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2008年05月31日

お知らせ


 お知らせ

 今夕から6月4日まで日本を不在にします。
 無事に帰ってくれば、ブログは6月5日から再開します。
 その間は、皆さんが私であれば、不在中はどんなブログを書いていただろうなどと、頭の体操をするのもいいかもしれません。

 

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2008年05月31日

クラスター爆弾禁止に同意した福田首相と毎日新聞の貢献

 クラスター爆弾禁止に同意した福田首相と毎日新聞の貢献

  クラスター爆弾禁止条約案が30日参加約110カ国の全会一致で採択された。最後まで異論を唱え続けていた日本も福田首相の政治決断で一転して賛成することになった。

  クラスター爆弾禁止条約案が採択された事を喜ぶ。それに同意した福田首相の政治決断を歓迎する。

  しかし、私がこのブログで指摘したいのは、当初よりこの条約の重要性を訴え、日本政府に対して前向きな対応をとるよう一貫して主張し、報道してきた毎日新聞の貢献である。

  毎日新聞は「STOPクラスター」という標語を掲げて、毎日のようにクラスター爆弾禁止をめぐる交渉過程を報道してきた。米国に追従して消極的な態度に終始した日本政府の対応を批判してきた。

  その記事を読みながら、私も随分学ばせてもらった。その報道で知った日本政府のあきれた迷走振りを、このブログでも批判してきた。

  私は思うのであるが、この毎日新聞のクラスター爆弾禁止に対する情熱と、その情熱が書かせた記事が、日本政府への目に見えない圧力となって、最後は日本政府を動かしたに違いないと。

 毎日新聞の担当記者たちに乾杯!

  それにしても画期的な条約の成立とそのプロセスだった。

  軍事大国によって支配されている軍縮交渉がまったく機能しない中で、ノルウェーなどの有志国とNGOが、あたらしい軍縮交渉の場(オスロプロセス)をつくったのが07年2月であった。

  当初45であった参加国が15ヶ月で110まで膨らんだ。その背景には国際世論の盛り上がりがあった。

  オスロプロセスの参加をためらっていた日本政府は、世論の圧力に押されるように嫌々ながら参加したが、参加しても水をかけるおろかな役割を果たしてきた。

  そして最後は英、独、仏などの主要国が賛成するようになり孤立した。採択の直前になって、政治決断が下されて賛成に転じたのだ。

  官僚に主導された外交の限界である。

  この条約には、米国、ロシア、中国、イスラエル、インド、ブラジルという軍事大国が参加していない。それを理由に、実効性がないと言われ続けてきた。

  日本政府もそれを繰り返し強調し、消極姿勢を貫いてきた。

  しかし、国際世論を敵に回すような形でクラスター爆弾を保有し、使い続けるこれらの国こそ、世界の大勢から孤立しているのだ。

  これらの国々は、どんなに偉そうなことを言ってみたところで、世界に恥をさらしているのだ。

  これらの国は、一時的にどんなに自らを大国であると誇示してみても、長い歴史の中で、国際世論の良心によって断罪され、そしていずれ自らの誤りを改めざるを得なくなるであろう。

  人類の発展のためには、そうならなければいけない。

  最後に一言、今度は、31日の読売新聞の記事を引用しながら、安全保障問題とは一体何なんだ、という問いかけをしてこのブログを終えたい。

  読売新聞は次のように書いていた。

 ・・・防衛省はクラスター爆弾は日本の安全保障上「有効な武器」であると主張してその禁止に反対してきた。

  すなわち「国土の狭い日本では、敵部隊が上陸してきた場合、すぐに都市部へ侵攻する恐れがある。クラスター爆弾はこうした敵を海岸で一網打尽に攻撃できる」、というわけだ。

  だが、福田首相は周辺に次のように語って、こうした主張を受け入れなかったという。

  今日の日本の脅威は、ミサイルや航空機による攻撃であり、敵部隊の直接の上陸の可能性はきわめて低い。だから「クラスター爆弾は持っていても使えない兵器だ」、と。

  実はこの議論は、今日の日本の安全保障政策全般に言える事なのである。

  冷静に考えれば、5兆円にも上る毎年の軍事予算の中で、本当に必要な兵器がどれほどあるというのだろうか。

  防衛省が安全保障上必要だと主張するクラスター爆弾を、総理は「不必要だ」という政治的判断で一蹴した。

  防衛省が、「それでは日本の安全保障は守れない」、と必死で抵抗した形跡はない。福田首相の判断は誤りであるといって福田首相を引き摺り下ろそうとする政治的な動きはない。

  その程度の安全保障論議で政策が決められるのだ。

  多くの装備が実は「持っても使えない武器」なのではないのか。

  誰かがその議論を正面から行わなくてはならない。

  そういう議論ができる首相が出てこなくてはいけない。

  

  

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2008年05月30日

「小泉構造改革」という言葉を今でも繰り返すメディアの罪


 「小泉構造改革」という言葉を今でも繰り返すメディアの罪

  30日の朝日新聞は、連載経済記事である「変転経済」の最終回(48回)として、小泉構造改革を取り上げていた。

 その記事が言おうとしている事はおおむね次の通りだ。


「 ・・・バブル崩壊後、改革を進められない政府・与党に国民は失望していた。

 そこに登場したのが、「自民党をぶっ壊す」と宣言する小泉純一郎だった。

 その変人宰相を利用する形で学者や経済人らが、自らの思いである抜本的な政策転換を図ろうとした。

 集まった民間人には二つの流れがあった。一つは官僚主導の場当たり的な経済政策に失望していた経済学者ら、もう一つは米国型経営を志向する経営者らだ。

 前者の代表が竹中や八代尚宏(上智大教授)、後者の代表が牛尾治朗(ウシオ電機会長)や宮内義彦(オリックス会長)だ。

 両者に共通していたのは「時代に必要な抜本的な政策転換は、非官僚政権でやるしかない」という思いだった。

  彼らは小泉が首相になる前から勉強会を重ねて小泉氏に考えを吹き込んだ。

  郵政民営化に執念を燃やす小泉氏はそれに共鳴した。

  もっとも、郵政改革しか興味の無い小泉氏と財界・学者のチームとは目指すものは同じではなかったが。

 だから、皮肉にも、小泉改革は、郵政選挙の大勝を機に勢いを失った。小泉の熱が冷め、それが周囲にもわかったからだ。

 宮内は言う。「小泉さんは・・・規制改革や公務員改革ももっと徹底してやらなければいけなかった・・・」

 「戦後体制」を変えようというエネルギーが充満するなかで、小泉改革は歴史的必然だった。だが、政権内にも国民にも、目指す社会像の幅広い合意があったわけではない。

 変人宰相の個性にたよった異端の政権の限界はそこにあった。

 日本はいま、「改革疲れ」と格差社会への不安で、再び漂流を始めたかに見える・・・」

 この朝日新聞の記事は一見もっともに見える。

 しかし、意図的かどうかは不明だが、小泉政治の批判にはまるでなっていない。小泉改革のいかさまに何も触れていない。

 奥田碩という小泉政権の最強の後ろ盾についての言及もなければ、小泉政治の最大の特徴である、売国的な対米従属政策についても一言の言及も無い。

 それにもまして、この朝日の記事の最大の罪は、郵政改革しか中身のない小泉政権5年半を、いまだに「小泉構造改革」と呼んで誉めそやしている事だ。

 しかもその郵政改革でさえ、牛尾氏がこの朝日の記事の中で証言しているように、「田中角栄元首相以来の経世会の利権つぶし」でしかなかったのに、である。

 あの時、国民が求めていたのは本当の意味での改革だった。

 ところが小泉元首相は、5年半も政権をあずかりながら、国民が求めていた改革は何一つしなかった。

 小泉政権下でなされたことは、三流学者や利権目当ての財界人の、米国流新自由主義の導入でしかなかった。

 政策に興味のない無能な小泉首相が、それを放置したのだ。

 小泉政治の本性は、中央集権的な官僚支配を温存、強化する一方で、規制緩和、民営化の名の下に、格差を拡げ、弱者をいじめる政策の導入であったのだ。

 それを小泉構造改革と詐称することはもういい加減止めたほうがいい。

  今年2月上旬、小泉元首相の誘いで、郵政民営化をやった連中が都内のレストランに集まったという。その時の光景を、その朝日新聞が教えてくれている。

 話題はもっぱら改革や郵政選挙に集中したという。

 「民営化できたのは奇跡の塊だ。いや、面白かった。」

 小泉の、オペラを楽しむかのような声が響き渡ったという。

 ここにすべてが集約されている。その小泉が臆面もなく出てきて改革が足りないと叫んでいる。

 我々は失われた5年半を今こそ取り戻さなくてはならない。

 

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2008年05月30日

 アフリカ開発会議を見るアフリカ首脳の声


 アフリカ開発会議を見るアフリカ首脳の声

 私は、28日のブログで、アフリカ開発会議の意義について書いた。

 それは、「意味はあるのだろうが、大騒ぎをして報道するほどのものではない」という程度の会議である、というものであった。

 しかし、会議に出席したアフリカ諸国の首脳の声は、もっと厳しいものであった事が報じられている。

 それらは、どの報道にも、多少なりとも遠慮がちに報じられているのであるが、30日の読売新聞は、今度の会議をもっとも厳しく書いていた。

 外務省幹部は「日本政府主催では最高規模の国際会議になった。日本への信頼感の表れだ」と胸を張る。

 中国は06年に「中国・アフリカ協力フォーラム」に35カ国の国家元首を集めた。日本政府筋は「(それに)見劣りしない数字になった」と安堵の表情を見せた。

 それでは今回のアフリカ会議は単なる出席者数を競い合う会議でしかなかったのか、といわんばかりだ。

 しかも、喧伝された援助予算倍増も、「実態以上に数字を大きく見せる仕掛けが使われていた」とか、温室ガス効果削減目標についても、アフリカの猛反発があって「2050年までに50%削減」という文言を盛り込めなかった、という事実を、明らかにしてくれている。

 しかし、やはりなんといっても、次のようなアフリカ代表の生の声が、正直にこの会議の評価を物語っている。

 「アフリカの将来の成長を支えるのは貿易であり、援助ではない」(南ア・ムべキ大統領)
 「アフリカと日本企業の関係は希薄だ」(ボツワナ・メラフェ副大統領)
 「中国の動きは活発だが、日本のビジネスマンの姿は見かけない」(ルワンダ・カガメ大統領)
 「日本のアフリカ投資の85%がエジプトと南アに集中している」(タンザニア・キクウエテ大統領)
 「実生活で日本の援助の成果を感じたことはない。一般国民は、アフリカ開発会議に期待を抱いていないと思う」(ブリキナファッソ国営放送記者)

 それでも会議は無事に終わった。関係者の苦労をねぎらいたい。

 もっともこれで外務省は当分はアフリカ外交を忘れてしまうに違いない。

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2008年05月30日

 航空自衛隊機の中国派遣にたった一人反対した社民党にエールを送りたい


 航空自衛隊機の中国派遣にたった一人反対した社民党にエールを送りたい


 私は憲法9条護憲論者である。そのことをはっきりさせておいた上でこのブログを書く。憲法9条改憲論者にとっては、このブログは無意味であるからだ。

 中国大震災の救援活動のために航空自衛隊の輸送機が救援物資を運ぶかどうかが迷走している。

 これほど不透明な報道はない。何がなんだかさっぱりわからない。

 報道によれば中国側の要請によって空自のC-130輸送機が救援物資を運ぶ事になったという。

 それが29日の各紙に大きく報道された。

 ところが一夜明けて、中国世論の反発を考慮して取りやめになるという。民間機で運ぶという。

 この顛末をメディアは検証して国民に説明しなくてはならない。

 日本政府が発表しているように、中国政府が本当に進んで自衛隊機の輸送を日本に要請し、それが中国国民の反発を買って取りやめになったのなら、すべての責任は中国にある。

 中国国民と中国政府の間に、認識の大きな食い違いがあり、中国政府が国民の声を読み間違って、国民の声に耳を傾けざるを得なかった、という事になる。

 これは共産党中国の歴史上、大きな事件である。

 しかし、そんなことはまず考えられない。

 そうだとすると、これは日本外交の下手な工作が失敗したという事ではないのか。

 震災援助という名目で自衛隊を使うことを中国が反対しない事を逆手にとって、中国政府の反日政策が変わった、日中関係は福田政権でここまで劇的に好転した、という事を、政府は日本国民に宣伝しようとしたのではないか。

 メディアがその情報操作に加担したのではなかったのか。

 それが、中国国民の反応を見て、これはやばいと日本政府が政策を急転させたのではないのか。

 それにしても30日の朝日新聞の社説には失望させられた。

 「日本の防衛力に警戒心を隠さなかった中国が、日本の救援振りを称賛し、そのために自衛隊機が飛来しても反発は小さいと判断して要請したのであれば、これを対日不信の解消につなげたい、日中関係改善の成果だ」と絶賛しているのである。

 福田政権や外務省が泣いて喜ぶ社説である。

 しかし、この社説を書きあげた後で、日本政府は、中国国民の反応をみて自衛隊機派遣を断念した。朝日新聞は翌日の社説でどう書くつもりなのか。

 いつものとおり前置きが長くなったが、私がこのブログで書きたい事は他にある。

 それは、日本共産党の志位委員長が29日の記者会見で、「自衛隊が救援、救出活動をすることは否定するものではない」と述べていた事についてである。

 私は知らなかったのだが、日本共産党は、「きわめて大きな自然災害が起きたときは自衛隊が海外でも救援活動することを否定するものではない」と態度表明してきたというのだ。「(その方針は)今でも変わりはない」(30日産経新聞)と、29日の記者会見で述べたというのだ。

 私は平和憲法9条を何よりも重視する立場の一人として、この日本共産党の方針に大きな違和感を覚える。

 自衛隊は対外的にはまぎれもない軍隊だ。

 軍隊が他国に進出、滞在する事に対する国民の反発がいかに強いものであるかは、中東をはじめとして多くの国で私は感じてきた。

 当然である。軍隊が他国に進出、滞在するという事は、軍隊の基本的性格上あってはならないことなのだ。

 自衛隊機のほかに選択の余地が無いというのなら話は別だが、テントを輸送するぐらいならば民間機でも十分である。

 それを、「災害救助ならば自衛隊の海外派遣を否定するものではない」、と軽々しく言ってしまう日本共産党は、果たして憲法9条をどこまで本気で守ろうとしているのだろうか。

 30日の産経新聞は、共産党までもが賛成しているのに、社民党だけが反対した、と書いている。

 いいじゃないか、社民党。

 「中国の国民感情も考慮し、反対だ」と28日の記者会見で反発した社民党福島瑞穂党首の言葉が、いま、まさに輝いている。

 

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2008年05月30日

 また出たブッシュ政権元高官によるイラク戦争批判


 また出たブッシュ政権元高官のイラク戦争批判

  今日の報道で私が一番注目したのは、ブッシュ大統領の元報道官であったスコット・マクラレン氏が、6月はじめにも「イラク戦争批判」の回顧録を出版するというニュースである。

  ブッシュ大統領のイラク攻撃の真相が、いかに「始めに攻撃ありき」であったか、そのためには虚偽の情報操作が行われてきたか。

  それはこれまでの米国のメディアや政府高官の告発で、もはや動かしがたい事実として世界中に明らかにされてきた。

 またか、という思いをこのブログの読者が抱いたとしたらそれは間違いだ。

 米国のイラク占領は今でも続き、イラクの混迷が続き、犠牲者は増え続いている。

 日本政府や外務省の対米従属に終始したイラク戦争支援は、今でも日本国民に重くのしかかっている。それどころかそのツケは、ますます国民生活を苦しめる事になる。

 一日も早く米国のイラク占領は終わらせなくてはならない。日本のイラク占領支援はやめなければならない。

 そのためにはイラク攻撃の真実は、いくら検証しても検証し過ぎることはないのだ。

 この回想録は今までの回想録の中でも、最も注目されるものとなるだろう。一番新しい回想録であるというだけではない。

  スコット・マクレランはブッシュ大統領のテキサス州知事時代からの腹心であった。大統領報道官として03年7月から06年4月まで2年9ヶ月もの間ブッシュ政権の「顔」であった。文字通りイラク戦争の説明に終始した人物であった。

  その人物が、「正確な情報公開とはかけ離れた政治的プロパガンダ(宣伝工作)に狂奔していた」、「側近らによってメディアは大統領に都合のいいように情報操作された」、想像力と指導力を欠き、大きな犠牲を強いた大失策」、「欺かれているとは知らずにウソの情報を流し続けた」、などと、イラク開戦を全否定している(30日、産経、毎日)のだ。

  だからこそ、政権末期のブッシュ政権を当惑させ、大統領選挙を前にしての民主党の格好の共和党批判になるなど、米政界に反響が広がっているのである。

  6月始めに発売される「WHAT HAPPHENED(何が起きていたのか)について、日本のメディアはそれを日本国民に紹介しなくてはならない。

 何よりも、いまだに5年前のイラク戦争支持について口をぬぐい続ける日本政府、外務省に対して、日本の検証を求めなければならない。

 この回顧録はブッシュ大統領と小泉元首相に向けられた歴史的審判である。

  

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2008年05月29日

 官僚の高笑いが聞こえる


 官僚の高笑いが聞こえる

  「官僚の高笑いが聞こえる」、と書けば、いかにも官僚が勝ち誇っているかのように傲慢に聞こえる。実はそんなに官僚が傲慢になっている訳ではない。

  ここまで官僚の無能な正体が国民に明らかになってきたきたのだ。官僚は世論の批判の前に戦々恐々としているに違いない。

  しかし、今の政治の体たらくを見ながら、同時に官僚はほっとしているに違いない。

  理由をつけて抵抗すれば、なんとか組織防衛を図れるかもしれない。逃げ切れるかもしれない、と。

  昨今の政治の混迷を見るにつけても、官僚は安堵しているに違いない。自民党と民主党の政争を見ながら、このまま政治の弱体化が進めばいい、と思っているに違いない。

  自分たちも生き残れるかどうかわからないが、自民党や民主党も生き残れるかどうかで精一杯だ。これでは政治が官僚つぶしを本気で出来ない。官僚はそう思っている。

  そういう意味で、官僚の高笑いが聞こえる、と書いたのである。

  それにしても、今の日本の政治では、官僚支配を変える事などはとても出来そうもない。今の政治家の誰一人として官僚組織を改革してみせる意思と能力を持っている政治家はいない。

  国家公務員制度改革法案が衆院内閣委員会で可決された時、渡辺善美担当大臣は涙を見せた。それを見て、メディアの中には渡辺大臣を「良くやった」とほめるものもいた。

  「やればできるではないか」(5月29日の毎日新聞社説)という表現で、今回の国家公務員制度改革法案の可決を喜ぶものもあった。

  しかし、少しでも官僚の実態を知っている者であれば、この改革法案が如何に無意味なものであるかがわかる。

  本質的な改革には手をつけず、定年年齢を延長するとか、採用試験の名称を総合職、一般職専門職に変えるとか、内閣官房に人事局を新設するとか、およそどうでもいいことばかりが決まっただけの改革法案である。

  それでも成立が無理と思われていた法案が成立したのだ。それだけで大臣は感涙し、メディアは「やればできる」と書くのだ。

  そういえば今日の各紙では、この国家公務員改革法案の可決のほかに、地方分権改革推進委員会(委員長・丹羽宇一郎伊藤忠商事会長)の第一次勧告案がまとまったという記事が見られた。

  しかし、この第一次改革案は気の遠くなるような第一歩に過ぎない。これでは本当の地方分権がなされるまでに百年はかかる。

  この調子で行けば、官僚支配が崩壊する前に、間違いなく国民生活のほうが崩壊してしまう。

  それほど公務員改革は進んでいない。その一方で、国民生活の困窮はもはや後がない。

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2008年05月28日

 アフリカ開発会議は意味があるのですか


 アフリカ開発会議は意味があるのですか

 今日から始まったアフリカ開発会議について、私のところへ、メディアや読者から問い合わせが寄せられる。どういう評価をすればいいのか、と。

 それに対する私の答えは単純、明快だ。

 アフリカ開発会議にはそれなりの意味はある。しかし大騒ぎをして報道するほどの重要な外交ではない。

 外務省はここ何ヶ月もの間、メディアや御用学者を使って、このアフリカ開発会議の宣伝に努めてきた。そこまでしなければ国民は理解できない、その程度の会議なのである。

 およそ日本とは利害関係の少ないアフリカの大多数の国を、ここまで東京に集めて会議をする事は、外交というより、むしろ興行だ。ホテルや輸送業者などを喜ばす観光サービスに近い。

 だからといって、それが悪いわけではない。悪いことをしているわけではない。迷惑をかけているわけではない。アフリカの首脳が喜んで訪日し、日本滞在を楽しめば、それだけで立派な外交だ。税金を使ってそこまでする必要があるのか、という批判はもちろん有りうるのだが、それでも日本とアフリカとの友好関係のためには役立つことであろう。

 これだけ多くのアフリカの首脳の世話をする外務省職員にはごくろうさんと言いたい。外務官僚の言うなりになって、すべての首脳と短時間のマラソン会談をすることに応じた福田首相も、お役目ごくろうさん、と言いたい。

 今度のアフリカ開発会議で日本は何を目指しているのか。

 それについては、すでに多くの報道がなされている。

 アフリカへの経済開発援助(ODA)を増やし国際貢献する日本の姿勢を示す、
 アフリカの資源確保のための資源外交を行う、
 国連安保理常任理事国入りを狙ってアフリカ票を獲得する、
 環境サミットを控え議長国としてアフリカの協力を取り付ける、
 中国に負けないよう日本もアフリカ外交を強化する、などである。

 それらは嘘ではない。アフリカ外交を進めるための一般的な理屈づけである。

 しかし、それらの多くは、すでに言い古されてきたアフリカ外交の位置づけだ。私がアフリカ課長をしていた80年代から、そういわれ続けていた。もっとも中国との競争や、アフリカ諸国との環境外交などは、当時は無かったけれど。

 問題は、それらの目的が、なぜ今までのアフリカ外交で達成されていなかったのか、ということだ。
 それを、今度のアフリカ開発会議ですべて達成される筈はない。

  そもそもアフリカ諸国の窮状は、英仏をはじめとした欧州列強の植民地政策の落し物である。

  そして今でもアフリカ諸国の大部分は旧宗主国との結びつきが大きい。

  アフリカ問題の解決は、一義的には旧宗主国である彼らの責任なのである。

 日本がそれに協力する事はもちろん結構なことだ。しかし、日本が単独でそれを行うには問題が大きすぎるし、また日本一国でなしうる事業ではない。

 それに、アフリカ開発会議をいつも日本で行なわなければならない必然的理由はない。その巨額な予算を使って、アフリカのどこかの国で行ったほうが、アフリカのためにもなるし、日本の首相にとっても親近感を持たれるに違いない。

 遠方より来日したアフリカの首脳と、わずか15分程度の会談を、官邸ではなくホテルで行う事を、非礼と思わないのであれば、それは援助供与国の思い上がりである。

 中国と競い合うのはいい。しかし中国のまねをする必要はない。中国は日本とは異なる体制の国だ。外交目標もおのずから異なる。日本のやり方で競えばいいのだ。

 アフリカ諸国はよく見ている。中国と日本とどちらが自国のために本当の協力をしてくれているのかと。アフリカの心をいかにつかむか、動かすか、ということで、中国と真剣に競いあえばいいのだ。

 外務官僚は本気になってアフリカ外交をしているのか。それはわずか15分の首脳会談でも、その内容を見ればわかる。

 28日の産経新聞はするどく指摘していた。福田首相が27日にルワンダのカガメ大統領と会談した際、両首脳とも、日本が派遣したルワンダ難民救援隊の人的貢献に一切触れなかったと、次のように日本外交の知恵の無さを嘆いているのだ。

 日本政府は内戦で追われたルワンダ難民支援のため、国際平和協力法に基づき自衛隊を送り込んだ。日本主体の人道的な救援活動として最初の例だった。しかしこの日の首脳会談では福田首相は汗を流した自衛隊に関して言わずじまいだった。また、カガメ大統領からも、日本の支援への謝意表明はなかった。
 アフリカへの外交攻勢をかける中国はアフリカでの国連平和維持活動(PKO)に約1300人派遣しているのに日本は現在ゼロ(ただでさえ影が薄くなりつつあるだけに)首脳会談で自衛隊の活動への言及がなかったのは残念だ。

 その通りであると思う。

 アフリカ要人の送迎で手一杯の外務省であろうが、少なくとも首脳会談の発言振りについては真剣に考えたほうがいい。外務官僚はこの産経新聞の指摘に謙虚に耳を傾けるべきであると思う。

 

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2008年05月27日

 見過ごせない小泉純一郎氏の言葉


 見過ごせない小泉純一郎氏の言葉

  本日発売の写真週刊誌「フラッシュ」(光文社)に小泉純一郎氏の見過ごせない言葉を見つけたので紹介する。

  5月22日に行われた、佐藤ゆかり衆議院議員の応援のための講演会での発言であるという。

  その言葉は、格差社会に話が及んだときに出てきた言葉であるという。

 ・・・いま、ホームレスの人もよく見かけますけども、もし東京でも、北海道でも、沖縄でも、全国、ホームレスが「もーう、外で寝るのは飽きた」、「たまにゃあ、うちの中で寝たい」、「風呂に入りたい」って言って、各市町村なり区役所に行けば、どの人も、全部住宅を世話する。洋服も世話する・・・(略)しかし、「きちっとした生活はヤダ。やっぱり野原で寝たい」という人を止めるわけにはいかない・・・

   意味不明なこの言葉の根底に流れている小泉氏の意図するところは、好きでホームレスをやっている連中の面倒までは見られない、という事である。

   なぜこのような重大な発言をメディアは報じなかったのか。小泉氏の政局がらみの与太話はこぞって取り上げるメディアが、この問題発言を意図的に報道しなかったのであれば、それは作為的な情報操作である。

   写真週刊誌「フラッシュ」はこう締めくくっている。

 ・・・ホームレスに対してのこの論評は、格差社会の「生みの親」として、軽口の度を超えていないか。

   当然の意見である。

   もしこの小泉発言が大きく全国紙で報道されていたならばどうだったであろうか。

   今からでも遅くない。低賃金で酷使されている若者たちよ。小林多喜二の「蟹工船」を読むのもいいが、こんな暴言を平気で口にするこの国の元首相に対し、いますぐ抗議の行動を起こすべきだ。

   

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2008年05月27日

見過ごせない曽野綾子氏の言葉


 見過ごせない曽野綾子氏の言葉

 人の言葉の揚げ足を取るつもりはない。しかしどうしても見過ごせない言葉であったので紹介しておきたい。

 曽野綾子という作家が産経新聞に連載しているものに、「透明な歳月の光」という随筆がある。

 5月26日の第289回のそれは、植物と「後期高齢者制度」というものであった。

 どういう結びつきなのだろうと読み始めて、それが「後期高齢者制度」を変えないと頑張っている福田政権を援護しているものであることに気づいた。

 「後期高齢者制度」に怒っている多くの後期高齢者に対して、「もうすぐ死んでいく身分だから、ガタガタ騒ぐな」、と言っているのだ。

 さすがは作家である。そのような直裁的な物言いは巧みに避けている。しかしその意図するところは明らかだ。

 「私は人生の半ばに視力を失うかもしれないという危機があった頃から、突然、植物を育てる趣味を持つようになった・・・」という文章からはじまるその随筆は、その殆どが植物を育てる愛情あふれるエピソードに費やされている。

 ・・・・日本ではケヤキ、クス、モミジ、フジなど、どれを取ってみても数十年、数百年という寿命を持っている。しかし、我が家にある外来種は、数年で若い株を分け、挿し木で増やし、古い部分をさっぱり切ると、下から若い部分が旺盛に伸びてくる、という原則を繰り返すものが多い・・・

 とここまで書いたあとで、随筆の最後の6分の1あたりに、次のようなこの随筆の本音の部分が現れてくるのだ。

 ・・・庭の手入れをしながら、私はいつも、古いものは取り除かれ新しい命に譲る、生の継続と繁栄の姿を見ている。
   すると、「後期高齢者」などという制度や呼び名に腹を立て、「老人に死ねというようなものだ」などと怒ることもなくなるだろう・・・

 あまりにも強引なこじつけである。後期高齢者医療制度の問題は、このようなたとえ話と一緒にして葬り去ってしまう問題ではないことぐらい、曽野綾子氏も知っているはずである。

 それにしても、かねてから私が思ってきたことであるが、曽野綾子氏は不思議な人物である。みずからキリスト教徒を自認している氏が、その伴侶である三浦朱門氏ともども、ここまで骨の髄まで沁みこんだ保守、エリート主義の強者の論理に立てるものだ。

 もっとも、キリスト教そのものが、支配者に都合のいい、人間は原罪を背負っていると、皆に思い込ませる、弱者いじめの宗教であるという説もあるのだが。

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2008年05月26日

裁量と言う名の権力の濫用


 裁量という名の権力の濫用

 最近はかなり指摘されるようになってきたが、この国は内閣官僚制であると言われる。

 つまりあらゆる政策のもとになる法律は、建前では政治家が国会で審議、採決して成立する事になっているが、実際は立法の殆どは関係省庁の官僚がつくり、政治家はその中身を理解することなく、数あわせで賛成し、官僚の法律づくりに寄与しているのだ。

 そのいい例がたとえば今話題になっている年金や後期高齢者医療制度の法律なのである。

  ところが、もう一つの官僚の大きな権限についてはあまり語られることはない。それは法律を適用、運用する際の、官僚に与えられた裁量権である。

 どんな立法でも、必ず主管官庁の裁量権にゆだねられている部分がある。言い換えれば官僚は立法を起案する際に、必ず自分たちの裁量権を確保する文言を付け加えることを忘れない。

 そしてその範囲が大きければ大きいほど、官僚の民間に対する影響力が大きくなるのだ。

 問題は、この裁量権の範囲が実に曖昧で、相対的なものであるということだ。もっとはっきり言えばいい加減なのだ。

 その一例を私は25日の産経新聞に見つけた。

  森本充という記者の手になるその記事は、サイレンを鳴らして緊急走行するパトカーや捜査車両が、速度交通違反で摘発されるケースが最近相次いで起こり、捜査員に戸惑いが広がっているという記事である。

  道路交通法施行令では「緊急自動車」の最高速度は一般道80キロ、高速道100キロであるという。だからこれ以上の速度で走れば、パトカーでも法令違反になる(警視庁交通総務課)。

 しかし、猛スピードで逃走する犯人の車を追跡する場合、当然、その規定は弾力的に運用される。その根拠となるのが、違法性を免除する刑法35条の「正当行為」の適用だ。速度超過の必要性が説明できれば、速度違反に問われることはないという。

 ここまではいい。

 問題は各県の県警レベルで、捜査車両がスピード違反を犯したとみなして反則切符を切るケースが、まるでバラバラであるという実態である。

 産経新聞の記事によれば、こうした矛盾が生じるのは、速度超過をめぐる正当行為の認定に判例や基準がないためだと言う。

 警察内部でも捜査サイドと交通サイドで足並みはそろっていないという。

 そしてこの問題は、誰もが矛盾を感じながら、なんの改善策もなされないままであるという。

 このスピード違反問題は、警察内部の問題であるから笑って済ませられる。

 しかし、それが一般国民に適用される法律の場合であったらどうか。

 おそらく国民の生活や経済活動を規制する法律の中には、行政の裁量でどうとでも解釈できる部分が多くあるに違いない。

 そして、その裁量基準も、このスピード規制の裁量と同様に、行政担当者の間にも確たる基準がないままに放置されているものが多く存在するに違いない。

 腹立たしい経験をした事のある国民もいるに違いない。

 国民は、最後は行政訴訟に訴えて、損害賠償なり処分取り消しを図る事が出来る事になっている。しかしそんな面倒なことは普通はしない。おかしいと思いながらも無き寝入りすることになる。

 官僚が国民を支配するという事は、単に法律を作って規制することだけではない。法律の適用、解釈において絶大な裁量権を持って、国民生活を支配しているのだ。

 官僚の裁量権については、それが濫用されていないか厳しくチェックされるシステムが必要である。

 

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2008年05月26日

「 国会で審議をつくせ」と主張することの嘘


 「国会で審議をつくせ」と主張することの嘘

  ねじれ国会の弊害を強調する与党やその支持者は、決まって野党の審議拒否をなじる。

  なんでも反対するのではなく、対案を示せと要求する。

  さらには政局ではなく政策を語れと言う。

  これらに共通する考えは、国会は審議をする場所であり、政治家は国会で論戦を行うべきである、という考えである。

  空転国会を繰り返すような政治家は、政治家としての本来の責務を放棄することだ、という。

  それは一見すれば正論に聞こえる。

  しかし今の日本の国会審議の実態を知っている者にとっては、笑止千万な主張である。

  そういう事を主張する者やメディアは、知っていながらそう言っているのだ。

  官僚を経験した者であれば、今の日本の国会審議の八百長振りを知ってる。

  明治以来の国会審議の中で、かつてはどうであったかは知らない。しかし少なくとも私が官僚を経験した1970以降の国会は、すべて官僚の書いた答弁を大臣が読み上げるのが国会審議であった。大臣が答えに詰まると、官僚が出てきて替わって答弁するのが国会審議であったのだ。

  国会会期中の官僚の主たる仕事は、質問する国会議員から事前に質問内容を聞いて、大臣のために答弁を書く事である。

  そして、国会審議の直前に、大臣を交えて即席の勉強会を開き、そこでどう答弁するかを振付けることである。

  難しい質問であればその野党議員のところへおしかけて交渉をする。どういう答弁をすれば野党議員に華を持たせることが出来るか。そして納得して引き下がらせることが出来るか、そのシナリオまで野党議員と打ち合わせるのだ。

  だから私は国会答弁などすべて八百長だと言ってきた。

  ところが、私だけではなく、国会事務局の職員たちまでもがそう証言している事を知った。

  26日の読売新聞の書評欄である「論壇」で、時田英之記者が、月刊誌「論座」編集部による「脳死国会」の中において、国会事務局の人たちが次のように述べていた事を紹介していた。

 「国会は議論の場であり、与野党が真剣な議論を闘わせて最善のものを作りだしていく、というのは幻想」である、
 「与野党の議員の職責はいかに自分たちの主張が正しいかをアピールすること」である、

 と喝破しているというのだ。

 そう言われてみて、確かに「なるほど」と頷いた。

 国会審議とは、テレビの政治討論番組と同じように、自らの政党の主張の正しさを宣伝する場でしかない。そこで見られるのは、何が国民にとって正しい政策であるか、という事ではなく、屁理屈を並べ立ててもいいから、強引に自分の政党の立場を擁護、宣伝する事なのである。

 テレビの政治番組がそうであるように、国会審議もまた、野次と言いっぱなしの一方的な言説の応酬でしかないのだ。

 このような国会審議に意味があるはずはない。

 いっそのこと国会審議は、あらゆる法案について、その採決に賛成か反対かと言う、賛否決定の場に徹底したほうが分かりやすくていいぐらいなのだ。

 今の日本の政治は、政権をとるかとらないかの政局がすべてなのである。

 そう割り切れば腹も立たない。政策論争などどうでもいい事になる。

 

 

  

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2008年05月26日

情報独占の時代から情報共有の時代へ


 情報独占の時代から情報共有の時代へ


 26日の産経新聞で、IT企業家の梅田望夫氏(米ミューズ・アソシエイツ社長)が、先般のマイクロソフトによるヤフー買収騒動について、重要な指摘をしていた。

 それはこの買収騒動の成否についてではない。その騒動の裏で梅田氏が印象深く観察した、「情報共有の重要性」についてである。

 梅田氏は、マイクロソフトやヤフー、グーグルのCEO(最高経営責任者)が、節目にあたる重要なタイミングで、買収交渉状況を説明する手紙を全社員にあててメールで配信し、その全文がネット上のニュースや新聞でも取り上げられていた事について、次のような指摘している。

 ・・・オープンなインターネットの存在を当たり前のものとして育った若い世代には、誰かと協力して何かを成し遂げようとするときに、情報を可能な限り全員で共有しようという風通しのいい文化がある。モチベーションの高いメンバーがすべての情報を共有すると、もの凄いスピードで物事が進み、それが大きなパワーにつながるし、イノベーションも生まれやすくなる・・・
私たちが慣れ親しんできた「組織の仕事」とは、大組織になればなるほど、重要な情報はほんの一部の人によって占有され、組織全体で何が起きているかをほとんどの社員は知らないのが普通である。組織運営もそのほうが格段に楽であった。
    しかし今は経営者の意思次第で、社員全員とすばやくどれだけでも情報を共有できる道具立てがそろっている・・・組織内情報共有のあり方は、企業の創造性を左右する死活問題となった・・・私たちはそんな時代を今生きているのである。

  情報公開の重要性、真実を知ることの重要性を訴えることは、私のブログの主目的の一つである。対等な情報を共有することは、あらゆる論争の出発点であると思うからだ。権力者の誤りを誰でも指摘できる事により、政策の適否に鋭く迫れるからだ。

  だからこそ、悪いことをしている権力者は情報を制限し、情報操作をして権力維持に血道をあげるのである。

  梅田氏の指摘は、もちろん将来の企業論を説いているのである。

  しかし企業論とは組織論でもある。そしていま組織論をもっとも問われているのは、政府であり官僚組織なのである。

  インターネットによる情報共有力を正しく活用することによって、情報を独占して国民を支配してきた国や官僚組織であった。

  しかし、そんな企業主に対し、徒手空拳の国民(社員)が改革を迫ることの出来る時代になりつつある、そういう時代にしなければならない。

 そういう事を教えてくれる梅田氏の重要なメッセージであると私は興味深く読んだ。インターネット時代をどう正しく政治に活かすか、ということである。

 

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2008年05月25日

 新聞の社説を批判的に読む事の勧め


 新聞の社説を批判的に読む事の勧め

 読者の皆さんは新聞の社説を読んでいるだろうか。読んでいない人は読むことを勧める。読んでいるいる人は、それを常に自分の考えと比較して読むことを勧める。

 そして、ここからがこれから書くブログの趣旨であるのだが、もし自分の考えと社説の考えが違っていた時は、自分の考えが正しいと思って、新聞の社説を批判的に読む事を勧めたい。

 かつて外務省の某OBは、イラク戦争がはじまった頃に行われた東京大学のシンポジウムにおいて、北岡伸一や田中明彦といった御用学者がイラク戦争を支持するしかない、といった言説を繰り返していた事に言及し、「昔だったら、東大教授がそう言っている以上、それで世論は納得したのに、今は世論が言うことを聞かなくなった」などとぼやいていた事があった。

 そこまで国民はなめられているのだ。東大教授の言うことだけではなく、新聞の社説まで世論が「もっともだ」と従うようでは、ますます国民はなめられてしまう事になる。

 新聞記者になるような人たちは一応エリートである。難関を経て採用されるから、少なくとも記者たちは「自分たちはエリートだ」と自認しているに違いない。

 ましてや社説を書く記者は幹部になるような人たちだ。その幹部記者たちが衆議をこらして書くのが社説であるから、社説はもっともな論説であると考えるのが普通の考えであろう。

 ところが社説には一つの大きな制約がある。それはその新聞社の政治的スタンスを色濃く反映するものであるという事だ。論説委員、編集委員の意見が社の方針と異なれば、変えさせられるのだ。

 もう一つの留意点は、そしてこれは比較的新しい傾向であるのだが、なぜか新聞記者たちが、自分たちはエリートである、権力者と友達である、という自意識を持つようになったため、社説そのものが国民世論の認識とかけ離れた、権力者寄りのものになりつつあるという事である。

 その格好の例が後期高齢者医療制度に関する社説である。

 25日の毎日新聞が、「社説ウオッチング」という特集記事で、後期高齢者医療制度に関する各紙の社説を読み比べていた。これは実にタイムリーで有意義な記事であった。

 私もかねてから気づいていたのであるが、社説のほとんどが後期高齢者医療制度の廃止を訴える民主党を批判しているのだ。国民の圧倒的多数がその廃止を求めているのにである。

 産経新聞や読売新聞が「野党は無責任だ」と批判していたのには驚かない。この二つは社是として自民党政権を擁護する役割を担っているからだ。

 しかし、産経新聞や読売新聞と対極にあるとされている「リベラル紙の雄」とみなされていた朝日新聞までもが、野党は財源問題を逃げるな、といわんばかりに、「制度を元に戻せと言うだけでは問題は解決しない」と、新制度の骨格は維持すべきだという自公政権が喜びそうな主張を展開していた。

 わずかに東京新聞が、「低所得者層ほど不利な構造の是正を急ぎたい」(5月2日)として、後期高齢者医療制度の問題点を指摘している程度だ。

 そこで毎日新聞である。

 毎日新聞は社の方針を一つにまとめて社説を書くという方針をはやばやと放棄してしまっている。記者の意見を尊重し、それをそのまま掲載することによって、読者の判断に任せるという方針を採ってしまった。

 その毎日新聞の25日の社説は、森嶋幹夫論説委員の手になる社説であった。森嶋論説委員は、「新制度への反発は、政治に対する高齢者の『反乱』であると認識すべきだろう、とその社説を締めくくっていた。世論の側に立った正論である。

 

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2008年05月25日

沖縄問題が解決しないのは、本当の事が知らされていないからだ

 
 沖縄問題が解決しないのは、本当の事が知らされていないからだ

  「知らぬが仏」という言葉がある。英語にも同じような言葉がある。「無知は幸いなり」(ignorance is a bliss)である。

  古今東西を問わずこの言葉には真理がある。知らなければ怒ったり、悩んだりしなくて済むからだ。知ったところでどうすることも出来ないのならば、いっそ知らないほうが楽である。

  しかし、国民がそのような受身に終始してしまえば、世の中はいつまでたっても変わらない。為政者の悪は、それをいいことに増長していく。

  だから、つらくても真実を直視しなければならない。自分に直接関係がなくても、無関心でいることは危険な事なのである。いずれ自分の身にも悪政の結果が及んでくる。

  25日の朝日新聞に学ぶところがあった。私が知らなかった沖縄問題の本質を発見した。

  沖縄問題がいつまでたっても解決しないのは、我々が本当の事を知らないからだ。

  朝日新聞編集委員の片岡秀俊氏が、仲井真弘多、稲嶺恵一、大田昌秀の歴代沖縄三知事にインタビューをして、その言葉を紹介していた。

  復帰36年たっても米軍基地の75%が集中する沖縄の現状が変わらず、日米合意から12年過ぎても普天間基地返還は一向に進まない。

  この現状をどう見るか、という質問に、これら三知事がどう答えていたか。

  いずれの知事も沖縄の負担軽減を望む点では一致する。それは沖縄県の知事としては当然である。

  しかしそのような一般論を一歩進め、普天間基地の移転問題をどうするか、という各論になると、問題の本質が俄然浮き彫りになる。

  仲井真知事は、県内移転はやむを得ないが、問題は「沖縄県や地元も合意した普天間の代替案(辺野古沖合案)を、稲嶺知事の頭越しに政府が勝手に変更したため」であると、あくまでも地元の了解と納得を強調する。

  その稲嶺知事は、「代替施設の固定化は絶対避けたい」との思いで「代替施設使用期限15年」を主張し、「その実現に力を尽くした」事を強調する。しかし「県と市町村、漁協まで一致した沖合案が変更になり、難しくなった」と、政府の進め方が問題だったと答えている。
  基地の固定化には反対だとしている点で仲井真知事より沖縄県の負担軽減を強く訴えてはいるが、その姿勢は同じだ。基本的には政府との条件闘争に過ぎない。

 これに対し、大田知事の発言は、沖縄問題に関する本質論を、次のように私に教えてくれた。

 ・・・県内移設にノーといったのには、二つの理由がある。
   一つは今回の代替施設(案)が、米軍が60年代に作った計画によく似ていた(からだ。すなわち米国は)本土復帰で沖縄に安保条約が適用される前に、嘉手納以南の基地を辺野古周辺に集約する計画だった・・・これは米軍が望む基地強化にほかならない。
 もう一つは米会計検査院の報告が、日米政府の言い分と異なっていた点だ。米会計検査院によると代替施設は運用40年、耐久200年の設計だという。これは基地の永続化である・・・

  大田知事のこの指摘が正しければ、日米両政府は示し合わせて、沖縄県民、日本国民の無知につけ込んで、基地の機能強化、固定化を図ろうとしていたと言うことである。しかもその経費の多くを負担させられる形で。

  日米軍事同盟が重要だと考える人がいてもいい。
 
  政府がそれを国民に説得するのもいい。

  しかし堂々と真実を述べてから国民にその是非を問うべきである。

  決して小泉元首相のように「負担軽減と抑止力の確保」の両立だ、などという矛盾したワンフレーズでごまかせばいいというものではない。沖縄問題はもっと深刻な日本国民全体の深刻な選択の問題なのである。

 ちなみに沖縄問題に関しては、00年7月16日の琉球新報が、68年11月の沖縄知事選(主席公選)において、自民党候補者を勝たせるためにCIAが選挙資金を援助するという裏工作をしていた、と報じていたという。

 週刊文春の02年8月15・22合併号は、CIA工作費2、000万円の授受を担当していたのは若かりし頃の小泉元首相であるという関係者の証言を掲載していたという。

 これらの報道が、一過性の単なる報道であると見過ごされてはならない。沖縄問題を考える上で、その史実は是非とも明らかにされなければならないのだ。

 真実を知れば知るほど日米軍事協力の裏にはおかしい事が行われていたとなれば、それはやはりおかしいのである。間違っているのである。

  

 

 

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2008年05月24日

官僚の強さの源泉は、国民の批判を無視できる傲慢ぶりである

   官僚の強さの源泉は、国民の批判を無視できる傲慢ぶりである

   いまや、政治家も、財界の重鎮も、官僚批判をはじめるようになった。世の中は官僚批判の大合唱である。

   官僚のお友達は、そこから情報を安易にもらうメディアや、官僚に重用される御用学者ぐらいのものだ。

   それにもかかわらず官僚がへこたれている風情はまったくない。公務員志望者は後をたたない。

   なぜだろう。

   その一つの答えを、24日の朝日新聞土曜版でルポライターの横田由美子氏が教えてくれている。

   「読み解く」というコラムの中で、彼女は次のように書いているのだ。

  (守屋疑惑をはじめ次々と起きた防衛省の不祥事に言及した後で)
  ・・・だが、対応にあたる現場キャリアは、悲鳴を上げる一方で、まるで不祥事を一流官庁への「洗礼」と受け止めるような声が少なからぬ若手から聞こえるのも事実である。
  「今を乗り切れば、防衛省のステータスは一気に高まるかも知れません・・・」
  ・・・なぜ不祥事でステータスがあがるのか。彼は「先輩の例」をつぎのように理由にあげた。
  「厚生労働省を見てください。前次官が収賄容疑で逮捕され、マスコミで『おねだり妻』などとたたかれましたが、結果的には知名度も上がったのです。その後も不祥事ばかりだが、霞ヶ関では意外と人気の就職先になっているじゃないですか」
  それを聞いて、私は、厚生労働省の幹部がこんなことを言っていたのを思い出した。
  「社会保険庁の職員の流出が確かに問題になっているけど、むしろ本省ではここ数年、質の良い新人を採用できている」
  ・・・(幹部も若手も)あまりに国民感情からかけ離れた言動に、やりきれなさを覚えた。

  この随筆を書いているルポライターの横田由美子氏は、「私が愛した官僚たち」(講談社)という本を書いているほどの、キャリア官僚びいきのライターである。

  その彼女でさえ、国民意識からあまりにもかけ離れた官僚の実態を嘆きはじめたのだ。

  国民意識からかけ離れた官僚。それはもっと正確にいえば、最初から国民を無視する傲慢さ、国民とは別世界に住んでいる異邦人ぶり、という事である。

  元官僚として、先輩、同僚、後輩官僚を見てきた者として、はっきりと断言する。

  本当に優秀な官僚や、良心的な官僚は、その現実に失望して転進していく。

  本当に優秀な若者ならば、ここまで官僚の実態が明らかにされているのに、いまさら官僚などこころざしはしないだろう。

  問題は、なまじ自分は偉いのだと思い込んでいる二流どころの優秀な官僚が居直って、組織改革どころか、必死になって組織防衛、権限拡大にエネルギーを傾注している事だ。

  若いくせに、権力志向、天下り志向の、官僚二世や、ひねた功利主義者の若者が、「それでも官僚だ」と公務員試験をめざすのだ。

  そういう、国民の意識から乖離したそういう連中ばかりで構成される官僚組織はしぶとい。世の批判になど馬耳東風で、不祥事さえも、ほとぼりが冷めれば利用する厚顔さがあるからだ。

  かくして官僚組織は永遠に生き残って、反国民的政策をどんどんと推し進めていくであろう。

  日本にとって不幸な事である。

  

  

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2008年05月23日

 異常な原油高がなぜ放置されるのか

 異常な原油高がなぜ放置されるのか

   ここにきて原油の高騰が異常なスピードで加速している。

   その背景には、一方において中国をはじめとした新興国や米国の需要増加があり、他方において、サブプライムローン問題で行き場のなくなった投機マネーが流れ込んだという説がもっぱらだ。

   しかし、理由はどうであれ、原油の高騰は世界経済に打撃を与える。特に開発途上国や中小企業、消費者など、いわゆる弱者に与える打撃は大きい。

   なぜ、主要国の指導者は一致団結して対策を講じようとしないのか。対策を講じようにも、どうしていいか誰も分からないのか。それとも今の原油高で潤っているものたちが、意図的に原油高を図っているのか。

   この点こそ追及し、真相を突き止め、情報公開されなければならない。誰かがそれを行わなければならない。

   しかしながら、政府も、メディアも、有識者も、まるでひとごとのような受け身の姿勢に終始している。

   政府は様子見を決め込み、企業は原油高を前提とした対策を講じざるを得ないという。メディアに至っては「省エネで活路を見出せ」と書く始末だ(23日読売社説)。

   それと好対照なのが73年の第一次オイルショックの時の主要国の対応である。

   当時は開発途上国の資源ナショナリズムが燃え盛り、産油国が結束して石油価格を1バレル3ドルから12ドルに急騰させた。

   それにあわてた先進主要国は結束して対決姿勢を打ち出した。それがサミットが設立された本当の理由だったのだ。

   時を同じくして主要消費国は国際エネルギー機関(IEA)を作って、節約・備蓄、相互融通スキームの作成、新エネルギーの開発を三本柱にして産油国と対決姿勢を示した。

   主要国が本気でギャングアップすれば産油国のカルテルなどひとたまりもない。

   その効果はてきめんにあらわれ、やがて石油がだぶつき一時は40ドル近くまで高騰した価格は15ドルぐらいまで下落し、低迷した。

   その後78年には第二オイルショックがおきて再び原油は高騰したが、それでも、原油価格は変動を重ね、少なくとも2007年はじめの時点では1バレル50ドルを割り込んでいた。

   それがわずか1年あまりで130ドルだ。やがて150ドルに届く。これは異常だ。

   いくら投機であるといっても、いや投機であるからこそ、健全な経済活動の回復のためにも、そして世界の弱者救済のためにも、世界の指導者は結束して手を打つべきではないのか。

   そうならないのは、それを望まない力が働いているからだ。原油高騰でぼろもうけしている勢力があるからだ。

   サブプライムローン問題で明らかになったように、いまや世界の富は、金融工学と言う詐欺まがいの錬金術によって一極に集中し、その金が世界を動かすようになっている。

   人の命もモラルも戦争も、なにもかも、巨大な富に目がくらんだ限りない人間の欲望に支配されようとしている。

   誰かがそれに待ったをかけなければならない。弱者のために立ち上がる強者が現れなくてはならない。本当の事を人々に教え、大衆を正しく導く指導者が現れなければならない。
 

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2008年05月22日

通訳御用掛が残した昭和天皇のお言葉


 通訳御用掛が残した昭和天皇のお言葉

 昭和天皇の通訳を長年務めた真崎秀樹という外交官がいた。真崎氏は私が昭和44年に外務省に入省した時の英語の先生であった。
 
 その真崎氏が、天皇陛下が各国要人と交わされた会話の詳細を残していた。

 その記録をジャーナリストの徳本栄一郎氏が入手して、今日(22日)発売の週刊文春5月29日号にその一部を発表、解説している。

 それによれば、昭和天皇は明晰・沈着であり、各国要人の、時としてあからさまな質問や当惑するような語りかけについて、政治的発言はあえて行わないという自覚の下に、あるいは無視したり、あるいはあっさりと受け流したりして、的確な対応をされた、という。

 しかし、そんな昭和天皇でも、時としては思いがけないほどの踏み込んだ発言をなされていた。

 週刊文春の記事の中で私が注目したのは次の二つの発言である。

 一つは1979年10月22日のシンガポールのリー・クアン・ユー首相との会談である。
 リー首相は、中国と日本の両文明を比較して、中国文明は閉鎖的だが日本文明は開放的だ、朝鮮は日本に支配されてよかった、などと話しかけたという。
 日本は韓国に対して植民地支配を謝罪するばかりが能ではない、と、最もデリケートな歴史論争を昭和天皇に挑んだのだ。
 これに対し昭和天皇は、完全に無言で通したという。「何も聞こえなかったかのように振舞われ、何も言われませんでした」と真崎は回想したという。このとき天皇陛下がどのような発言をしようとも、その言葉は大きな意味を持つことになったに違いない。あえて黙殺した昭和天皇の対応は見事だ。

 その一方で、昭和天皇は、共産主義の封じ込めに関しは、驚きべき踏み込んだ政治的発言をしている。
 1959年12月25日にシンガポール駐在の英国高等弁務官であるロバート・スコット氏と会談した際、天皇陛下はインドネシアにおける共産主義の状況を積極的に質問をされている。
 1962年1月11日に米国のアチソン元国務長官と会談した際は、「あなた(アチソン)の努力でカンボジア・タイ・ベトナkムの関係が改善すればアジアの平和にとてもよい事でしょう」と答えている。米国による共産主義の封じ込めを評価する言葉である。
 また天皇陛下は、1962年3月9日にはデヴィット・ロックフェラー、チェース・マンハッタン銀行頭取(当時)が始めて日本を訪れて天皇陛下と会談した際、ロックフェラーが「フィリピンでは共産主義の脅威が収まり、徐々に経済も回復しているようです」と話したのに対し、「それを聞いて嬉しく思います。日米の協力は両国だけではなく、世界平和に極めて重要だと思います」と答え、「米国、欧州、日本が緊密に協力すれば、ソ連と中国の前進を阻止できるでしょう」とロックフェラーが言えば、「私もそう思います」と答えたという。共産主義の封じ込めで昭和天皇は米国と完全に一致していたのだ。

 徳本は週刊文春の記事を次の言葉で結んでいる。

 ・・・天皇が各国要人と交わした会話は現代史そのものと言ってよい・・・特に、戦後の一時期、昭和天皇は本気で共産主義の台頭を危惧し、海外共産勢力について、あらゆる機会に情報収集されていた点は興味深い。

 徳本の言葉遣いは慎重であるが、日本が米国との関係を最優先してきた理由はここにもあると言うことである。


 

 

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2008年05月22日

宇宙基本法の成立に思う


 宇宙基本法の成立に思う

 消費者庁設立の素案が一斉に大きく報じられた22日の各紙において、もう一つ一斉に報じられた法案があった。しかもそれは素案ではなく、成立した法律として。

 それは宇宙の軍事競争を解禁する宇宙基本法である。

 「宇宙の平和的利用」については、私には個人的な思い入れがある。

 法学部の学生の時、始めて手にした田畑茂二郎の「国際法」の教科書の中に、これまでの国際法の対象は国家と領土であったが、これからは個人と宇宙も対象となっていく、というくだりがあった。

 その中でも、宇宙について触れたくだりでは、宇宙は南極と同様に領土という概念が凍結され、すべての国家に平和的に開放されなければならなくなる、と書かれていた。

 正確な記述はあらかた忘れたが、宇宙という無限の広がりと、その宇宙を平和と結びつけるこの考え方に、漠然としたロマンを感じたものであった。

 それから40年以上たった今日、平和憲法9条を誇る日本が、宇宙を軍事目的で利用する法律を堂々と成立させるようになったのだ。残念でならない。

  この宇宙基本法の是非について、ここで論ずるつもりはない。しかし、次の点だけは強調しておきたい。

 まず、この宇宙基本法の成立は重大な憲法違反の法律であるという点だ。
 すべての法律がそうであるように、字面を読む限りでは本当の事は何も分からない。第一条に「憲法の平和主義の理念を踏まえて」と謳っているから問題はないと強弁はできる。実際のところ、直嶋民主党政調会長などは、「憲法の平和理念に基づき取り組む事(が法案に入った事)も民主党の要請だ(22日読売)と成果を強調している。
 しかし、これは言い逃れだ。高度に攻撃的なミサイル兵器を宇宙に配備する事を認めるこの基本法は、専守防衛の憲法原則に正面から反する。

 次に、このように明確な憲法違反の法律が、衆参両院合わせてたった4時間の国会審議で成立したという事実である。
 この国の国会は、そして護憲政治家たちは一体何をやっていたのか。
 たしかに、平和や護憲を叫ぶ共産党や社民党は票決に反対した。国会審議でも反対の意見を述べていたに違いない。
 しかし、どこまで本気になってこの法律の成立阻止を国民に見える形で訴えてきたかの疑問は残る。その訴えはまったく国民の目には見えないのだ。

 加えて、メディアがこの基本法の危険性を殆ど報道しなかった。今回の法律成立にさしても、わずかに22日の朝日新聞がその社説で違憲性を指摘し、宇宙にまでミサイル防衛システムを広げることへの経済負担の大きさを書いているだけだ。
 それどころか、メディアは、これ以上宇宙における世界的軍需拡大競争に遅れてはならない、とする日本企業の論理ばかりを強調している。

 私は憂える。平和を願う護憲的な市民運動の動きとは裏腹に、政府の憲法9条否定の政策が静かに、しかし着実に推し進められている事を。

 それを防ぎとめるためにも、護憲政党、政治家に期待される責任は大きい。護憲政党と護憲市民の一致団結が望まれる。

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2008年05月22日

  消費者省庁設立の動きのどこがポイントか


 消費者庁設立の動きのどこがポイントか

  22日の各紙は一斉に消費者庁の素案を報じている。

  いうまでもなく、「消費者庁」は支持率が低迷する福田首相が、人気挽回とばかり音頭をとって進めているものだ。

  折から、ギョーザ問題や食品偽装問題で、消費者保護の必要性が叫ばれてきた。

  一見すれば結構な話のように見える。

  しかし、本当に消費者庁は必要なのか。必要であるとしても、それが本当に国民のための省庁として出来上がることになるのか。そして期待どおり機能するのか。

  報道振りを詳しく眺めてみると、縦割り行政の強い抵抗の中で、果たしてどこまで一元的な省庁ができるかという懸念ばかりが目につく。

  確かにその懸念は正しい。公務員改革の例を見るまでもなく、官僚はこの種の新たな省庁設立には強い抵抗を示す。

  やむを得ず既得権を手放すとしても、消費者庁に差し出す部分は瑣末な権限ばかりとなるに違いない。おまけに消費者庁には各省庁からの出向者がお目付け役として送り込まれる。

  かくして消費者庁は屋上屋を重ねる無駄な弱小省庁で終わってしまう。

  だから、消費者庁の設立に向けてのこれからの報道も、公務員改革と同様、はたしてこの省庁が無事に設立されるのか。福田首相は指導力を発揮できるのか、という視点からの報道一色になる。

  しかし、その影に隠れて見落としてならないポイントがもう一つある。そしてこれこそが重要なポイントなのである。

  それは消費者保護という名目の下に、政府の国民、民間企業に対する権限が強化されるおそれは「ないか、という視点である。

  たとえば改正建築基準法に見る政府規制の強化の例を想起するがいい。

  国土交通省は、耐震偽装事件の責任逃れのために、改正建築基準法をいち早く成立させ、結果として官製不況を招いた。

  あの時、耐震偽装の悪ばかりが報道され、安全確保の為には規制強化もやむを得ないと誰もが思い込まされた。その結果、国土交通省の責任は不問にされたばかりか、官僚の規制が強まった。

  新たな法律や組織が出来るとき、我々国民はまっさきに留意しなければならない事がある。

  それは、国民のためという建前の裏で、国や官僚組織の権限強化、組織膨張の野心が隠されていないか、ということである。

  

  

 

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2008年05月21日

 あらためて直視せよ。この日米関係の卑屈さを


 あらためて直視せよ。この日米関係の卑屈さを

  政治家・官僚の手による政策の中には、誰が見てもおかしい政策が数多くある。

  しかも、その誤りの是正の必要性が繰り返し指摘されているのに、政府・官僚が決して改めようとしない政策がある。国民も最後はあきらめる。泣き寝入りする。

  卑近な例で言えば公務員改革だ。年金改革だ。高齢者医療制度の廃止だ。ガソリン減税の復活だ。

  そしてやがて来る消費税の引き上げだ。この事は88年に竹下政権が導入した時点で決まっていた。消費税をいったん導入すれば、あとは数字を書き換えていくだけで税収増が機械的に行われる。打ち出の小槌だ。89年に3%で始まった消費税は97年の橋本政権で5%となった。次は7%だ、10%だ。

  最後は国民も、どうしようもないとあきらめる。

  そんな政策の中でも、やはり何といっても群を抜いて大きく、深刻なものが、この国の対米従属政策である。

  この問題は私も機会あるごとにこのブログで取り上げてきた。

  それは私が反米とか、嫌米とか、左派イデオロギストなどという事とはまったく関係が無い。

  元外交官として内部からそれを見てきて、どう考えてもその政策が国益に反すると思うからだ。

  しかしさすがの私も、この対米従属政策が改まることはないと諦めはじめている。

  対米自立を唱える政治家・官僚・有識者は、この国では生き残れないからだ。

  本来ならば立ち上がるべき右翼、愛国主義者が米国に支配されてしまっているからだ。

  唯一の可能性は国民が目覚めることだが、これがまた目覚めそうもない。

  それでも最後は国民の覚醒しかない。だから私は忍耐強く対米従属の誤りを書く。

  21日の各紙を読んだ私は、あらためてその異常さを感じた。同じ日の新聞各紙にこれだけ多くの日米関係の異常さを教えてくれる記事が見られるのだ。

  それは決して偶然ではない。そこまで広く、深く、この国の対米従属が当たり前になっているという事だ。

  直視せよ。この日米関係の卑屈さを。

  東京新聞がスクープしていた。在日米軍の米兵やその家族に高速料金が免除される通行証が発行されていたという。
  日米地位協定に基づき、米軍が公務で高速道路を使用する際は、その経費を防衛省が肩代わりすることとなっている。
  これだけでも隠れた「思いやり予算」であるが、こともあろうにそれを悪用して、米兵やその家族の娯楽のための高速代までただにしていたのだ。
  米側は「福利厚生も公務だ」と開き直っている。それを政府は黙認している。

 毎日新聞「記者の目」で那覇支局員の三森輝久記者が書いていた。今年の4月13日に起きた万引で店員に取り押さえられた米兵の息子を、米憲兵隊が連れ帰ったという事件についてである。
 三森記者は、この事件の第一報を聞いたとき、「やはり」と思ったという。
 そもそも日米両政府が米兵犯罪の再発防止策として検討している米軍と日本警察の「共同パトロール」が始まれば、こうなるだろうと懸念していたという。
 なぜか。それは米憲兵は地位協定の解釈を一方的に行い、行動する。しかし、日本の現場の警察には、その米憲兵の行為を制止する権限は無い。指をくわえて黙認するしかないのが現実なのだ。
 三森記者は言う。米兵犯罪の再発防止に日本政府は本気で取り組んでいるのかと。

 シーファー駐日米大使は20日、有楽町の日本外国特派員協会で講演し、日本の防衛費について「北東アジア各国の国防費増大が続く中で、日本だけが例外だ。防衛費の対国内総生産(GDP)比が着実に低下している事は問題だ」と指摘し、日本は自国の安全保障により専念するために防衛費を増やせ、と話したという。
 一方において中国の防衛費負担増を懸念し、他方で日本の防衛費を増やせという。
 一方において米国の戦争のための米軍再編への負担増をせまり、他方において自国の国防のために防衛費を増やせという。なんのための日米安保条約だ。
 ただでさえ日本経済は米国金融資本の食い物にされている。米国の戦争経済の赤字補填に日本経済を差し出している。
 その一方で軍事費の増額を求める。
 これは日本経済をつぶすということだ。国民を貧困に追いやることだ。
 シーファー大使が財政改革に喘いでいる日本の現状を知らないはずは無い。
 こんな講演をする駐日大使はボイコットすべきではないのか。こんな発言を放置させて黙っている政府・国民はよく考えたほうがいい。

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2008年05月20日

 誰も気づかずに見すごされてしまうには大きすぎる小さな記事


 誰も気づかずに見すごされてしまうには大きすぎる小さな記事

 貴重な情報は、何も高度の機密情報だけから得られるものではない。誰もが目にする小さな公開情報の中にも、気づかずに見過ごされてしまうには大き過ぎる情報がある。

 週刊実話の5月29日号に、先般来日した中国の胡錦涛主席が創価学会の池田大作名誉会長を持ち上げて、彼は立派な政治家だ、などと繰り返し発言した、これに、あわてた創価学会関係者は、外務省と一緒になって、この発言が広まらないように奔走した、という趣旨の記事があった。
 胡錦涛主席のこの言葉は大手新聞やテレビでは一切報道されていない。
 いうまでもなく、政教分離は憲法20条で原則禁止されている。創価学会は日蓮正宗系の宗教団体だ。その一方で創価学会は連立政権党である公明党の支持母体である事は周知の事実だ。だから、これは政教分離の原則にもとることにならないか、という問題は、これまで折に触れて取りざたされてきた。そんな中で、中国の元首が、創価学会の名誉会長は政治家だと言ったという。これが事実ならば、やはり外部の人間が客観的にそのように受け止めているのか、と言うことになる。政教分離問題が再び問題視されかねない。
 週刊実話の記事は、見過ごされてしまうには大きすぎる小さな記事だ。

 18日の朝日新聞に「議定書の裏に密約」という記事があった。
 すなわち、温室効果ガスの削減目標を定めた京都議定書を日本が批准する02年に、経済産業省と経団連(現・日本経団連)との間で、「日本政府としては京都議定書は批准するが、国内排出量取引制度をはじめとする強制的措置は産業界に課さない」という確認があったという。
 この確認は外部に公にはされず、文書にも残されていない。
 しかしその密約が、来る環境サミットで指導力を発揮しようとする福田首相の足かせとなっているという。
 密約とは、外務省が米国との間で取り交わしているものと相場が決まっていた。しかし、その実は、政府の至るところで行われているということだ。
 この朝日新聞の記事は、見過ごされてしまうには大きすぎる小さな記事だ。
 
 20日の朝日新聞に、防衛省が、暴行した米兵が被害者に支払うべき賠償金を、日本の予算で肩代わりしていた、という記事があった。
 その記事によれば、02年に横須賀市で起きた米海軍兵によるオーストラリア人女性暴行事件に関し、民事訴訟の結果、裁判所は米兵に賠償金を支払うよう命じたが、米兵はすでに帰国。米政府側も支払いを拒んだため、日本政府が見舞金としてそのオーストラリア人の女性に、300万円支払ったというのだ。
 こんな馬鹿げた事が国民に知らされることなく勝手に行われていたのだ。何に基づいてこのような肩代わりが許されるのか。国民の税金が使われる話だ。政府の裁量権の濫用ではないのか。
 この朝日新聞の記事は、見過ごされてしまうには大きすぎる小さな記事だ。

 20日の読売新聞で、自民党の与謝野馨前官房長官が19日に都内で講演した記事があった。その講演の中で与謝野氏は、自分が前原誠司民主党副代表と某出版社の対談で話した際、前原氏が次のように自分の前で小沢民主党代表を批判したと、ばらした。
 「(民主党の国会運営は)間違っている。国民のために一つずつ物事を決めないといけない。小沢代表が悪い。政策に興味が無く、政局にしか興味が無い」
 こんな事をばらされた以上、前原氏はその真偽を自ら明らかにしなければならないであろう。
 副代表である前原氏が代表の小沢氏をここまで批判したのなら、もはや民主党にとどまるべきではないのではないか。
 この読売新聞の記事は、見過ごされてしまうには大きすぎる小さな記事だ。
 
 

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2008年05月20日

金を使うのではなく知恵を絞るのが政府の仕事だ


 金を使うのではなく知恵を絞るのが政府の仕事だ

  20日の各紙は、年金の財源を全額税負担に移行した場合の消費税アップ率を一斉に取り上げている。社会保障国民会議(吉川洋・東大大学院教授)が発表した試算であるという。

  今頃まだこんな小田原評定をやっているのだ。

  どんな案であっても、必ず一長一短はある。しかし年金問題は、もはや一刻も早く新たな方式を決めて実施に移さなければならない時である。決断の時である。

  年金制度が行き詰っているのは誰の目にも明らかだ。将来の年金給付の見通しがまったく立たないのに、保険料徴収は続けられる。年民未払いの問題も何も解決していないのに、徴収は仮借なく続けられている。

  一刻もはやく新たな年金制度を作って実施しなければならないのに、この国の政府、官僚は、その決断が出来ないでいるのだ。

 しかし、私が今日のブログで強調したいのは、政府、官僚の無能、無責任を追及することではない。

 この試案の発表が、「だから増税は避けられない」、という心理的効果を、国民に与える役割を果たしているのではないか、という危惧である。

 増税がもはや規定路線のように語られ始めた。この試算が追い討ちをかける。

 年金問題も、医療負担も、教育問題も、政府開発援助も、環境対策も、何もかも金が要る。何よりも国は膨大な債務を抱えて国は倒産寸前ではないか。だから、国民が負担を分かち合うのは仕方がないではないか、という刷り込みである。恫喝である。

 増税に応じる余裕のある層はいい。物価上昇に耐えられる所得層はいい。しかし、多くの国民はその余力はない。

 それりも、なによりも、金さえあれば、誰でも、どんな政策も実施できる、と言うことを、国民はもっと声高に言わなければならないのだ。

 金を使わずに知恵を絞る、それが今の政治家や官僚に求められている仕事ではないか、と言わなければならない。

 金がなければ仕事が出来ないというのが官僚の論理ならば、だったら、今はしばし、仕事をしなければいい、限を縮小するしかない、そう国民は要求しなければならないのだ。

 そもそも、官僚の仕事の殆どは、組織拡大や利権拡大から作り出されてきたものが殆どだ。

 今は国民生活に不可欠な仕事に集中し、余分な仕事は、今は凍結すべき非常事態なのだ。

 そうすれば、たちどころに国民の前にバレてしまう。政治家はこんなに要らない。官僚はこんなに要らない。ましてや天下りの巣くつになっている多くの独立行政法人の殆どは、いまこそ整理されなければならない事が。

   しかし現実は政治家、官僚が金をもっとよこせと叫んでいる。

 道路財源の一般化に伴い、壮絶な予算分捕り合戦が始まっている。

 教育予算が多いか少ないかで、財務省と文部科学省が不毛な議論の応酬をしている。

 防衛省は、日米軍事同盟強化の予算は減らせないという。それどころか対米軍事協力は増やさなければならないという。

 月末に始まるアフリカ開発会議を外務省は成功させなければならないと言う。1兆円規模のODAをばら撒こうとしている。

 洞爺湖サミットでは環境問題だ。温暖化対策だ。福田首相の支持率回復のために指導力を発揮しなければならない、という。

 その一方で、国交省の阪神国道事務所は、その事務所の「50年史」を1部作るのに、800万円の予算を道路特定財源から支出している(20日読売新聞)。まだこんなことが放置されているのだ。

 我々国民は、今こそ立ち上がらなければならない。

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2008年05月19日

その国の政権と国民は確かに分けて考える必要がある


 その国の政権と国民は確かに分けて考える必要がある。

 18日の読売新聞に、長野・諏訪中央病院名誉院長である鎌田實氏の次のような言葉があった。

 ・・・ブッシュ大統領になって・・・アメリカが好きではなくなった。世界の嫌われ者になりつつあるアメリカのモノ真似など、何で日本はするのだろうと、不満に思ってきた。
   でもちょっと考えが変わった。最新刊「なげださない」(集英社)という本の中に、広島で被爆し、憎い敵国だったアメリカに渡り幸せをつかんだ、笹森恵子さんの事を書いた。その笹森さんが最近日本に里帰りした。その恵子さんが話し始めた。「アメリカは世界一の強国になって、世界から嫌われ者になった。でも、一人ひとりのアメリカ人は変わらない。温かさがいっぱい残っている。明るくて親切だ」・・・
 そう書いた後に、鎌田氏は、若い女性であった笹森さんが、アメリカに招待されて被爆のケロイド治療を受けた時に体験したアメリカ人の温かさは、今でも変わっていないと述べた内容を紹介するのであった。

 私はまた、19日の産経新聞の投書欄で、56歳の保育士の方が「忘れられない英国流の親切」と題して寄せていた次のような投稿を、一つの感動をもって読んだ。

 ・・・葉加瀬太郎の11日の「新饗地 英国流の粋な計らい」を読み、十数年前の事を思い出した。
   スコットランドの福祉施設を訪れるため、2人の娘を連れ、ロンドンから長距離列車に乗った。満員でやっと見つけた席に上の娘を座らせ、障害を持つ下の娘は少し離れた優先席に。傍らに立つこと数時間。長距離列車のためか席はあく気配はない。車内を何度か行き来していた車掌が私にどこまで行くのかと尋ねた。「グラスゴーまで」と答えると「立ちっぱなしでは遠すぎる」と空席を探しに行ってくれた。戻ってきて席を一つ見つけたから座らないかという。感謝しつつも「下の娘は障害を持っているので離れるわけにはいかない」と答えた。彼はまた探しに行ってくれたが、3人分の席を見つけられなかった。彼は、「一等席に空席があるから行こう」と私たちの荷物を持ち、席まで案内してくれた。「差額の料金を払います」と言うと、「その必要はない。この席はどのみち目的地まで誰も座る予定はない。どうせ空いているなら、今必要としている人が座ったほうがよい」。忘れることができない体験だった・・・

 私は外務省に在勤している35年ほどの間に、合計8カ国にのぼる国に勤務して、その国々の人たちとつかの間の生活をともにした。そしてつくづく思った事は、どこの国の国民も、みな善意に満ちた人たちであったということだ。どんなに国の発展が遅れていても、そしてどんなにその国の政権が悪政で、支配者層が腐敗していても、国民はみな、親切で明るかった。

 悪いのは権力を持った為政者なのだ。権力者なのだ。

 確かに、国と国民は分けて考える必要がある。

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2008年05月19日

医療でお金儲けをしてはならない


 医療でお金儲けをしてはならない

  凡百の評論やおためごかしの言説よりも、一つの真実がはるかにそれに優る、というのが私の基本姿勢である。

  私はその事をブログで繰り返し書いてきた。

  しかし、真実に基づいて、目の前の現象やそれを生み出す政策の誤りを、私心なく正しく指摘してくれる言説は、その真実の意味をさらに大きく高めてくれる。

  凡百の評論の中から、そのような秀逸な評論を見つけ出して読者に紹介するのも、このブログの目的である。

  18日の読売新聞「地球を読む」において、国立がんセンター名誉総長である垣添忠生という人の、医療制度改革の見直しを求める秀逸な評論があった。

  その前文を紹介したいところであるが、長くなるので、私の勝手な要約を以下のとおり書いてみる。

  垣添名誉総長におかれては、私の善意に免じてご容赦願いたい。

 ・・・米国では1983年、当時のレーガン大統領が規制改革を進め、医療の世界でも「健康維持機構(HMO)」と呼ばれる民間保険が林立し、市場化が一気に進んだ。その結果は、患者と医療従事者の犠牲の上に、利益追求と患者に対する医療へのアクセス制限であった。
   英国では、70年代までは「ゆりかごから墓場まで」と表現される充実した社会保障が実施されていた。マーガレット・サッチャー首相は、財政危機の建て直しのために、思い切った市場原理政策を採った。その結果、財源確保のため医療抑制政策が強力に展開され、英国の医療制度は崩壊した。入院手術待ちが1年以上といった事態が常態化し、医師は国外に逃げ出し、患者の不満も頂点に達した。医療従事者に対する患者や家族の暴力行為も頻発した。
   これに少し遅れて、わが国では2001年に小泉首相が誕生し、米国、英国と同様に、小さな政府、規制緩和、市場原理などを推し進めた。その結果、これまで世界の頂点にあったわが国の医療制度は今、すさまじい勢いで崩壊を続けている。
  市場原理の導入は、「競争によってサービスの質が上がり、国民生活はより豊かになる」、という謳い文句だった。しかし、実際の結果は散々である。
  それにもかかわらず、政府の規制改革会議は、経済界と一体となって、市場原理主義の規制緩和をさらに進めようとしている。
  たとえば混合診療の解禁、つまり保険診療と保険外診療の混在を全面的に認めるということは、「公的保障をできるだけ切り詰め、その欠落部分を民間保険で穴埋めせよ」ということである。民間保険のビジネスチャンスを拡大せよ、といっているのに等しい。
  競争も規制緩和も必要だが、医療の世界に市場原理を導入してはいけない。何が起こるかは、1980年代の米国と英国で実証済みである。米国や英国で失敗した医療政策を何のために、この国に今更導入しようとするのか。
  医療でお金儲けをしてはならない。医療は社会の公共財である。そこに民間保険を導入し、公的保障を切り詰めたら、株式会社は儲かる医療しか展開しないから、大量の医療難民を生み出すことは火を見るより明らかである。
  この国のために懸命に働き続けてきた人たちが年をとり、病気になった際、その面倒を国家が見ないとしたら、これは棄民そのものである。
  一度崩壊した医療を立ち直らせるには、巨額の費用と長い歳月を要する。わが国のすぐれた医療政策を守るために、いまこそ医療人は患者・家族、国民の理解を得て、この愚挙に徹底的に抵抗する必要がある。
  医療における市場原理主義を排し、病気になっても安心な国に向かってもう一度一歩を踏み出すことが、この国の将来を大きく変える・・・

  この明瞭かつ的確なすばらしい評論はどうだ。

  それにしても小泉似非改革の罪はあまりにも大きい。その謙虚な反省なくしては日本の蘇生はおぼつかない。

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2008年05月19日

  あたご衝突事故の捜査がまだ続いていたとは


 あたご衝突事故の捜査がまだ続いていたとは

  19日の東京新聞が、「あたご衝突3ヶ月、長びく捜査」という見出しの記事を書いていた。

  言うまでもなく、社会を揺るがした海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」との衝突事故のことである。

  あれから3ヶ月も経った事を、この見出しを見てあらためて思い起こした。

  それにしても、その記事を読んで、まだ捜査の結論がでていないのか、と愕然とした。

  第三管区海上保安庁(横浜市)の捜査は、関係する当時の「あたご」乗組員の数が50人以上に及ぶことや、漁船の船長親子が行方不明で事情が聴けないことが理由で、当初の見込み以上に長引いているという。

  おかしいではないか。こんなことは当初より分かっていたはずだ。その気になって調べ、一日も早くはっきりした結論を出そうと必死になって捜査を重ねていたら、そんなに時間がかかったか。

  その記事によれば、海上保安庁は「あたご」が漁船団の継続的な監視を怠った事が事故の主因と断定した、とし、事故直前の午前4時ごろの当直の引継ぎが不適切であった事も事故の一因との見方を強めているという。

  しかし、それでもまだ業務上過失致死で当直士官を書類送検する事について結論が出ていないという。

  そういえば防衛省の調査報告書は出されたのだろうか。その報告書では防衛省はどのように自らの責任を認めたのか。あるいは認めていないのか。

  捜査の遅れが政治的配慮によるものであれば大問題だ。しかし、単純に仕事の遅れから来ているのであれば、もっと大問題だ。

 メディアは、事件が起きた当初に大騒ぎするだけでなく、その終末まではっきりとフォローして記事にしてもらいたい。

 テロ特措法延長問題も、年金未払い問題も、郵政改革問題も、何もかも、その後どうなっているのか、メディアはきっちりと国民に教えなくてはいけない。

  メディアの一過性こそが、政府の政策の不備を許してきた、官僚支配の無責任さをつけあがらせてきたといえば言い過ぎだろうか。
  

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2008年05月19日

 目を疑った物価高についての朝日新聞の社説


 目を疑った物価高についての朝日新聞の社説

 18日の朝日新聞は、最近の物価高に関し、「食卓の風景を変えよう」と題する社説を掲げていた。

 何を訴えているのだろうと思って読み進むうちに、わが目を疑うような社説である事に気づいた。

 値上がりの背景にあるグローバリズムの影響や、政府の対応の遅れなどに関する分析なしに、いきなり、「これを機会に食生活のゆがみを直そう」、と呼びかけているのだ。

 身近な食材を使う工夫をすれば、世界市場の影響をあまり受けないで済む、食料自給率を高めることにもなるし、健康を取り戻すことも出来る。一人ひとりの知恵が食卓の風景を変え、それが暮らしを守ることにもなる、などと書いているのだ。

 私は朝日新聞が、国民の不満を政府に向けさせまいとして、意図的にこのような社説を書いた、と言うつもりは無い。

 「発想を変えれば、マイナスをプラスに転じることができるのだ」という事を示し、いいことのない最近の世の中でも前向きに生きよう、と軽く呼びかけた軽い社説であると善意に受けとめたい。

 しかし、このような記事は結果的に国民の目を曇らせることになる。

 何よりも、農政や消費者行政を監視し、国民の政府に対する批判的視点を啓蒙すべき大手新聞の書く社説ではない。

 奇しくも翌19日の読売新聞と東京新聞が、同じテーマで、それぞれ社説を掲げた。

 読売新聞は、「最近の一連の食料品値上げを重い警告と受け止め、この際食料供給と消費のあり方を総点検し・・・国内と海外の双方で、安定供給に向けた取り組みを急がねばならない」とし、

 東京新聞は、「・・・これまで何度農政改革が謳われてきたか。しかし、消費者対策は二の次にされてきた・・・国民の不信と不安を取り除くのも、農政の責務である」と政府に迫っている。

 これがあるべき社説であろう。

 最近の朝日新聞は、弱者の痛みを忘れ、すっかり高みの視点にたった新聞になってしまったようだ。日々朝日を読みながらつくづくそう感じる。

 面白い記事が極端に少なくなってしまった。学ぶべき記事がめっきりなくなってしまった。

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2008年05月18日

戦後の日米関係は密約で塗り固められた歴史に違いない

 戦後の日米関係は密約で塗り固められた歴史に違いない

  18日の東京新聞がまた日米間のあらたな密約をスクープしていた。

  ここまで密約が次々と出てくると、もううんざりだ。

  戦後の日米関係は密約で塗り固められた歴史ということになる。

  例によって機密解除された米側の公文書で、その密約は明らかになった。

  東京新聞の記事によれば、日本に駐留する米兵の事件をめぐり、日米両政府が1953年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意していたという。

 実際に日本側は、その後約5年間に起きた事件の97%の第一次裁判権を放棄していたという。

 後になって米側は、この密約を公表し、日本国民の知る形で日本の裁判権放棄を認めさせようとしたらしい。

 しかし、その時の首相であった岸信介氏も、さすがに国内での反発を恐れ、応じなかったらしい。

 すなわち秘密合意は60年の安保改定後も引き継がれ、米側は、日本の裁判権放棄の実態を、韓国や台湾との地位協定交渉の際に言及しようとした。

 しかし、密約の存在が国民に知れることを恐れた日本政府、外務省は、この米側の要求を拒否し続けたというのだ。

 日米間の密約といえば、毎日新聞の元政治部記者である西山太吉氏が暴露した、沖縄返還交渉の裏で、条約上は米国が負担する事になっていた現状回復の工事経費を、日本側が肩代わりして負担するという密約が有名である。

 しかし、その密約をすっぱ抜いた元毎日新聞の西山太吉元記者は、他にも重大な密約があるに違いないと言い続けている。

 沖縄返還交渉時の外務省北米局長であった吉野文六氏も、他にもいくつかの密約があったことをほのめかしている。

 それでも、政府・外務省はその存在を否定し続けている。

 米国側が、公文書の機密解除をして、もはやその密約の存在を認め、発表しているのに、である。

 一つでも密約を認めれば、次々と密約を認めざるを得ず、岸元首相ならずとも、「恥ずべき事態」となる事を外務省は恐れているのだ。

 しかし、外務省が密約の存在をかたくなに否定すればするほど、「恥ずべき事態」である、密約で固められた日米戦後史が浮き上がってくる。

  隠し事を抱えたままの外務省に、毅然とした外交が出来ないのも無理はない。

  密約の存在が国民に知れ渡ることにおびえ続ける外務省に、まともな外交などできるはずはない。

  日本の外交の決定的な弱点がそこにある。

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2008年05月18日

衆議院選挙の前に新党を立ち上げると表明した橋本大二郎前高知県知事


 衆議院選挙の前に新党を立ち上げると表明した橋本大二郎前高知県知事

  今日の新聞のビッグニュースは、なんといっても読売新聞社のインタビューに答える形で公表した、橋本大二郎前高知県知事の新党宣言である。

  読売新聞の大スクープである。

 「直近に選挙があれば無所属で出ざるを得ないが、社会が求めているのは新しい党ではないか。(衆院選まで)時間があるのなら、正しいグループ、旗作りを中心に考える。地方分権、経済政策、外交防衛、憲法などの基本スタンスを示す・・・議席が目標ではない。60歳を超えて、短期決戦、最初の選挙、その後の(政界再編の)動きで力尽きてもいい。どこかでドン・キホーテにならないといけない・・・7月1日が兄(橋本龍太郎・元首相)の三回忌。締め切りがないと仕事をしないので、(三回忌を第一の締め切りとして)6月中に自分なりに(基本政策などを)整理したい」

  こう述べる橋本大二郎に私は大いに期待する。

  私は月刊現代の4月号で、橋本大二郎と衆議院議員江田憲二が、自民も民主も駄目だと対談をしていた時から、橋本の動きを注目していた。そしてその橋本を支えるのが江田憲司である。

  江田憲司は通産官僚の頃に橋本龍太郎元首相の秘書官から政治家に転身した男だ。だからその異母弟である橋本大二郎と組むというのはわかりやすい。

  しかし江田憲司は、そこいらにいる官僚上がりの政治家ではない。文字通り無所属を貫いて当選してきた自主・自立の政治家である。しかも優秀だ。官僚の世界を知り尽くしている。

 その江田が、知名度では文句のない橋本と二人三脚で新党を立ち上げるということだ。

  私は、月刊現代の二人の対談を読んだとき、これは新しい動きになるかも知れないという予感を抱いた。

  ただし、その時は、誘いをかける江田憲司に対し、橋本は、自分は新党をつくる金も力も無い、と言って一蹴していた。

 それからわずか2,3ヶ月である。橋本に何が起きたのか。

 すくなくとも読売新聞のインタビューに答えている橋本の言葉は様変わりである。吹っ切れた覚悟が感じられる。

 何と言っても、総選挙前に新党を立ち上げると宣言したことがいい。

 そして短期決戦、政界再編の道筋をつけるまでが自分の役割だと言い切っているのがいい。

 この決意こそ、閉塞した今の政治状況に求められるものだ。誰か政治の停滞を打ち破らなくてはならないのだ。

 私はかねてから、今の日本を変えるのは、政界再編ではなく既存の政党の全否定、つまりまったく新しい新党の立ち上げである、と主張してきた。

 ところが、いまの政界にどっぷりとつかってきた政治家は、与党の政治家も野党の政治家も、新党などありえない、と自らの保身、自らの政党の党勢拡大ばかりを強調する。

 なすべきことはまず政権交代だと主張する。

 確かに小選挙区制の下では新党が生まれる余地は限りなく小さい。それよりも政権交代のほうが、自公政権の政治を改め現実的近道である。それは理解できる。私もそうだと思う。

 しかし、その一方で、既存政党の合従連衡による昨今の政界再編の動きを見るにつけても、どのような政界再編がなされようとも、うんざりするほどの、旧態依然とした政治が続くに違いないと思えてならないのだ。

 なによりもロマンがない。人の心に火をつけるような純粋さがない。

 今こそ国民は「魅力的な政党」の出現を渇望しているのではないか、と私は思っていた。そしてその思いは決して私だけのものではない。

 月刊誌リベラルタイム4月号に、CHANGE 今こそ新党をつくりませんか、という特集記事があった。

 その記事は、毎度の世論調査が示しているように、無党派が比較第一党の今こそ、わずか20-30人規模の新党でも国会のキャスティングボートを握る事が出来る。そこに気づけば、「選挙後」ではなく、「選挙前の新党結成」に乗り出さない手は無い、というものである。

 20-30人もの数は要らない。たとえ数名であっても風は起こすことが出来る。乾いた枯れ草についた火がたちまち大きな炎になる、そのような渇望感が今の日本には充満している。

 それがなぜわからないのだろうか。

 総選挙前の新党宣言をいち早くほのめかしたのは平沼新党である。

 しかしそれは成功しない。極右のごときイデオロギー政党が、幅広い国民の支持を得られるはずは無い。

 ましてやその顔ぶれが、郵政改革反対だけで集まった昔の政治家ばかりだ。颯爽とした風が起きるはずがない。

 小泉新党に至ってはほとんど冗談だ。話にもならない。

 国民が本当に待望する形での新党宣言。それを宣言したものの早い者勝ちだ。そこに橋本が名乗りを上げたのだ。

 見ているがいい。この橋本の新党宣言は政界に大きな波紋を呼び起こすに違いない。橋本、江田に続く三番目の政治家が現れてくるに違いない。

 その動きは、果たしてどこまで発展していくか。

 問題は橋本と江田が6月中にも発表するという政策綱領だ。

 江田は月刊現代で、大きな政府か小さな政府か、外交ハト派かタカ派かというに二項対立に単純化して、小さな政府(改革推進)で外交ハト派の集まりを目指すといわんばかりの発言をしていた。

 それは私も基本的に賛成だ。しかしそれだけではまだ不十分だ。

 その外交は、憲法9条を世界に掲げ、日米軍事同盟の危険性を国民に訴えて行けるか。

 小さな政府が、小泉流の似非改革ではなく、官僚支配を否定した国民優先の真の改革を目指すものであるのか、その一方で競争に取り残される弱者への思いやりのある政策(セーフティネット)を確保しようとするものであるのか。

 橋本新党が、既存の保守政党の政界再編の一つに終わるか、日本の政治に今度こそ新しい風を起こす事になるのか。

 その結論は、6月末に発表される政策綱領で明らかになる。

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2008年05月18日

「法律は読んでもわからないように作られている」とテレビで白状した自民党老練政治家

 「法律は読んでもわからないように作られている」とテレビで白状した自民党老練政治家

   政官財の鉄の結束がこの国を動かしてきた。そしてその負の部分がここに来て誰の目にも明らかになってきた。

   日本の行き詰まりを前にして、「官僚支配打倒」こそが日本再生の鍵だ」の合唱が湧き上がっている。

   それは、菅直人をはじめとした野党政治家や、反権力の立場の人々が騒いでいるだけではない。自民党政治家、財界の重鎮ら、官僚の友達までもが言い始めているのだ。

   たとえば週刊朝日は、田原総一郎の連載インタビューの中で、このところ立て続けに官僚支配を打破すべきという記事を大きく掲載している。

   5月9日号では中川秀直元幹事長が、自ら出版する「官僚国家崩壊」という本を宣伝し、「日本を変えるには霞ヶ関改革が不可欠で、1府6省庁体制にして公務員を大幅削減しなければならない」と叫ぶ。

   5月23日号では丹羽宇一郎伊藤忠商事会長が、「官僚の屁理屈がニッポンをだめにする!」と怒鳴る。

   その言やよし。

   何を今更、と冷やかすつもりは無い。たとえ遅ればせといえども、それに気づいて、政・財界の重鎮が、この国を官僚支配体制から、政治主導ー国民支配体制に変革してくれるなら、それを大いに評価したい。

   問題は、中川や丹羽や田原に、それができるかということだ。

   その勇ましい言葉とは裏腹に、彼らに官僚を敵に回してまで改革する覚悟があるかということだ。

   18日朝のTV[報道2001年」で堀内光雄という自民党老練政治家が、後期高齢者医療保険制度の間違いを改めるように、福田首相に直言した事を話していた。

   なぜこの問題に気づかなかったか、と聞かれ、堀内議員は、「(官僚がつくる)法律は誰にもわからない(ように作られている)」と発言し、「福田さんもわかっていなかった」と暴露していた。

   これを聞いた黒岩キャスターが、「そんなことでいいんですか」とあきれ顔を見せていた。

   芝居ではないと思う。誰が聞いてもあきれる話だ。

   話はあちこちに飛んで恐縮だが、この国の官僚支配を物語る重要な記事であるので、ここで引用する。

   3月22日号の週刊ダイヤモンドで、「空港外資規制だけではなかった 国交省が法改正に仕込んだ罠」という記事があった。

   読者の皆さんも記憶にあるだろう。今年の初めごろ、空港事業に外資が参入してくるという報道がなされ、外資規制をするかしないか、の大騒ぎがあった。

   国の安全保障に係わる、といって、空港整備法案を改正しようとした国交省。

   しかし、その原案に盛り込まれた規制は、実は外資規制だけではなく、どさくさにまぎれて、国交省は、航空会社の路線・運行計画に網をかけようとした、という記事である。

   ここに官僚の正体が見事に表れている。

   法案作成権を握り、国益よりも省益、組織拡大を優先する、官僚のずるさと卑小さが見える。

   路線計画、運賃など、長い時間と紆余曲折を経て、認可制から届出制へと自由化を勝ち取ってきた航空業界は、この逆行に顔面蒼白となり、腰を抜かした。

   自民党航空対策特別委員長の大田誠一・衆議院議員は、消極的な国交省官僚に迫って法改正を委員会で審議させた。議員からは原案への反論、異論が噴出した。

   それでも結末は、「航空運送事業に直接かかわる事項は、空港法の規制対象とはしない」ことを保障する文書を取り付けることで精一杯だったという。

   いわゆる覚書、念書、密約、などというものである。

   しかし、法律に書き込まなければ意味は無い。一片の文書など、官僚によって、そのうち有名無実化にされてしまうのだ。

   あらゆる省庁が法案作成権を握り、死守し、そして、自らの省庁の権限強化を狙って国民や民間企業を支配する。

   思えば年金問題にしても、薬害問題にしても、後期高齢者医療問題にしても、すべては官僚の仕業である。それを政治家が監督できなかったのだ。

   監督できなかったばかりではない。官僚に丸め込まれていたのだ。この構造を政治家の手によって変え無い限り、この国は変わらない。

   しかし、見ているがいい。残念ながら、公務員改革も天下り禁止も、権限を地方に委譲する地方改革も、すべては腰砕けに終わるに違いない。

   官僚の作成した法案を、「わからないように出来ている」と老練政治家が自嘲し、「私も分かりませんでした」とこの国の首相がうそぶく。

   そんな政治力で、この国に深く根ざした官僚支配体制が変えられるはずはない。

   本当の政治家があらわれてこなければならない。

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2008年05月17日

読者の皆さんへーこのブログは次の総選挙までとします。


 読者の皆さんへーこのブログは次の総選挙までとします

  このブログの読者に私の思いを伝えます。

  このブログは次の総選挙までとします。その理由は次のとおりです。

  私はこのブログを通じて一人でも多くの人に自立した考えを持ってもらいたいと願って書きはじめ、そして書き続けてきました。

  徒手空拳の一人の人間でも、問題意識を持って新聞や雑誌の記事を読めば、色々な事が見えてくる。それを自分の頭で考え、自分の意見を持つ習慣を身に着ければ、やがて皆さんは立派な評論家、有識者になれるはずです。

  一人一人が、他人のお仕着せの考えに流されること無く、自分の確固とした意見を持つようになれば、この国を動かすことができる。読者の皆さんの意識が、叫びが、この国の権力を脅かし、日本の将来を切り開いていく、そう願って毎日書き続けてきました。

  そうであればこそ、このブログはいつかの時点で役割を終えなくてはなりません。いつまでも際限なく書き続ける事は、読者の自立心を妨げる事になる。

  読者には、いつの日にか、私になりかわって、声をあげ、行動を起こしてほしいのです。

  私は、今日本は歴史的転換期に差しかかっていると思うのです。
 
  それは決して好ましい転換期ではありません。

  それどころか、この日本という国が、踏みとどまることができるか、それともどんどんと悪い方向に流されて、漂流してしまうのか、その正念場に差しかかっていると思うのです。

  そして、その一つの試金石が次の総選挙だと、私は、思います。次の総選挙は、戦後の政治史に残る選挙だと思うのです。

  次の総選挙がいつあるかわかりません。しかし、たとえいつ、どのような形で行われようと、その時の国民の一票がこの国の将来を決めることになる。

  私は自公政権は何があっても崩壊、消滅しなければ日本の将来はないと思っています。

  ここまで日本を壊したのは自公政権でした。なんとしてでも下野させなければならない。責任をとらせなければならない。

  しかし、たとえ自公政権がなくなっても、政界再編によって形を変えた自公政権的なものができるようでは、同じことです。日本に将来はない。

  日本の政治は、革命的に変わらなければならないのです。

  それは次回の総選挙だけで実現できるものではありません。何度も選挙を重ねて、本当の政治家による、本当の政治を実現しなければならないのです。

  そして、次回の総選挙は、その始まりにしなくてはならないのです。

  その事を訴えながら、私は次回総選挙の時ま、全力を傾けてこのブログを書き続けます。

  一人でも多くの読者に気づいてほしい。今度の選挙では、いままでの政治をいったん全否定しなくてはならないと。

  そこから再出発するのです。そして、その時は、あなたが私になるのです。

  次の総選挙は、小泉元首相によれば来年のサミット後という事です。また、福田首相の唯一の仕事は、解散・総選挙をしないということらしいので当分は総選挙はありません。

  だからこのブログはまだしばらく続きます。私は、まだしばらく書き続けなければなりません。

  でも、そこまででいいでしょう。

  私は書き疲れたからやめるのではありません。あなたに覚悟を迫っているのです。

  誰からも命じられることなく、誰の支援を受けることなく、ただひたすら一人でパソコンの前で書いてきました。その姿を想像してください。

  やがて、その私はいなくなる。しかしあなたが私になるのです。

  その時には、もうあなたはブログを書く必要はなくなる。真実を見抜く力を持った自立したあなたが、立ち上がり、行動するのです。

  その時を願って、私はその時まで、全力を傾けて書き続けます。

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2008年05月17日

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの名言


 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの名言

 こういうエピソードを見つけると私は感動する。

 17日の朝日新聞土曜版(Be)に聖路加国際病院理事長の日野原重明氏が、「96歳、私の証 あるがまま行く」、と題する随想を書いていた。

 その随想の書き始めに次のようなエピソードを見つけた。

 ・・・太平洋戦争回避のための日米交渉の場で、特命全権大使を務めた外交官の来栖三郎氏の墓は東京・青山霊園にあります。墓所の一角には、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの名言を刻んだ石碑があります。
    私は彼の主知医をしていたこともあり、墓参した際に写真を撮ったことがあります。そこにはこう書かれていました。

    「平和の時には息子が父を葬り、戦時には父が息子を葬る」(日野原抄訳)

    来栖さんの息子さんが太平洋戦争で戦死した際に贈った碑だそうです・・・

    父の息子として生まれ、そして息子を持つ父となった世の中の多くの男たちには、このヘロドトスの名言が胸に響くに違いない。私もその一人だ。

    強烈な反戦歌だ。

    ヘロドトスも来栖も日野原も、強い平和主義者だ。

    そう思ってこの悲しい名言をかみしめて読んだ。

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2008年05月17日

「野口英世アフリカ賞」記念行事を欠席する小泉元首相


 「野口英世アフリカ賞」記念行事を欠席する小泉元首相

  17日の産経新聞に興味深い記事が出ていた。

  「英世賞」小泉氏冷めた?、言いだしっぺの本人欠席、という見出しで、小泉元首相が5月29日の「野口英世アフリカ賞」記念講演に欠席する、という事を報じていた。

  この「野口英世賞」とは、2年前の06年5月に、小泉元首相がガーナを訪れた時、「ひらめき」で自ら提案し、強引に創設した賞である。

  当時の小泉メールマガジンには次のように書かれている。

  ・・・飛行機の中で、野口英世賞を創設するというアイデアがひらめきました・・・今回のアフリカ訪問は、野口英世博士が私を呼んだような気がします・・・

  小泉元首相がそれまで野口英世の事をどれだけ知っていたか知らないが、大変な入れ込みようである。

  そして、ノーベル医学賞にも劣らないような賞にしたいとして、一人当たりの賞金が一億円の賞を創れと命じた。

  その授与は5年に一回開かれるアフリカ開発会議で授与する事が決められた。

  その5年に一回のアフリカ開発会議が、今回は横浜で5月末に開かれる。そしていよいよ「野口英世賞」の第一回目の受賞者が、それを授与されるのだ。

  当時の報道を思い起こせば、確かにこの「野口英世賞」は、パフォーマンス好きの小泉元首相の強い意向が無ければありえない賞であった。同様の賞はすでにいくつか存在するのになぜ今「野口英世賞」なのか、巨額の賞金をどう講じるか、という問題があった。なぜ、日本の医学会では評価されなかった野口英世の名前を冠する賞なのか、という意見もあった。

  それらを押し切って小泉元首相のために創られた賞であるから、今回の授与式に小泉元首相が出席しないという事はおかしい。

  そう思って記事をを注意深く読むと、小泉元首相は5月28日の授与式には出席するが、29日の受賞者による記念講演には欠席するという、のだ。

  それなら頷ける。小泉元首相の面目躍如である。いいとこどりである。

  自分が目立つところだけは顔をだすが、受賞者が主役の記念講演などには関心は無い。

  そもそも、他人の講演などを、長い時間をかけて聞く辛抱は、彼にはまったくないのだ。

  受賞者の記念講演こそ、受賞者に敬意を表するこの種の受賞式のハイライトなのに、である。

  それにしてもこの「野口英世賞」とは「公的な賞」なのか小泉元首相の「個人的な賞」なのか。

  賞金は政府の予算と民間、個人の寄付からなるという。その比率はどうなっているのだろう。政府の予算とは、どの費目から出ているのだろう。ODAなのか。内閣機密費なのか。

  寄付が集まらなかったとみえて、小泉元首相は、給与だったか、賞与だったかから、数百万円ほど寄付したという報道がなされたことがあった。

  そして、28日の授賞式では、誰が賞を受賞者に渡すことになるのか。これが小泉元首相から手渡されるのであれば、こよなく個人的色彩の強い賞であるということだ。小泉パフォーマンスの賞ということだ。そんな賞に政府予算が使われていいのか。

  渡す人間が福田総理やその代理であれば、野口英世賞は、その設立経緯とは別に、まがりなりにも、日本政府の継続的な「公的な賞」ということになる。しかし自分が渡さないような賞の授与式に小泉元首相が出席するはずはない。

  5月28日の授与式から目が話せない。

  

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2008年05月17日

地震被災まで利用して中国批判を繰り返す心の貧しさ


 地震被災まで利用して中国批判を繰り返す心の貧しさ

  昨日のブログで私は中国の地震報道はもう十分だという事を書いた。

  その理由は、中国の地震報道の洪水の中で、我々が知らなければならないその他の重要なニュースがかき消されるおそれがあるからだ。

  しかし、連日流される中国の地震報道で、私が耐えられない事がもう一つある。それは中国の不幸までも、対中批判の道具にしようとしている心の貧しさを感じるからである。

  実は報道各社の中国地震報道の洪水には、もっと安直な理由がある。毎日毎日ニュースを見つけるのは大変な仕事である。ニュースの無い時も、何かニュースを流さなければならないからだ。

  とくに最近のテレビなどは、政治・報道番組が安上がりと見えて、一日中ニュース番組を流しているかのようだ。ネタに困るのも当然だ。

  だからこのような大きな事件が起きると、当分は頭を痛めなくてもよい。そればかりを流していればいいからだ。それに、他社が流す以上、自分ところも流さなければならない。しかも競って。

  この世の中には、国民に知らせなければならないニュースは、本当は山ほどある。しかしそれを見つけ出すには、鋭いジャーナリズム精神と、知的努力が必要だ。それが面倒だから大きな事件に飛びつく。そしてそれで当分は稼げる。要するに安直なのだ。

  そのような安直な理由は、まだ笑って見過ごすことができる。

  しかし私が許せないのは、何でも反中国に結びつけようとする勢力が、大量の中国人民が天災で生き埋めになっている時に、それさえも中国たたきに使っているという卑劣さである。

  やれ、救助態勢が整っていない、手抜き建築が被害を大きくした、なぜもっと早く国際支援を受け入れようとしなかったか、ドサクサにまぎれて詐欺が横行するのが中国だ、温家宝や胡錦涛の現地入りはパフォーマンスだ、などなどである。

  よく考えたほうがいい。今度の中国の地震は阪神淡路大震災以上の大きさだ。被災者は1,000万人に及ぶという。未曾有の災害だ。

  日本でこのような大震災が起きれば、上手く対応できるのか。阪神淡路大震災の時の日本政府の対応はどうだったか。

  被害に無縁の日本が、傍観者的に中国の惨状を報道する。在留邦人に犠牲者はいなかったとか、日本の緊急援助隊の中国入り、などという自分の国に関係するところだけを報道する。

 そのような第三者的観点からの報道は、もういい加減にやめたほうがいい。

  何もできない我々がすべきことは、中国に同情し、犠牲者を悼むことだけだ。

  ましてや、隣国のこの未曾有の大天災までも対中批判の道具にするような連中は、自らの心の貧しさ、卑しさを恥じるべきである。必ずわが身に返ってくる。

  

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2008年05月16日

中国地震報道の洪水の裏で着々と進む「ねじれ国会」の幕引き


 中国地震報道の洪水の裏で着々と進む「ねじれ国会」の幕引き

  さすがに天変地異までは自公政権も操作できないであろう。だからあの地震が自公政権の手によってもたらされたと言うつもりはない。

  しかし、不幸な中国の地震は、福田政権にとっては幸いであったに違いない。

  連日洪水のように流される報道の前に、本来であればもっと報道されるはずの国内政治の諸問題が、完全にかき消されている。

  国民の目が中国地震ニュースに釘付けされている間に、窮地に立たされている福田政権が国会を幕引きし、態勢を立て直そうとしている。

  国会が6月15日に、会期延長なく終わる、と報道されはじめた。それを知っている政治記者は、もはや一月足らずの国会は消化試合だ、などと言い出している。

  そういうことなのだろう。

  あれほど騒いだ年金問題も、道路財源問題も、後期高齢者医療制度問題も、そして天下り官僚の税金の無駄遣い問題も、どれ一つとして解決されないままだ。

 格差問題も、公務員改革問題も、地方分権問題も、何もかも、解決に向けて進む気配は感じられない。

 政治家たちは、国民の窮状を救う政策の実現の事よりも、選挙に生き残ること、政権にしがみつくこと、政権に近づくこと、そのためにどのような政界再編を行うかということ、そればかりである。

 そんな、「国民から乖離した政治」を象徴したニュースが16日に流された。

 ボーリング振興議員連盟会長の武部勤が小泉、森元首相を誘い、猪口邦子ら小泉チルドレン約20名と都内のホテルでボーリングに興じた、というニュースである。

 一ゲーム目は91のスコアだったが二ゲーム目は161を出し、「普段は報道陣の問いに無言を貫く小泉氏だったが、この日ばかりは上機嫌だった」という。「解散・総選挙は来年のサミット後だ」と檄をとばしたという。

 この顔ぶれをみよ。この軽さ、緩みぶりを、目を凝らして直視せよ。

 生活に追われている国民を前に、問題山積の終盤国会にもかかわらず、政策に汗を流すわけではなく、政策を語るでもない。

 現職を離れた政治家たちが、政治家として、なお生き残り、あわよくば復権を、とうつつを抜かして恬として恥じない姿が、そこにある。

 政治家という職業を私物化して楽しんでいる姿がそこにある。

 

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2008年05月16日

 強行実施される裁判員制度ー民意無視の政策がまた一つ推し進められる


  強行実施される裁判員制度ー民意無視の政策がまた一つ推し進められる

  冷静に世の中の動きを観察していると、戦後62年もたって、本来ならば「国民主権の新憲法」が定着し、民主主義国家日本が実現していなければならないはずなのに、ここにきて急速に世の中は逆行しているような気がする。

  「世論や民意を大切にする」、という政府、政治家の言い草とは裏腹に、本音のところでは、自公政権と官僚支配がどんどんと強まり、国民の権利が無視されるような政策が加速度的に進んでいるような気がする。

  年金問題もガソリン税金問題も後期高齢者医療問題も、結局のところ、彼らの思惑通りに政策が推し進められてしまうことになる。

  国民の怒りも高まらず、マスコミも本気で追及せず、最後は皆があきらめる。その憂さ晴らしのように、テレビが馬鹿番組を流し、乾いた笑いで国民の頭を麻痺させる。政府・官僚の高笑いが聞こえるようだ。

  あと一年で開始される裁判員制度についても、そうだ。

  国民の大多数が反対しているこの制度は、このまま行けば間違いなくあと一年後に実施される。国民は、その意思に反して、原則として裁判員としての役務に服さなければならない。

  これは「現代の徴兵制度」ではないか。そういう指摘も、決して的外れではない。我々はもっと真剣にこの制度の導入を問題視すべきである。

  「なぜこんな制度を我々は許してしまったのか」と一年後に後悔しても始まらない。それはあたかも後期高齢者医療保険制度の諸問題が、実施に移されて始めて「とんでもない」事に気づくのと同じだ。その時点ではどんなに騒いでも手遅れなのである。

  なぜいきなり裁判員制度なるものが導入されるようになったのか。その事を知っている国民がどれほどいるだろう。

  裁判の迅速化であるとか、国民の司法意識を高めるとか、民意を裁判に反映させるとか、そんな理由が語られる。

  しかし、いずれも説得力はない。その程度の理由で導入される裁判員制度であれば、わざわざ国民の大多数の意見に反して強行する必要はない。

  この裁判員制度の導入に反対する意見を、作家の高村薫が15日の毎日新聞「社会批評」で次のように書いていた。

 ・・・裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判から始まるのだろう・・・民意を活かすところは、むしろ公害訴訟や薬害訴訟、あるいは近年増加している労働訴訟や行政訴訟のほうだろう。裁判の長期化の弊害は、こうした民事裁判も同様であるし、公害問題や労働問題は私たちにとってより大きな関心事でありうる・・・想像してみよう。もし薬害肝炎訴訟を私たち裁判員が裁いていたならば、はるか昔に国と製薬会社の責任を認めて賠償を命じていたはずだ。
   結局、ほんとうに私たちの民意が活かされる民事裁判が閉ざされたままであるのは、国と司法と官庁が、これだけは国民に触れさせないとして死守しているからに他ならない・・・

   どこまでも国民を馬鹿にした政府・官僚支配のこの国である。

  

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2008年05月15日

 日本国民を犠牲にして米国を助ける日本政府


 日本国民を犠牲にして米国を助ける日本政府

  私がブログを書く基本姿勢は、繰り返し書いてきたとおり、凡百の評論を聞くよりも、真実、事実を知る事こそ重要である、というものだ。

  たとえば、15日の産経新聞は一面トップで、塩川正十郎元財務相の、「ねじれ国会」を嘆く次のような評論を載せていた。

  「・・・「ねじれ国会」になってからは政治家の素直さが失われ、政党のメンツにこだわり、国民の声がほとんど反映されていない・・・その責任を与野党の一方に問うものではない。この際、与野党の政治家が対抗意識をすてて、ゴルフ大会や歌謡大会でも開いて懇親を深め、互いを柔軟に見つめられるようにならないか。目下の国会論争は生産性なき政争だ・・」

  こんな論評を読んだところで得るものは皆無だ。それどころか、この物言いは間違っている。塩川の一貫した清和会政権擁護のための情報操作の匂いが漂う。

  不毛な今の政治の元凶は、国民の支持を失ってもなお国民無視の政治を強行する福田政権であり、その非を、国民に代わって厳しく弾劾できない野党第一党民主党の腰砕け振り、党内不一致なのだ。
  ゴルフやカラオケをやって今の政治が生産的になるようなものでは、決してない。

  その一方で、15日の各紙の中で、毎日と日経が、虫眼鏡で見ないと分からないほどの小さな記事であったが、PAC3(地上配備型迎撃ミサイル)が14日未明に静岡県浜松基地に配備された、という記事を配信していた。首都圏以外に始めて配備されたこの事実の持つ意味は大きい。

  繰り返してこのブログで指摘してきたように、莫大な税金を投入して米国から買わされた迎撃ミサイルシステムは、財政赤字削減という錦の御旗の下で国民に過酷な負担を強いる日本政府の、膨大な税金の無駄遣いである。

  日本の国防にとって迎撃システム整備より優先される自衛隊装備はほかにいくらでもある。それどころか、技術的にもこの迎撃ミサイルシステムは欠陥だらけだ。

  おまけに、今日の毎日新聞の記事によれば、あくまでも教育訓練用で実弾頭を配備する計画はない、という。何のための国防か。

 また、15日の朝日新聞は、南極海で日本政府が行っている調査捕鯨の乗組員が、捕獲した鯨肉を大量に持ち出し、これを飲食業界に不正に横流ししている疑いがある、とするスクープ記事を配信していた。調査捕鯨の名を借りて商業捕鯨をしているのではないか、という疑惑を、限りなく深める記事である。

  そんな中で、15日早朝の某局テレビが、耳を疑うようなニュースを、さりげなく流した。ガソリン価格の高騰で悩む米国を助けるために、日本の経済産業省や石油業界が、米国に対し石油製品を輸出し、支援する事にした、というニュースである。

  本当か。15日の各紙は、石油情報センターが14日に発表した石油製品市況調査で、ついにレギュラーガソリンの平均価格が1リットルあたり160円を超えたと一斉に報じている。苦しんでいるのは日本国民だ。日本政府の仕事は、まず日本国民を救うことだ。

 私は早朝のテレビが流したこのニュースの真偽を確かめたくて、15日の大手各紙の経済欄に目を通したが、関連記事は皆無であった。

 このブログを読んだ経済記者諸兄にお願いしたい。本当に日本政府と石油業界は米国を助けるために石油製品を米国に売り渡そうとしているのか。

 重要なことは真実を知ることである。それを国民に知らせるのがメディアの第一義的使命である。特オチを恐れて横並びの記事を一斉に流すのもいい。
 しかし他社が報道しない特ダネを流してこそメディアの真価が問われる。

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2008年05月14日

あなたならどう対応するだろうか


 あなたならどう対応するだろうか

  私が現役の外交官であった時、いつも自分に問いかけていたある質問があった。

  それは、どうしても自分はその国の体制を許せないと思われるような国に勤務を命ぜられた時、その国とどう向き合っていくか、という質問である。

  幸いにして、私はそこまでの悪政国家に勤務したことはなかった。だから深刻に悩まなくて済んだ。

  しかし、私がレバノンという国に勤務していたとき、隣国のイスラエルが連日パレスチナ人を弾圧していた実態を目撃し、イスラエルを許せないと思った。

  もし自分がレバノンではなくてイスラエルに勤務を命じられた時、はたしてイスラエル政府とどう向き合っていただろうか、と考えて毎日を過ごしていた。

  どこの国も程度の差こそあれ悪政は行われている。国民を苦しめている。少数民族の人権を奪ったりしている。

  そしてどこまでが許容範囲で、どこまでが絶対悪政であるかを判断する事は難しい。

  たとえばチベット問題だ。チベットの人権尊重を叫び、中国政府に政策の改善を求めるのはよい。

  しかし、その人たちが、同じ怒りを世界のすべての人権抑圧国に向けているだろうか。

  ミャンマーの軍事政権はどうか。ロシアの対チェチェン政策はどうか。スーダンのダルフール政策、そしてイスラエルのパレスチナ弾圧はどうか、となる。

  これら人権抑圧国と日本が外交関係を持たなければ悩まなくてすむ。勤務しなくてよいからだ。

  しかし外交関係がない国というのは、ほとんどが交戦状態が続いていたり、和平条約がいまだ実現していない国であって、その国の政治が悪いから外交関係を持たない、という事はまずない。

  あの北朝鮮であっても、金体制が独裁だから外交関係を持たないのではなく、戦後の国交回復がなされていないから外交関係がないのだ。

  だから日本もまた、多くの「好ましくない体制」の国々と外交関係を維持し、大使館をその国に構えることになる。勤務させられる事になる。

  そこで冒頭の質問に戻る。

  14日の産経新聞に駐日イスラエル大使がイスラエル建国60周年を記念して都内のホテルでパーティを開いたという記事があった。

  会合には各国の外交関係者や日本の外務省の大使経験者ら、イスラエルに縁のある数百人が集まったという。

  そしてニシム・ベンシトリット駐日大使が「・・・ユダヤ人が勇気を振り絞ることにより、国を造ることができた・・・私たちは一つの夢を持っている。子の世代に国を残し、基本理念は平和であるということだ・・・」と話した、と書かれていた。
 
  それを受けて、日本・イスラエル友好議員連盟会長の野呂田芳成衆議院議員が

  「(イスラエルが独立した)1948年には日本はGHQの占領下にあり、国民は意気消沈していた。そんな時、イスラエルが、敵対する周辺諸国を相手に敢然と独立宣言をしたことは、大変励みになった」という祝辞を述べた、と書かれていた。

  私は思い出している。私がレバノンの大使をしている時、隣のイスラエルに勤務していた同僚の大使が、イスラエルのパレスチナ政策はなんとかならないか、と恐る恐る批判的な事をイスラエル政府に伝えた事があった。

 そのとたん、イスラエル政府は、烈火のごとく怒り、再びこのような事を言えば国外追放すると言わんばかりの対応を見せた事を。

 それ以上イスラエルとやりあうとその大使は外務省からいさめられるであろう。イスラエルとの関係を悪化してまで、パレスチナ問題に肩入れするなと。

 外交も人間関係も同じである。自分が絶対的に正しいと誰もが思う。正しい事であっても、それを相手に言えば、言われた相手は怒る。

 それなら二度と付き合わない、と別れられるのなら事は簡単だ。しかし、現実は、どんなに気に食わない相手であっても、様々な配慮や打算で、つきあいを続けざるを得ない時がある。

 だから、誰もがイスラエルの不正義を心に感じていても、それを不問にして、上記のパーティ席上のような表面的なエールの交換を続ける事になるのである。

 不器用な私にはそれができなかった。パレスチナの犠牲の残酷さを知ってしまった私にはイスラエルの非から目をそらすことはできなかった。

 あなたが駐イスラエル国の大使なら、果たしてどう対応するであろうか。
 
  

  

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2008年05月13日

 たとえば私はこんな記事に注目した(13日の紙面から)


 たとえば私はこんな記事に注目した(13日の紙面から)

  ひとつの記事を論考する事によって自分の考えを述べる、それが私のブログである。

  しかし、たとえば13日の紙面から、注目した記事を引用して自分の考えを伝える事もできる。

  それが今日のブログである。読者はどう思ってそれらの記事を読む事であろうか。

  以下は順不同でピックアップした記事の要約である。

  トヨタ自動車の今期の営業利益予想が三割減というのは想定の範囲内で、驚きではない・・・衝撃は2008年1-3月期の四半期決算で、これまでドル箱だった北米の営業利益が、わずか一年足らずの間に激変したことだ。(07年4-6月期の1602億円の黒字が、124億円の赤字へ)・・・トヨタの決算が映すのは、単に一企業の不振ではない・・・米経済の低迷が長期化すれば、トヨタに限らず多くの日本企業にとって手痛い打撃となるだろう。世界を見渡して、米国ほど購買力豊かな市場は存在しない・・・日本企業に突きつけられた課題は大きい。(日経、一目均衡 編集委員 西條都夫)。北米頼みの日本経済の体質は変わらない。対米追従は政府だけではないということか。

  「日本の教育投資は主要先進国と比べ遜色ない」。財務省は12日、「日本の教育支出は他の主要先進国より低水準」として、国内総生(GDP)比で3・5%の教育支出を、10年間で5%に引き上げるべきだとする文部科学省に、真っ向から反論する文書を公表したという(各紙)。
  何のことはない。官僚と族議員の予算の分捕り合戦である。日本の教育をまじめに考えて行われる議論ではない。

 「介護の喜びが伝われば、めざす若者が増えるのでは」。こういう期待を込めて、「介護職が主役のテレビドラマをやってほしい」と介護福祉士を養成する専門学校の校長がこぼした。厚生省も人材確保の研究会を開いたりしている。
 しかし必要なことは、そんなうわべだけの広報活動ではない。政府の介護報酬の引き下げこそ問題にされなければならない。過酷な勤務に心身を壊し、「月給20万円程度では結婚もできない」と嘆く若者に希望を持たせる「待遇改善」こそ必要なことである。(朝日新聞、政策ウオッチ)

 「率直に言って(イスラエルとの和平交渉は)何も進んでいない」。パレスチナ自治政府のアッバス議長は4月下旬、ワシントンでブッシュ米大統領と会談後、米メディアのインタビューに不満をぶちまけた・・・自治政府筋は毎日新聞の取材に対し、「議長は今後も交渉成果が見えなければ、辞職も真剣に検討している」と延べ、閉塞感を強調した・・・(毎日新聞は5月14日のイスラエル建国60週年記念日を前に特集記事を組んでいた。
 その毎日新聞の記事は全編「戦闘、侵攻、抑圧の60年イスラエル建国史」の行き詰まりを述べるものであった。

 「台風の目に入ったか、奇妙に凪の政界である。衆院山口2区補選で勝ったのに、民主党は問責決議案を提出しない」
 これは、朝日新聞の政治コラム「政態拝見」で曽我豪編集委員が書いている記事の冒頭の言葉である。
 しかし、何をいまさら、の感がする。そのような馴れ合いのような緩みきった政治を許してきたメディアの政治記事もまた、無力感が漂う凪の記事ばかりではないのか。

 その政治について今度は産経新聞の「政論探求」が、花岡客員編集委員の記事として、次のように福田政権を批判していた。
 「胡錦涛国家主席の訪日も福田首相の得点にはならなかった。むしろ、首相経験者との朝食会でチベット問題に言及した安倍前首相が、久々に存在感を発揮したのが目立った・・・衆議院山口2区補選の惨敗(は)、自民党執行部の判断ミスだ。小泉チルドレンの福田良彦氏は「次回は落選」が当然視されていた。福田氏はそこを読みきって早々と転出したのである。自民党執行部が、次期衆議院選挙で比例上位へのランクを「密約」するなど、市長選出馬を食い止めていたら補選はやらずにすんだ・・・
 自らの地元山口で必死に応援演説をしたにもかかわらず、自民党候補者を勝たすことのできなかった安倍前首相については、しかし、産経新聞は何も触れていない。

 公明党の矢野洵也元委員長が12日、創価学会と幹部7人に5,500万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした(産経新聞)。
 言論活動の中止や多額の寄付を強要され、精神的苦痛を受けたからだという。
 原告の訴えが事実であるとすれば驚くべきことだ。
 どちらが勝訴するということよりも、裁判所は、少なくとも事実認定だけは正確にしてもらいたい。

 作家小林多喜二の代表作「蟹工船」の売れ行きが、若い世代を中心に好調であるという(朝日新聞)。
 凍える洋上で過酷なカニ漁を強いられる男たちが、暴力的な監督に団結して立ち向かう昭和初期のプロレタリア文学が、いまなぜ若者に読まれるのか。
 「小説の労働者は、一緒に共通の敵に立ち向かえてうらやましい」
 「隣の席で働くのは別の派遣会社から来たライバル。私たちの世代にとっては、誰が敵かもよくわからない」
 「私たちならばあきらめるかも。蟹工船で働く人たちは偉いですよね」
 「蟹工船」が発表されたのは1929年。小林多喜二はその4年後の33年に、反共弾圧の築地警察署で拷問され絶命した。
 日本にもそういう時代があったと言うこともまた、若者は知るべきである。

 政府が6月上旬に発表する「福田ビジョン」に、2050年時点での日本の温室効果ガス削減目標を60-80%と盛り込む方向で調整を進めていることがわかった。胡錦涛主席訪日を政権浮揚につなげられなかった福田首相は、北海道洞爺湖サミットで存在感を示すためにも、温室効果ガス削減目標で欧州と同じ方針を示すことになったと見られる(産経新聞)。
 しかし、これを初めて明らかにしたのは町村官房長官の10日の講演であったという。首相サイドは「寝耳に水」で「福田ビジョン」の「福田」とはいったい誰のことかと不満を見せているという。
 週内に関係閣僚に今後の対応を指示し、「首相主導」を見せようとしていたのを、町村氏が「先にばらした」(政府関係者)ためで、首相と町村氏の疎遠な関係を改めて浮き彫りにさせている、という。
 その一方で、経済界との調整を求められる経済産業省は「60-80%の削減メニューはまだできていない。数字だけが先走ってしまい、本当に積み上げていけるのかわからない」(同省関係者)と困惑しているという。
 あまりにも次元の低い話だ。どうしようもない状態だ。
 

 

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2008年05月12日

強く生きることの難しさと大切さ


 強く生きることの難しさと大切さ

  このところ、政治がまったくつまらなくなってきている。それはなぜか。政治家に理想がなくなったからだ。政治家という特権を手放すことを恐れ、闘う事を恐れて、皆が保身に走っているからだ。

  そして、それを国民が許している。国民の間で政治対する怒りが失せ、あきらめの気持ちが強くなっているからだ。国民もまた保身に汲々としているのだ。

  12日の産経新聞の「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆が目に留まった。

  小林毅論説委員の手になる「一筆多論」のなかで、彼はこう書いている。

  かつて「三無主義」という言葉があった。「無気力、無責任、無関心」のことである。これは、昭和40年代後半の若者の姿勢を、戦後復興に懸命に取り組み高度成長を実現した人々が、苦々しい表情で批判した言葉だ。
  しかし最近の日本には、新しい三無主義がはびこっているように見える。しかもそれは「若者限定」ではなく、老若男女を問わず、社会全体を広く、深く覆っている。
 それは、そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか、という新三無主義の風潮である・・・

  この風潮が、「似非改革」を叫ぶ小泉元首相にだまされて熱狂した国民を生み、その小泉改革にだまされた、苦しめられたことがわかった今では、その怒りを小泉批判に向かわせることなく、逆に、より弱いものをいじめる方向に暴力的に走らせている。

  権力者にとっては、なんと都合のいい国民であろうか。

  この小林毅論説委員の随筆はまた、5月3日の東京新聞「本音のコラム」における伊藤洋一住友信託基礎研究所主席研究員の次の随筆を私に思い起こさせてくれた。

  彼はその前のコラムで、「最近日本では自動車のクラクションをあまり聞かなくなった。一般的に後進国ではやたらにクラクションを鳴らす。日本もかつてはそうであったが、クラクションがならなくなったということは、日本も先進国となり、日本人も洗練してたのではないか。結構なことだ」という趣旨の事を彼は書いた。

  それに対し、すかさず友人から次のようなメールをもらったという。

 「刺される恐れがあるからですよ。よほど必要でない限り、鳴らしたら報復されるかもしれないので・・・」

 また別の友人も「さわらぬ神にたたりなし(無駄な喧嘩をしては損をする)」と言ってきた。

 そして伊藤氏は「この反応には本当に驚いた」、と言い、また「そうかもしれない」と考え込んだという。

 考えこんで、妙に感心して終わっては困るのである。誰でも考える事は同じだ。そしてその事がわかっていても、誰も行動を起こそうとはしない事も同じである。

 正しいことを言い続けることは勇気がいる事だ。ましてやそれを行動に移す事はもっと勇気がいる。

 しかし、自分に忠実に強く生きる勇気が、今ほど大切な時はない。

 

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2008年05月10日

政権交代なき自民党の終焉

  政権交代なき自民党の終焉

   5月9日号と16日号の週刊朝日において、田原総一郎が二回にわけて二人の自民党政治家とのインタビューを行っていた。中川秀直元幹事長と与謝野馨前官房長とのインタビューだ。

   それを読んでつくづく思い知らされた。自民党はもはや政権政党として終わっている、と。

   10日の各紙は、財務省が9日に発表した07年度末の国の債務残高をいっせいに報じている。前年度より増えて過去最高の849兆円となったという。

   いうまでもなく財政赤字削減は政権政党である自民党の長年の最大の公約であった。

   そのために、痛みを伴う改革を自民党政治は国民に強いてきた。その象徴が小泉政権5年半の「改革」政治だった。

   ところが、掛け声だけの改革は、赤字を解消するどころか増加させた。

   小泉は逃げて口を閉ざし、残された自民党は、今、その解決の方法において、さらなる緊縮(増税)の与謝野と、財政支出による経済成長(上げ潮)の中川が、真っ向から対立している。

   政策の基本のところで対立している。そのような政党が、どうして政権政党を続けられるというのか。

   しかし、私が自民党は終わっていると言うのは、その事ではない。

   解散・総選挙を恐れて逃げ回っている事である。

   政策で真っ向から対立している中川と与謝野も、この点では見事に一致している。

   週間朝日のインタビューのなかで、中川は、「任期満了まで解散・総選挙はすべきではない」と言い、与謝野は「自民党の国会議員はみんな、それだけは(解散・総選挙だけは)やめてほしいと思っています」と、国民にばらしている。

   こんな政権政党など見た事がない。選挙から逃げる政党など政党ではない。

   それにもかかわらず政治に緊張感がまったくないのは野党の弱さである。

   天下分け目の山口補欠選挙はいったい何だったのか。

   民主党は、なぜ政権交代の絶好のチャンスを、指をくわえて見逃そうとしているのか。

   野党はなぜ団結して自公政権打倒に突き進めないのか。

   その答えは、もはや政治家たちは政界再編に走りだしているからだ。

   政権交代を実現するのだといい、キャスティングボートを握る事を目指すのだ、というのも、すべては、来るべき新たな政治状況において、有利な地位を確保したい、あわよくば政権政党に入りたい、という保身である。

   選挙の後に想定される連立政権に入るには、誰と組めばいいか。そんな政治家の打算だけが走り出している。

   そこには、国民の視点にたって、国民のための政策をどう実現するか、と本気で考える政治家は一人もいない。

   自民党がどんなに選挙から逃げ回っても、来年9月までには総選挙をしなければならない。そしてその時は自民党は負ける。政権政党を終える。

   しかし自民党政治が終焉しても、真の政権交代が起きなければ何も変わらない。自民党はなくなるけれど、新しい自民党なる政党と、それに類する政党との談合連立政権ができるだけである。国民が救われる事はない。

   今までにない、まったく新しい政党や政治家が出てこない限り、この国の政治は面白くならない。

   なによりもこの国はまったく変わらない。勝ち組の支配が続き、皆が勝ち組の仲間入りを目指してなびく、そういう社会がどんどんと進んでいくに違いない。

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2008年05月09日

 胡錦涛訪日と産経新聞の報道振りに思う


 胡錦涛訪日と産経新聞の報道振りに思う

  何から何まで中国を目の敵にして報道する産経新聞。チベット問題に関する中国批判が見られない日はない。

  だから今回の胡錦涛訪日について、産経新聞がどのように激しい批判的な記事を書こうと、驚くに値しない。

  中国には確かに批判されるべきところはある。それが正しい批判であれば中国にとっても有益であろう。そう思って私は産経新聞の対中批判記事を熱心に読んできた。

  しかし、9日の産経新聞の報道振りについては、心の底から苦笑せざるを得なかった。

  胡錦涛主席と創価学会名誉会長の池田大作氏との「うれしい再会」を、大きな写真入で詳しく報じている。そこには一切の批判的な言辞はない。

  その同じ紙面で、中曽根大勲位が、胡錦涛主席の来日と福田首相との日中首脳会談は、「歴史的意義がある」と評価した事を、これも何の批判もすることなく、そのまま載せている。

  さすがは中曽根大勲位である。いい事を言っていた。私もまったく同感である。

  それは産経新聞の言説とはまったく正反対であるが、その正反対の意見を掲載する産経新聞も、立派である。

  ところが、苦笑せざるを得なかったのは胡錦涛主席と歴代4首脳の朝食会で、安倍前首相が中国側にチベットやウイグルの人権問題を指摘した事を大きく取り上げ、それをグッドジョッブであるといわんばかりに誉めそやしていることだ。

  池田大作氏や中曽根大勲位の記事よりもはるかに大きく、詳しく書いている。

  冗談はよしてくれ。安倍前首相がどんな辞め方をした男か、忘れたのか。国民を失望させ、世界中に日本の恥をさらした、前代未聞の首相ではなかったか。

  まともな政治家であれば、あのような形で総理を辞めた時点で、議員さえも辞めるべきであった人物なのだ。あのような情けない体たらくを一番嫌うのは産経新聞ではなかったか。

  いくら中国批判をしてくれたからといって、そんな人物を誉めそやすようでは、私のこれまでの産経新聞に対する評価は、見事に失墜せざるをえない。産経新聞の志は一体何なんだ。

  それにしても安倍晋三という男、何を勘違いしているのだろう。これ以上晩節を汚してくれるな。その程度の政治家は、この国にははいて捨てるほどいる。

  

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2008年05月09日

目を疑う朝日新聞の小泉元首相インタビュー記事

 目を疑う朝日新聞の小泉元首相インタビュー記事

  5月9日の朝日新聞に「音楽と政治」小泉元首相に聞く、というインタビュー記事があった。

  何だろうと思って読んでみたら、小泉元首相が近く日経新聞出版社から発刊する予定の「音楽遍歴」と題する本の前宣伝記事であった。

  嬉々としてインタビューをし、その記事を書いた記者は、朝日新聞元政治部編集委員の早野透氏である。

  彼はまず、在任中に、頻繁にオペラ鑑賞をしたり、プレスリーを歌ったりして、大の音楽好きであると知られている小泉元首相ならではの出版だ、と持ち上げる。

  そして、その小泉元首相に、「音楽と政治」について、久しぶりにインタビューしたと、その応答を次のように書き連ねる。

  中学生の時にバイオリンを始めた小泉氏は、ハイフェッツの演奏する「ロマンス」をレコードで聞いて、ああ、自分の下手なこと!天才にはかなわない、以後、聴くのを専門にしよう、と思ったという。

  (政治の天才だったじゃないですか)「いやいや、天才は政治に向かない。国民とかけはなれちゃう。凡才が政治家になるんですよ」

  「オペラは愛である。そこには嫉妬も憎悪も死もある」

  「権力も愛の前にはむなしい。ベルディのドン・カルロスを聞けばよい」

  (郵政改革の時はミュージカル「ラマンチャの男」に励まされドンキホーテの「見果てぬ夢」を次のよう  に口ずさんだ)

  「夢は実りがたく、敵はあまたありとも、胸に悲しみを秘めて、我は勇みて行かん」

  (このごろどう過ごしていますか?)
  「本読んだりテレビ見たり、コンサートに行ったり、たまに政治会合」

  (ちまたには再登板を求める声がありますよ)
  「それは私を知らない人たちのいう事。総理大臣はつらいよ。しっちゅうあまたの敵と闘っているのは」
  (ご自分の葬儀にはどんな曲を?)
  「モリコーネの映画音楽を聴いてもらうのがいいんじゃない」

  このインタビュー記事に強い違和感を抱いた私がおかしいのか。

  第一線を退いたとはいえ、早野氏は長年政治部の記者を務めた人物である。今日の日本の混迷の根本原因は5年半の小泉政権の結果引き起こされたものであるという事を知らないはずはない。

  いくら保守化したとはいえ、朝日新聞は権力を監視する事を標榜してきたこの国のジャーナリズムを代表する大手新聞である。その朝日新聞が、このようなちょうちん記事を掲載するとは。

  せめて早野氏にはインタビューの最後に言って欲しかった。

  「5年半もこの国の首相を務めたあなたが、今国民が苦しんでいる時に、日本の未来についてとるべき政策を何も語らなくていいのか」、と。

  「好き勝手な余生を送るのは御自由だが、自分の楽しみだけを追求するのであれば、議員バッジをはずしてからにして欲しい」と。

  ちなみに、小泉元首相の近刊本「音楽遍歴」は、次のような言葉で結ばれているという。

 「総理大臣の職責から解放されて・・・これからは埋もれている名曲や新しい名曲を求めて遍歴の旅に出かけようと思っている」
  

  

 

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2008年05月09日

メディアから無視された憲法9条世界会議


 メディアから無視された憲法9条世界会議

  5月9日の朝日新聞に、「9条に世界からエール、幕張・世界会議に2万人」という囲み記事があった。

  この憲法9条世界会議については、これまでも新聞で二、三度見かけた記憶があるが、いずれも目立たないものだった。テレビに至っては、この会議の映像を流した局を見た記憶はない。

  9日のこの朝日新聞の囲み記事で、私ははじめて詳しく知る事ができた。

  「世界がもし100人の村だったら」という本の著者である池田香代子さんらが中心となり、井上ひさしさん、ピーコさんら、約90人が呼びかけて始まった会議であるという事を。

  31の国と地域から、ノーベル平和賞受賞者や大学教授や、イラク戦争経験者ら、150人あまりがやってきたという事を。

  そして、彼らが、「憲法9条を世界に広めるために来た」、「憲法9条を見習うべきだ」、「憲法9条は日本だけのものではない」、などと口々に語ったという事を。

  娯楽や芸能ニュースばかりがもてはやされるご時世で、平和集会に2万人を超える観客が集まるという催しは、それ自体が一大ニュースであるはずだ。

  しかしそれがほとんどニュースにならなかった。

  そういえば同様の会議は大阪でも一万人を超える参加者を得て開催されたけれど、やはりニュースにならなかったという。

  あまりにも不自然だ。作為的だ。

  報道されないということは、当事者や関係者以外の一般の国民にとっては存在しない事と同じだ。

  どれほどこの会議が熱気につつまれたものであっても、国民の間に広がっていかない。一過性で終わってしまう。そうさせたい力が働いているかの如くだ。

  日米軍事同盟を推し進めるために、国民の中に護憲の動きが広がる事を恐れる権力側の、作為的な報道抑制があるに違いない。さもなければ、権力に従順な昨今のメディアの報道自粛があるに違いない。

  もしそうであるならば、それに抵抗して行こうではないか。

  私は、この素晴らしい「憲法9条世界会議」を呼びかけ、主催した関係者に敬意を表するとともに、お願いをしたい。

  どうかこれをスタートとして、「憲法9条世界会議」を継続・発展させて行って欲しい。そして政府やメディアが無視できない程の大きな国民的動きにつなげて行って欲しい。

  それこそが、既存の護憲政党が決してなしえる事のできなかった、憲法9条の下の平和勢力の結集である。既存の護憲政党の党利・党略を超越した、あらたな政治的動きである。

  平和を願う普通の国民が待ち望んでいる動きである。

  今の日本を救うのは、そのような新しい動きしかない。
  

  

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2008年05月08日

胡錦涛主席の訪日を日中歴史上の大きな転換としたい


 胡錦涛主席の訪日を日中歴史上の大きな転換としたい

  これから書くことは私の希望である。外交に多少なりともかかわった者として、ある程度の知見と情報に基づいて書いている。

  しかしそれ以上のものではない。あくまでも感想である。それも私の希望的な感想だ。

  胡錦涛主席がどうだとか、福田首相がどうだとか言うものではない。中国が好きだとか嫌いだとか、そんな話ではない。ましてやギョーザ問題やチベット問題や東シナ海油田問題などで何の具体的な進展がなかった、などという個別案件的なものではない。

  日本は開国して脱亜入欧をはかり、植民地戦争に突入してアジアを植民地化した。その日本が、太平洋戦争に突入し、破れ、米国の占領国となった。

  そして戦後は一転して対米従属となり、今日に至るまで戦後62年間、自主、自立外交を失ったまま日本という国を米国に完全に喪失させられてしまった。その結果としての今日の国民の困窮である。

  そういう近・現代史の流れを冷静に振り返った時、日中関係を正しいものにしていく事こそ、おそらくはこれからの日本の最大かつ喫緊の外交課題に違いない。

  繰り返して言う。好きとか嫌いとかいう話ではない。世界の多くの国、とりわけ開発途上国の歓迎する形で、日中友好関係は構築されなければならない。

  それを阻む勢力こそ米国なのだ。だからこそ常に米国は離反政策を画策してきた。

  その事を中国も知っている。中国は米国との関係を重視する。しかし決して米国に心を許してはいない。中国こそ、日本の対米自立を誰よりも望んでいるのだ。平和国家日本との互恵関係を望んでいるのだ。

  米国に命じられるままに作為的に日本を米国に差し出そうとする者たちや、その手先となって走り回る者たちも、過去から未来に貫かれる悠久の歴史に思いをはせ、自らの考えを改めるべき時である。

  外交とは無縁の一般国民であっても、そろそろ気づくべきである。日本と中国がともに力をあわせることが出来れば、それは間違いなくお互いの未来にとってよいことであるということを。

  今回の胡錦涛主席の訪日をめぐる報道の中で、私は特に次の二点に注目した。

  一つは日中共同声明第4項で、「双方は互いに脅威とならないことを確認した」という文言がある事だ。
  今までに出された共同宣言の中でも、あるいはこの言葉は使われていたかもしれない。しかし中国が着実に近代化を進め、世界経済に大きな影響力を持つようになりつつある今日ほど、この声明が重要な意味を持つことはない。

  日本と中国がお互いを軍事的脅威ではなく、平和的友好国であると世界に声明したのだ。

  この声明が偽りでなければ、日本の安全保障政策は対米従属から、自主、自立の平和外交へ発展していかなければならない。

  二つ目は、個人の身勝手な言動で日中関係をぶち壊した小泉元首相が、宮中晩餐会ほかのすべての歓迎行事に、歴代の首相のなかでただ一人、出席できなかったという報道である。

  呼ばれなかったのか、自ら辞退したのか、新聞では不明である。おそらく辞退したのだろう。しゃらくさいと思ったのだろう。

  歴史の大きな流れに、あだ花であった卑小な政治家小泉純一郎が弾き飛ばされたのである。私は彼が政治の場に再び登場する事はないとかねてから思って来たが、この欠席によってそれが確信となった。

  繰りかえしていう。これは私の勝手な感想だ。しかも希望的な感想だ。しかし日中友好関係の圧倒的な重要性の前に、ここ数日間、あらゆる反中的な言説が見事にかき消されてしまった。

  具体的成果の何もない訪日であったかかもしれない。成果はパンだの貸与だけだと嘲笑する報道者もいた。

  しかし、そんな言説など一蹴する重みが今回の胡錦涛主席訪日にあった。日中友好関係、その事がすべてを凌駕したのだ。

  それは胡錦涛主席がえらいわけでも福田首相がえらいわけでも、外務省が偉いわけでも、親中国国会議員がえらいわけでもない。

  悠久の日中関係と両国民がそれを求めているのである。

  日中友好関係がゆるぎないものになった時、ギョーザ問題も東シナ海問題も、チベット問題も、そして歴史問題さえも、すべてが解決する。私はそう思って今回の訪中を眺めていた。

  

 
  

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2008年05月07日

雑誌ジャーナリズムから学ぶ


 雑誌ジャーナリズムから学ぶ

  以前このブログでも触れた事があるが、月刊誌に「紙の爆弾」(鹿砦社)というのがある。

  一言でこの雑誌を説明すると、かの「噂の真相」が廃刊された後を継ぐべく、反権力を標榜するスキャンダル誌を目指して三年前に発刊された月刊誌、ということになる。

  その最新号(6月号)に、元週刊現代、フライデーの編集長として権力批判の紙面づくりを貫いた元木昌彦氏が、「雑誌ジャーナリズムの原点」というタイトルで、次のような寄稿を書いていた。

  元木氏は私が好感を持って見ている数少ないジャーナリストの一人である。

  「ここ数年、雑誌ジャーナリズムを萎縮させる出来事が続いている。個人情報保護法成立がその最たるもので・・・出版はメディアではないといわんばかりの露骨な「雑誌規制」が盛り込まれた・・・
  権力側は、記者クラブに縛られず、法律で規制することも出来ない雑誌に対して、着々と牙を研いできたのだ。
 名誉毀損裁判の賠償額の高額化もその一つである(が)、個人情報保護法によって、出版社の発行する雑誌や、そこを舞台に権力批判するライターたちに網を掛け、取材活動を制限し、この法律を盾に、権力者側による出版差止めを容易にさせてしまった・・・
 雑誌はタブーに挑戦すると公言していた時代があったが・・・今ではタブーはなくなるどころか、メディア側の自主規制によって、ますます多くなっている・・・鶴タブーといわれた創価学会批判も細々となり、電通タブーは、景気が悪化する中でますます大きくなっている。
 そんな中で、「紙の爆弾」に期待するところ大である・・・もし「紙の爆弾」が休刊してしまえば、多くのタブーは、その存在さえも国民の目から隠され、国民のチェックを受けないまま肥大化してしまうであろう・・・
 「紙の爆弾」には、雑誌ジャーナリズムの原点を忘れず、権力と対峙するために、ペンの力をさらに磨いてほしい、と思う・・・」

  大変なほめようである。

  しかし、私も元木氏の意見に同感である。

  私は毎日大手新聞を購読してきたが、そこには決して見つけることの出来ない興味ある情報を、マイナーな雑誌の中に見つける事がある。

  やがてその情報が大手メディアの報ずるところとなり、世の中を動かす事もある。

  「紙の爆弾」のようなスキャンダル雑誌は、その記事のすべてを評価できなくてもよい。その中に、大手メディアでは決してかかれる事のない情報を見つける事ができれば、それだけで価値があるのだ。

  たとえば「紙の爆弾」が執拗に追い続けるテーマにパチンコ業界と警察OBの天下り癒着がある。私は、かつて官僚として同じ釜の飯を食った経験から、この癒着の実態を知っている。だから「紙の爆弾」の記事の凄さがわかる。

  およそ天下りはどの官庁のそれも醜悪なのであるが、警察官僚の天下りは、国家権力の悪用と直結しているだけに最も醜悪である。

  それを正面から追及したばかりに、鹿砦社の松岡利康社長は名誉毀損で逮捕され、懲役1年2ヶ月、執行猶予4年の刑を受けた。

  マスコミ人が名誉毀損で逮捕され、192日間も拘留されるなどということは前代未聞であるのに、大手マスコミは、松岡社長が「暴露本」出版社の社長であるといわんばかりに、松岡社長逮捕を無視した。だから、この事件は世の中に広く知られることはない。

  雑誌ジャーナリズムに、「頑張れ」と言うのは簡単である。しかし彼らは採算が取れるかどうかのぎりぎりのところで、体を張って書いている。

  「朝すばっ!」の司会者であるみのもんたの一日のギャラが800万円であると、芸能レポーターの梨本勝が話している。

  そういう人間に反権力の報道ができるのか。そこに群がる解説者たちが弱者の立場に身を置く事が出来るのか。

  雑誌ジャーナリズムが認知され、収入源を増やし、マスコミ志望の若い編集者、記者が高給をもってそこに集まるようになる時こそ、この国のジャーナリズムが復権する時だと、私は思う。


 

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2008年05月06日

 石破防衛大臣の訪米取り止めと日米同盟の空洞化

 石破防衛大臣の訪米取り止めと日米同盟の空洞化

  もう一ヶ月前のことになるが、4月10日の朝日新聞は、石破防衛大臣が連休中の訪米を断念した、という記事を流していた。

  連休には、閣僚がこぞって、外遊という名の息抜き海外旅行をすると相場が決まっている。しかし今年は政局がらみで足止めとなった。所詮その程度の外遊なのだ。

  しかし石破防衛大臣の外遊取り止めは、それとは事情が違う。行きたくても行けなかったのだ。

  4月10日の朝日新聞によれば、会談の日時や場所が決まっていたにもかかわらず、日米の思惑の違いによって、訪米を断念せざるを得なかったという。

  これは異例な出来事である。それにもかかわらずメディアはこの事をまったく取り上げなかった。

  忘れかけていたところに、連休の最後の日である5月6日に、朝日新聞が、「日米同盟 揺らぐ足元」という見出しで、その理由を明らかにしてくれた。

  米国が日本に求める唯一の関心事は、「米軍再編」に対する協力である。そしてその象徴が普天間飛行場の移設である。

  それが進まない限り、日本が求める沖縄海兵隊のグアム移転も行わない。パッケージで同時解決したいという。

  もはや米国の安全保障政策にとって海兵隊を沖縄に置いておく必要性はないにもかかわらず、そして、海兵隊のグアム移転の巨額な経費を日本側が分担すると言っているにもかかわらず、普天間移転が進まない限り、海兵隊のグアム移転もない、と圧力をかけているのである。

  米国はこの普天間飛行場の移転問題を議題にしたいと要求した。しかし日本側はその議題を避けたい。そのかわり日本側が議題にしたいと要求したのは、次期主力戦闘機として米国の最新鋭ステルス機を買いたい、だからその情報を提供して欲しいというものであった。

  米国は機密上の理由から、日本にはステルス戦闘機は売れないと突っぱねてきた。昨年には安倍首相まで動員して要請したにもかかわらず、米国は応じなかった。

  そして今度の石破大臣とゲーツ国防長官との会談でも、日本側の要求にもかかわらず、米国はこれを議題にすることを拒んだ。

  普天間移転問題を議題にすることができず、ステルス戦闘機を議題としたいというのなら、そんな会談などする必要はない、という事なのだ。

  これが石破大臣が訪米を断念した理由である。これが日米同盟の実態なのである。それにしても、日本と米国の安全保障担当大臣が、こんな問題を議題とする事でもめるという。なんと情けない話ではないか。

  日本政府はそころそろ国民に本当の事を話すべきだ。米国は日本を守ることなどもはや何の関心もない。米国の唯一の関心は、テロとの戦いのために、日本の自衛隊と在日米軍基地を利用する事だけである、と。

  我々国民は、そろそろ本当の事を知るべき時である。日本政府が国民に決して教えなくても、日本は占領時代から今日まで、徹底的に米国に利用され、しぼりとられてきたという事を、我々の手で知るべき時が来ている。

  日米同盟が空洞化しつつあるのではない。日米同盟は、その当初から、米国の安全保障政策のためにあった。それだけの話である。

  

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2008年05月05日

   連休に思う

 連休に思う

  世のサラリーマンにとって最大の休みの季節が終わろうとしている。やがてふたたび世の中が動き出す。ニュースも活発化する。

  働かざるもの食うべからず、という社会的モラルがある。私もそう考える一人だ。

  しかし、親が金持ちだったり、若くして大金を得たりと、何らかの事情で働かなくても一生遊んで暮らせる身分に自分が置かれたら、そんないいことはない、とも思う。

  そういう状況に置かれたら人間が駄目になる、と言う声が聞こえてきそうだ。しかし必ずしもそうではない。本人がしっかりしてれば、遊んで暮らすことと、立派に生きる事とは両立させられると思う。

  なぜ、私がいきなりこんな事を書くかといえば、連休の終わりになって決まって流されるUターンラッシュのニュースを見ながら、二、三日前に読んだある新聞記事を思い出したからだ。

  日経新聞の5月3日か4日の記事だったと思う。足立則夫という特別編集委員が「不機嫌な人」という随想で、次のような事を書いていた。

 ・・・雨の日、東京のビジネス街でタクシーに乗ったら、人のよさそうな個人タクシーの老ドライバーが嘆いた。「機嫌の悪いお客が多くて、いやになります」・・・
  
  足立編集委員の乗る前に、そのタクシーに若いビジネスマンの客が乗ったという。そしてその若者の態度について、その老ドライバーがこう話したという。

  「よく雨が降りますね」と声をかけても沈黙したまま。疲れているのかな、と思い、料金を受け取る時に「ありがとうございました。お仕事がんばってください」と言ってみた。返ってきたのは、「るっせーな」という捨てぜりふだったそうな。

  そして、足立編集委員は、ビジネス街を歩いても、不機嫌そうな男女が増えているような気がする、と次のように書いていた。

 ・・・現代人を不機嫌にするのは何なのか。社会の変化の波を今、もっとも強く受けるのは、職場・・・成果主義の弊害や、職場の同僚が面と向かって会話せず、電子メールによってやり取りする現象などによって、ギスギスした職場が増えている・・・

  私はこの分析が正しいかどうかわからない。

  しかし、数年前に突然外務省から辞職を言い渡され、不本意ながら職場に行く必要がなくなった私が、強がりをこめて思うのは、職場を離れて暮らす生活を始めてから人間性を回復したという事である。

  振り返ってみれば、私もまた外務官僚の頃は、すぐに不機嫌になる欠陥人間であった。その性格は今も変わらないとは思うが、それでも性格はおだやかになった気がする。

  今では私も世間並みの定年年齢を過ぎた。もう働かなくても許してもらえる年齢だ。かつては重い気分でUターンラッシュを経験していた私も、今では人事のようにそのニュースを眺める身分になった。

  そして思う。豊かな社会とは何か。それは若者が職場で人間性を失う事のない社会であり、十分に働いてきた年金生活者が安心して残りの人生を送れるような社会、これだと思う。

  何でもかんでも政治が悪いというつもりはない。しかし小泉改革以降の政治は、間違いなく不機嫌な国民を作り出していると思う。

  不機嫌な人たちは、タクシードライバーに八つ当たりをするのではなく、その怒りを連休明けに始まる貧困な今の政治と政治家にぶつけなければならない。

  

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2008年05月04日

暮らしと軍事問題は不可分であるという認識の重要性


  暮らしと軍事問題は不可分であるという認識の重要性

  選挙や世論調査のたびに明らかになるのは、国民の最大の関心は生活に直結する問題であるということだ。

  いま日本中で大問題になっているガソリン減税問題といい、後期高齢者医療制度問題といい、生活に直結する問題であるからこそ国民の反応は大きい。怒りも大きい。

  しかし、これらの問題の根本は、国の膨大な累積財政赤字問題にある。国家予算に余裕があればこれほど国民生活を犠牲にする政策をとらなくて済んだはずだ。

  なぜ赤字が累積されたのか。それは予算編成が財務省をはじめとした官僚に独占され、その官僚と利権政治家のしがらみによって、不合理な予算分配が続けられたからだ。

 国民はその不合理な予算編成から、常に遠ざけられたままである。

 そのような、与党政治家と官僚に独占された来た予算編成の中でも、最も聖域になっているのが国防予算である。

 特に日本の場合は国防予算は国民の声がまったく反映されない。一つには、「国防とか安保問題は難しい」と思い込まされているからだ。

 しかし、より大きな理由は、日本の国防政策は対米従属政策と同一であり、国民が何を言っても、政府の答えは、最後は、国民生活を犠牲にして米国に従う事に決まっている、という不毛さがある。

 それを如実に示してくれたのが5月3日の読売新聞一面のスクープである。

 皮肉にも憲法記念日の読売朝刊は、日米関係筋が2日明らかにした、という書き方で、次世代ミサイル防衛システムの日米共同開発に日本が了承した、という記事を一面トップで大きく掲載していた。

 その記事によると、ロシアや中国が新たな弾道ミサイルを開発している事に対抗し、米国は、2006年ごろから、急遽あらたな多弾頭ミサイル開発を検討し始めた。

 そして、米国単独での開発は負担が大きすぎるので、例によって米国は、共同開発という名の肩代わりを日本に求める、というものだ。

 読売新聞のスクープ記事の締めくくりの次の言葉が、すべてを象徴している。

 ・・・日本は当初、同意を渋った。多弾頭型の開発の完了期限や開発費が定まっておらず、「(共同開発を始めたばかりの)単弾道型ミサイルの能力を向上させる現在の日米共同開発に支障が出ることを避けたかった」(防衛省幹部)ためだ。
  ミサイル防衛システムの役割や能力、現状についての理解が、国民に十分浸透していないことも、新技術の共同開発に踏み込みにくい背景にある・・・
  (しかし)ミサイル防衛システムに関する日米協力は深化しており、今後も米国が日本に技術や運用面で様々な要求を求めてくる事が想定される。政府はその都度、国民に説明を尽く努力が必要だろう・・・

 この読売新聞の記事とは裏腹に、日米軍事協力のあらゆる問題は、国民への説明がなされないままに、そして国民の関心の高まりもないままに、どんどんと進められていくに違いない。

 しかもそのために財政負担はとてつもない額である。

  わずかばかりのガソリン税でこれほど大騒ぎをする。75歳の高齢者からむしりとる保険料などはミサイル開発をはじめとした日米軍事協力の負担に比べれば驚くほど少ない。

  そのアンバランス振りがまったく議論されない。追及されない。

  暮らしと軍事問題は不可分である。この事を国民がもっと認識しないと、今のガソリン税問題や後期高齢者医療問題や、更には年金問題さえも、その議論が馬鹿らしく思える。

  その事を教えてくれる読売新聞の5月3日の大スクープである。

 

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2008年05月03日

  「広告を出さない」と新聞社に圧力をかけた財界人


  「広告を出さない」と新聞社に圧力をかけた財界人

  このブログでもたびたび取り上げてきたが、毎週土曜日の読売新聞に連載されている堤清二(辻井喬)の回顧録「叙情と闘争」には、ときおり超ど級の史実が明らかにされることがある。

 5月3日の連載15においても、次のような興味深いエピソードがあった。

  新日鉄の副社長で「財界の政治部長」といわれた藤井丙午に誘われて、堤が朝日新聞社へ出向いて行った時のエピソードである。

 「おお、君、ちょうどいいところで出会った。これから皆で朝日新聞に行くことになっている。君もこないか」と僕を誘った。
 見ると彼と一緒に小坂徳三郎とか警視総監から参議院議員になった原文兵衛とかの顔が見えた・・・
 いわゆる財界の、政治に関するオピニオンリーダーが揃っていたので、新聞社側も広岡知男社長、重役の田代喜久雄氏をはじめ、各部の部長が出てきて、双方7,8名ずつの会談になった。

 広岡社長「今日は何ですか、お歴々がお揃いで」
 藤井丙午「おたくの新聞は、ここのところ二度にわたって、アメリカ空軍は北爆を止めるべきだ、という社説を掲げています。これは明らかに偏向である。もしこういう主張が続くなら、我々はあなた方の新聞に広告出稿ができなくなる。その事をお伝えするために来たんです・・・」


  ベトナム戦争で北爆が激しくなった時であるから、60年代前半の頃の事である。

  それから40年以上たった今日、新聞業界はかつて以上に広告収入に依存するようになった。

  だから今日では、ますますこのような圧力が強まっている事だろうと思ってこれを読んだ。

  そのせいで朝日新聞の論調が変わってきたのか。それとも、このような圧力をかける必要がないほど、朝日新聞が権力側にとって都合がいい新聞に変容してしまったのか、どちらだろうと思ってみたりする。

 

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2008年05月03日

福島重雄元裁判長ふたたび

 福島重雄元裁判長ふたたび

   私は5月1日のブログで、長沼ナイキ基地訴訟で違憲判決を下した当時の福島重雄札幌地裁裁判長が、朝日新聞に投稿した事について書いた。

   今度は、その福島裁判長をインタビューした記事が、5月3日の東京新聞「こちら特報部」に大きく掲載されていた。

   福島裁判長とは一面識もない私であるが、新聞記事を通して伝わってくる彼の生き方に、私はふたたび強い感銘を受けた。

   いくつかの彼の言葉を以下に引用しながら、その厳しい自己規制の人生を、読者とともに追体験してみたいと思ってこのブログを書いた。

   彼の生き方に賛同しない人がこの世の中に多く存在する事を私は知っている。それどころか、時流に身を任せて少しでも出世しようと考える者が大多数だろう。

   それはそれでいい。

   たとえば、国家権力に迎合し、違憲判決を避けて出世していった同期の裁判官たちよ。

   福島裁判長をほめなくてもいい。

   しかし、少なくとも、「福島はおろかだ」、とは言わないで欲しい。「俺たちのように要領よく生きたほうが人生勝ちだ」などと、自信を持たないで欲しい。

   どんなにうまく過ごした人生であっても、80近くにもなれば後は死が待っているだけだ。せめて人生の最後ぐらいは自分に素直になってもらいたい。

   次の福島裁判長の言葉を読んで、自分の人生との違いを振り返ってみて欲しい。いずれの人生であっても、やがて終わりを迎えるのだ・・・

  「・・・長沼事件なんて思い出したくないし、なるべく触れたくない。だから、当時の新聞を読んだ事もないし、資料も寄付してしまったんです・・・」

  69年、札幌地裁で判事になり、まもなくナイキ訴訟を担当。審理中に平賀健太所長(故人)から手紙が届く。
  「・・・最初は所長室や自宅に呼ばれ、口頭で『重要な事件だから、慎重に』と言われた。容認するなということです。所長と顔をあわせないようにしたら書簡が届いた・・・行政庁(法務省)出身の平賀さんを札幌地裁の所長にした最高裁の意図は見当がついた・・・」

  違憲判決を言い渡した翌年、東京地裁の手形事件担当に異動。その後、福島と福井の家庭裁判所へ。裁判長として判決を書くことは二度となかった。
  「・・・裁判官は憲法で身分が保障され、意思に反して免官、転官、転所されない、とされているが、そんなのは口先だけ。人並みの仕事もさせてくれない。ナイキ判決の後、ずっと辞めたかった・・・」

  4月17日のイラク訴訟違憲判決を知って、
  「・・・ここまで踏み込んでくれる裁判官が残っていたのは、一人じゃ寂しいですが、多少は心強い。五十年、六十年も違憲判決が出ないのでは、と考えないわけではなかったですから。消極ムードの中で、頑張って判決した・・・」

  最高裁の長官や判事は、内閣に指名、任命される。
  「・・・その最高裁が下級審を操る。どうしても政府の意向に沿うような流れになります。誰だって冷や飯を食うのは嫌だし、流れに乗って所長にでもなったほうがいいと思う。そういう裁判所の体制にしちゃった・・・本来もっと和気あいあいとした所だったが、司法行政がそういうふうにつくってしまった・・・」

 「法治国家なら憲法に従って社会制度をつくるのが当然。憲法の言う通り武力なしで努力する事もせず、最初から憲法だけを改正しようとするのは憲法に失礼だと思う・・・」

 「・・・今でも嫌な思い出ですが、年も年だし、後に言い残しておいたほうが、人のためになるかと思って・・・何かを残しておかないとね」

  

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2008年05月02日

中国遺棄化学兵器事業の不正を許した真の責任者


 中国遺棄化学兵器事業の不正を許した真の責任者


  ここ何ヶ月もの間、大手民間コンサルタント会社PCIによる、中国遺棄化学兵器ODA事業の不正流用疑惑が、大きく報道されてきた。

  そして、元社長である荒木民生容疑者の強引な言動に批判が集中されてきた。

  しかし、荒木容疑者のそのような言動を放置してきたのは誰か。それを指摘する記事がこれまで見られなかった。

  それをはじめて明らかにしたのが、5月2日の東京新聞である。

  すなわち、東京新聞は、特集記事「核心」の中で、荒木容疑者らの特別背任容疑の逮捕と、資金の流れの解明が進む中で、この事業をPCIに丸投げしてきた国の杜撰な仕事ぶりこそ、不正流用の温床であった、と指摘している。

  「他(の会社)はどこも手をあげなかった。非常にうまみのあるビジネスだ」
  「どれだけ弾(兵器)が出てくるか分からないから、中国に言われるまま日本は費用を払う事になる」

 これらは東京新聞に語られた関係者の証言である。この言葉からは中国政府や人民解放軍幹部への「上納金」の存在すら臭う。

  それでは、日本政府のどこがこの事業の責任部局であったか。それは1999年に内閣府に設置された担当室である。

  防衛庁(当時)や外務省などからの出向者で作られたこの内閣担当室こそ、遺棄化学兵器のスキャンダルを生んだ責任部局なのである。

  この担当部局は遺棄化学兵器の知識を持たない素人集団である。おまけにそこに送られてくる出向職員は、関係省庁の二流、三流職員の寄せ集めである。士気は上がらない。

  私もかつて内閣安全保障室に出向を命じられた事がある。その経験からこの中国遺棄化学兵器担当室の実態が容易に想像がつく。

  中国に遺棄されたままの化学兵器の処理という、重要だが後ろ向きの仕事を、出向職員からなる内閣担当室に押し付けた外務省、防衛庁の責任者こそ責められるべきなのである。

  特に、ODAを一元的に所管し、取り仕切る立場にある外務省の責任は大きい。

  パシフィックコンサルタント社は、長年にわたって外務省のODA事業を数多く受注してきたコンサルタント会社であり、外務省国際協力局と、その指揮・監督下にある国際協力機構(前身である国際協力事業団ーJICA)との関係は深い。

  結局、PCIは政府から仕事を丸投げされたのだ。それをいいことに、社長ら役員を送り込んだ「遺棄化学兵器処理機構」を設立し、事業を政府(内閣担当室)、外務省、国際協力機構から再委託、再々委託され、随意契約の利権をむさぼったのだ。

  総額一兆円ともささやかれるこの中国遺棄化学兵器事業の経費は、もとをただせばODAという名の血税である。

  繰り返して指摘する。このスキャンダルの真の責任者は、内閣に設置された担当室の無責任な丸投げ体質であり、パシフィックコンサルタントとの長年のODA事業委託関係を続けてきた、外務省とその実施機関である国際協力機構(その前身である国際協力事業団ーJICA)なのである。

  5月2日付けの東京新聞の特集記事は、この事ははじめて教えてくれた

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2008年05月01日

 ガソリン減税の混乱を煽り立てるメディア


 ガソリン減税の混乱を煽り立てるメディア

   この国の政治を語る事は馬鹿らしく思えてくる。だから極力書かずにすまそうとしてきたのだが、これだけはどうしても書いておかなければならないと思った。

   それはガソリン税をめぐる報道姿勢についてである。

   世論の多くがガソリン減税を支持し、暫定税率復活に反対していた。それにもかかわらず福田首相は復活させた。国民に喧嘩を売っているようなものだ。どう考えても福田首相は反国民的である。

   それにもかかわらず、メディアは福田首相への批判に向かわない。

   ガソリン価格が下がったのはわずか一ヶ月間だ。また値上げが復活した。何のための価格値下げだったのか。混乱するばかりだ。などと、あたかも民主党が反対した事が混乱の原因であるかのような報道ばかりだ。

   そんな情報操作に惑わされる事なく、我々は一連の税制改革について、それが国民のための議論ではなく、課税権限を手放したくない官僚と、その官僚に乗った自民党政治の税制改革でしかない、という一点を、見逃してはならない。

   それを教えてくれた貴重な記事を、4月29日の毎日新聞に見つけた。財務省と総務省(旧自治省が、地方財源改革をめぐって対立しているという記事である。

   すなわち、財務省は地方への税源移譲を認めるのであれば、その代わりに国が一般財源から地方に配分する地方交付税を大幅に削減すると主張する。

   しかし、総務省(旧自治省)は、地方交付税は自分たちが自治体を支配するための既得権であると捕らえている。だからはじめに地方交付税の削減ありき、という財務省の方針には徹底的に反発する。

   実は福田首相が暫定税率復活にここまで固執する理由も、財務省と国交省(旧建設省)の対立tという、国民不在の官僚支配にある。

   すなわち、暫定税率の名の下に道路建設予算を既得権益化している国交省と、その国交省から道路建設予算を既得権益化して配分してもらっている自治体は、一般財源化などくそ食らえなのである。

   そんな官僚のエゴを抑えきれない福田首相の官僚依存体質こそ、ガソリン税復活に見せた国民不在の福田政治の正体なのである。

   メディアがこの事を知らないはずはない。この国民不在の、官僚による血税の奪い合いを放任している福田政治の本性を知らないはずはない。

   しかし、メディアは、自民党・官僚体制を敵に回しては情報をもらえないとばかり、本当の事を国民に知らせようとしない。国民から背を向けて、もっぱら自民党と官僚の方ばかりを見ている。

   そんなメディアこそが国民の本当の敵であるのかも知れない。

   

   

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2008年05月01日

なぜ今ごろ騒ぐ


  なぜ今ごろ騒ぐ

  4月30日の東京新聞で、東京新聞が行っている「読者と対話の日」についての報告記事が掲載されていた。4月19日に、千代田区内幸町で開かれた第264回目の「読者との対話の日」の集いであるという。

  その中で、後期高齢者医療の問題について、「この問題を、なぜ今、騒ぐのか。早くから決まっていたのではないか・・・マスコミでとりあげてほしいことがたくさんある・・・・」と、マスコミの反応の遅れを指摘する意見が出されたという。

  これに対し、佐藤育男政治部長は、「後期高齢者医療制度ができたのは、2年前の小泉政権の時・・・当時、後期高齢者医療制度の問題点を報道しなかったのは、マスコミの責任だ」と答えたという。

 素直に非を認める佐藤部長には好感が持てる。

 しかし、私がここで注目したのは、五十住和樹社会部デスクの次の言葉だ。

 五十住デスクは、「制度の仕組みが複雑で担当記者にも難解な面もある」と答えたのだ。

 この率直な白状に、官僚支配のこの国の行政の本質的な問題がある。

 官僚は、暇に任せて机上の空論を重ね、複雑で、矛盾に満ちた欠陥法律を乱造してきた。そうして、自分たちだけが理解できる法律をつくって、自分たちの権限を守ってきたのだ。

 選挙の事しか頭にない政治家に、そんな複雑な法律が理解できるはずはない。採決前に官僚を呼びつけて教えてもらうような政治家ばかりだ。官僚の用意した法案を、ただ採決するだけの与党政治家なのである。

 野党政治家は、曲がりなりにも勉強をして問題点を追求する努力をする。しかし、多勢に無勢である。官僚は、議員もスタッフも少ない野党が追及できないように、わざと法案を複雑にし、乱造する。

 野党議員はアップアップ状態なのだ。

 ましてや、他社との競争に明け暮れる若い記者が、官僚のつくる法案を勉強して、その真意を見抜く事など出来るはずはない。

 こうしてこの国の、国民を切り捨てる政策がどんどんと作られていく。その多くは後になって多くの問題点が含まれている事が明らかになる。

 「今ごろ騒いでも法案が通ってしまったら終わりだ」

 そういう官僚の高笑いが、私には聞こえる。

 

 

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2008年05月01日

アフリカ開発会議という名のままごと遊び

 アフリカ開発会議と言うの名のままごと遊び

  こういう記事を書くことは私の本意ではない。読者にとって得るものがないからだ。外務省の仕事にケチをつけるだけの話だからだ。

  しかし、かねてから一度は書いておかねばならないと思っていた。外務省のやり方があまりにも目に余るものがあるからだ。その事を指摘できるのは私しかいない。それに免じておつきあい願いたい。

  4月29日の各紙は、「『日本・アフリカサミット』とあえて言わせていただく」という藪中事務次官の記者会見での唐突な発言を紹介していた。

  5月末に横浜市で開催予定の第4回アフリカ開発会議の名称を、外務省が、突然変更したのだ。

  第4回アフリカ開発会議は、40カ国のアフリカ首脳が参加する今年の日本外交の目玉行事である。

  それにもかかわらず、「国民にほとんど知られていない」。だから7月のサミットにあわせて、急遽「日本・アフリカサミット」と呼称して、思いつきで分かりやすさを狙ったのだ。

  すでにポスターなど印刷済みで、事務局は戸惑っている、というのにである。

  実は外務省はこのアフリカ開発会議を外務省OBや御用学者を使ってやたらに宣伝してきた。

  4月30日の産経新聞では岡本行夫氏が「人界観望楼」というコラムで、「アフリカが歩き始めた」などと持ち上げている。

  五百旗頭真防衛大学校校長(神戸大学名誉教授)や北岡伸一東大教授など、外務省御用達の学者が、最近新聞や雑誌で、やたらにアフリカ外交の重要性を書いている。

  笑止千万である。藪中といい岡本といい、五百旗頭、北岡教授といい、彼らはおよそアフリカなどには関心も知見もない対米重視一本やりの連中である。

  それがここへきてにわかにアフリカ外交の重要性を訴えている。明らかな宣伝活動である。

  米国研修を終えて私が最初に勤務したのがナイジェリアだった。72年の事だ。

  そして85年に外務省で課長になったのが英語圏アフリカ諸国を担当するアフリカ二課であった。

  さらには経済援助を担当して、アフリカ諸国の殆どを訪れている。

  だからアフリカ外交について、私は発言する資格はあると言わせてもらっていいだろう。

  日本外交の中で、アフリカは不在である。外務省幹部でまともにアフリカの事を考える者はいない。

  そういう連中が、今、日本・アフリカサミットの重要性を訴えている。

  この財政難の時代に、外務省はアフリカ地域に援助をばら撒き、名前も知られていないようなアフリカの小国に日本大使館を増設し、大使を乱造して税金の無駄遣いをしている。

  このいかさま外交を、鈴木宗男の秘書をしていたムルアカ氏が、月刊誌レベラルタイムス5月号で見事に言い当てていた。

  当時外務政務次官(今の副大臣)の鈴木宗男議員を利用して、関心のないアフリカに脚光を当てようとしたのが外務官僚であった。その外務官僚が、思いついたのがアフリカ開発会議であったのだ。

  以来、5年に一回のペースで開かれてきたこのアフリカ会議で外務省が行った事といえば、東京で会議を開催し、アフリカ諸国の閣僚を招待してばら撒いただけであった。

  そんなアフリカ開発会議は、アフリカの自立と発展にはなんら貢献しなかった。

  日本の都合でアフリカ外交をやっているというパフォーマンスの繰り返しであった。アフリカ諸国の間で失望と不満が出るのも無理はない。

  アフリカ諸国は見抜いている。外務省は本気になってアフリカの開発や生活向上のために支援する気はないと。

  日本の外務省が求めているのは、国連の一票であり、アフリカの資源でしかないと。そして援助をばら撒いて日本企業に仕事を与えてる事であると。

  そんなアフリカ諸国の冷めた意識を象徴するのが、安保理常任理事国入りを切望する日本に対し賛成票を投じなかったアフリカ諸国なのであった。

  5月末に開かれる日本・アフリカサミットは、大挙して押しかけるアフリカ首脳とその一行の世話と、ホテル、観光業者を喜ばすだけの壮大なパフォーマンスでしかない。

  そんなエネルギーと経費があるのなら、金をかけることなく頭を使う、もっと重要な外交を行うべきである。
  

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2008年05月01日

 長沼ナイキ訴訟で違憲判決を下した元判事の朝日新聞投稿

 
 長沼ナイキ訴訟で違憲判決を下した元判事の朝日新聞投稿


  福島重雄という元判事が、先般の名古屋高裁の自衛隊イラク派兵訴訟の違憲判決について、5月1日の朝日新聞に投稿していた。

  最初は気づかなかったが、読み始めてすぐにわかった。「・・・9条をめぐる裁判での違憲判断は、私が札幌地裁の裁判長時代に言い渡した『長沼ナイキ基地訴訟』の自衛隊違憲判決以来、実に35年ぶりのことだ・・・」というくだりを読んだ時に、この人があの福島裁判長だったのか、とピント来た。

  彼は、その投稿の中で、福田首相が今回の違憲判断に対して「傍論、脇の論ね」とそっけなくつっぱねた事や、「主文に影響しない違憲判断は蛇足だ」という一部批判に言及した上で、

  事実認定をまず確定した上で、その事実に基づいて、原告に訴訟するだけの権利、利益があるのかどうかを判断した手法は、裁判のあり方としては常道であり、なんら問題はない、と断じている。

  それどころか、航空自衛隊トップの「そんなの関係ねえ」発言をはじめ、政府関係者の指摘の多くは、判決のインパクトを弱めようとする意図が感じられる、と書いている。

  私もまったく同感である。

  あの判決は、在日米軍基地や自衛隊という一つの存在が違憲であるとした従来の違憲判決を超えて、「自衛隊を米軍の後方支援のためにバクダッドへ派遣した」という「政府の政策そのもの」が違憲である、と断じた点で、実に画期的な判決であった。この事はいくら強調してもしすぎることはない。

  だからこそ政府は慌て、ことさらにあの判決を貶め、一蹴しようとしたのである。

  しかし、私がこの福島元判事の投稿の中で最も注目した箇所は、国防など高度に政治性のある国家行為について「司法は判断権を有しない」とする、いわゆる「統治行為論」をとることなく、裁判所は堂々と憲法判断をすべきである、と次のように断じている部分である。

  「私は(長沼ナイキ訴訟の)判決でこれを採用しなかった。なぜなら憲法81条は最高裁判所は、一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終裁判所であると規定しており、このような憲法の下で、司法の審査に服さない国の行為の存在を考える余地はない・・・三権分立の中で、司法が一定の分野について判断を避けるという姿勢は、政治に追従、譲歩することに他ならず、日本が法治国家を(放棄することになるからである)・・・私はこうした考えから、自衛隊と憲法9条を、(司法)判断の対象にすることに、なんら迷いはなかった・・・」

  この物言いは、一見すると、自分のとった行動の自慢話のように聞こえる。間接的に名古屋高裁の裁判長に、主文の中で違憲判決を堂々と下すべきであった、と注文をつけているように聞こえる。

  しかし、決してそうではない。この投稿文の全体に貫かれている主張は、名古屋地裁の勇気ある判決を、我々国民はもっと重く受け止め、国民の力で、この国のゆがんだ政治とそれに追随する官僚支配を、正していかねばならない、とするほとばしる叫びであることがわかる。

  私は最後に書かれていた福島元判事の経歴をしみじみと読み返した。73年の長沼ナイキ判決後、彼は東京地裁から、福島、福井家裁に追いやられ、定年を9年残して、89年に退官している。

  現在富山市で弁護士を続けている77歳の元判事に、出世をなげうって国家権力と戦った反骨魂を見る。

  ふやけきった今の日本に真に必要な人物は、この福島元判事のような日本人ではないのか。そう思って私はこの投稿を何度も何度も読み返した。
  

  

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