平和憲法は国民の手で守れる
平和憲法は国民の手で守れる
最近目にしたいくつかの言葉から、久しぶりに憲法9条について書きたくなった。
31日の読売新聞は野坂昭如の近況を伝えている。2003年に脳梗塞で倒れた野坂は懸命にリハビリと戦っている。口述筆記で書かせた次の言葉に、人生の最後を必死で行き続けている者の迫力を感じる。野坂はいま最強の平和主義者となった。
「・・・ぼくがこだわり続けているのは戦争。戦争は人をケダモノにする。人間を変えてしまう。嫌というほどそれを見てきたし、僕自身も変わった。戦争を知る人間として、戦争はするなと語り続ける義務がある・・・」
本屋で手にした雨宮かりんと佐高信の対談本の中で、雨宮かりんが赤木智弘の言葉を代弁するかのように、次のように語っていた。赤木智弘とは、「希望は戦争」、「丸山眞男をひっぱたきたい」などと公言しているフリーターの社会評論家の事である。
「戦争は起きたほうがいいが、愛国心などさらさらない」
悲しい言葉だ。私は戦争には断固反対する。しかし日本を愛している。
31日の東京新聞は、宇都宮駐屯地で30日に行われた陸自中央即応連隊の装備公開式において、折木良一陸上幕僚長が述べた次のごとき言葉を紹介していた。
「今こそ武力集団としての原点に立ち返り、時代の変化に的確に対応するたくましい集団に・・・」
驚くべき違憲発言だ。一昔前なら大問題発言である。しかしガソリン国会に奔走する今の政治やメディアはこの発言を見逃してしまう。
私は自衛隊を認める。専守防衛に徹し、日本国民を守る自衛隊であるならば、敬意すら抱く。
しかし、国際平和協力というごまかしの名の下に、海外活動を本来業務とし、米国の戦争のために武力集団と化す自衛隊を、認めるわけにはいかない。それを誇らしげに公言する陸将を許すわけにはいかない。
少し前の報道になるが、新憲法制定議員同盟の3月4日の総会で、民主党の幹部議員があたらに参加したというのがあった。
すなわち羽田孜元総理、鳩山由紀夫民主党幹事長、前原誠司副代表らが、顧問や副会長などになったというのだ。
こうして改憲議員は超党派でまとまりつつある。しかし、護憲政党が団結するという動きはまったく見られない。もはや国会議員の三分の一以上の護憲議員によって改憲発議を阻止するなどという事は、絶望的だ。
しかしその一方で、「9条の会」をはじめとした草の根集会や団体の、憲法9条を守ろうとする動きは全国に拡大しつつある。ここに希望を見出す。
新憲法制定議員同盟の幹事役である愛知和男議員が、「9条の会」などが全国に根付きはじめている事に危機意識を持ち、「我々も全国的な活動を進めなければならない」と発言した事は象徴的だ。
平和を叫ぶ市民団体や集会は、その背後に共産党や社民党の支援と思惑がある。だから集会のまとまりも統一化もない。たとえば「9条の会」が共産党の影響下にあり、「9条行脚の会」が社民党の団体である、といった具合に。
しかし、それらの集会に集まる人たちの中には、政治と離れてひたすらに平和を願う一般国民が多く含まれている事も事実である。
新憲法制定議員同盟が怖れているのは、そのような一般国民の護憲意識の拡大に違いない。共産党や社民党がわずかばかり議員数を増やしたところで、改憲発議はできる、とたかをくくっているに違いない。
しかし国民投票で改憲案が国民の手によって拒否されれば、改憲の目論見は頓挫する。その事を怖れているのだ。
重要なことは国民一人一人の意識である。もはや議論などいらない。「今憲法を変える必要性はない」、「憲法9条を変えて米国の戦争にこれ以上巻き込まれるのは真っ平だ」、そう素朴に考える国民が一人でも多くなればいいだけの話だ。その国民は、バラバラでもいい。政治的にまとまらなくてもいい。自分の頭で考え、自分の判断で、「戦争より平和がいいに決まっている」と思えばいいだけの話だ。
戦争が起きて世の中が壊れてしまえばいいと考える者はいるだろう。戦争が好きなものはいるだろう。気に食わない国を攻撃してしまえと思う者もいるかもしれない。米国の軍事的庇護から離れて自主防衛力を高めるために憲法9条を変えるしかない、と思う者もいるだろう。どう考えようがそれは勝手だ。
しかしそれは間違いだと思う国民が、過半数いれば平和憲法は守れる。他に解決すべき問題が山積している時に、何も今憲法を急いで変える必要はない、と考える国民が半分いれば憲法は守れる。
憲法9条を維持する事は、もっとも安上がりで最強の安全保障政策なのだ。その事を一人でも多くの国民が気づくように、私はどのような平和集会でも応援する。