女優五十嵐めぐみさんの半生の思いをめぐらす
女優五十嵐めぐみさんの半生に思いをめぐらす
私が毎日ブログを書いている作業の、その企業秘密を明かすと、まず気にとまった記事や情報を切り抜いてファイルしておく。そしてその中から優先順位を決めて、そのテーマについて補足的情報を入手したり、過去の関連情報を参考にする。そしてその日に書ける時間的余裕の範囲で、気分のままに書く。
こうして毎日を過ごしていると、どんどんと書けなかった記事や情報がたまっていく。そしてそれを使うことなく、そのファイルは埋もれ、廃棄されていく。
廃棄するまえには、そのファイルを眺めながら、感慨にふけったりする。
私のブログは政治的なテーマに限って書くことにしている。だから、ファイルの記事も、当然のごとく政治的な物が多い。
しかし中にはおよそ政治とは無関係なものもある。どうしても気になる記事がある。残しておきたい読み物があるのだ。
本当はそういう事に私は関心がある。
政治など、所詮我々の人生にとって二次的なものに違いない。
政治を生業にしている特殊な人間は別にして、普通の者にとって、人生はもっと個人的な、もっと真剣なものに違いない。
たとえば、平和を願い憲法9条を守ると政治的活動をすることは、重要な事である。
しかし問題は憲法9条が守られた後だ。永久の平和が達成さえれた後だ。
その後には、もはや護憲運動や平和運動をしなくてもよくなる。
しかしそれでも我々はすることがある。その後に、待っているのは、長く、平凡で、そして時として修羅の困難を伴った個人的人生である。
我々はそれらと面と向かって生きていかなくてはならないのだ。
所得格差がなくなっても、医療制度が充実しても、個人的人生の問題は解決しない。我々が本当に取り組まなければならないのは、そのような個人的人生なのである。
政治が正常に機能していれば、そもそも我々は政治なんかに無関心でいればいいのだ。政治が正しければ、こんなブログなどまったく必要がない。
残念ながら政治が正しく機能していないから、政治家や行政が義務を果たさず悪い事ばかりやっているから、政治を監視しなければならないだけなのだ。政治を語る必要が出てくるのだ。
前置きが長くなった。
6月26日と27日の産経新聞に二回にわたって女優五十嵐めぐみさんの私生活が本人の言葉でつづられていた。
私は若かりし頃、五十嵐めぐみのファンだった。だからその記事が目に留まった。
写真で見る彼女は今でも美しい人であるが、さすがに年老いた。万年青年であると思っていた自分がいつの間にか60を過ぎたのだから当然である。
これが年月というものである。
そう思って読み始めた五十嵐めぐみさんの半生を知って、感じるところがあった。
長男が4歳の夫をがんで失った五十嵐めぐみさんは、実母と二人三脚で二人の息子を育てるのだが、長男に学習障害があることを小学生入学時に知る。その後は長男のための苦労の人生である。
その五十嵐さんをもう一つの問題が襲う。兄の障害を受け入れられない弟が、母親に抵抗し、兄と喧嘩する毎日だ。
そういう修羅の毎日も、やがて時が解決してくれる。息子二人が24歳と22歳になって、兄は就職し 五十嵐さんは演劇界に進んだ弟の脚本、演出した舞台に出演する喜びを味わえるようになる。
「こんな(幸せな)日が来るとは思わなかった」と話す五十嵐さんを見て、自分の半生はなんと恵まれているのか、この世の中には五十嵐さん以上の苦労をしている人がどれほど多く存在する事か、という事に思いをはせてみる。
人はみな与えられた人生を懸命に生きている。生きる事に精一杯の人たちにとって、政治などどうでもいいことなのだ。
政治家はもとより、政治を生業にしている人たちは、心に銘ずべきだと思う。
政治は人生にとって二次的なものだ。国民の一人一人は自らの幸福のために懸命に生きている。政治家は、そして政治は、その国民の生き方を陰で応援するだけのものだ。
その政治が、国民の生活を苦しめ、国民の足を引っ張るとしたら、本末転倒も甚だしい。
政治で飯を食っている連中には良く考えてもらいものだ。自ら省みて恥ずべき仕事をしている事はないか、と。