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2008年03月15日

 この国の不正義は最高裁にこそある

 この国の不正義は最高裁にこそある

  各紙がこぞって取り上げる記事は、大事件や政局がらみの話しと相場が決まっている。最近では、自衛艦「あたご」の事故、日銀総裁人事、特定道路財源問題、円安・株価暴落などである。

 だから、15日の各紙が、「横浜事件」という聞きなれない事件の最高裁判決をこぞってとりあげた事は異例である。それほど、この事件が重要な意味を持っているということだ。今日的な問いかけをしているということだ。

 「横浜事件」とは、戦前の42年から45年にかけて、雑誌編集者ら数十人が、「共産主義を広めようとした」として、治安維持法違反で逮捕され、特高警察の過酷な拷問の末に死者まで出した史上最大の言論弾圧事件である。いまではでっち上げであったことまで明らかになっている。

 私は3月11日のブログで拷問を禁止する上下院決議に拒否権を発動したブッシュ大統領を強く批判した。拷問は人間性に反する最大の罪であると思うからだ。これが国家権力と結びついて行われる時、一切の正義が抹殺される。

 その不正義を、21世紀を生きる我々の目の前で、この国の司法が断罪する事ができないでいる。その事を我々に教えてくれた判決が、14日の最高裁判所で下されたのだ。

 名誉回復の為に無罪を求めた遺族の、当然過ぎる訴えを、「すでに大赦を受けている場合は免訴とすべき」であるという法律、判例を踏襲して、無罪の訴えを起こす事、そのものを認めないという判決を、最高裁が全会一致で下した。最高裁の判決ですべては確定する。

 卑怯な判決だ。有罪か無罪かの判断を避けている。卑怯な判決はこの事件にとどまらない。これまでのほとんどすべての違憲訴訟がそうだ。国家権力に不利になるような訴訟については、いつも様々な理由をつけて判断を避ける。その事を最高裁は下級裁判所にまで命令する。裁判官の人事を握って従わせる。

  国家権力をあからさまに擁護する判決であっても、裁判官が自分の意見を国民の前に提示するのであればまだ許せる。卑怯なのは、国が法を犯している事が明らかであるにもかかわらず、いや明らかだからこそ、判断を回避し、訴えを却下する裁判官の保身的態度だ。

 思うに、この国の不正義の根源は最高裁にあるのではないか。司法試験を合格して法曹を目指す者たちが出世する序列は、裁判官、検事、弁護士の順であるらしい。その裁判官の中でも最高裁は最高位だ。すなわち最高裁判事は法曹を目指すものたちにとっての出世頭ということだ。

 しかし出世する事と優れている事とは違う。まして裁判官として立派である事とはまったく違う。それどころか立派で良心的な裁判官であればあるほど、出世が出来ない仕組みになっているのだ。最高裁判事になるものほど、出世の為に裁判官の良心を自己否定してきた者に違いない。
 
 このような判決を見聞きするたびに決まって思い出す映画の1シーンがある。南アフリカの人種差別(アパルトヘイト)を糾弾した、「白く渇いた季節」という映画の法廷シーンである。

  拷問の有無を問われる法廷で、警察側が一人の黒人を証人として招致する。そしてその黒人に、刑務所で拷問などなかった事を証言させようとする。 

  しばらく黙って下を向いていたその黒人は、やがて顔をあげ、キリッとした目をしてその官憲をにらみつける。
  そしていきなり傍聴席に背を向け、シャツを剥ぎ取り、拳を上げて、「アマンダ!」と叫ぶ。
  背中には拷問でつけられた傷跡が生々しく映し出される。

  彼は係員数名に取り押さえられるように法廷外に連れ出されていく・・・

  死を覚悟の上の真実の叫びである。

  命をかけろとは言わない。せめて一人くらい最高裁判事の中から現れてこないものか。正義の為に真実の判決を下す勇気のある者が。良心の拳を高らかに掲げる者が。

  最高位に上り詰めた裁判官。それ以上彼が手にしたいものは、もはや裁判官の良心のほかに、一体何があるというのだろうか。 

 

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