に期待する


 田中康夫の政治感覚に期待する

  日刊ゲンダイの連載に田中康夫の「奇っ怪ニッポン」というのがある。

  その8月7日の指摘は私のそれとまったく同じだ。

  すなわち、侮り難し、福田改造内閣!である。

  田中康夫は喝破している。

  政権交代がすべての民主党は、小泉、安倍「似非構造改革」から決別した福田「仕事師内閣」を決して甘く見てはいけないと。

  これは私の認識と一致する。

  見ているがいい。福田改造内閣は「地方」対策に心血を注いで来るだろう。

  消費税はもはや福田改造内閣の主張ではなくなる。凍結なのだ。

  テロ給油法の再延長にはもはやこだわらない。

  中国憎しの右翼とは一線を画し、靖国参拝を封印し、戦略的互恵関係に邁進する福田自民党政権は、民主党との違いが見えなくなってくる。

  それはまた寄り合い所帯の民主党の弱点をつく、おそるべしヌエ的自由民主党の真骨頂である。

  この事を正面から言い当てている田中康夫の政治感覚は見事だ。

  そのような政治感覚を持った田中康夫は、民主党でも自民党でもない。
 
  ましてや左翼では決してない。

  新党日本はいまのところまったく音なしの構えだ。

  マスコミも田中新党日本の事をまったく報じていない。

  しかし、この政治感覚を持った田中康夫である。

  総選挙を睨んだ新党の動きや政界再編の動きの中で、このまま音なしで終わるはずはない。

  あらゆるしがらみから脱した田中康夫の政治感覚に、私は期待する。

   新党日本の動向に注目する。

  

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2008年08月07日

スポーツは人間賛歌だ

 スポーツは人間賛歌だ

  いよいよ北京五輪が明日からはじまる。しばらくは選手の活躍に熱中しよう。声援を送ろう。

  なぜスポーツは素晴らしいのか。

  それは虚飾のない世界だからだ。

  自分の体一つで勝負する世界だからだ。

  一瞬の勝負のために長く、苦しい練習を積み重ねてきた。

  それにもかかわらず勝てる保証はない。
  
  その不安と戦いながら勝負に挑む。

  そこに我々は感動を覚えるのだ。

  我々凡人はそのような競技に参加できるはずはない。

  しかし、だからこそ、自らをそこに投影して、その感動を共有する贅沢を味わうのだ。

  友達が自転車を買ってもらった時、私には親からもらった脚があると言って、友達の漕ぐ自転車の後を追って走り回ったというマラソンの野口みずき。貧しさに負けなかったけなげな心意気がそこにある。

  台所にはいつもバーベルがあったという重量挙げの三宅宏実。64年の東京オリンピックで銅メダルをとった父の三宅義行が、顔面を崩してバーベルを持ち上げた瞬間の写真を見ながら、私は大学受験に励んだものだ。

  田村で金、谷で金、ママで金、という名言を語ったやわらちゃんこと谷亮子。ママでこそ金を取ってもらいたい。

  女性だけではない。私が期待する一人は柔道の石井慧だ。一本勝ちで金メダルをとるのは格好がいいかもしれない。しかし勝つためには組み技でも、時間稼ぎでもいい、格好悪いと批判されてもかまわない、と言い切って金メダルを取ると公言する、その覚悟がいい。

  北京五輪が無事成功に終わる事を祈る。

  勝っても負けても、選手達が無事にその練習の成果を発揮できる事を願う。

  何でもかんでも中国を批判し、北京五輪の問題ばかりを騒ぎ立てる連中も、しばし選手達に声援を送ることに反対は出来ないはずだ。

  日本の見苦しい政争も北京五輪の間は休戦だ。そんな政争は、五輪参加の選手達の活躍の前には、あまりにも卑小である。

  スポーツにはいかなる批判も封じる力がある。そこには人間賛歌がある。

 

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2008年08月07日

日刊ゲンダイの悩み


 日刊ゲンダイの悩み

 どうでもいい話だけれど、思わず苦笑せざるを得なかった話を一つ。

 私の愛読紙に日刊ゲンダイがある。一頃私も少しだけ連載寄稿していた事がある。

 だからゴマをするわけではない。日刊ゲンダイの基本スタンスが気に入っているのだ。

 なにしろ日刊ゲンダイは政権批判に徹している。

 今は福田政権批判の一色だが、その前は安倍政権、そしてその前は小泉政権と、一貫して時の政権批判を行なってきた。

 民主党が政権をとれば民主党を批判することになる。

 現実的にはありえないことだけれど、共産党が政権をとればもちろん共産党政権批判だ。

 そして、それはそのまま私の基本的スタンスでもある。

 権力は腐敗する。だから権力者そのものが批判の対象なのである。

  ところがそこには大きな問題がある。

  長所はまた欠点でもある。ぶれる事のない一貫した政権批判は、同時にまたワンパターンの政権批判を繰り返すことになってしまう。

  8月6日の日刊ゲンダイに福田改造内閣は小泉改革路線の否定であるという記事があった。

  世間では同じ清和会に属するよしみで福田首相は小泉元首相の意見を聞いたり相談したりする仲だと思われているが、実はそうではない。今度の改造人事で、福田が小泉を嫌っている事がはっきりした、と書いている。

 ここまでは私の考えとまったく同じだ。

 ところが日刊ゲンダイはあくまでも現政権の批判に徹している。

 だから小泉偽改革から決別した事さえも福田批判につなげなければならない。

 そこが私と日刊ゲンダイの違うところだ。

  私は、今の日本の政治や経済の崩壊と国民生活の困窮の責任は、5年半もの長きにわたって繰り返された小泉偽装改革のせいだと思っている。日本を米国に売り渡した対米従属外交のせいだと思っている。

 だから、少なくとも今度の改造内閣で明確に小泉一派を排除した事は快挙だと思っている。

 おそらく日刊ゲンダイの編集者や記者も内心そう思っているに違いない。

 しかし日刊ゲンダイはあくまでも現政権の批判に徹するという方針を固めているに違いない。

 福田政権を批判し続けるしかないのだ。

 日刊ゲンダイの悩みがそこにある。

 愛読者の一人として同情を禁じえない。

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2008年08月06日

 中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力


 中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力

 今日6日のビッグニュースは何といっても読売新聞のスクープである。

 一面トップで、あの中国の「天洋食品」社のギョーザが、事件後に回収されたにもかかわらずそれが中国国内で流通し、それを食べた中国人がメタミドホス中毒を起こしていたと報じた。

 関係筋が5日明らかにしたというこのスクープは、もし事実であるとすれば大きな外交的意味を持つ。

 不明のままに終わろうとしていた毒入り中国ギョーザ事件が、中国での混入の可能性が強まった事で、再び動き出す事になるからだ。

  断っておくが私はこの問題で再び日中間が緊張関係になることを願っているのではない。

  日中間が互恵平等の正しい関係になっていくためにも、その試金石としてこの問題を正しく解決して欲しいと願うのである。

  読売新聞の報道によると中国側がサミット直前の7月はじめに外交ルートを通じて日本側にこの新事実を通告してきたという。その際、中国での混入の可能性を示唆したという。

  面子を重んじる中国が自ら通告してきたのだ。今までの中国では考えられなかった事だ。

  小泉元首相の下での事件であったなら、それでも中国は通告してこなかったに違いない。

  間違いなく福田外交の功績だ。日中関係は正しい方向へ変化しつつある。

  これを契機に日中両国の捜査協力が進み、原因の究明がなされ、責任の所在が明らかにされ、そしてその責任を批判し合うのではなく、今後の対応策について協力関係に発展させてもらいたい。

  それが出来れば、日中関係はさらなる時代に発展していくに違いない。

  中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力である。

  禍転じて福となすのたとえである。

  折から4日にはウイグル自治区では邦人記者が武装警察官に暴行されると言う事件が起きた。

  直ちに抗議した日本政府に対し、中国警察は謝罪し、中国外務省は遺憾の意を表明した。

  これも今までにはなかった中国側の対応である。

  これまでの日本の対中外交といえば、何かと騒ぎを大きくしないという慎重な対応に終始してきた。

  その対応を一概に否定するものではない。

  何かが起きた時、まず冷静に情勢判断を行ない、その初動態勢に慎重である事は外交の要諦である。

  しかし中国の反日的対応を恐れるあまり、言うべきことも言わず、事実を抑え込んで物事の沈静化を

図るこれまでの日本外交は、慎重と言うより怠慢である。

  五輪を控えた中国は今、かつて経験した事がないほどの試練と向かい合っている。

  中国と言う国が、責任ある国際国家、民主主義国家として世界から認知されるために避けては通れ

ない試練である。

  その中国を日本は支援していかなければならない。

  しかし支援するということは中国との間に波風を立てる事をおそれ言うべき事まで黙ってしまう事ではない。

  時には激しく自己主張し、あるいは相手の非を指摘していかなければならない。

  そのことによってまた中国も学ぶのである。

  その時一番重要なことは、中国への思いやりであり、中国の安定、発展、民主化は日本にとっても有益であるという現実的な認識である。

  過去の過ちに報いるという謙虚な気持ちも必要である。

  日本もまた中国の発展と競い合ってみせるという自負心もあってもいい。

  あけてもくれても中国の非ばかりを唱える事は、国益にとって何のためにもならない。

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2008年08月06日

核廃絶と日本の外交力

 
核廃絶と日本の外交力

 今日8月6日は広島に原爆が投下された日である。8月9日の長崎の原爆投下とともに、日本人にとっては決して忘れてはならない日である。

 今日のブログでもやはりこの問題について書かざるを得ないと思う。

 6日の各紙の社説は、さすがにこぞって核兵器の問題を取り上げていた。

 しかしその内容は様々だ。

 東京新聞は政治論を離れ、ヒロシマ、ナガサキの悲しい体験を「伝えたい、語りたい」と題して、平和とは、一人一人の小さな意思の積み重ねであると、詩的、情緒的に訴えていた。

 その社説に異存はないが、格段のコメントはない。

  産経と日経の社説の特徴は、「北の核を許さぬ決意新たに」(産経)」、「核拡散への監視を緩めるな」(日経)などとと、原爆記念日にかこつけて北朝鮮の核を叩いていることだ。

 日経の場合は、それでもインド、パキスタン、イスラエルなどの核保有にも言及し、核不拡散の枠組み作りの重要性と日本の責務を訴えている。

 しかし、産経新聞に至っては北の核一色だ。

 「(核全廃を訴える事も)大切であるが、日本が直面する最大の脅威国は北朝鮮の核である」とし、「(昨年のヒロシマの平和宣言には北の核に対する警告のメッセージがなく国民に失望感を与えた」とし、「米国が軽々に指定解除をしないように、さらに働きかけを強めて欲しい」などと主張する。

  「核全廃を訴える事も大切だ」、などと言わず、いっその事、米国が核を独占して世界のならず者を抑え込め、と書いたほうがわかりやすい。

  前置きはそれぐらいにして、私がこのブログで指摘したい事は、これから書くことである。

  読売、毎日、朝日の社説は、いずれも、昨年1月のウオールストリートジャーナル紙に掲載されたキッシンジャー、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、サム・ナン元上院軍事委員長の共同寄稿に言及し、核廃絶のチャンスであるとしていた。

  この米国の安全保障政策の重鎮らによる核廃絶呼びかけの重要性については、私は07年3月1日のブログで強調した。

  この呼びかけを千載一遇のチャンスととらえ、日本政府は彼らにアプローチをし、一緒になって米国政権を動かし、そして世界に呼びかけて核全廃を現実の動きにつなげろ、と提案した。

  日本のメディアもそれを訴えるべきであると書いた。

  残念ながら日本からは何の反応も出てこなかった。

  ところが世界は動いていたのだ。

  昨年に引き続き今年の1月にもまたキッシンジャー氏らは核兵器廃絶を提言している(毎日社説)。

  それに動かされて、今年の6月末、英国のハード元首相、ロバートソン前NATO事務総長ら4人が「思い切った核軍縮は可能であり、最終目標は核のない世界であるべきだ」との主張を英タイムズ紙に寄せた(朝日社説)。

  動きはOBだけではない。政府レベルでも新風が吹き始めた。

  ノルウェーは今年2月、シュルツ氏らを招いた国際会議を開き、ストーレ外相は「核廃絶には国際安全保障のあり方を考え直すことが必要で、国の指導者自身の取り組みが欠かせない」と強調した。

  今年6月、来日したオーストラリアのラッド首相は広島で核廃絶に向けた国際的な賢人会合の創設を提唱した。

  そして今、米国では、次期米国大統領を目指すオバマ氏が「(核のない世界という)ビジョンを現実にするために力を尽くすのは米国の責任である」と語り、マケイン氏が「思い切って世界の核を減らす時がきた」と、米国が指導力を発揮する決意を強調し始はじめている(いずれも朝日社説)。

  今こそ日本は全力をあげてその外交力を発揮する事ではないか。

  決して遅くはない。

  それどころか、米国ではブッシュ政権がイラク戦争の誤りを批判され、失意の中で退場しつつある。

  米国も欧州もその誤りから立ち直ろうとしている。

  イラク戦争で壊された世界の平和を本気で取り戻そうと模索している。

  そのような中で唱えられ始めた核兵器全廃だ。

  核兵器廃止は、米国がその気になれば出来る。

  米国が率先して核廃絶を行なえば、世界はこれに従う。

  その米国が、OBも、次期大統領候補も、核廃絶を言い始めたのだ。

  彼らが嘘を言っているとは思えない。

  どこかの首相と違って公約をあっさり翻すは思えない。

  そんな事をしたら世界から批判されて、たちどころに政治生命を奪われるであろう。

  核兵器廃絶は動き出すに違いない。

  唯一の被爆国である日本の首相が本気になってその動きを加速させない手はない。

  福田首相がこのブログを読むことを切に願う。

  そして指導力を発揮する事を願う。

  もし福田首相が米国を動かす事ができるなら、そして世界を束ねることが出来るなら、

  それだけで福田首相は歴史に残る名宰相となるだろう。ノーベル平和賞は間違いないだろう。

  北朝鮮もイスラエルもイランも、核を保有し続ける事はできない。核兵器を開発する事はできない。

  世界を敵に回しては生き残れない。

   福田首相。支持率の低下や総選挙の勝利に悩む必要はない。

   そんな事は取るに足らない瑣末な事だ。

   そんな事に人生を消耗するよりも、この地球上から核をなくすことに賭けて見ないか。

   誰もが出来ないと思っていたことが今目の前に現れつつあるのだ。

   私は決して冗談で言っているのではない。誇張して言っているのではない。

   おそらく今歴史は100年一度、あるいはそれ以上の転換期にある。

   それを感じ、行動に移すことが出来るかどうかが、政治家の器量である。

   外交の福田である。

   外務官僚からは歴史観のある想像力は決して生まれてこない。

   しかし彼らは命じればそれを忠実に実行する。

   彼らだってそうしたいに違いない。

   初めてやりがいのある仕事にめぐりあえるのだ。

   今こそ福田首相は外務省を奮い立たせ、核廃絶に向けての流れを現実のものとすべきだ。

   日本が行なわなくても、やがて誰かがそれを行なうに違いない。

   唯一の被爆国である日本が先駆けてそれを行なわなくていいはずはない。

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2008年08月05日

混迷する政局を楽しむ方法


 混迷する政局を楽しむ方法

  昨日のブログで政治家は政局に明け暮れている時ではないと書いた。

  しかし政治家は政局に明け暮れる。

  その理由は、政策どころの話ではないからだ。

  ただでさえ、政策を本気で実現する能力と志をもった政治家はいないのに、今は、たとえいたとしても、それどころではないのだ。

  選挙に勝ち残らなければならない。

  政権を死守しなければ終わってしまう自民党。

  政権が取れなければ分解してしまう民主党。

  その他の政党は少しでも政権に近いところに場所を見つけようと必死だ。

  メディアもまた政策より政争に飛びつく。

  難しい政策論よりわかりやすいからだ。

  皆が政局に走る。

  そうだとすれば、我々も政局を楽しむに限る。

  ましてや政治に影響力のない一般国民の我々だ。

  せめて政治家のなりふりかまわない権力争いと駆け引きを、嘲笑しながら眺めようではないか。

  それが政治に関係のない一般国民の特権だ。贅沢だ。

  さてその政局である。

  注目点はいろいろあるだろう。

  しかし、私が最も注目するのは、創価学会名誉会長の国会喚問問題と小泉改革一派の福田おろしの動きの二点である。

  いずれも政局と直に結びつく問題だ。

    5日の読売新聞が、国民新党の亀井静香代表代行が、「(矢野元公明党委員長問題を)臨時国会で取り上げざるを得ない。言論封殺の指摘があった以上、民主主義の観点から事情を聞く必要がある」と述べたと報じている。

  もし矢野元委員長の国会招致が実現すれば、公明党にとっては大きな痛手となる。

  覚悟を決めている矢野元委員長の国会発言は見ものだ。内容如何ではさらなる事態に発展するかもしれない。

  創価学会と何の利害関係もない一般国民の立場からすればぜひとも実現してもらいたい。

  確かに「言論の自由」は民主主義の根幹だ。

  政権政党の一翼をになってこの国を動かしてきた公明党、創価学会が、「言論の自由」を犯すような事をしていたのなら看過できない。

  昔から取りざたされては消えていく政教一致という違憲疑義の問題についても、この際はっきりと白黒つけてもらいたい。

  そのためには名誉会長の国会招致も必要になってくるだろう。

  創価学会、公明党にとっては最大の危機である。

  だからすべてに最優先してこの問題を回避しようとするだろう。

  みどころは民主党、国民新党がどこまで本気で追及するかだ。

  自民党がどこまで公明党、創価学会をかばうかだ。

  公明党は政権政党であり続けなければならない。

  政権政党である限り国会喚問をかわす事ができる。

  政権を手放したとたん状況は厳しくなる。

  だから、福田自民党で選挙が勝てそうもなければ福田おろしに走る。

  それでも自民党が勝てないと判断すれば自民党を見限って民主党との連立に向けて舵を切る。

  矢野問題はまさに政局そのものに結びつく。だから目が話せない。

   もう一つは小泉改革派の福田おろしの動きである。

  私は8月1日のブログで福田改造内閣によって小泉政治は終焉したと書いた。

  もはや誰もがそれを認めている。

   しかしその事と小泉一派の悪あがきとは別だ。

  面目をつぶされた小泉元首相とその一派がこのまま黙って引き下がるかかどうか。これが第二のみどころだ。

  すでに様々な事が言われ始めた。いわく小泉がかんかんになって怒っている。総裁選で小池百合子をたてて戦う。自民党を割って小泉新党をつくってキャスティングボートを目指す、などなどである。

  それはありうる話だ。福田改造内閣の支持率が上がらなければ、そのチャンスはひろがる。

  そして福田首相には思惑はずれだったろうが、支持率は大して上がらなかった。今後は支持率が更に下がっていく危険さえある。

  ここで重要な事はメディアが、福田おろしに加担している事だ。

 福田改造内閣を官僚支配、規制強化、ばら撒きの復活であり、増税内閣だとレッテルを貼っている。

  たとえば5日の日経新聞は経済コラム「大機小機」のなかで、「改革か、反改革か」という見出しの下に、小泉改革、福田反改革と決めつけている。

  あのときメディアは小泉改革を持ち上げて今日の日本の混迷を招く過ちを犯した。

  メディアはそれを認めたくないのだ。

  小泉一派もメディアも、「改革を後戻りさせるな」と叫んでいれば国民が納得すると思っている。

  国民もなめられたものだ。

  しかし、それは違う。

  改革か反改革かではない。本物の改革か偽物の改革かなのである。

  そして小泉改革はまさしく偽の改革であった。それもとんでもない偽物の改革であった。

  そもそも改革の本丸は、官僚支配の打破と官僚の無駄を排除する事にあった。

  ところがそれには殆ど有効な手を打つことなく、規制緩和の下に新自由主義を徹底して日本を格差社会にしてしまった、対米従属を徹底して日本を米国に売り渡してしまった。これが小泉偽改革の正体であったのだ。

  そしてその痛みが表面化、深刻化するのはむしろこれからだ。

  だから、小泉再登場は容易ではない。

  いくら「改革を後退させるな」と言って見たところで、「お前らに言われたくないよ」となるのである。

  メディアがいくら改革を進めろと言ったところで、今の政治では無理なのだ。

    国民にとっては不幸な事だ。

   しかし混乱を通じて新しい政治が生まれるのなら、そこに一縷の望みを見つける事ができるかもしれない。

  そう期待して思い切り政局の混迷を眺める他はない。

  どうせ眺めるしかないのであれば、思い切り楽しめばいいのだ。批評家になって勝手に批評していればいいのだ。

  政局は間違いなく混沌としてくる。

  間違いなく面白くなってくる。

  
  

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2008年08月05日

PCI社によるODA疑惑事件の真の責任者


 PCI社によるODA疑惑事件の真の責任者


  パシフィックコンサルタントインターナショナル(PCI)という建設コンサルタント会社の幹部らが政府開発援助(ODA)贈賄疑惑でついに4日逮捕された。

  5日の各紙はそれを一斉に大きく取り上げ、ODAを食い物にしたPCI社を、その社説で激しく批判している。

 しかし、どの記事も、その大きな取り上げ方の割りに、よそよそしい。迫力がない。

 なぜか。

 それはPCI社だけが悪事を働いているわけではないからだ。

 疑惑は大手商社のすべてに及ぶからだ。

 民間企業だけをいくら責めてみても、物事の解決にはならないからだ。

 真の責任者は政府の担当省庁であるが、その責任を本気で追求する気がないからだ。

 真の責任者とは誰か。

 それはODAを主管する外務省である。

 その外務省の監督下にある援助実施機関である。

 断っておくが、私は何も外務省や援助実施機関の誰かが賄賂をもらったり、法に触れる事をしていると言っているのではない。

 さすがにそれはないだろう。

 しかし、だからといって外務省や援助実施機関がその責任から逃れる事はできない。

 彼らはPCIをODAの担当企業として長年認めてきたのだ。

 不正疑惑が指摘されていたにもかかわらず動こうとしなかったのだ。

  私は外務省にあって長く経済援助を担当していたから言えるのであるが、そもそも日本のODA援助にはコンサルタント疑惑はつきものであった。

  なぜならば日本の援助政策の基本が、プロジェクト援助中心であり、相手国政府からの要請をまって行なう要請主義で出来ているからだ。

 すなわち、プロジェクト援助にはそれを作り上げるコンサルタント社の関与が不可欠である。援助案件はコンサルタント社が発掘、作成し、日本の援助が受けられやすい形に持っていく事が常態化している。

 そして、そのようにして作られた援助案件は、受ける側の政府が日本政府に要請してきてはじめて、日本政府がそれを援助対象として検討する事になっている。

 すなわち、日本の援助は日本のコンサルタント業者、援助を受ける政府、そして援助を供与する日本の三者による共同作業なのである。

 そして、残念ながら、援助を受ける国の殆どの政府は腐敗している。

 このPCI事件が新聞で報道されて以来、さぞかし外務省は内心びくびくしていたに違いない。

 外務省みずからが贈賄に関与していた事がばれるからではない。

 外務省の最大の武器であるODA(政府開発援助)に付きまとう構造的な問題点が世の中に知れ渡る事である。

 それを監督する立場にある外務省の担当職員や出先大使官の仕事のいい加減さが明るみに出る事である。

 そして、「外務省だけにODAをまかせるわけにはいかない」という声がまたぞろ頭を持ち上げ、新たな援助担当省庁を作るべしという声が再燃するという恐れである。

 これこそが外務省が最も避けたい事なのである。

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2008年08月04日

本当は政局に明け暮れている暇などないはずだ


 本当は政局に明け暮れている暇などないはずだ

  これからの政局は面白くなってくる。

  だから私も政局の報道を興味深く読んだり見たりする。

  勝手な私見をブログに書いてみたりする。

  しかし、本当は今の日本は政局どころではないのだ。

  政治にそんな暇は許されないはずだ。

  考えてみるがいい。今の政治は国民生活の切実な問題に何一つ答えられないでいる。

  いたずらに時間を費やしているだけだ。

  例えて言えば、

   ガソリンをはじめとする生活物資の相次ぐ値上げを、なんら防ぐすべがない。

  年金問題は何も解決されていない。

  救急医療体制の不備も、介護負担の問題も、日雇い労働者の低賃金と過酷な労働条件も、

  何もかも、議論はしても解決策は何一つ打てないでいる。

  それが今の政治だ。

  政局に明け暮れる暇があれば、どれか一つでもいいから解決してみろ、と言いたいほどだ。

  なぜ私がいきなりそんな事を言い出したかといえば、8月4日の毎日新聞「発信箱」に衝撃的な記事を見つけたからだ。

  「カメラの前の死」と題する北米総局坂東賢治記者の手になるその記事は、7月に米国のテレビニュースで流された映像の衝撃について書いていた。

  ニューヨークの人権団体が、ブルックリン地区の公立病院の待合室で防犯カメラがとらえた映像をテレビで公開した。

  ジャマイカ国籍の黒人女性(49)は病院の待合室で24時間近くを過ごした後、早朝に椅子から崩れ落ちるように床に倒れ、そのまま死亡した。脚にできた血栓が死因と見られる。

  防犯カメラがとらえた映像では女性は倒れた直後には体を動かしていた。警備員らはそれを見ながら救助しようとせず、一時間近く放置していた。保険に入っていない患者は相手にされない。

  それにしてもである。病院で倒れたというのに、そして皆がそれを見ていたにもかかわらず、患者が放置され、死亡するのである。それが今の米国なのである。

  人間が守るべき最低限のセーフティネットさえ米国では危機にさらされている。

  その米国を一回り遅れて追走してきたのが日本である。

  このままではやがて日本の社会もそのような米国の状況に突入していくに違いない。

  わかっていながら何の手も打てないのであればそれは由々しいことだ。

  政治家は政局に明け暮れている場合ではない。

  

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2008年08月03日

ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相とキッシンジャー元国務長官の会談議事録


 ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相とキッシンジャー元国務長官の会談議事録

  機密公文書の公開によって史実が明らかにされる。それによってそれまでの評価が変えられる。

  その例をもう一つ紹介したい。

  8月1日に発売された月刊現代9月号に、春名幹男元共同通信ワシントン支局長(現名古屋大学教授)の貴重な発見が自らの手で語られている。

  すなわち春名氏は、米国ミシガン州にあるフォード大統領図書館を訪れ、そこで、いままで日本のどの学者、研究者も目を通した形跡のないキッシンジャー・佐藤栄作会談の記事録を発見したという。

  そして、その議事録で明かされている新事実を次のように我々に教えてくれている。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相とキッシンジャー元国務長官の知られざる会談である。

  沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作元首相は1974年ノーベル平和賞を受賞した。

  後にも先にも初めての日本人のノーベル平和賞受賞である。

  あの小泉元首相が、自分も欲しいと考えて日朝国交正常化という功労を焦ったと噂されたほどだ。

  受賞理由は外交交渉で沖縄返還を実現した事、そして日本の非核三原則政策を打ち立てた事であるという。

  ところがその佐藤栄作元首相は核武装論者であった。

  さらにまた沖縄返還の際には密約が存在し、いわゆる「核抜き本土並み」返還が嘘だった事が後日米国公文書公開で明らかにされた。

  ノーベル平和賞受賞自体が、本人が寝耳に水だとの驚きのポーズとは裏腹に、周到な受賞工作を結果であった。

  その功労者の一人が前年(73年)にやはりノーベル平和賞を受賞したキッシンジャー国務長官であった。

  これらは既に周知の事実である。

   ところが春名氏が見つけたキッシンジャー・佐藤議事録は、さらに次のような新事実を教えてくれている。

  1974年11月フォード大統領が現職の米大統領として始めて訪日した事があった。

  その時同行したキッシンジャー国務長官を、首相を離れて2年半の佐藤氏が訪れている。

  キッシンジャー国務長官を訪れた目的はノーベル平和賞受賞の際のスピーチの草案について、キッシンジャー長官の了承を取ることであった。

  佐藤氏はそのスピーチのなかで、当時の核兵器保有五大国(米、ソ、英、仏、中国)に向けて核兵器全廃を訴えようとした。そのためにはキッシンジャー長官の了承が必要と考えた。

  ところがキッシンジャー長官はそれを認めなかった。当時通常ミサイルに関しては米国、欧州はソ連より劣っていた。核兵器の抑止力があるからこそソ連を牽制できたのだ。

  何をとぼけた事を言い出すのか。

  それよりも何よりも、核武装論者の佐藤が、ノーベル平和賞をもらったとたんに核廃絶論者づらをすることが許せなかったのだ。

  キッシンジャー長官に一蹴された以上あきらめるしかない。

  佐藤氏は御丁寧にスピーチを報じる新聞のコピーを後日キッシンジャー長官に送り、約束どおり核廃絶を訴える事はしなかったと、身の証を立てるという従順ぶりである。

  その半年後佐藤氏は脳溢血で倒れ世を去ることになる。

  それから30年余り立ち、キッシンジャー氏は、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、サム・ナン元上院議員らと連名で、この地球上から核兵器を廃絶すべきだと訴えるようになった。

 テロに核兵器がわたるくらいなら全廃したほうがいいという。米国は核兵器より強力な兵器を独占しているからだという。

  いい加減なものだ。

  佐藤氏が聞いたらなんと思うことだろう。

  もっとも、どっちもどっちであるが。

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2008年08月03日

アイゼンハワー米大統領の言葉

 アイゼンハワー米大統領の言葉

 アイゼンハワー米国大統領の有名な言葉の一つに、1962年の退任演説で米国の軍産複合体の危険を予言した言葉がある。

 いずれ米国は軍産複合体の深刻な結果に向かい合わなくてはならないであろう・・・という例の言葉である。

 しかしその言葉よりも、もっと素晴らしいアイゼンハワー大統領の言葉を見つけた。

 8月3日の毎日新聞書評欄で、五百旗頭真防衛大学校長(神戸大学名誉教授)が、「アイゼンハワー政権の封じ込め政策」(佐々木卓也著、有斐閣)という本を論じていた。

 五百旗頭氏は、三十年後には原則として機密政府公文書が公開される米国においては、外交史家が新たな原文書を読み込んで新事実を発見し、あるいはあらたな解釈を試みることが出来る、その結果再評価の津波がたびたび押し寄せる事がある、と指摘する。

 そして、米国外交文書を誠実に読み込んで、アイゼンハワー大統領の真実の姿を我々に教えてくれている佐々木氏の最近著を絶賛している。

 すなわちアイゼンハワー米大統領の在任中の評価は決して高くなかった。ダレス国務長官が冷戦外交を牽引する強力な手腕家であったのに対し、軍事的一辺倒を避けたため、政治的ダイナミズムを欠いた凡庸な軍人大統領と見られがちであった。

 しかし史実はそのアイゼンハワー大統領を再評価させることになる。

 アイゼンハワーは、強硬派ダレスの操り人形ではなく、ここ一番はダレスをしっかりとコントロールしていた。そして実際の戦闘によって相手を破壊するよりも、宣伝・広報工作や東西交流計画を通じ、ソ連の内部変化を追求した大統領であったのだ。

 アイゼンハワーの退任から27年後の1989年、冷戦は一発の銃声もなく歴史的な終結を迎えた。

 その事を考える時、アイゼンハワー大統領の次の言葉が一段と輝いて見える。

  「私は十分に戦争を経験した。平和に優るものはない」

  この言葉の迫力はどうだ。

  米国の元軍人大統領アイゼンハワーのこの言葉に反駁できる者はいないに違いない。

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2008年08月03日

ブログの終了と日本の政治の行く末


 ブログの終了と日本の政治の行く末

  どうやらこのブログを終える時が近づきつつあるようだ。

  その最大の理由は野党ではなく自民党の手によって小泉政治に終止符が打たれたからだ。

  小泉政治の欺瞞と悪を糾弾する事が私を突き動かす一つの大きな原動力であった。

  それが、身内から否定された。

  それを見てしまった私の中から一つの闘争心が失せつつあるのだ。

  しかし、私がブログを止めようと思う最大の理由は、それではない。

  小泉政治は否定されたけれど、小泉偽改革の幻想が生き残り、それが形を変えて日本を苦しめていく事になると懸念するからだ。

  その事を指摘し、国民にだまされるなと警鐘を鳴らしていく事は、もはや私には手に余る大きな作業である。

  もっと具体的に述べてみる。

  3日のフジテレビ「報道2001年」で西部遭が極めて的確な発言をしていた。

  すなわち、今度の内閣改造は明らかな小泉政治の否定であり、自民党の大半の議員はそれが正しいと思っている。しかし、「小泉改革すなわち善」、と考えているメディアと、そのメディアに踊らされてきたおろかな国民をおそれ、福田自民党は小泉改革否定と明言できない。だから福田政権は苦しい、と。

  その通りである。

  たとえば今日の新聞の社説を見るがいい。「改革路線を捨てるのか」(東京新聞)、「福田改造内閣は改革を逆行させるな」(日経新聞)などと、福田政権たたきは続く。

  この風潮が国民の目を曇らせることになる。

  福田政権たたきがそのまま民主党政権への政権交代への主張につながるのであればいい。しかし決してそうではない。

 政局が自民党政権内部の改革派、反改革派の対立、脱官僚派、官僚依存派の対立図式にすりかえらる。

 この事は政権交代を遠ざける事になる。

 なぜならば小泉改革派の考えは民主党の考えと似てくるからだ。民主党の中には小泉改革派に近い者が多く存在するからだ。

  自公政権と民主党野党の政権交代争いは、もちろん今後の政局の中心であり続けるだろう。

  しかしそれ以上に自民党の中の小泉、反小泉争いが本格化し、国民の目は改革か反改革かという方に向けられていく。

  このことが自民党生き残りのための意図された見せ掛けの対立であると考える者がいる。

  私は決してそうは思わない。もはや小泉派と反小泉派はもとには戻らない。戻れない。

  しかし、そんな事はどうでもいい事だ。

  重要な事は、偽自民党対立であっても本物の自民党対立であっても、よほど民主党がしっかりしないと、政権交代への世論の関心が薄れていく危険性があるということである。

  果たして次期総選挙で政権交代はあるのか。

 私は政権交代をすべてに優先する立場の一人である。だからこれから総選挙まで、ただひたすらに政権交代を訴え続ける。

  総選挙まではブログを書き続ける。

  もし政権交代が起きれば文字通り私のブログの役割は終わる。

  政権交代が起こらなければ気の遠くなるような先の長い不毛な政治がつづく。

  もはやブログを書き続ける気持ちにはなれない。

  いずれにしてもこのブログを終える時が近づきつつある。

  

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