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2008年07月06日

 グリーンピース鯨肉事件を幕引きさせるな


 グリーンピース鯨肉事件を幕引きさせるな

 私は6月21日のブログの中で、警察がグリーンピースのメンバーを鯨肉窃盗で逮捕した事は、危険な賭けである、というような事を書いた。

 それをきっかけに騒ぎが大きくなって、調査捕鯨が商業捕鯨だったというウソの暴露に、事態が進展しないとも限らない、と思ったからだ。

 ところが、残念ながらそうはならなかった、と思っていた。

 少なくとも7月7日の日刊ゲンダイの記事を見つけるまでは。

 私は、21日のブログでも書いたが、グリンピースという組織を決して支持しているわけではない。

 特に今回グリーンピースのメンバーがとった行為は、たとえそれが、彼らの言う「大きな正義」を追及するための「小悪」だとしても、やはりまずかったと思う。

 権力の怖さを甘く見てはいけない。世論をなめてはいけない。

 グリーンピース鯨肉事件は、すべてはグリーンピースの窃盗行為が悪い、という形で幕引きが図られてしまった。そう思っていた。

  ところが、7月7日の日刊ゲンダイは、次のような大きなニュースを流した。

  ・・・鯨肉は本当に土産用のものだったのか。どうやらそればかりではなさそうだ。その量が土産用にしては多すぎる。その上、長期保存用の仕様は、明らかに闇市場での販売を目的にしたものの疑い濃厚だ・・・

  というのである。

 しかもこの問題は、7月2日に都内で行われた公開討論会で取り上げられ、保坂展人議員(社民党)や谷岡郁子議員(民主党)が、「国政調査権を発動してでも徹底的に真相を解明すべき」だと語ったという。

 私は、もっぱら、調査捕鯨と偽って商業捕鯨をしていた水産庁の国際法違反疑惑を追及してきた。しかし、この事件で浮上してきたのは、公共財産の着服、横領疑惑である。

 それが事実であれば大問題だ。

 天下り機関の横領、着服がいたるところで問題になっている御時世である。もし一人でも鯨肉横流しで売上金を私物、私用している者がいたとしたら、大事件となる。

 この疑惑が明らかにされた以上、そして日刊ゲンダイがすでに報じた以上、大手新聞がこの問題を調査、報道しなければウソである。

 さもなければ、単なる怠慢か、水産庁とデキている、ということだ。

 どうやら私の指摘したように、水産庁は危険な賭けに出てしまった。

 そしてそれに負ける危険性が出てきた。

 グリーンピース鯨肉事件を幕引きさせてはならない。

 

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2008年07月06日

 2008.7.6. サミット前日に考える事

 2008.7.6. サミット前日に考える事

  このブログで書いてきた事のいくつかは、何年か先に、必ず意味を持ってよみがえってくる。そう思いながら私はこのブログを全力で書き続けている。

  誤認や誤解、そして見込み違いもある。それでも、そのいくつかは歴史に耐える真実を射抜いているに違いない。そういう自負を唯一の頼りに書き続ける。

  私にかくも傲慢なことを言わせる背景には、このブログを書くに当たって一切の私利、私欲、打算がない、という事実がある。

  読者の一人一人が、立場や考えの違いを超えて、自立した正しい判断力を持ってもらいたい、世間の不正に対峙してもらいたい、あらゆる権力者の悪に対し抗って強く生きてもらいたい、この一念で書いている。

  自らが強くなければ、愛するものさえ守る事が出来ない、それが私の読者へのメッセージである。

  サミット前日の今日は、あらゆる報道がサミット一色だ。うんざりする。

  しかしそれは無理もない。

  大きな国際行事だ。8年に一度の主催国の責任はある。

  サミットは無事に終わればいい。願わくば少しでも意味のある会議になってもらいたいと思う。

  テレビ番組は、福田首相の父親である福田赳夫氏がサミット直前の総裁選で破れ、総理はおろかサミット議長の名誉まで直前で手放した悔しさを放映していた。

  その悔しさを間近で見て一番知っているのが福田康夫首相だ、だから、支持率が低下しても,
何があっても、自分の手でサミットをやりたいのだ、などと政治解説者が語っていた。

  そうなのだろう。しかしその事自体は悪い事でもなんでもない。それが人情というものだ。

  洞爺湖サミットは歴史的な会議だと評価する意見がある一方で、難問題山積の中で一日や二日のサミットで何が決まるのかと冷めた見方もある。どの国でサミットが行われようと、必ず言われる事だ。

  そのいずれもが正しく、いずれもが正しくない。

  議長役の福田首相はもとより、政府関係者は無事に終わる事に精一杯だ。

  テロ対策の警備も大変だ。

  国民生活にとっては大迷惑だ。税金の無駄遣いだという声も聞こえる。

  そのような声もまた、いずれも正しく、そして正しくない。

  サミット開催国の責任者であったなら、やはり福田首相や日本政府と同じ対応をするに違いない。

  報道関係者は大騒ぎして、こぞって報道競争をしている。これも仕方のないことだ。

    そして、ここからが今日のブログの言いたい事であるのだが、それらすべてを受け入れた上で、決して見落としてはならない二つの問題点を指摘したい。

  その一つはサミット反対の国際的運動のうねりについてである。

  あれはシアトルのWTO反対運動の頃から始まった動きだと思う。反グローバリズムの国際的な動きがサミット前に必ず行われるようになった。

  私がもし官僚で一生を終わっていたならば、おそらくこのような反対運動に理解を示す事はなかったに違いない。この種の反対運動に違和感と嫌悪感を覚えたままであったに違いない。

   しかし今の私は、あらゆる意見に耳を傾ける時間がある。それを自分の頭で考えてみる暇がある。何よりも、組織や立場に縛られることなく、自分の考えに忠実でいられる自由がある。

  グローバリズム反対の活動家には様々な人たちがいるのだろう。主義主張のの違いや、思惑も一つではないのだろう。

  しかし、ATTACK(トービン税の導入を目指す市民団体)の発起人の一人であるスーザン・ジョージさんの次の言葉は考えさせられる。

 ・・・G-8に集まっている国は地球上の人口のわずか14%を代表しているに過ぎない。その指導者たちは、自分たちの国では選挙で選ばれたかもしれないが、世界を支配する役割を担うために選ばれたものではない。しかも、この指導者達ですら、自分たちの国において正当に国民を代表していないかもしれないのだ。
 その指導者たちが、世界を代表しているがごとく振る舞い、(世界の人類の幸福実現を等しく願うのではなく、彼らだけの利害を優先する。自国の利益を優先する。)そんな会議に果たして正統性があるのか・・・

 たしかにそれは一つの視点である。世界の指導者、権力者が集まるのではなく、世界の国民が手を繋げ、もう一つの国際的な民主主義体制をつくる必要性があるのかもしれない。そういう時代がいつの日か来るのかもしれない。

  7月6日の各紙が、洞爺湖サミットに反対する運動の事を一斉に取り上げたり、7月6日の朝日新聞が「ひと」欄が、来日したスーザン・ジョージさんを取り上げているのも、こうしたサミットに反対する国際的動きに、漠然とではあるが、将来の可能性を認めている証拠ではないか、単なるサミット妨害者と切り捨てられない何かがあると感じている証拠ではないか、と思ったりする。

  もう一つは、6日朝のフジテレビ「報道2001」が、サミット報道に背を向けて、あえて老人介護の問題を取り上げていたことである。そして6日の毎日新聞が、サミット報道と並んで、「人も団地も老いゆく」という見出しで、急速にふえつつある都会の孤独死を特集していたことである。

 女優小山明子が夫である映画監督大島渚の介護の、そして歌手橋幸夫が母親の介護の、苦労話をテレビで語る。華やかなスターでさえも、その陰で誰もが向かい合う苦労をしている。
 毎日新聞の記事の次のような言葉が、我々の目の前に広がる現実を突きつける
 「・・・遺体は1DKの居間で布団に横たわっていた。目を開き、天井を見上げていた。孤独死だった。部屋の主がいなくなって8ヶ月以上も経つのに、郵便受けにはいまもはがきや封書が届く。部屋のベランダでは洗濯物が風に揺れている・・・」

 急速に進む高齢化社会に温かい対応策を講じるのは、間違いなく政府の最優先の責務である。

 サミットで国際問題が語られるのもいい。環境問題も資源問題、金融問題も重要だ。

  しかし、サミットが終わった後で福田首相が真っ先になすべき責任は、この国の国民の日々の暮らしをどう安心させるかだ。

  日本の指導者だけでなく、世界の政治家が、指導者が、自分の地位、名誉、利権を省みることなく、国民の、人類の、豊かで平和な生活を心から願い、優先的にその問題に取り組むならば、サミットのあり方も変わっていくに違いない。

  二酸化酸素ガス規制の目標年である2050年には、環境問題だけではなく、人類は、戦争のない、平和で豊かな生活をしているのだろうか。

  我々はいま大きな歴史の転換期にあるのかもしれない。

  サミットが終われば内閣改造だ、解散・総選挙だ、などというのは、日本の政治家たちのつまらない権力闘争に過ぎないのではないかと思えてくる。

     

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2008年07月05日

官僚支配打破の前提は、政治家とそれを選ぶ国民の意識改革ができるかどうかだ


 官僚支配打破の前提は、政治家とそれを選ぶ国民の意識改革ができるかどうかだ


  5日朝のテレビ番組で、民主党の長妻昭が、次の選挙で国民が政権選択を行う一つの大きな基準は、自民党と民主党のどちらが官僚支配打破の政治を実施できるか、ということだと言っていた。

 この発言を俟つまでもなく、いまや「官僚主導から政治主導へ」という言葉は流行り言葉だ。

 そして私は、それが単なる国民に迎合する流行り言葉で終わるのではなく、それが真に実現されなければ日本はかわらないと思っている。

 「官僚の中にもまじめで優秀な者もいる」、とか、「官僚を批判するのではなく、使いこなす事だ」などという言葉は一見もっともだ。

 官僚の個人攻撃をしてもあまり意味はないし、それを行う事が目的になってはいけない。

 しかし問題の本質はもっと大きく、深い。そのような「良識的」な事を言っていては到底官僚支配は変わらないほど、困難な問題なのである。

 官僚支配を打破するということは、これまでの政治と行政のシステムを変える問題であり、そのシステムを変える前提は、つまるところ、「官尊民卑」の意識改革に行き着くのだ。

 その事を説明する好例として、最近の報道の中から二つの例を取り上げたい。

 その一つは年金運用によってもたらされた5兆円の運用損である。

 この問題の本質は、「運用損が出た」という事ではない。

 いつごろから、そしてどのような法的根拠で、我々から強制的に徴収した年金の原資が、厚生労働省の下部組織、天下り組織のひとつである年金積立金管理運用独立行政法人の手に委ねられるようになったか、私は不詳にもつまびらかでははない。

 しかし、その事さえも今ここで問題にしない。

 我々が納めた年金の原資が、サブプライムローンなどの危険なマネーゲームに使われていた事を問題にしているのでもない。
 金融資本主義を是認してきた我々の経済システムにおいては、個人も、企業も、国とても、もはやマネーゲームに染まり、そこから直ちに、超然として、身を切り離す事は困難だ。

 問題は、運用が上手くいった時は国民に還元することなく国家予算の一部として活用、流用、無駄遣いし、損失が出た時には、誰も責任をとることなく、「いままでの運用益があるから問題ない」と、言い逃れて終わってしまう、「官」の優位、「行政」の優位である。

 国民の代弁者である政治家は何をしているのか。どういう改善策を行政に迫るのか。本気で追及する政治家が一人でも出てくるのか。

 もう一つは、政治活動の報告ビラを集合ポストに投函した共産党市議が、東京地検という行政の一端に書類送検された事件である。

 私が驚いたのは、この「恐怖警察」に、政権政党の自民党の政治かも、政権奪取を狙う民主党の政治家も、ともに萎縮し、すくんでいるという実態である(7月5日東京新聞 ニュースの追跡)。

 オートロックの外側にある集合ポストには、商売のチラシは黙認だ。ピザ広告も風俗営業の勧誘も放置されている。

 それなのに政治家の政治活動である議会報告ビラの配布を官僚が恣意的に取り締まる。

 本来であれば政治家が行政の責任者を呼びつけて怒鳴りつけるべきではないのか。

 少なくとも直ちに国会でとりあげて国民の判断に委ねるべきではないか。

 それなのに、「もう、怖くてできない」、「政治家なら誰でもスネに傷を持つ。批判なんかしたら、警察からメディアにリークされ、袋叩きにあって政治的に殺される。警察批判なんて、与党だって怖くてできないんだよ」などと言う(前掲東京新聞)。

 官僚支配の根源は政治家や国民の意識の底にある。

 東大、京大出身の高級官僚には勝てないという学歴偏重主義のがある。

 国家権力に逆らう事は悪い事だという根拠のない思い込みがある。

 この意識がなくならない限り官僚支配はなくならない。
 

 

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2008年07月04日

メディアは小泉元首相に政策を語らせてみろ


 メディアは小泉元首相に政策を語らせてみろ

  国会が終わったとたん、政治記事がつまらない政局の話に明け暮れることになると、私はいつかのブログで書いた。

 その通りになった。

 ここしばらく、報道はサミットと北京五輪で明け暮れる。

 それが終われば8月の臨時国会が始まり、その前の内閣改造の有無が騒がれる。

 それまでの2ヶ月足らずは政治家の夏休みだ。

 勉強会と称して政治家仲間が集まって来るべき政局に備え鳩首協議を重ねる。

 激しく対立していた与野党の政治家たちが、視察という名の海外旅行に揃って出かける。

 さもなければ、至るところで講演をし、演題をそこのけで政局を語る。

 うんざりだ。

 政治家もメディアも、政策を語り、語らせるべきだ。

 いや語っている場合ではもはやない。

 一つでもいいから、悲鳴を上げている国民を救う政策を実現すべきだ。

 メディアは、政府に、与党政治家に、それを厳しく迫るべきだ。

  政治家の言動の中で、見逃してはならないのが小泉元首相のそれである。

  私は6月15日のブログで岩見隆夫の手になる毎日新聞「近聞遠見」を引用して、中曽根元首相がある政治パーティの席で、小泉元首相の差し出した握手に応じなかったというエピソードを紹介した。

  そうしたら、その岩見隆夫が、6月28日の同じ「近聞遠見」で、小泉元首相から直接電話がかかってきたこと、「中曽根元首相の憲法改正案を切り捨てたのは俺ではない」と文句を言ってきたこと、を書いていた。

  中曽根案を取り上げなかったのは自分ではない。自民党改正案作成の責任者である枡添議員が最終案をつくり、自分はそれを了承しただけだというのだ。

  瑣末な事だ。それ以外のところは、岩見が書いたとおりだと認めているようなものだ。

  しかし、私がこの記事を読んで認識を新たにしたことは、小泉元首相は自分の評判を気にかけているということだ。

  しかも、少しでも自分の評判に傷がつくような事があれば、それを訂正しようと自ら行動をとるという熱心さだ。

  その熱心さを政策づくりに結びつけたらどうか。政策を語ったらどうか。

   4日朝の報道は、こぞって小泉元首相が、内閣改造と解散・総選挙について、福田首相に注文をつけた事を報じていた。

  「解散は、今年のサミットではなく、来年のサミット後だ」と言ったかと思うと、今度は「追い込まれて解散をしてはいけない」などと発言をする。

  無責任だ。無節操だ。それをメディアが、あたかも大事件のごとく報じる。

  笑ってしまったのは7月4日の産経新聞の次の文章だ。

  「3日午後、都内で開かれた環境シンポジウムの基調講演に招かれた小泉純一郎元首相は冒頭から脱線した・・・」

  小泉元首相にまともな講演ができるのだろうか。

  脱線しっぱなしでは環境シンポジウムにならないだろう。少なくとも少しぐらいは環境政策を語ったのだろう。メディアはそこを報道しなければならない。国民に教えてくれなくてはいけない。

  5年半もこの国の首相をつとめた小泉元首相である。良くも悪くも、その政策の影響がすべてが今この国に現れてきている。国民生活に影響を与えつつある。

  政策を語ることは彼の義務であるのだ。

  しかし、彼は一言でも政策を語った事があるのか。メディアは一度でも彼に政策を語ることを求めた事があるのか。

  7月17日号の週刊実話は、小泉元首相が一人2万円もする高級フランス料理店に女性議員を集め、一人政局話をして悦に入っていた、あまりにも不謹慎だ、という記事を書いていた。

  これこそ大手新聞が書くべきだ。そんな暇があればブッシュ大統領と電話会談して対北朝鮮外交の一つでも話したらどうなのだ。

  このブログを読んでいる小泉元首相。政策を語ってみよ。

  このブログを読んでいる政治記者諸君。小泉元首相に一つでいいから政策を語らせてみろ。そしてそれを記事にして国民に知らせてみろ。

 

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2008年07月04日

  イスラエルの代弁を繰り返す外務省OB


 イスラエルの代弁を繰り返す外務省OB

  ここ当分の間、外交に関する記事はサミット一色になる。そこで報じられる事柄は、殆ど意味のないことばかりだ。

  膨大な議題の渦の中で、何一つ具体的な成果は期待されそうもない。

  おまけに、「指導力を失った首脳ばかりだ。

  しかも、どの議題もG-8だけで解決できるものではない。首脳会議は事実上拡大されてしまった。

  もはやサミットは事実上国連化しつつある。拘束力のない共同宣言づくりがすべてだ。

  もはやサミットは五輪化しつつある。参加する事に意義がある。無事終われば成功だ。

  そのようなサミットに関する記事を読む時は、同じような記事を飛ばし読みし、誰も書かない視点からの記事を見つけることに限る。

  私にとっては、7月4日の東京新聞にでていた野上義二元外務次官のインタビュー記事がそれであった。

  彼は8年前に日本が沖縄サミットを主催した時、外務審議官としてシェルパ(首脳個人代表)をつとめた経験がある。だから東京新聞の記者は彼をインタビュー相手に選んだのだろう。

 最初の質問は、「沖縄サミットは、日本では初めての地方開催だった。どの点に力を入れ、どんな苦労があったか」というつまらないものであった。

 その後に続く質問も、答えも、東京新聞や野上元次官には失礼だが、読むに値しないものであった。だから飛ばし読みをした。

 ところがある箇所で私の目が留まった。それは野上元次官がイランについて言及した箇所である。

 質問が北朝鮮の核問題に及んだ時である。彼は次のように答えていた。

 「・・・この問題(核拡散)で、世界的に見て一番深刻なのはイランだ。(「日本国内はイランよりも北朝鮮だが」という問いをさえぎって)日本の国益は拉致問題であってイランは国益に関係ないという議論にはならない・・・イランが核兵器国になり、湾岸ですごみを聞かせたとき、世界のエネルギー状況はどうなるのか・・」

 見事なイスラエルの代弁である。ユダヤロビーに屈した米国の中東外交の代弁である。

  一般の国民には、野上元外務次官といえば、田中真紀子外相と対立しともに更迭された「ヒゲの野上」ぐらいしか思い浮かばないだろう。

  しかし彼こそ、日本の中東外交をイスラエル寄りにゆがめた外務次官だった。

 彼が外務次官のとき、私はレバノンの大使であった。その時私は、彼が訪日中のイランの外務次官と公式会談をした中で、「イランはパレスチナ問題から手を引け」と面と向かって発言した事を知った。

 中東問題では中立を保つことに苦慮してきた日本外交であった。欧米と違って日本は中東では手が汚れていない。アラブの対日感情も悪くない。中立は日本外交の強みであった。

 その日本外交を担う外務省のトップが、どうしてこのような発言ができるのか。

 私は本省に直ぐに質した。

 「中東問題で中立を保つ事に腐心してきた日本ではなかったのか。この発言は野上次官の個人的な発言か、それとも日本外交の公式な立場なのか」と。

 東京からはなしのつぶてであった。

 後で知った事だが、野上元次官に関してはいくつかのエピソードがある。

 米国大使館勤務時代にユダヤ系米国人に評価され、「これで俺の出世はまちがいない」と外務省内で吹聴していたことや、彼が中近東局の参事官の時に起きたマルコポーロ事件で、ユダヤ批判の言論をする出版社を非難したこと、などである。

 駐英大使を5月に退任した野上氏はみずほコーポレート銀行の常任顧問に請われたという。

 ユダヤ金融資本の代弁者になって日本経済を売り飛ばすような事がないことを願う。

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2008年07月03日

 一人の外交官でもこれだけのことが出来る


 一人の外交官でもこれだけのことが出来る

  産経新聞は7月1,2,3日の三日間にわたって、「人、瞬間 あのとき あの国 あの人」という連載で一人の元外交官の仕事振りを紹介していた。

  これがきわめて良質な企画であるのだ。

  そこで取り上げられていた砂川昌順(48)という元外交官を私は個人的には知らない。

  その経歴からみて、いわゆるキャリア外交官ではなく、また外務公務員試験を受けて採用されたノンキャリ外交官でもない。

  外交官のなかには、もっぱら大使館や総領事館などの海外勤務要員として採用される外交官もいる。砂川氏もその一人なのだろう。ガーナ大使館、バーレーン大使館勤務を経て、10年足らずで外務省を辞めている。

  その外交官が、外務省のどの外交官も出来なかったような仕事をしていたのだ。

  1987年11月に大韓航空機爆破事件という大事件があった。北朝鮮の工作員とされる二人がバクダッド発ソウル行きの大韓航空機を空中爆破した事件だ。

  拘束された一人が金賢姫という若い女性工作員であった。北朝鮮に拉致された日本人女性、田口八重子さんから日本語教育を受けていたということも、後に判明した。

   その金賢姫がバーレーン内務省に偽造日本人パスポート所持で拘束されていた時、当時バーレーン日本大使館の外交官だった砂川は事情聴取のため金賢姫と会っている。

 砂川は、殆ど何もしなかった大使館の幹部を尻目に、一人で金賢姫らの居場所をつきとめ、空港で面会することに成功した。

 「事件のことは後でゆっくり聞けばよい。彼女の心を開かせる事が先決だ。」

 没収したカメラから、恥らうように立っていた彼女の写真を見つけた時、この人(金賢姫)はまっすぐに育ったに違いないと砂川は直感した。

 まっすぐな人間にはまっすぐに向き合うしかない。取調べ官としてではなく人間として。砂川は顔が引っくほど彼女に近づき、懸命に呼びかけた。「困っていることはないか?」、「不当な扱いは受けていないか?」。尋問から約40分、彼女が話し始めた・・・

 ところが日本政府は、政治的摩擦をおそれて、さっさと彼女の身柄を韓国政府へ引き渡してしまう。

 「まずは日本での取調べを行うべきだ」と主張した砂川の意見はまったく聞き入れられなかった。

 「悔しかったし、日本政府の判断は間違っていると思った。(北朝鮮の工作など)金賢姫にはいくらでも聞きたいことはあったからです」

  その大韓航空機爆破事件から約2年後。休暇をとってオーストリアのウィーンを訪れた砂川は、当地で北朝鮮の外交官と秘密裏に接触し、「日本の外交官として北朝鮮に亡命したい。主体思想を勉強させて欲しい」と持ちかけたという。

  バーレーン大使館にいたころ、「複数の日本人がヨーロッパから北朝鮮に渡っている」という情報をつかんでいたからだ。この情報は後に有本恵子さんらのことと判明する。

  「確認するには北朝鮮の内部に入り込むしかない。無謀な賭けであり関係者には多大な迷惑をかけるかもしれない。でも当時は『この仕事は自分にしかできない。必ずや証拠をつかみ、生きて戻ってくる』という、うぬぼれがあったのです」

  だが数日後北朝鮮側は砂川の申し入れを断ってきた。砂川の「北朝鮮侵入計画」は頓挫した。

  この時に、外務省という「組織」に砂川は限界を感じる。砂川はまもなく外務省を去ることとなる。

  産経新聞からの引用が長くなった。

  私が言いたい事は、日本という国を背負った外交官であれば、その気になればかなりの仕事ができるということである。今の外務省は、そして殆どすべての外交官は、その仕事をしていないということである。日本の外交力を無駄にしているという事である。
  砂川の意見の通り金賢姫の事情聴取があの時日本当局の手で行われていたならば、拉致問題の展開も異なったものになっていたかもしれない。

  ここに紹介した砂川氏の行おうとした事は、極端であり、訓令違反のところもある。

  しかし、訓令の範囲内で普通の仕事をしていても、仕事に対する熱意と問題意識があれば、日本国という国家権力を背負った外交官は、かなりの事ができるのだ。

  普通なら会えない様な人物とも会う事が出来るし、スパイ活動などしなくても、貴重な情報を入手することのできる機会に恵まれる。

  今から思えば、私の外交官としての仕事振りは十分ではなかったと反省する。もっと、もっと良い仕事ができる環境にあったと思う。

  それでも、投獄から解放された直後の南アのマンデラと二人だけで話す機会を得、南アの今日を予測する事が出来たし、欧米政府がテロリストとみなして接触を禁止していたレバノンの反米武装組織ヒズボラの領袖ナスララとも、何度も会って話した。

  レバノンで知り合った人々を通じ、米国のイラク攻撃の目的や、米国ではイラクを統治できない事なども、事前に入手できたし、それを東京に報告した。

  問題は、日本の指導者達や、官僚たちが、本物の仕事をしようとしない事にある。

  権力に守られている事に安住し、保身を第一に考えて、危険を冒そうとしないのだ。

  真実を追及し、最善の政策が何かを考える努力を、はじめからしないのだ。

  「金賢姫と最初に会見した日本政府高官」と喧伝された当時の北東アジア課長(韓国、北朝鮮担当課長)は、私の同期生であった。

  その彼の悪口を書きたくはないが、話の都合上あえて書かざるを得ない。

  彼が、帰国後内輪の席で我々の前で最初に語った言葉が、

  「いい女だったぞ。あれは処女に間違いない」で、あった。

  外交官のあり方として、産経新聞に紹介された砂川氏との姿勢との、あまりに格差に心が寒くなる。

  砂川氏のような外交官が外務省幹部に一人でもいるのなら、日本外交もここまで無残なことにはならなかったに違いない。

  外務省は日本の外交力をみすみす放棄している。もったいない事だ。残念な事だ。

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2008年07月03日

日本サッカー協会次期会長をめぐる人事報道


 日本サッカー協会次期会長をめぐる人事報道

  新聞各紙を毎日読み比べていると、こんな事に出くわす事がある。

  7月3日の朝日新聞は一面トップで日本サッカー協会の次期会長候補が犬飼基昭常務理事(65)に絞られた、というスクープを報じた。

  ところが同じ3日の読売新聞はスポーツ紙面で現副会長で国際サッカー連盟理事の小倉純二氏(69)の就任が有力となった事が2日わかった、と、これまたスクープまがいの記事を載せている。

  どちらが本当なのだろうか。答えは一つだ。どちらかが正しく、どちらかが間違っている。

  政治ブログを書かねばならない私であるが、このスクープ合戦とその後の顛末に、私は野次馬根性まるだしの興味を持った。関係者は今大騒ぎをしているに違いない。

  報道関係者にとっては、世のため、人のため、に立派な記事を書くことよりも、少しでも早く他社を出し抜いて最新ニュースを配信するほうが大事だ。だからこういう事が起きる。

  私はあまり関心はないが、人事はどの人事でも世間の関心の的だ。ましてやサッカーファンならばこの人事は大きな関心事に違いない。スポーツ紙などは最大のネタであろう。

  朝日と読売という日本を代表する大手紙のスクープ合戦の、はたしてどちらに軍配が上がるのか。 

  間違った人事を報じたほうは、どのような弁解をするのか。その記者に同情する。

 どうでもいいことだけれど、スクープ合戦の激しさと、非情、悲哀をしみじみと感じる。

  その事を一言書きたかった。それだけのブログである。

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2008年07月02日

 無駄をなくすという事は、無駄な仕事をしないことだ


 無駄をなくすということは、無駄な仕事をしないことだ

  7月2日の新聞に象徴的な記事が二つ並んでいた。

  一つは財務省が7月1日に発表した、予算執行調査結果の公表である。

  財務省がこのような調査結果を年度の途中に発表していたとは知らなかった。予算執行調査は2002年度から開始されたという。

  その結果、たとえば08年度予算の査定に際しては、無駄遣いをしていた省庁の予算査定を厳しくし、計342億円の予算削減につなげたという。

  もう一つは、自民党「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」なるものがまとめた提言が、やはり同じ7月1日に福田首相に提出された事だ。この提言に基づいて生み出される財源は2000億円程度という。

  無駄遣いをなくすのはいい。

  しかしわずか324億円や高々2000億円程度の節約が、本気で節約した結果と言えるのか。断じてそうではない。

  来るべき消費税増税による数兆円の財源増に比べれば少なすぎる。増税へのアリバイ作りだ。

  同じ7月2日の毎日新聞は、公益法人改革案の概要が明らかになったと報じていた。

  それによれば、350ある公益法人のうち、廃止方針が打ち出されるのはわずか10法人未満であるという。ふざけるな、という思いだ。本気で改革する気がない証拠だ。

  政治家や官僚の仕事は、その殆どが意味のない仕事である。

  というよりも、しなければならない仕事に手をつけず、どうでもいい仕事を作り出して、それに無駄な時間と予算を使う。

  それはすべて税金でまかなわれるから許されるのだ。

  成果主義の民間企業では決して許されない、考えられないことだ。直ちに株主訴訟になる。

  無駄をなくすということは、政治家や官僚の仕事を衆人環視の下に置き、その必要性を厳しく国民の眼にさらすことだ。その必要性の有無を国民の判断に委ねることだ。

  不要な政治家や、膨れ上がった官僚組織や、そのまた就職先の天下りの為の公益法人を、本気で削減していく事こそ、今求められているの。

  タクシー券や娯楽費の節約などといった瑣末な事にうつつを抜かす前に、自らの存在を自己査定することである。

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2008年07月02日

自衛隊の蘇生は自衛隊の原点に戻る事だ

 自衛隊の蘇生は自衛隊の原点に戻ることだ


  私は1988年から90年の二年間、外務省から総理府(当時)に出向し内閣安全保障室の審議官を務めたことがある。

  そこは国防予算を決定する防衛庁(当時)の出先機関のようなところだ。

  その勤務を通じて、防衛施設を訪れたり、一ヶ月の幹部防衛研修も受けた。知り合いもできた。

  だからこのようなニュースを聞くと悲しく思う。

  7月2日の報道は、今の防衛省が抱えている深刻な内部矛盾を露呈する二つのニュースを報じていた。

  日米軍事演習のデータが陸自隊員によって盗難、破棄されていた事、そして防衛省が渋谷に隊員集めの広報展示館(自衛館)をオープンした事、この二つのニュースである。

  防衛省改革が必死で検討されているにもかかわらずなぜこのような不祥事が後を絶たないのか。不況期で募集が困らないはずなのに何故自衛隊に若者がそっぽを向くのか。

  すべては今の自衛隊が矛盾に満ちているからだ。どのような美名をならべようと今の自衛隊の任務にやりがいが見つけられないからだ。

  それは当たり前だ。命をかけて国と国民を守るという、本来であれば最も崇高な任務のはずが、対米従属の政治家、官僚、制服幹部によって、米国軍の指令の下に米国の戦争のために共せられる傭兵のようになり下がっているからだ。

  まともな若者ならば、いや判断力のある国民であれば、おかしいと思わないはずはない。

  このままでは自衛隊は拡大する矛盾に押しつぶされ、やがて自壊していくに違いない。

  それを防ぎ、自衛隊を蘇生させるにはどうすればいいのか。

  その答えはただ一つ。自衛隊の原点に戻る事だ。

  自衛隊を日米軍事同盟の鎖から解き放ち、世界で日本だけにしかない専守防衛の「自衛隊」を、国民の尊敬と祝福を受けてつくり直すことである。

  憲法9条は、二度と日本に軍国主義を起こさせないという米国の懲罰的な配慮から押しつけられたものだった。様々な議論はあるが、この側面は誰も否定できない。

  理想的過ぎることが分かっていながら、そしてそれがあまりにも理想的過ぎるので、やがて日本人は改めるであろう、と思いながら、米国は憲法9条を日本に課した。

  ところが日本人はそれを歓迎して受け入れた。そして今日まで守り続けた。

  憲法9条を押し付けた米国は自分達の都合で憲法9条を捨て、日本に軍隊を持たせようとした。

  朝鮮動乱によって占領米軍が朝鮮半島に出兵した時、米兵の留守家族を守るために作られた保安隊はやがて、冷戦が熱戦になるにともなって、アジアの先兵として米国の手で軍隊にさせられた。

  それは、みずから押しつけた武装解除の憲法9条に明らかに違反する。しかし米国の身勝手なご都合主義は、日本国民の抵抗を恐れ、憲法9条を変えることなく、なし崩し的に日本に軍隊を持たせ、憲法9条を否定したのだ。

  しかし、憲法9条がある限り、それは軍隊ではない。自衛隊なのだ。専守防衛の自衛隊なのだ。

  その存在が、憲法9条違憲論争を通り越し、現実の存在として国民に受け入れられてきた。

  政治の世界においても、自衛隊を違憲だと正面から主張する政党はもはやなくなった。

  こうして自衛隊は世界広しといえども日本にしか存在しない「自衛隊」となった。

  それでいいのだ。

  自衛隊は国際政治の矛盾の中で生まれたものであったが、その結果、我々は専守防衛の、世界で唯一の「自衛隊」を、手に入れたのだ。

  我々が今直面している最大の問題は、そのような専守防衛の日本の「自衛隊」が、米国の命ずるままに米国の傭兵に成り下がりつつあるということだ。

  対米従属の政治家や官僚や、防衛省の制服幹部さえもが、保身のあまり本心を押しつぶして「自衛隊」の誇りを踏みにじろうとしている事だ。

  自衛隊の蘇生は日本固有の「自衛隊」の原点に戻る事しかない。

  米国従属の軍事同盟から決別し、専守防衛に徹した日本の「自衛隊」を作り直すしかない。

  日本の安全保障政策も、それに見合った装備も、日本の自主、自立した物に作り直していくのだ。

  その時の原点は平和憲法9条堅持である。憲法9条の下での、専守防衛の自衛隊である。

  外交力によって紛争を平和的に解決する事を最優先にする。

  不合理な国が日本を攻撃してこないように、攻撃させないように、自衛隊に強力な抑止力を持たせ 
  る。

  自衛隊の日常業務は災害援助など国土保全任務がすべてとなる。そのことによって国民に感謝される存在となる。

  日本や日本国民が攻撃される危険が迫った時には、真っ先に命をかけて国と国民を守る。そのことによって国民が尊敬する存在となる。

  専守防衛の自衛隊は決して国外に派遣してはならない。たとえ国際貢献のためであっても国外に出してはいけない。

  憲法9条を世界に宣言し、日本の自衛隊はいかなる脅威にもならない、専守防衛の自衛隊は国外には一歩も出さない、と宣言する。

 これほどの国際貢献はない。世界は拍手喝さいを送るに違いない。

  もう一度言う。自衛隊の蘇生は自衛隊の原点に戻る事だ。

  対米従属の傭兵軍隊ではなく、国民に喜ばれ、尊敬される自主、自立の、専守防衛の自衛隊の姿に立ち戻る事である。

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2008年07月01日

何のための自衛隊を海外に派遣するのか


 何のために自衛隊を海外に派遣するのか

  福田首相は6月30日に、訪日した国連のパンギムン事務総長に、スーダンの国連平和維持活動(PKO)の司令部に自衛官を派遣すると表明した。

  7月1日の各紙は、政府が発表した広報資料そのままに、この事実関係を淡々と報じていた。

  その中で一人朝日新聞だけが、「戦略なき派遣」、「『貢献先』探しに必死」という批判的な記事を載せていた。

  その報じるところは要旨次のごとくである。

  すなわち、決定に至るまで政権内部の議論は迷走が続いた。
  スーダン派遣が浮上したのは、福田首相が1月の施政方針演説で、「平和協力国家」を打ち出した後だという。つまり最初に国際貢献ありきであった。平和協力国家という福田政権のアピールがあったのだ。
  外務省がスーダンを選んだ理由はいずれも後付の理由であり、国際貢献が真に必要なところへの派遣ではなかった。
  すなわち、必要な国にはすでに主要国の軍隊が派遣されている。イラクやアフガニスタンへの派遣は新たな法律が必要になる。アフリカ開発会議の開催国としてアフリカの平和構築に協力する姿勢をアピールできる、などなど、あくまでも外務官僚が鉛筆をなめてでっち上げた理由だ。
  しかし派遣させられる防衛省は、「サミットを控えた外務省の都合だけで危険地域に部隊を派遣するわけにはいかない」と最後まで抵抗したという。
  落としどころが、スーダンの首都ハルツームの司令部への要員派遣だけだった。
  しかし、それとても、国連側から提示された用務がデータ管理と補給物資管理のポストだけだった事から、「こんな(地位の低い)ポストなら出すに値しない」と石破防衛相が難色を示したという。
  最終的には官房長官、外相、防衛相の3閣僚会合で石破防衛相が譲歩し、国連事務総長との福田首相の会談直前の6月26日に決まったという。
  しかも、その後でさえ、司令部要員の主要な任務は、自国の部隊と参加各国との連絡調整にあたるだけであるので、「国際的にどれほど評価されるのか」(防衛省幹部)と冷めた見方が強いという。
  更にその朝日の記事は、ある国連筋の話として、
 「PKOは常に人手不足。一人でも増えればありがたいというだけで、自衛隊の派遣を特段重要視しているわけではない」などという言葉をのせている。

  文字通り「派遣先探しに必死」な「戦略なき派遣」である。

  しかし、この朝日の記事さえも正面から書かない本当のジレンマがある。

  国際貢献を本来業務にしたのはいいが、国際貢献という名前ので米国の戦争につきあわされて自衛隊に犠牲者を出すような事は、絶対避けたいというのが政府や防衛省の本音である。

  ましてや自衛隊の生命をあずかる防衛省としては、外務省の対米従属外交や国際貢献をアピールする宣伝外交に付き合わされて、戦地に自衛隊を派遣する事は、決して認められないのだ。

  スーダンの事情に詳しいNPOの若者が見事に言い当てていた。

 「ハルツームは我々が夜間で歩いても平気な安全な場所だ。そんなところには何も自衛隊を派遣する必要はない。本当に必要な場所は今でも紛争が続いているダルフールなのに・・・」

  自衛隊の海外派遣は、これからも間違いなく迷走し続けることになる。

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2008年07月01日

 サミットが拡大されるという産経新聞のスクープ


 サミットが拡大されるという産経新聞のスクープ

  7月1日の産経新聞は一面トップで、今度のサミットで、サミット参加国を現在の8カ国から13カ国に拡大することが正式議題になった、という事を大きくスクープした。これは産経の立派なスクープだ。

  サミットは私の35年の外交官生活の中でも思い出深い出来ごとである。だから今日のブログでサミットが拡大されるという事への思いを書かせてもらいたい。

  サミットが正式に発足したのは1975年のランブイエ(仏)における主要国首脳会議であった。

  その直接のきっかけは73年の石油危機であり、当時高まる産油国のナショナリズムとカルテルに対決するために先進国は結束を固めた。

  一方において、74年にキッシンジャー米国務長官が提唱した国際エネルギー機関(IEA)がOECD内部につくられ、備蓄、融通、代替エネルギー開発を三本柱とする、原油価格高騰に対する先進消費国の結束が図られるとともに、他方において、フランスのジスカール・デスタン大統領の提唱により、仏、英、独、イタリアの欧州勢と米国、そして日本の主要先進6カ国の首脳会談がスタートしたのである。

 だからこのサミットはもっぱら経済問題を中心とした、自由、資本主義体制の主要国の極めて戦略的な会議としてスタートしたのだ。

 石油の高騰とそれがもたらす世界経済の混乱にどう対応していくかという会議であった。

 欧米4カ国と米国からなる首脳会議に日本が招待された、ということで、その当時の日本の指導者達が有頂天になって大喜びをしていた事を今でも思い出す。

 当時米国研修を終えて東京に戻った私は、初めての本省勤務が、このような歴史的会議であった事に感動したものだ。

 当時私は経済局総務参事官室という経済局の筆頭課に配属されていたのだが、直接の担当課として、隣の国際経済課が指名され、その課の末席に、やはり米国研修を終えて本省に戻ってきていた、私より一年先輩の岡本行夫がいた。

 いずれにしてもサミットの原点である6カ国の中に入る事を認められた日本は、今から思えば国際政治の中での絶頂期であったと思う。

 その後1976年の第二回サミットでは米国の強い意向でカナダが参加しG-7となり、冷戦後の1998年には経済体制の異なるロシアが参加してG-8となった。

 その間にも、カナダが入ったのだから豪州も参加したいと言い出したが、かつての宗主国英国が冷たく対応し参加は実現しなかった。

  開放後の中国の参加問題が、中国の経済力の向上にともなって常に取りざたされたが、中国自身が希望しなかったため、今日まで実現しないでいる。

  日本はG-6の拡大には常に反対であった。なにしろ欧米主要5カ国の中で、アジアの有色人国家がただ一人参加を認められたのだ。この特権を薄めたくはない。

  ところがついに2008年のサミットで、しかも日本が議長国である時にサミットが13カ国に拡大することが決められるという。なんたるめぐり合わせだろう。

  産経新聞の記事によれば、G-8に加え中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカの5カ国を加えた13カ国とする問題が正式議題になるという。

  そして日本はいつものように、反対している。

  日本は、サミット参加国の拡大問題を議題としないよう仏、英などに働きかけたという。

  福田首相も町村官房長官も、そして安倍晋三前首相も、加盟国拡大に反対して、もはやこれ以上拡大しないで欲しい、と関係国の首脳にはたらきかけてきたという。

  しかし、この問題を首脳会合で取り上げるというサルコジ仏大統領の意向は硬く、正式に議題に登録されたという。

  産経新聞も書いているように、今度のサミットで拡大が決定される事が決まらないかもしれない。日本の抵抗で加盟国拡大問題が先送りされるかも知れない。

  しかしサミット加盟国拡大は早晩避けられない。

  それが現実だ。日米同盟最優先しか語ることのなかった日本の行き着く先である。

  また一つ、日本の国際政治における優位性が失われていく。

  75年のあの高揚感が夢のようだ。

  

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2008年07月01日

 既存の政治を全否定するという発想が重要である

 既存の政治を全否定するという発想が重要である


  政治は二の次だといいながら、はやりこのブログでは政治的な事を書かざるを得ない。今の日本の政治は、完全に機能していないからだ。

  誤解の危険をおかしても、このブログの書き方を、わざと過激的、皮肉的にする。読者の頭の中に刺激を与え、自らの考えを呼び起こさせるためだ。

  今日の各紙は一斉に国会議員の所得一覧を掲載していた。その数字を額面どおり受け取る者はいないだろう。どの議員も数字に表れない所得や資産を持っている事は皆が知っている。

  注目すべきは、昔とちがってテレビ出演をしたり、本を出版して得た所得が報道されるようになったことだ。

  政治家にそれらの活動を自粛せよというつもりはない。しかし、政治家が本来の政治を本気で行おうとした時、そんな余業をする暇とエネルギーがあるだろうか。

  今日の毎日新聞に、「年金解決 メド立たず」という大きな見出しで、驚くべき記事がでていた。「宙に浮いた年金記録」問題が、根本的にはまったく解決されておらず、解決のメドさえ立たないという記事だ。

  この問題が国民的な大問題になったのはもう一年半も前の事だったと記憶している。その間あらゆる政治家が、官僚が、知恵を絞って解決策を模索した。しかしそのめどさえ見つけられなかったのだ。

  その一方で今日の各紙は7月1日から値上げが始まる商品の一覧表を掲載していた。

  それを見て驚かない人はいないであろう。生活する上での基本的な物資や公共サービスが軒並みに値上がりするのだ。

  政治は一体何をしているのだろう。政治家は何をしているのか。

  ここで私は、プロゴルファーの父親とかタレント性だけで当選した、税金ドロボーまがいの政治家の事をあげつらっているのではない。

  元総理経験者や、長年政治に携わってきた派閥の領袖、さらには政策通と目されている多くの政治家の事を言っているのだ。

  6月末に国会が終わり、政治報道は書くことがなくなった。だからもっぱら選挙絡みの政治家の記事ばかりだ。

  やれ解散・総選挙の時期はいつか、ポスト福田は誰か、9月の民主党の党首選挙における小沢の対抗馬は出るのか、新党は、政界再編は・・・

  残念ながら、このような記事はこれからも繰り返されるに違いない。しかしこれらの政治家が一つでも国民のために役立つ仕事をしたというのか。

  国民生活が楽になるような政策を打ち出せたか。

 どれ一つ解決されない、解決できないのではないか。

 私は「今の政治の全否定からはじめよう」と繰り返し書いてきた。

  それは勿論極端な意見であり、非現実的な提案だ。

  しかし、今の日本を見るにつけても、そこまでの発想の転換をしない限り、ちょっとやそっとの政治改革では、日本の未来はない、という思いを日々強めざるをえない。

  今報道されているのは既存の政治家達の、自分達の生き残り活動でしかない。

  政治を飯の種にしている政治記者たちの作り上げた閉鎖された世界でしかない。

  政権交代が起こっても、政界再編が起きても新党ができても、今の政治家の顔ぶれを見ている限り、まず100%何もかわらない。

  そうだとすれば、どうすればいいのだろう。

  選挙区から誰か一人を選ばなければならない、という発想を捨てることだ。

  税金を払うに値する政治家だけを選ぶという発想を持つ事だ。

  たとえば今度の選挙を考えた時、与野党のどちらかの候補が勝つ。どちらかが負ける。

  そのために刺客を送るとか、選挙区を鞍替えするとか、選挙協力をする。住民票を移す、という禁じ てもあるらしい。

  小泉とか福田とか安倍とかと言った選挙区は対抗馬がいない。小泉にいたっては選挙区に一度も足を運ばずに当選したりする。

  すべては政治家の定数があり、必ず誰かが選ばれるという事になっているからだ。

  これを発想を転換して、最低の得票率が得られなければ、たとえ比較一位になっても当選できないとしたらどうか。

  その得票率を過半数としたら、おそらく当選する者はいなくなる。

  それでいいのだ。

  本当に立派な政治家であれば過半数の支持くらい得られなければおかしいだろう。

  それで誰も当選しなければ、それでもいいのだ。

  税金が節約できる。おびただしい経費が節約できる。

  国を動かしていくことぐらい、国民がその気になってあたらしい方式を考え出せば、どうとでも出来るのだ。

  それくらいの発想の転換をして国民が動かなければこの国は変わらない。

  変わらなければ、この国はもっともっと悪くなる。格差は広がり、社会不安は高まっていく。国民はばらばらになっていく。

  日本はもうそこまで来ているのではないか。

  我々が政治をつくり直さなくてはいけない。

  

  
  

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2008年06月30日

 女優五十嵐めぐみさんの半生の思いをめぐらす


 女優五十嵐めぐみさんの半生に思いをめぐらす

  私が毎日ブログを書いている作業の、その企業秘密を明かすと、まず気にとまった記事や情報を切り抜いてファイルしておく。そしてその中から優先順位を決めて、そのテーマについて補足的情報を入手したり、過去の関連情報を参考にする。そしてその日に書ける時間的余裕の範囲で、気分のままに書く。

  こうして毎日を過ごしていると、どんどんと書けなかった記事や情報がたまっていく。そしてそれを使うことなく、そのファイルは埋もれ、廃棄されていく。

  廃棄するまえには、そのファイルを眺めながら、感慨にふけったりする。

  私のブログは政治的なテーマに限って書くことにしている。だから、ファイルの記事も、当然のごとく政治的な物が多い。

  しかし中にはおよそ政治とは無関係なものもある。どうしても気になる記事がある。残しておきたい読み物があるのだ。

  本当はそういう事に私は関心がある。

  政治など、所詮我々の人生にとって二次的なものに違いない。

  政治を生業にしている特殊な人間は別にして、普通の者にとって、人生はもっと個人的な、もっと真剣なものに違いない。

  たとえば、平和を願い憲法9条を守ると政治的活動をすることは、重要な事である。

  しかし問題は憲法9条が守られた後だ。永久の平和が達成さえれた後だ。

  その後には、もはや護憲運動や平和運動をしなくてもよくなる。

  しかしそれでも我々はすることがある。その後に、待っているのは、長く、平凡で、そして時として修羅の困難を伴った個人的人生である。

  我々はそれらと面と向かって生きていかなくてはならないのだ。

  所得格差がなくなっても、医療制度が充実しても、個人的人生の問題は解決しない。我々が本当に取り組まなければならないのは、そのような個人的人生なのである。

  政治が正常に機能していれば、そもそも我々は政治なんかに無関心でいればいいのだ。政治が正しければ、こんなブログなどまったく必要がない。

 残念ながら政治が正しく機能していないから、政治家や行政が義務を果たさず悪い事ばかりやっているから、政治を監視しなければならないだけなのだ。政治を語る必要が出てくるのだ。

 前置きが長くなった。

 6月26日と27日の産経新聞に二回にわたって女優五十嵐めぐみさんの私生活が本人の言葉でつづられていた。

 私は若かりし頃、五十嵐めぐみのファンだった。だからその記事が目に留まった。

 写真で見る彼女は今でも美しい人であるが、さすがに年老いた。万年青年であると思っていた自分がいつの間にか60を過ぎたのだから当然である。

 これが年月というものである。

 そう思って読み始めた五十嵐めぐみさんの半生を知って、感じるところがあった。

 長男が4歳の夫をがんで失った五十嵐めぐみさんは、実母と二人三脚で二人の息子を育てるのだが、長男に学習障害があることを小学生入学時に知る。その後は長男のための苦労の人生である。
 その五十嵐さんをもう一つの問題が襲う。兄の障害を受け入れられない弟が、母親に抵抗し、兄と喧嘩する毎日だ。
 そういう修羅の毎日も、やがて時が解決してくれる。息子二人が24歳と22歳になって、兄は就職し 五十嵐さんは演劇界に進んだ弟の脚本、演出した舞台に出演する喜びを味わえるようになる。
 「こんな(幸せな)日が来るとは思わなかった」と話す五十嵐さんを見て、自分の半生はなんと恵まれているのか、この世の中には五十嵐さん以上の苦労をしている人がどれほど多く存在する事か、という事に思いをはせてみる。

  人はみな与えられた人生を懸命に生きている。生きる事に精一杯の人たちにとって、政治などどうでもいいことなのだ。

  政治家はもとより、政治を生業にしている人たちは、心に銘ずべきだと思う。

  政治は人生にとって二次的なものだ。国民の一人一人は自らの幸福のために懸命に生きている。政治家は、そして政治は、その国民の生き方を陰で応援するだけのものだ。

  その政治が、国民の生活を苦しめ、国民の足を引っ張るとしたら、本末転倒も甚だしい。

  政治で飯を食っている連中には良く考えてもらいものだ。自ら省みて恥ずべき仕事をしている事はないか、と。

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2008年06月30日

 地上デジタル化強行の背景にある官僚と財界の蜜月


 地上デジタル化強行の背景にある官僚と財界の蜜月


  限られた知識と能力でも、できるだけ多くの事柄について真実を追究していきたい。

  そう思って毎日努力して書いているのだが、テーマはいつも同じようになる。

  日米軍事同盟のごまかしや官僚支配の弊害、最近ではもっぱら北朝鮮問題だ。

  そんな中で、今日の新聞で新しい発見をした。今日のブログのテーマはこれで決まりだ。

  東京新聞「こちら特報部」に「地デジ化強行の裏で」という特集記事があった。

  「不評著しい後期高齢者医療制度と同様、これから実施される裁判員制度とテレビの地上デジタル化も『構造改革』を掲げた小泉政権の置き土産だ・・・」という書き出しで始まるこの特集記事は、ズバリ、地上デジタル化強行の背景に、官僚の天下りと財界利権の蜜月があることを言い当てている。

  後期高齢者医療制度については皆が問題にしているからもはや私が説明する必要はない。

  裁判官制度についても、それがいかに不要で不純なものであるか、このブログでも書いた。

  裁判員制度もまた、来年5月の実施が近づくにつれて国民的大問題となってくるだろう。

  ところがテレビのデジタル化移行についてはほとんど議論が無い。

  しかし、その移行の背景には、驚くべき官民癒着の反国民的な意図があったのだ。

  なぜこれ、ほどまでに毎日のようにテレビで女子アナやタレントを使って宣伝している理由が頷けた。国民のマインドコントロールである。

  技術の進歩によりテレビがアナグロからデジタル化になるのは結構だ。しかし、不景気の最中に、なぜ国民に経済的負担を強いる移行を、国民の選択の余地なしに強行するのか。アナグロテレビが十分に機能するのに、強制的にそれを廃棄させるのか。もったいなくはないか。環境保護にも逆行するのではないか。

  くわしくは東京新聞を読んでもらいたいが、一言で言えば、IT戦略を国家戦略と定めた2002年度以降、政府は莫大な予算を講じ、それが関連業界の産業振興と官僚の天下り乱造(少なく見積もっても地デジ関連の天下り法人は100以上あるという)の資金源となっているというのだ。

  この問題についての著作を近く出版するという、元特定郵便局長の異色作家、世川行介氏は、こう言う。

 「ぼくらの生きてきた戦後には自由の理念があった。ところが、(後期高齢者医療制度や裁判員制度と同様に)地デジには選択の自由が無い。これでは統制国家だ・・・アナグロ波停止は国際的な趨勢とはいえ、不況による受信機器の普及の遅れから、米国や韓国ではアナグロ放送終了を延期している・・・アナグロ終了は使用中のテレビの寿命が尽きるまでといった穏やかな形に変えるべきだ。官僚と財界の都合で、豊かでない庶民の娯楽が奪われてはならない」

  極めつけは、これが「聖域なき構造改革」を叫んだ小泉政権の置き土産であるという点だ。

  そういえばITが何かも分からない元首相が、ITを「それ」と言ったという話もあった。

  官僚の悪知恵に操られたこの国の政治のもたらすものは、国民生活を苦しめるものばかりである。

  

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2008年06月29日

 「今こそ小泉元首相の出番ではないのか」の真意について


 「今こそ小泉元首相の出番ではないのか」の真意について


   驚きました。私が書いた「今こそ小泉元首相の出番ではないのか」というブログが、少数の読者ではあったと願いますが、まったく誤解されて読まれていたようで、私に強烈な投書が寄せられました。

   アンチ小泉の読者からは、あれほど小泉元首相を批判していた私がなぜそう思うのか、見損なった、という投書が、

   そして小泉ファンからは、小泉を評価してくれて、お前を見直した、ありがとう、という両極端の投書が寄せられました。

   ひょっとして他の読者のなかにも誤解して読まれた方がおられるかもしれないと思ってここで真意を明確にさせていただきます。

   このような釈明のブログは二度と書くつもりはありませんが、私が本気で小泉元首相の再登板を願っていると思われては、私ももはやブログを書く気力もなくなってしまいますので、これだけははっきりさせておきたいと思いました。

   あのブログは、もちろん最大級の小泉批判です。そしてその小泉元首相の批判をいまだにしようとしないマスコミ批判でもあります。

  拉致問題は小泉元首相が7年前の訪朝のすべてを正直に話せば、かなりの部分が解決できた問題です。

   今こそ彼を国会に証人喚問をし、すべてを白状させれば、日本のとるべき正しい方向はおのずと見えてくると思います。

   しかし彼はその覚悟は無いでしょう。もちろん彼には私がブログで書いたようなことをするつもりは無く、また出来ません。

   権力を手放したとたんに何も出来なくなった小泉元首相には、潔く政治家を辞するべきだ、と言っているのです。

   残念ながら読者には正確に伝わりませんでした。私の表現力のつたなさをお詫びするとともに、明日からのブログでは、凝った表現をやめて直球勝負で行きます。

   お騒がせしました。
                                                       天木

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