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2008年07月19日

政府が交渉する相手は沖縄県ではない。米国政府だ。


 政府が交渉する相手は沖縄県ではない。米国政府だ。


  米普天間飛行場移設に関する政府と地元側による協議会が18日、官邸で開かれたという。

  そのニュースを見るにつけ、この協議の不毛さ、ばかばかしさを指摘せずにはいられない。

  政府が沖縄県側とどのような話し合いをしようとも、米国は、06年に日米政府で合意した今の移設案(名護市辺野古崎におけるV字形滑走路の変更は一切認めないと繰り返し強調している。

  仲井真知事が、「滑走路の沖合いへの移動」を求め、町村官房長が「滑走路を沖合いに出してもいい。100メートル出せというなら検討する」(19日朝日)と空手形を切って見ても、米国がこれを認めなければ一人相撲だ。

  そんな米国の強硬姿勢を知っている石破防衛相は、「合理的な理由なくして変更することは困難」(19日東京)などと主張して、沖縄県側の前で政府の足並み不一致を露呈させた。

  こんな調子で政府と沖縄側がいくら話し合っても意味はない。時間の無駄だ。

  政府がまず話し合う相手は、米国政府なのである。

  「県議会選挙の与野党逆転で変更せざるを得なくなった。さもなければ在日米軍全般の見直し要求につながりかねない」と米国を恫喝して、米国に譲歩を迫る事だ。

  今回の協議では、政府と地元の溝が埋まらず、環境影響の評価や危険性除去の問題を検討する二つの作業チームを作っただけで終わったと言う。問題を先送りして終わったという。

  予算とエネルギーの無駄である。

  暑い夏だ。仕事は効率よくなされるべきだ。

  問題山積の政府である。一つでもはやく問題を片付けていくべきである。

  そのために政府が本気になってやるべき仕事は唯一つ。

  それは、地元に圧力をかけて飲ませようとすることではない。地元の意向を米国にぶつけて、国民の前で米国に譲歩を迫る事である。

  簡単な事である。問題解決を遅らせているのは政治家、官僚の米国恐怖症である。

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2008年07月19日

拉致問題が進展しない最大の理由


 拉致問題が進展しない最大の理由

  自民党の山崎拓という議員が、あたかも拉致問題の解決が出来るのは自分しかいない、といわんばかりに行動をしている。

  そんな彼の行動でも、たまには国民にとって役に立つ事はある。

  19日の各紙は、小さい報道ながらも、山崎拓議員が訪中し、中国共産党の王家瑞対外連絡部長なる人物と会談した事を報じている。

  その記事の中で見逃せないのが、王家瑞氏が語った次の言葉である。

 「解決が行き詰っていたのは、何をもって拉致問題の解決とするかの(問題で)日朝間に基準の不一致があるからだ・・・」

  この言葉の意味するところは大きい。いわば拉致問題の核心部分である。

  われわれが政府、外務省から繰り返し聞かされて来た事は

 「拉致問題の解決とは拉致被害者全員の救出である」という事である。

  しかしこの言葉は、実は何の意味も持たない。

  拉致被害者全員とは誰と誰の事を指すのか。我々はいまだかつて一度も政府から具体的なリストを示された事はない。

  そして拉致被害者の救出とは何を意味するのか。

  生きて帰ってくることか。それとも亡くなった者がいたとしてもその死亡が確認されればいいのか。

  何をもって日本政府は死亡が確認されたと認定するつもりか。

  それで日本国民を納得させられるのか。

  実は政府はこのような事について、いまだ一度たりとも国民の前に明確に考えを述べた事がない。

  それにもかかわらず北朝鮮との間では話し合っているのだ。

  政府の考えを示し、北朝鮮側の立場も聞いているのだ。

  そうでなければ中国の要人がこのような発言をできるはずはない。

  拉致問題が進展しないのは、もちろん北朝鮮側の硬直的な態度にある。

   しかし、その北朝鮮側を追い詰めることが出来ない最大の原因は、政府、外務省の秘密主義にある。

   国民に真実を隠しながら北朝鮮側と、落としどころを話し合う、もしそんな外交が進められているとしたら、拉致問題の誠実な解決は望むべくもない。

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2008年07月19日

長銀無罪判決で問われる本当の罪

 長銀無罪判決で問われる本当の罪

  7月18日、最高裁は、一審、二審の有罪判決を覆して、当時の日本長期信用銀行の元頭取らに無罪判決を下した。

  この衝撃的なニュースが日本中を駆け巡った。

  もはやバブル崩壊当時の状況を知らない世代も多くなった。

  だからこの判決の意味を理解できない者がいるかもしれない。

  しかし、バブル崩壊とその後の混迷を見てきた多くの日本人にとって、この判決は、当時の異常な状況を、鮮やかによみがえらせてくれた。

  そして、19日の各紙が報じる今回の無罪判決の評価を読む時、10余年の歳月が我々をして、今、当時の状況を冷静に考えさせてくれるようになった、と、つくづく思わざるを得ない。

  各紙がその記事のなかで、あるいはその社説の中で等しく指摘している事は、おおむね次のごとくである。

  ・・・逆転無罪判決は理解できる。一、二審の有罪判決の根拠となった粉飾決算事件は、旧大蔵省の通達による会計基準整備が周知徹底してなかった過渡期に起きた事件だ。

  経営者の責任は問われるべきであるが、長銀の幹部らだけを犯罪者とするのは法的に無理がある。

  問われるべきは自らの責任回避の為に、裁量行政(護送船団方式)から金融機関の自己責任へと法体制を切り替えた金融当局の行政責任ではないか。

  当時は、巨額な公的資金(税金)を投入して大手金融機関を救済したことに対する国民の怒りをそらすためにも、政府はスケープゴートを必要とした。

  その政府の意を汲んだ検察の国策捜査ではなかったのか。

  一審、二審の有罪判決は、世論の怒りや国策捜査の流れに逆らえなかったのではないか。

  あれから10年余りたって、やっと妥当な判決が出たということだ。

  しかし、これほどの事件が起きて、誰も責任を取らずに忘れ去ってしまっていいものか。

  真の責任者は政府、行政にあるのではないか・・・

  
   私もこのような解説に、おおむね賛成だ。

    しかし、金融行政に素人の私が、この判決の事をブログで取り上げる気になったのは、別のところにある。

  19日の読売新聞は元長銀マンたちの様々な反応について書いていた。

  その中の一人の言葉に次のような自戒の言葉があった。

  「無罪判決を素直に受け止められない。・・・法的には無罪でも、経済人としては許されない行為。経営陣だけでなく、すべての行員も、心の内で責任を感じなくてはいけない・・・」

   そうなのだ。悪い事だと内心気づきながらも組織の一員としてそれを見過ごしてしまう。

  その事が、結果としてどれだけ多くの社会的悪をもたらしてきたか。見て見ぬ振りをすることこそ罪ではないのか。

  その一方で、正義感に駆られて不正を告発したものが、どれだけ割りに合わない処遇を受けてきたことか。つまはじきされてきたことか。

  ここのところが逆転しない限り世の中はかわらないのだろう。

  見て見ぬ振りをする事自体が一つの犯罪であり、不正を告発した者への評価が、その身分が守られなければならないといった受身の立場から、不正の告発者は英雄であるという積極的な評価に変わらない限り、組織犯罪、権力犯罪は決してなくならないだろう。

  日本社会がそこまで変わることができるかという事である。

  長銀幹部の無罪判決が我々に投げかける本当の問いはその事である。

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