2008年02月29日
2008年02月29日
もうひとつの増税
もうひとつの増税
民主主義の下において、国家と国民の公正な関係をうらなう試金石は色々あるが、その中でも、「個人の基本的人権が公正に保障されているか」ということと、「個人の財産が国家に不当に奪われていないか」ということは、極めて重要であると私は思っている。
その観点から今日の日本の状況をみると、この二つが見事に蹂躙されている事がわかる。
基本的人権の蹂躙については、警察・検察・司法が一体となって、ものの見事に権力側につき、「法の支配」が毀損されている。
大きい問題としては安全保障政策に関する問題がある。古くは日米安保条約からはじまって、新しいところではイラクへの自衛隊派遣訴訟に至るまで、裁判所は違憲判断を避け続けてきた。
最近の大きな問題として、沖縄返還の際の日米密約を訴えた西山太吉訴訟がある。密約の事実が、米国公文書の公開や、外務省元担当局長の証言で、動かしがたいほど明らかになっても、裁判所は、こんどは「有効な訴訟期間が過ぎている」という理由を持ち出して、判断を拒否した。
小さい問題ならば枚挙にいとまがない。一個人に対する数々の冤罪事件はいうまでもないが、たとえば贈収賄における判決の不公正さ(被告人の政治力の違いによる判決の軽重が加減される)、権力犯罪に対する甘さ(正義を実現するはずの警察、検察の裏金について、決して組織犯罪を認めない)、など、うんざりするほどの不当、不正義がまかりとおっている。
ここではもう一方の巨悪、国民の財産に対する国家の収奪について一例をあげて批判したい。
小さな記事であったが、2月29日の新聞各紙に、見逃すことの出来ない記事があった。
農水省がスーパーなど小売業界29社と関連業界46団体に、4月から30%値上げする輸入小麦価格の政府売りわたし価格を、小売価格に転嫁しろと、異例の文書を出していたというのである。
農水省の白須敏明次官は、28日の記者会見で、「値上げ要請ではない」と弁明したという。しかしその一方で「企業がつぶれる。流通の各段階で適正な価格転嫁が再生産につながる」と、小売価格への転嫁を認めたという(29日、読売)。
これは消費税増税と事実上同じである。財務省は増税権を持つ。農水省は行政指導という名の権力で事実上の増税を行政指導する。しわ寄せは消費者である一般市民だ。
同じ29日の各紙に、「国際連帯税創設を求める議員連盟」なるものが28日発足したという記事があった。洞爺湖サミットにあわせ、発展途上国の貧困・疾病対策にあてるためという。
何のための一兆円のODAなのか。何のための一般予算なのか。予算の適正配分を厳しく見直してすべては解決しなければならないのに、そして本気になればそれができるはずなのに、美名の下に軽々しく新たな税金をつくりだそうとする政治家たち。その中にはなんと共産党の議員まで参加している。
政府も政治家も、最後は国民から金を巻き上げて自分たちの仕事をつくっている。そこには国民の財産を守るという、ほとばしる使命感のかけらもない。
2008年02月28日
誰のための国家権力か
誰のための国家権力か
日教組に会場を貸す事を断ったグランドプリンスホテル高輪が、26日記者会見をした。開催していたら約1万人の宿泊客や約2万5000人の近隣住民に迷惑をかけた、また、付近の幹線道路でも渋滞が起きた、として、判断の正しさをあらためて強調したという(27日読売新聞)。
おかしくはないか。そこには、迷惑をかけようとした右翼の行動に対する言及はまったくない。
そう思っていたら、28日の朝日新聞の社説を読んでもっと驚いた。右翼幹部がこう言っていたというのだ。
「日教組に会場を貸すことはけしからんと知らしめることが一つの目的。我々が迷惑だというので貸す事を断念したと(したら、それはそれで)結果が出た」、と。
驚くべき発言だ。こんな発言を放置しておいていいのだろうか。
朝日の社説は書いている。「ホテル側の対応は右翼団体の思うつぼだったのだ。街宣車で騒音を撒きまきちらし、威圧的に走り回れば、集会を潰せるという悪い前例を残してしまった」と。
そこまではいい。しかしその後でホテル側につぎのように注文をつけている。
「世の中の理不尽な行為に対しては、警察の協力を得て立ち向かう。日本を代表するホテルの一つであればこそ、右翼のそうした横暴に立ち向かって欲しい。少しばかりの勇気を出していたなら、広く社会の共感を呼び、応援する市民や組織も出てくるだろう。それは健全な市民社会に勇気を与えることにもなるはずだ」、と。
これはおかしい。我々市民や私企業は右翼が怖い。朝日の記者さえも襲われる事件があった。ましてや一般市民は抵抗は出来ない。手が出せないばかりか、口もだせない。そんな市民、私企業に、朝日が本気で勇気を持てと言っているのだとしたら、おかしい。
公序良俗を守るのは政府の最低限の義務だ。市民の安全を守るのは、警察、検察、司法を握っている強大な国家権力なのだ。朝日が言うべきは国家権力には何をしているのか、ということだ。
この種の事件を見るたびにいつも思う。国家権力は本気で右翼を取り締まらないのではないか。そうだとすれば大問題だ。
ひょっとして警察さえも右翼が怖くて手が出せないのだろうか。そうであればもっと大問題だ。
2008年02月28日
対米追従外交ですらない日本の中東外交
対米追従外交ですらない日本の中東外交
大方の日本国民にとって、中東は遠くてなじみが薄い。ましてや中東問題についての知識や関心はない。
メディアも識者も、中東を正しく理解している者は少ない。中東問題の本質を言ったり、書いたりすれば、まともな職にありつけない。
そのような現実をいいことに、外務省のでたらめな中東外交がまかりとおっている。何も知らない政治家が、外務官僚のでっちあげた偽者の中東外交につき従い、踊らされている。
28日の各紙は来日中のオルメルト・イスラエル首相と福田首相の首脳会談を一斉に報じている。イスラエル首相の訪日は11年ぶりであるという。イスラエルのパレスチナ政策がここまで非道、違法となっている時に、11年ぶりに首相を招く理由がどこにあるというのか。
中東和平の進展に向けて日・イスラエル間で異例の共同声明を出したという。パレスチナ国家の存在を認めず、パレスチナを本気でおしつぶそうとしているイスラエルと共同声明を発する事が、どうして中東和平の進展につながるというのか。
共同声明の目玉は「平和と繁栄の回廊」に資金協力することだという。日、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治政府の4者協力によるヨルダン渓谷開発プロジェクトだという。
抑圧者イスラエルと非抑圧者パレスチナの間に、どうして真の協力などができるというのか。外務官僚が無理につくりあげたでっち上げだ。そのようなでっち上げのプロジェクトに「平和」の名を冠する事は、平和への冒涜であろう。
小泉元首相の5年半で日本の対米追従外交は行き着くところまで行った。それにともなってわが国の中東政策もかつてないほどイスラエル支持に偏向してしまった。かつての中東外交では考えられなかった事だ。
いや、その米国は、ブッシュ大統領の退場とともに変わろうとしている。中東情勢は変わろうとしている。米国の中東政策も変わるだろう。そのような国際情勢の大局を読めない日本の中東外交は、もはや対米追従外交ですらない。
日本中が中東問題に関心がないからといって、このような無策な外交を許してはいけない。それを指摘するメディアが皆無であることを残念に思う。
2008年02月27日
内部告発をする覚悟
内部告発をする覚悟
朝日新聞が、25日から27日にかけて、ミートホープの食品偽装を告発した元常務の赤羽喜六さん(72)の、告発までの心の葛藤とその後の人生の厳しさを、三回連続のシリーズ「内部告発」という形で取り上げていた。
私はこれを深いため息をもって何度も何度も繰り返して読んだ。「会社はつぶれ、かつての仲間は職を失った」、「お前は会社に弓を引いた」、「自分だって途中まで見ない振りをしたじゃないか」、「恥だ、縁を切る」、「正義とはなんだろう」、「いいんじゃない、お父さんは間違っていないんだもの」
壮絶な心の葛藤だ。いばらに満ちたその後の人生だ。72歳にもなってこんなに厳しい人生が待っていようとは。
しかし私は赤羽さんに同情はしない。告発とはそういうものなのだ。すべての告発者は覚悟して告発しなければならない。告発とはそれほど重い行動なのである。割の合わない行為なのだ。
同時に私は赤羽さんを心から尊敬する。手を握り、抱きしめたいと思う。赤羽さんの告発がなければ、ミートホープの腐った肉が、血や内臓で偽装されたひき肉が、今でもそのまま消費者の口に入っていたに違いない。赤羽さんは正しい事をした。その告発が消費者を助けたのだ。
27日の朝日新聞の「人」欄に、松原泰道(100)という禅僧の言葉があった。130冊もの本を書き続け、生や死を説いているという。
その禅僧がこう言っていた。一世紀もの間日本を見てきて、今必要なものは何かという記者の質問に、こう答えているのだ。
「・・・謙虚さでしょうね。現代人はおそれを知らない。最近は、おてんとうさまより内部告発がこわいのですから」
松原禅僧がこの言葉で何を意味しているか私には必ずしもわからない。しかし私は、告発者は現代の「おてんとうさま」である、と解釈したいと思う。
説教することは誰にでもできる。後から様々な講釈を垂れる事はだれでも出来る。しかし損を覚悟で、誰もが口をぬぐっている事を言い出すことは、決して誰にでもできる事ではない。
だからと言って私は世の中の普通の人々に告発を推奨はしない。やはり尋常ではないからだ。犠牲が大きすぎるからだ。しかし、悪いと知っていながら沈黙を守る普通の人々たちは、告発者を称えるべきだ。間違っても批判してはいけない。
告発者は、我々誰もが持っている良心を、我々に代わって代弁する人だ。内なる我々なのだ。
責められるべきは、あたりまえのように不作為と保身を繰り返す政府、官僚である。捨て身で行った告発を生かす事なく見過ごし、おまけに、「余計な事をしやがって」と告発者に制裁を加える彼らこそ、おてんとうさまに詫びなければならないのだ。
2008年02月26日
とにかく政権を交代させるしかない
とにかく政権を交代させるしかない
26日の各紙は、2007年末の国の借金残高が過去最大の838兆円になったという財務省の発表を、一斉に報じている。国民一人あたり換算で656万円の借金であるという。年を追って膨らむ一方であるという。なんど同じような報道が繰り返されてきたか。
政府は本気で借金を減らそうとしていないに違いない。誰かがナントカしてくれると先送りしているのだろう。パンクすればその時の責任者が考えればよい、とあきらめているのだろう。
もし本気で減らそうとして出来ないのであれば、もっと深刻だ。これまでの政治家、官僚の知恵では解決できないということだ。
とにかく政権を交代させるしかない。政治を根底から変えるしかない。
岩国市の福田良彦市長が、25日、米空母艦載機部隊の受け入れを固めたという。28日開催の定例市議会で表明するという。近く上京して国側に伝えると言う。
これを受けて国は凍結していた35億円を支給するという。おまけに、あらたに米軍再編交付金を支払うという。
態度を曖昧にしておきながら、選挙が終わったらわずか2週間ほどで受け入れを明言する福田市長。あまりにも不誠実ではないか。待ってましたとばかり補助金、交付金を岩国市に注ぎ込む。これは税金の恣意的濫用ではないのか。明白な憲法違反ではないのか。自民党市長と自民党政府の八百長ではないのか。
とにかく政権を交代させるしかない。政治を根底から変えるしかない。
2008年02月26日
映画に出てくるせりふに真実を見つける
映画に出てくるせりふに歴史の真実を見つける
26日の毎日新聞「発信箱」で、玉木研二という論説室記者が書いていた映画の中のせりふに感動した。教えてもらった。
米映画「ゴッドファーザーPART2」の中で、アル・パチーノ扮するマフィアの首領がこうつぶやいたと言うのだ。
「政府軍兵士は金で雇われているのに、反乱軍は無償で戦っている。彼らが勝つんじゃないか」
舞台は1958年のキューバ。陽光降り注ぐホテル屋上で、バティスタ独裁政権と、その独裁政権に癒着した米国マフィアたちが、カジノ、売春、麻薬で得た巨大な利権の山分け話をしている。
カストロ率いる革命軍は既に首都ハバナに迫っているが、政府もマフィアも、「蹴散らせる」、と相手にしない。そんな中で上記のアル・パチーノの言葉が出てくるのだ。
一人アル・パチーノだけが見抜いていた。「報いを求めぬ者」の献身の戦意の高さを。
果たして59年元旦、バティスタは大統領の座を放り出し、蜜に群がるように集まったマフィアも政治家も、身一つで米国へ飛び帰る。
私は、カストロやゲバラの革命劇に魅了される純粋さを持った若者ではなかった。革命を起こそうとする勇気も覚悟もない。しかし、たとえ作り話でも、この映画のでてくるせりふに魅せられる。歴史の真実を見る。
2008年02月25日
基本所得が保障される社会
基本所得が保障される社会
2月17日の毎日新聞の書評欄で「ベーシック・インカムー基本所得のある社会へー」(ゲッツ・W・ヴェルナー 現代書館)という本が紹介されていた。すべての個人にミニマムの所得を保障する社会の実現を訴える書であるという。
書評を書いている中村達也氏は言う。こういう主張は、決して主流的な位置を占めることはなかった。新約聖書の中のパウロの言葉である「働かざる者、食うべからず」という労働倫理が、あまねく世の中に定着しているからである、と。
しかし、同時に中村氏は言う。実はこうした基本所得を社会が保障すべきという考え方は、すでに18世紀末以来、様々に形を変えながら、ヨーロッパではあたかも持続低音の如く語り継がれて来たと。
著者のヴェルナーはこう主張しているという。「所得を得るために不本意な雇用関係の中に身を置くのではなく、基本所得によってミニマムの所得が保障されれば、自らの意思によって自由に仕事を選択できるし、ボランテア活動など雇用以外で自らの役割を見出すこともできる」と。
実はこの考え方こそ、私が漠然と考えてきた理想的な社会の実現を可能にする考えだと思う。それは共産主義的な理想社会ではない。自由主義の社会で、なおかつ最低生活を皆に保障する社会である。
著者のヴェルナーは、ヨーロッパ全土でドラッグストア・チェーン「デーエム」を創業し、近年カールスルーエ工科大学教授に就任した異色の経歴の持ち主であるという。
私が注目したのはここだ。著者のヴェルナーが成功した経営者であるという点だ。利潤を追求して、競争に勝ち抜いた企業成功者が、すべての個人に最低限の所得を社会が保障する事を訴える、そういう社会が理想だと言っているのだ。
すべての個人に国が無条件で基本所得を保障する社会となれば人は怠惰に堕す、不労者による勤労者の逆搾取になる、そもそもその財源を国はどう手当てするのか、などと、議論は尽きないであろう。
私には答えはない。これ以上うまく表現できない。しかし福祉国家の究極の本質はここにあるのではないか。
世の中には成功者を目指して競争社会を勝ち抜こうとする者がいる。努力や運で巨万の富を手にする者がいる。それらを批判するのではなく、そうでない者、富や立身出世を望まなくてよい、そのかわり自由で人間的な生活ができればいい、そういう者たちの生き方をも等しく認める。そういう人が臆することなく生きていける社会、私はそれが理想だと思う。
そのためには強者や成功者が、その富を還元し、本気になって福祉社会の実現のために協力する。国家や世論に強制される事なく、自発的にそれを行う人が増えていく、そういう社会が理想ではないかと、漠然と考えている。
2008年02月25日
年金制度はなくしたほうがいいと何故誰も言いださないのか
年金制度はなくしたほうがいいと何故誰も言いださないのか
見ているがいい。もうすぐ年金を全額消費税で負担しようという議論が大手を振ってくる。年金制度を維持するためには税負担しかないからだ。あらたな税負担を行うには消費税引き上げが一番手っ取り早いからだ。おそらく早晩そういう方向に行き着くに違いない。
年金制度を維持するのに保険方式か税方式かという議論が繰り返されている。しかしそもそも公的年金制度そのものが必要なのか。
医療保険や最低生活を保障する生活保障制度などの制度は必要である。百歩譲って、今まで行った返金積み立て分を返還するという意味での既得権者に対する年金給付は継続されなければならない。
しかし成人になった者に対し、年金支払いの保障もないままに年金を徴収する、そういう年金制度は直ちに廃止すべきではないか。少なくとも国民が納得するあらたな年金制度ができるまで保険料の徴収は凍結すべきではないか。なぜこの事を、世の中の有識者は誰も言い出さないのか。
25日の毎日新聞が一面トップで若者の次のような言葉を掲載していた。
時給2500円で月収27万円ほど、家賃7万4000円。札幌で育ち、高卒後に上京した23歳の銀座のホステス嬢。慣れない都会生活。将来の事も考える。20歳の時に生命保険に入り、災害保険にも加入した。月々計7200円の負担。だが、国民年金には入っていない。その彼女が言う
・・・月に1万4100円も国民保険料を取られるのはきつい。それよりも年金制度が将来もあると思えない。もらえる額は減るし、私たちの頃はもらえる時期は70歳ぐらいになると思う。不特定多数のお年寄りの為に保険料を払う気にはなれない・・・
当然の反応だ。すべての若者がそう思っているに違いない。私が若者であってもそう思う。その毎日新聞の記事では現在国民年金の保険料未納率は20歳代で45%にのぼるという。
私は不勉強で正確な知識がないのであるが、この未納は税金と同様に違法行為になっているのだろうか。そうだとすれば20代の若者の45%は犯罪者ということなのか。それとも年金の受け取りを拒否すれば払わなくていいのだろうか。もしそうであれば今の日本の年金制度の下では誰も払わなくなるだろう。
国民年金制度は廃止されるべきではないか。その積立金は国に収めるのではなく個人が好きなように積み立てて、あるいは民間保険会社に納めて、老後資金にしたほうがよほどわかりやすく公正ではないのか。少なくとも官僚が横領したり無駄遣いする事を防げる。
公的年金制度がなくならない本当の理由は、官僚たちの仕事や権力や利権がなくなるからに違いない。
2008年02月24日
若者よ、その怒りを国家権力の横暴に向かわせよ
若者よ、その怒りを国家権力の横暴に向かわせよ
護憲や平和の集会に出かけていつも感じさせられる事がある。昨日参加した集まりもそうであった。それはこの種の集まりに熱心な人たちは戦争体験をした人たちが多いことだ。
そして、そのような集まりで決まって語られることは、やがて戦争体験者が亡くなり、この国に戦争を知っている人がいなくなった時、日本の護憲運動はなくなってしまうのではないかという危惧である。
私もその危惧を共有する。しかし同時に、私には決してそうならない、という思いもある。
人間の行動に影響を与えるのは原体験である。しかし想像力によって生まれる言動が、原体験の言動を凌駕する事もある。それが人間のみが持つ素晴らしさではないのか。人間の証ではないか。
その私の思いを裏付けてくれる記事を見つけた。24日の毎日新聞「発信箱」で、広岩近広専門編集委員が書いていた。広島で最近開かれた「詩と平和」の集い参加した時に聞いた、ある詩人の言葉であるという。
「ピカソがゲルニカを描いたとき、彼はゲルニカに住んでいたわけではない」
ゲルニカとはスペイン内戦で空爆を受けた町の名前だ。ピカソのゲルニカとは、その惨状を描いた代表作の一つだ。
素晴らしい言葉である。ながく心にとどめておきたい言葉である。そうなのだ。想像力こそ人間の特権である。人間のみが持つ素晴らしい財産である。それは無限だ。それが人間を突き動かす力は原体験よりもはるかに大きいに違いない。
問題は、今の日本の状況が、そしてそれを作り出した日本の政治が、個人の想像力を奪ってしまうほどに国民を苦しめている事だ。未来の日本を背負うべき若者の可能性を押しつぶしていることだ。
日々の生活に押しつぶされようとしている若者の現実は悲惨である。それはフリーターや非正規労働者に限らない。正社員の若者もまた、それ以上に連日深夜まで働かされている。命を削って働かされている。眠りから覚めれば労働であり、労働が終われば眠るだけの生活を送っている。楽しいはずの休日が、翌日の労働を考えると憂鬱になる休日になりさがっている。
このような若者から想像力を働かせよと言っても無理だ。平和の大切さを訴えても無理だ。
かつてこの国の首相は、選挙の時には国民は寝てくれていたほうがいい、と放言した。今の指導者は、国民は政府に抵抗する気力がなくなるほど弱まったほうがいい、と考えているに違いない。人間から人間性を奪っているに違いない。
出口の見えない現状を打破するためには戦争でも起きればいい、と公言する若者が出てきた。勘違いをしてはいけない。国家権力の片棒を担いではいけない。国家権力を擁護するマスコミにおだてられ、踊らされて舞い上がっている時ではない。
若者はその怒りを正しく政治に向かわせるべきだ。怒りの一票で政治を左右する存在になるべきだ。破壊すべきは今の日本ではない。日本国民ではない。今の政治なのである。
その事に気づかなくてはならない。その一点で政治的に結束しなければならない。既存のイデオロギーや政党を全否定するあらたな政治力を作り出さなければならない。若者にその重要性を気づかせるため私はブログを書き続けている。
2008年02月24日
もう一つのテロが米国の手で生まれようとしている
もう一つのテロが米国の手によって生まれようとしている
21日の夜にトルコ軍がイラク北部に侵攻し、クルド人武装組織と地上戦を開始したという報道が流れた。トルコ軍の発表ではクルド人戦闘士44名が死亡、トルコ軍兵士も5名死亡したという。
現地報道では投入されたトルコ兵士は約1万人であったという。昨年10月に始まったトルコ軍のイラク越境軍事作戦は、おさまるどころか拡大の一途である。ついに、米国のイラク攻撃当初に想定された最悪のシナリオが現実になったということだ。
重要な事は、このようなトルコ軍のイラク北部攻撃は米国の承認なしにはありえないということだ。イスラエルの安全保障を確保するためには、北方のトルコと南方のエジプトを親米・イスラエルにとどめておかなければならない。そのためにはイラク主権の蹂躙は二の次である。
イラクのマリキ大統領もゼバリ外相もこれを非難している。主権国家イラクの大統領、外相としては当然の非難だ。しかし米国は「トルコの自衛権行使を支持する」と、これを容認している。かつてサダムフセインのイラクがクウェートに侵攻した時、直ちに軍事制裁を加えて撤退させたのと好対照だ。見事な米国のダブルスタンダードである。
24日の日経新聞は、カイロ発の記事として、攻撃を受けたイラク北部のクルド武装組織が、「トルコ軍が撤退しなければトルコの都市でテロ攻撃をすると警告したと報じている。もう一つのテロが米国の手によってうまれようとしている。米国ではイラクを安定させることはできない。
2008年02月24日
オバマ大統領の誕生する米国を想像する
オバマ大統領の誕生する米国を想像する
オバマ上院議員が民主党の大統領候補になるかどうか、まだわからない。たとえ民主党候補になっても、米国大統領になるかどうかわからない。オバマ上院議員が米国大統領になっても、米国が変わるどうか、わからない。オバマ上院議員の政治家としての評価についても、私には判断出来ない。
しかし、それでも一つだけ断言できることがある。それは、オバマ米国大統領候補は「可能性を見いだす存在である」ということだ。
24日の毎日新聞に、マーチン・ルーサー・キング牧師の右腕であったビンセント・ハーディングさん(76)という人の次の言葉が載っていた。それを読んでそう確信した。
そういえば米国史上に残る公民権運動の指導者キング牧師が暗殺されたのは40年の4月だった。民主主義の指導国家である米国に公民権が認められたのは、わずか40年ほど前でしかなかったことを、あらためて思い出させてくれた。
・・・キング牧師の時代には生まれていなかった若者が支持している。「弱者の痛みに注意を払わない傲慢な者が権力中枢を占めることには反対」と考える人も(今のアメリカには)多い。オバマ氏はそうした層のシンボル的存在だ。オバマ氏は新しい米国の創造者なのだ・・・(自分も含めて)少し前までは、誰もオバマ氏がこれほど有力候補になるとは考えていなかった。彼の躍進を見るにつけ、米国社会に大きな変化が起きていると実感する。あらゆる人々に「可能性」が生まれる社会になったということなのだろう。オバマ氏を支持する人々は、彼の中に自分たちの可能性を見出している・・・
・・・歴史を見ればこの国(アメリカ)の過去が暴力の連続であったことがわかる。オバマ氏にも(暗殺などの)危険はある。しかし、彼ら夫婦は闘っていく決意をした。(註 オバマ氏が暗殺されれば直ちにオバマ夫人が立候補宣言をすると言われている。その場合はオバマ氏よりもっと強力な大統領候補となると言われている)。
オバマ氏を支持する人々は、危険を心配するより、一緒に前進していくことを決意したのだ。
2008年02月23日
道路特定財源をめぐる議論はこれで決まりだ
道路特定財源をめぐる議論はこれで決まりだ
道路特定財源をめぐる議論の迷走が続く。なぜか。それは各人が自分の都合のいいところだけを強調して論じているからだ。議論がかみ合わないのは当たり前だ。
この議論には、「これ以上国民に税負担をかけずに解決の方策を見つける」、という大前提がそもそもないからである。族議員、官僚、業者の三者によって税金が乱用されてきた、その弊害をなくす事が先決である、という大前提がないからである。
数ある議論の中で私がこれで決まりだと思う意見が23日の朝日新聞にのっていた。片山義博前鳥取知事の意見である。
人の評価というものは万人が一致する事には決してならない。しかし私はマスコミに頻出する全国の知事経験者の中で、唯一評価できるのはこの片山氏くらいだと思っている。道路特定財源をめぐる議論については特にそうである。
彼は言う。
・・・特定財源は、自治体が流用するおそれがある時には有効だが、国も自治体も「道路が重要だ」と言っているのだから使い道を縛る意味はない。(特定財源は)実は国民(住民)を縛っている。国民(住民)が他に(例えば教育に)使ってくれと言えない仕組みをつくっている・・・道路予算の1千万円は端数だが、学校現場では大変な金額だ・・・(知事時代の体験から言うと)なんでこんな所に、という道路が随分あった。国は早く、たくさん造れと、と言うが、町中は立ち退きが必要で早く造れない。山奥など人の住んでいない場所に造る方がやりやすい・・・必要な道路整備は思うように予算が増えなかったが、一方で農水省からは、農道整備で補助金を使うよう働きかけがあった。必要な高速道路の予算は増やせないと言いながら、不要な農道を造れと金を押し付けてくるとは、政府は一体どうなっているのか。そんな(片山氏の)批判を知った農水省幹部から、「県とのお付き合いを考えさせてもらわなければならない」と告げられた。そんな国の姿勢が、自治体に恐怖感を与えている・・・
これが道路建設の実態なのだ。岩国市長選挙とまったく同じ構図だ。国の都合に逆らうと補助金をもらえないのだ。そのまんま東は国を相手に闘うべきなのだ。
その片山氏の意見でも、賛成できないものもある。彼は、一般財源化という点では民主党の方が正しいとしながらも、税率は下げるが地方道路を造れるようにするのはまやかしだ、税率を下げるなら財源を示せ、それが出来なければ道路整備もペースダウンする、という。
ここが問題の核心である。真に必要な道路であれば、たとえば防衛予算を削って捻出できるはずである。政治家や官僚の数を減らして人件費を節約すれば出来るはずである。政策の優先順位を国民の目の前で明らかにして決めていく、もはやそこまでしなければ日本の経済は成り立たないところまで来ているのだ。
税負担をこれ以上増やす事なく、優先順位を決めていく。そんな当たり前の事をやってこなかった大蔵省主計局と族議員が独占してきた予算編成が、膨大な債務超過を招いたのではないか。けだし道路特定財源問題は戦後日本の政治問題の核心部分に触れる問題なのである。
2008年02月23日
中国から提案された日中米三カ国定期対話のウラを読む
中国から提案された日中米定期対話のウラを読む
23日の日経新聞は、「中国政府が日本、米国との三カ国の定期対話の新設を日米両政府に打診した事が22日明らかになった」、と報じている。これは注目すべき記事である。
これに対し、その日経新聞の記事は、「中国の意図は、日米同盟の強化にくさびを打つ思惑もあるとみられる」などと水をかけるコメントをしている。世界情勢の流れに気づいていない皮相的なコメントだ。
これからのアジア情勢は、これまでのように日米対中国という対立軸だけでとらえるのではなく、日米中の三者の話し合いで決められていく時代になる。そう最初に言い出したのは、実は米国であった。
すなわち、今から一年ほど前の07年2月18日、超党派の米国シンクタンクである米国際戦略問題研究所は、「日米同盟―2020年のアジア地域を正しい方向に導く為に」という報告書を発表した。いわゆるアーミテージレポートパート2である。
当時この報告書の重要性を指摘した報道は殆どなかった。しかも当時の解説の多くは、従来の日米同盟の重要性を確認したもので目新しいものはない、などというものばかりであった。
ところがこの報告書には日米安保体制の根幹を揺るがす重要な指摘がなされていたのだ。すなわち、これからのアジア情勢は、単に日米対中国という対立軸だけで捉えるのではなく、日米中三カ国の話し合いによって、ケースバイケースで決められていくことになる、という明言があった。
これは、言い換えれば、米国の立場はいつも日本と同じとは限らない。場合によっては日本よりも中国と利害が一致する事もある、と言っているのだ。米国が中国をステークホールダー(利害が一致する可能性のある国)と呼ぶゆえんである。
これは極端に言えば日米安保体制の米国側から出た廃棄宣言である。そしてその事は日本外交にとっても好ましい事なのである。日本から言い出せなくても米国がそう言い出したのである。これを奇禍として日本外交は本来の自主、自立、フリーハンド外交を目指すべきなのである。
そう考えると、実は日中米三カ国定期対話は日本にとっても好ましいのである。いや、積極的にこれを活用すべきなのである。
日中米三カ国定期協議は直ちには動き出さないかもしれない。
いまでも内心では中国を蔑視し、敵視する日本は、中国がこのような提案をした事を「しゃらくさい」と思うことだろう。米国という恋人に捨てられた心境で寂しく思うだろう。
日本を米国の隷従下に置き続けよう思っている米国は、あくまでも日本が最重要だと耳元で囁いて日本をだまし続けようとするだろう。日中間の離間作戦を忘れないであろう。
米国との関係を優先する中国は日本よりも米国に方に顔を向けて事を進めようとするだろう。これが日本外交当局の神経を逆撫でするだろう。
しかしそれらすべての外交的ゲームを捨てて、国益に沿った真の日本外交を始める時が、もはや待ったなしに来ている。それが真剣勝負の外交である。この事に気づいて外務官僚を動かしていく真の政治家が出てこなくてはいけない。それは政治家の仕事である。官僚の発想からは決して出てこない。
2008年02月22日
組織防衛に値する組織なのか
組織防衛に値する組織なのか
連日報道されるイージス艦「あたご」の漁船衝突事故は、聞くに耐えない悲惨な事故である。しかしこの事故は、メディアが大騒ぎするだけでは済まない深刻な事故である。今の日本を象徴する事故である。
深刻であるという意味は、もちろん圧倒的に弱い立場にある漁業従事者たちが、絶対的強者である国家の犠牲者となって切り捨てられようとしているからである。
自衛隊という名の軍隊組織が、平和な日本の社会の中で、特権組織に位置づけられ、国民の日常生活と命をないがしろにしている、そういう日常性を、改めて我々に教えてくれたからである。
しかしもっと深刻な問題は、国民を殺しておきながらその非を素直に認めない「組織防衛の論理」が、またもや大手を振ってまかり通り、問題解決を遅らせている事にある。
政治が、みせかけの怒りや謝罪とは裏腹に、それを本気になって咎める事の出来ない、この国の「正義の喪失」がある。指導者たちの緊迫感の欠如がある。
「あたご」事故の第一報を聞いたとき、私は瞬時に88年に起きた「なだしお」事故を思い出した。
潜水艦「なだしお」が東京湾近海で大型釣り船第一富士丸を沈没させ、30名の死者を出した、あの事故である。当時私は、首相府で危機管理を担当する、内閣安全保障室の審議官であった。「なだしお事故」の対応の一部始終を内部で目撃してきた一人であった。
今振り返って瞬時に思い起こす事が二つある。一つは民間の船舶が多く浮遊している東京湾をはじめとした日本近海に、巨大な鉄の塊である軍用艦が日常的に共存しているという事実である。この現実がなくならない限り、どんなに注意しても事故の可能性を100%なくす事は出来ない。
二つ目は徹底した事故防止策の必要性である。軍と民の共存が不可避である以上、民の犠牲を最小限に抑える徹底した事故防止策を構築する本気さが必要であるということだ。
その意識が政府内にないわけではない。しかし徹底していないのだ。国家権力にまもられた組織の甘えがあるのだ。
そして、事故が起きれば真っ先に組織防衛を優先する不透明な政府、官僚の体質がある。
これらの責任は末端の職員にあるのではない。幹部にあるのだ。指導者の責任なのだ。石破大臣は、事故を早急に解決し、その直後に辞任しなければならない。それを今の時点で国民の前に宣言しなければならない。防衛省職員の前で訓示しなければならない。
今指導者に求められているのはそういった緊張感だ。与野党の政争ではない。野党の石破辞任要求の発言はまったく緊迫感が伝わってこない。
週刊文春2月21日号は、6年前に公金を不正支出したとして背任容疑で懲戒免職になった加藤好美という一等陸尉(56)が、国を相手に懲戒処分の取り消しを求めて提訴しているという記事を掲載していた。
この記事は組織防衛のために末端職員を切り捨てた防衛省幹部の罪を糾弾する記事である。背任容疑は不起訴に終わったにもかかわらず、防衛省は加藤氏を懲戒免職にした。組織犯罪を隠すためにトカゲの尻尾切りをしたのだ。
私は公金を着服したことはない、悪いのは組織的にウラ金工作をしている防衛省だ、と実名を明かして実例の数々を上告理由書に書いた、「たった一人の反抗者」は、1月に最高裁に上告したという。
これは大きな事件だ。大手新聞はまったく報道しないから我々は知らない。しかしこれは防衛省という組織の破綻を意味している。組織防衛の名の下に幹部の責任逃れが起こした破綻だ。
破綻しているのは防衛省だけではない。昨今ニュースをにぎわしている国交省や厚労省、さらには外務省、財務省、警察、検察、すべて不正が行われて来た。それにもかかわらず、真の解明は、「組織防衛」の壁の前にウヤムヤにされて終わっている。与党政治家がそれをかくまってきた。
「組織防衛」の名の下に、政府、官僚の反国民的犯罪を許してはいけない。そもそも国民生活にとって、今の官僚組織は防衛に値する組織なのか。その事を根本的に問いたださなければならない時に、戦後の日本はさしかかっているのだ。
2008年02月21日
目にとまった二つの言葉
目にとまった二つの言葉
時には自分の意見をながながと書く事なく、気にかかった言葉だけを引用してみるのもいいだろう。このブログの読者はこの言葉をどういう思いで読む事だろうか。
・・・正直者が馬鹿を見たり、まじめに働く者が損をする現実は、経済という有機体の故障を物語っている・・・
この言葉は、1947年に書かれた経済白書の一節であるという。2月16日付の読売新聞「キャッチボール」欄で、深沢淳一デスクが書いていた。
深沢デスクは、「日本の官僚や政治家は国の将来を考えていない。社会正義の心を持たない経営者も増えている」という投書をもらい、私も感じるものがあったと述べたうえで、上記の言葉を引用し、「官僚や政治家に必要なのは(この白書を書いた)先人たちの真摯な姿勢だと思います、」と結んでいる。
因みに白書の最後は、「・・・政府はこのような事実を率直に国民と分かち合い、国をあげての再建復興のための礎にしたい」、という言葉で締めくくられているという。
・・・密約は当時の政府全体の方針だった。西山さんが真実と名誉のため裁判を闘う姿勢は尊敬するが、国が隠そうとする姿勢にも道理がある。日米以外に日ソ、日韓も、外交交渉には表に出せないプロセスがたくさんあるからだ・・・
これは、沖縄返還交渉時の密約の有無をめぐって、機密漏洩の罪に問われた西山太吉元毎日新聞記者が、その後米政府公文書の公開や関係者の証言によって密約の事実が確認されたとして、名誉回復と損害賠償を訴えて提訴した事件に関する言葉である。
20日、東京高裁は、東京地裁と同様に、密約の存否に一切言及することなく、除斥期間(事件から20年以上たてば民事上の不法行為に対する請求権が失われる)を理由に提訴を棄却した。
その事を報じる2月21日の毎日新聞の記事の中で述べられていた吉野文六元外務省アメリカ局長(当時の担当責任者)の言葉である。
吉野氏は06年2月にメディアに対し密約を認める証言を行って世間に衝撃を与えた人物である。それから2年ほどたって、吉野氏はこのような政府擁護とも受けとられる発言をしている事を知って、私は失望させられた。彼の心中に何が起きたのだろうか。
2008年02月20日
新聞記事の中から政治家、官僚の本音を見つける
新聞記事の中から政治家、官僚の本音を見つける
一般市民が政治家や官僚と直接接触して話を聞くことはまずできない。代わりにそれを行って報道するのがマスコミ人の仕事だ。その中でも大手新聞記者の役割は大きい。
もっとも彼らとて政治家や官僚の本音を聞き出すことは容易ではない。夜討ち朝駆けを繰り返して迫り、酒を飲んで人間関係を気づきあげる努力を重ねる。
書かないという前提でしゃべった本音を勝手に書けば恨まれる。信頼関係は崩れる。さりとて聞き出した興味ある話を全く書かないというのはもったいない。記者魂が許さない。そこで「自民党有力者は」とか、「某省のある幹部は」などといった匿名の言葉を借りて真実を伝えようとする。
20日の毎日新聞「記者の目」もそうであった。高橋昌紀という社会部の記者が、改正建築基準法について書いていた。
もっとも、その記事には、改正建築基準法は悪法ではない などというタイトルがつけられていた。冬柴国交相でさえも「悪法と言われる改正建築基準法」などと自嘲気味に話しているというのに。
記事の内容も、そもそも姉葉事件の教訓から求められたのは法の厳格化であったはずである。住宅の安全が脅かされる事態に対応するための改正を、「厳しすぎる」と言えば元も子もない・・・などと、あたかも国交省を弁護するかの如き記事である。
高橋記者は、国交省の不正を内部告発したイーホームズの藤田東吾社長の事をしっているのだろうか。上場直前の自らの会社を倒産に追い込み、目前の200億円の上場益を一瞬にして失う事と引き換えに真実を訴えた藤田社長が、渾身の力を振り絞って書いた「月に響く笛 耐震偽装」(IMAIRU)を読んだことがあるのだろうか。
そんな高橋記者でさえ、改正建築基準法づくりを急いだ国交省の責任を認めざるを得なかった。高橋記者はその記事の最後の部分で次のような国交省住宅局の若手幹部の言葉を引用して締めくくっている。
「・・・悪いのは建築基準法ではなく国交省だ。非難されるのは仕方がない。過ちは過ちとして受け入れ、役立てなければならない・・・」
高橋記者は、本当はこの最後の国交省幹部の言葉を引用したくてこの記事を書いたのではないか。私はそう思いたいのである。
2008年02月20日
ごまかされるな!問題の核心は国民の負担を減ずる事だ
ごまかされるな!問題の核心は国民の負担を減ずる事だ
猛烈な「論点はずし」が進んでいる。その典型は菅直人と「そのまんまひがし」の道路財源論争をめぐる報道振りだ。
「地方を切り捨てるな」。「地方の道路はどうしてくれるんだ」、「暫定税率を廃止すれば財源はどうなるんだ」の攻勢の前に、菅直人は「道路をつくらせないとは言っていない」などと防戦一方だ。あたかも「そのまんまひがし」が正しいかのような報道だ。ガソリン減税を言い出した民主党が悪者であるかのようだ。
ふざけるんじゃないぞ、そのまんまひがし。どっちを向いてしゃべっているんだ。お前が文句をいう相手は政府であり自公政権だ。なぜ宮崎の道路が遅れたか。それは自民党、政府、建設省が宮崎県の道路を後回しにしてきたからだ。宮崎出身の族議員が弱かったからだ。
お前が真っ先に文句を言うべき相手はそいつらだ。予算編成権限もない野党の民主党相手に何を大声をあげているんだ。自公政権の片棒をかつぐような見え透いた真似はよせ。政局のドサクサに紛れて一気に国政に出て総理大臣になろうなどというあからさまな野心をぎらつかせるな。
情けないぞ民主党。なぜガソリン減税一本で攻めないのか。国民の大多数が望んでいるのは減税だ。野党が攻めるべきは官僚の税金泥棒とそれをかばい続ける自公政権だ。それこそが国民の渇望している事なのだ。それこそが政権交代の王道なのだ。
それにしてもふざけた話だ。20日の朝日新聞に「国際連帯税」などというあらたな税金を導入しようとする超党派の議員連盟が発足したという。国際機関などの資金に充てるため、国境をまたぐ経済活動へ課税するという。
そういえば道路暫定税率を廃止するかわりに環境税を導入しろという意見を真顔で唱える国会議員が多かった。
もっともらしい名前をつければいいというものではない。税金は税金だ。国民が働いて収める血税だ。税金はすでに十分すぎるぐらい複雑、多様化して国民を苦しめている。これ以上一切の増税、新税を許さないというのが正しい政治だ。政治の原点だ。
政治家はどいつもこいつも本気で減税を行おうとする者はいない。なぜならば彼らこそ我々の税金で生活し、税金をつかった政策で飯をくっているからだ。金を使うのではなく頭を使って、少しは国民の為に良い事をやってみろ。
収入が増えないのに物価は上昇の一途だ。しかしそれでも国民はやりくりしている。生きていかなければならないからだ。政治家は甘えすぎている。政治家になろうとする連中は大きな勘違いをしている。
2008年02月19日
議員立法が官僚支配を崩す
議員立法が官僚支配を崩す
2月16日の朝日新聞に議員立法のあり方を変える動きが活発化しているという記事があった。2月6日に自民・民主の若手議員7名が国会改革案を発表し、その中心が議員立法の充実であるという。
私はこの動きに注目している。なぜならば、もし議員立法がこの国の立法において脇役から主役に転じるならば、官僚支配が根底から崩れるからである。しかし残念ながら、そうはならないであろう。官僚がそれを許すはずはない。日本の政治家に自分の手で法律をつくる能力も意思もない。
国会議員の本業は何か。それは法律をつくる事である。国会が立法府と呼ばれるゆえんである。ところが日本の国会の現実はそうではない。官僚が作成した法案を政府が国会に提出し、与野党議員の審議をへて成立される。
ところが、国会の審議が八百長である事は周知の事実だ。答弁はすべて官僚が作成し、野党議員は与党議員の開き直った答弁を突き崩せない。事実上法案は政府、官僚の思惑通りどんどんと通ってしまう。成立する法律のほとんどを国民は知らない。ましてやその法律を作った官僚の意図がどこにあるかなど、まったく知らされない。しかし一旦法律が出来てしまえば、それらは国民を縛る。日本が官僚支配国家であると言われるゆえんである。
しかし議員立法が主役になれば、官僚が好き放題に法案を作ることは出来なくなる。良質な国会議員は、国民のニーズに応える法案をつくる事に励む。その法案の責任はその議員が負う事になる。良い法律を一つでも多く作る国会議員が国民から評価される事になる。国会議員は競って良い法律をつくろうとする。
なぜこんな当たり前の事が今までなされなかったのか。それは建前では「日本は議院内閣制である」という事になる。内閣(政府)が議会に責任を持つからだ。内閣提出法案が主役である根拠がそこにある。
しかしそれはあくまでも建前である。議員立法も憲法で認められた立派な立法行為である。国会の慣例を変えればいいのだ。議員立法が内閣提出法案に比して脇役にさせられていたのは、官僚と政治家の双方に、そのほうが都合が良かったからである。官僚は立法権を独占し、政治家はその作業を官僚に任せて楽をしていたに過ぎない。
我々は議員立法を主役にしようとする国会改革を支持すべきである。そうする事によって官僚支配を崩し、法律の透明性を高める事が出来る。なによりも政治家に本来の仕事をさせる事が出来る。すくなくともテレビに出て与太話をする暇を三流政治家から取り上げる事ができる。
2008年02月18日
佐藤優の的確な外務省批判
佐藤優の的確な外務省批判
18日発売の週刊現代に、「秘トンデモ外務官僚リスト」が流出した!というゴシップ記事が出ていた。
それは、週刊現代誌が外務省内部から入手した極秘職員リストであり、機密費でお子様ランチを食べさせたり、セクハラを強要したり、長期欠勤にもかかわらず給与が全額支給されていたり、と、問題職員がリストアップされている内部資料だという。
このリストが本物なのかどうか知らない。外務省は出所不明の文書でありコメントを控えると言っているらしい。しかしこのような醜聞は既に繰り返し報道されてきたものばかりだ。そのような職員がいたことはこの目で見てきた。いずれにしても次元の低い醜聞だ。
私が指摘したいのは週刊現代の取材に応じて答えている元外務省主任分析官佐藤優のコメントである。彼は言う。
「なぜ外務官僚がここまで乱れるか、ひと言でいえば勤務がヒマだからです・・・」
この言葉ほど的確な答えはない。私は佐藤優の言論のすべてに目を通しているわけではない。賛同できない意見もある。しかし彼の外務省批判は見事なまでに的確である。
私が外務省にいた時からそうであった。ほとんどの職員がヒマをもてあましているのだ。もちろん、残業と称して遅くまで大勢が仕事をしている。しかしどうでもいい事に無駄な時間を使っているのだ。
やるべき外交は山ほどある。しかしそれをやろうとしない。何を、どうすればいいか、どこから手をつけていいか、わからないのだ。
外務省がニュースになる時は拉致問題、米軍再編問題、領土問題、靖国問題など後ろ向きの処理案件ばかりだ。しかもいずれも行き詰まっている。張り切って進めた国連安保理常任理事国入りは見事に頓挫した。
最近はこれらの外交に関する記事も少なくなった。さぞかし外務省はヒマであろう。こんな時こそ事件が起きたり、醜聞が出たりするものだ。外務省は気をつけたほうがいい。
2008年02月18日
塩川正十郎の放言に今の日本を見る
塩川正十郎の放言に今の日本を見る
鳩山邦夫法相の冤罪失言が騒がれている。腐った羊水発言でタレント歌手が袋叩きにあっている。いずれも問題発言である。だから非難されるのは止むを得ない。
しかし、同じようにとんでもない発言を繰り返しても、やり過ごされる場合があるとしたらどうか。
繰り返し、繰り返し、メディアで面白おかしく流される事によって、失言の誤りは増幅される。その一方で、暴言、放言が、何の問題提起もないままに見過ごされてしまえば、それはもはや暴言、失言ではなくなる。小泉元首相の発言がそうであった。
日曜日の早朝の番組に時事放談(TBS系)という番組がある。いつも決まった顔ぶれの政治家や評論家たちが二人で出演し、司会者の繰り出す質問に答える政治放談番組である。
その常連の一人である元政治家の塩川正十郎が、17日の番組で年金問題に関するとんでもない放言を繰り返していた。
年金問題をきっかけに国民の社会保障制度のありかたを抜本的に見直そうと福田首相は社会保障国民会議なるものを創設した。そのメンバーの一人である事を自ら認めた上で塩川は、もはや現行の年金制度は崩壊しているから新しいものを作らないとどうにもならない、その事を政府は国民の前で一日も早く認めたほうがいいと言ったのだ。
おそらく関係者の皆がそう思っているに違いない。しかしそれを認めると大騒ぎになる。福田首相も枡添大臣も社会保険庁の職員も、誰もそれを言い出せない。その一方で新しい制度を急に作ることはとても出来ない。だからいたづらに記録照合などという不毛な作業を繰り返し無意味な時間稼ぎをしている、これが年金問題の現実なのだ。
その間にも成人式を済ませた国民には容赦なく年金保険の取り立て通知がくる。これは詐欺まがいの行為ではないのか。あらたな制度ができるまで年金徴収は凍結されるべきではないか。
保険負担を全額税金で徴収するという案が浮上している。見ているがいい。おそらくそうなるに違いない。しかしそうなった場合、これまで収めた保険料は支払った者に返還されるのか。いやそんなことには決してならないだろう。取られっ放しになるだろう。それがわかっていながら保険料を取り続ける事は国家的詐欺行為ではないのか。
塩川の問題発言が炸裂したのはその後だ。
彼は、自分は年金など最初から当てにしていないと言い放った。そして、自分は年金を一切受け取っていない、議員年金は廃止されたからもらっていない、サラリーマンをしていたから厚生年金も請求できるし、地方公務員もやっていたから共済年金も受け取れる。しかし手続きが面倒だから一切申請していない。そう笑いながら言ったのだ。
年金を老後生活の唯一の頼りにしているほとんどのこの国の老人たちはこの言葉を何と聞く。欲しければ申請しろと言われて複雑な申請をさせられている老人は、この塩川の言葉をどういう思いで聞いたか。社会保険庁の職員から「分かっていても教えるな」といじめられ、おさめた保険料をいつまで立っても払ってもらえない悔しさをどこにぶつければいいのか。
この国の最大の問題は、この塩川のように恵まれた連中が自分の事しか考えないようになってしまったことだ。自分さえ良ければ、悪が横行しても沈黙し、行動を起こさなくなってしまったことだ。
野党の政治家たちはこの塩川発言を国会で取り上げ、日本という国の将来のあり方を国民全員に本気で考えさせる機運を作り上げなければいけないと思う。
2008年02月17日
日本の環境問題もまた政府の無策から来ているに違いない
日本の環境問題もまた政府の無策から来ているに違いない
昨今の日本の諸問題は、つまるところすべて政府の無策、失策から来ている。私はそう思っている。
例をあげるまでもないだろう。解決不能が明らかになったのにいまだ無駄な作業を繰り返している年金問題はその最たるものである。しかしそれだけではない。
例えばひと頃大騒ぎした耐震偽装事件。あの問題の本質は、建設省が天下り機関に耐震構造審査をマル投げし、おまけに自らつくった耐震構造審査のソフトに偽装し易い欠陥があったために偽装を助長したのだ。その責任を糊塗すべく、事件後に慌てて審査基準を厳しくしたため、今度は建築不況を招いてしまった。官製不況だ。建築業界は悲鳴を上げている。
薬害しかり、冤罪しかり、医師不足問題、限界集落問題などなど、枚挙にいとまがない。もっといえばここまで日本の財政赤字が膨らんだのも、日本の安全保障が米国の手に握られて身動きが取れなくなったのも、すべては与党政治家、官僚の馴れ合いによる無策、失策の積み重ねの結果ではないのか。
そう思っていたら、日本の環境問題さえも政府の環境政策の失政がもたらしたものである事を知った。そう教えてくれているのが中部大学教授の武田邦彦氏だ。
旭化成のサラリーマンからリサイクル研究者を経て大学教授(資源材料工学)となった彼は、17日の朝日新聞「耕論」のなかで、こう言っている。
「・・・この世界(製紙業界)は元々リサイクルがうまくいっていた。ちり紙交換で回収し、製紙会社が混ぜて作り、バランスのいいリサイクルができていた。ところが政府が調達するコピー紙は配合率100%、印刷用紙は70%でないと買わないといっておかしくなった。100%は技術的に難しいのに、そうでないと買ってもらえずごまかしが起きた・・・」
極めつきは、その武田教授が文藝春秋3月号で書いている「京都議定書は日本外交の完全な敗北である」という記事である。私は大きくうなずいた。
彼は言う。地球温暖化問題の発端となった1997年の京都議定書は、米、EC,開発途上国の間の熾烈な国際ゲームの産物であった。そしてそのゲームの最大の敗者は、もっとも環境問題に努力してきた日本であると。
その理由はこうだ。そもそも京都議定書づくりは、あまたある環境対策のうち、地球温暖化ガス削減の数値目標に交渉の焦点が絞られた産物である。その時点で各国の壮烈な利害争いが始まった。
経済成長と温暖化ガス排出量は比例関係にある。新興発展途上国陣営から、「先進国が原因で起きた環境問題になぜ発展途上国の発展が制約されるのか」という猛反発が当然のごとく起きた。その結果排出量削減義務は先進国のみに課されることになった。
もともと削減目標など達成する気のない米国はいち早く抜け、EUは削減義務の基準年を自らに都合のいい90年とすることに成功して切り抜けた。90年までの欧州は、旧東欧圏の統合もあり、省エネレベルは悪かった。それが90年代にエネルギー効率が急速に改善された。だから90年度が基準年にされた時点で、削減義務の目標数値はかなり達成できることになったのである。
ところが既に80年代から省エネを進めていた日本は、そうはいかない。それ以上大幅な改善をすることは容易ではない。実際日本は6%の削減目標達成どころか16%も増加させている。このままでは削減目標達成は不可能だ。
そこで登場するのが排出権取引という緩和措置である。つまり削減達成が困難な国は排出量に余裕のある国から未達成分を購入すればいいという事になった。かくして日本は排出量市場における最大のカモとされることになった。
はやくから省エネに取り組み、環境改善技術も進んでいる日本こそ、公正、公平で効果的な国際的枠組みづくりに指導力を発揮できる国であった。それなのに日本外交の失敗は米国、EC,途上国の利害争いの枠外に置かれっぱなしであった。それに加えて外務省、通産省、環境庁が本会議場で内輪もめする醜態を演じたりしていた。その結果日本だけが不当に大きな負担を背負い込まされる事になったのだ。
武田教授は言う。自分たちに有利な条約を結んで削減義務を負おうとしないEUや、京都議定書の批准を拒んだ米国にくらべ、最後の一国になっても排出量削減にまじめに取り組み、削減できない分については世界中から排出権を買い集めている日本のほうがよっぽど誠実である。
それにもかかわらず日本ほど温暖化問題で評判の悪い国はない。「口ではあたかも京都議定書を守ろうとしているが、継続的な経済成長政策をとっている」、「議定書を守ると表明する一方で、世界から排出権を買って済ませようとしている」などと批判される。おまけにポスト京都のあらたな削減目標をめぐって、数値目標の設定自体に反対した日本は各国から強い批判を浴びた。
これが失政でなくて、なんと言うのか。今からでも遅くない。洞爺湖サミットこそ、日本が不名誉な批判を挽回すべきチャンスだと武田教授は言う。
しかし官僚の上に乗っただけの福田首相には世界を説得させる環境外交は到底望めそうもない。サミット成功のためにも福田首相はサミット前に誰かに替わってもらったほうがいいかもしれない、そういう声が、政局がらみではなく、環境外交を重視する人たちから出てくるかもしれない。
2008年02月16日
自衛隊海外派遣のジレンマ
自衛隊海外派遣のジレンマ
イラク戦争が始まってから急速に進んだ自衛隊の海外派遣。その流れがさらに加速しようとしている。
防衛庁が防衛省に変更されたことばかりが報道されていたが、一年前の自衛隊法改正の主眼は自衛隊の海外活動を本来任務に格上げすることであった。
今年に入ってもその動きは止まらない。テロ特措法延長問題の国会審議で懲りた政府は、いちいち国会で追及されてはたまらないと、自衛隊海外派遣を恒久化する法律をつくろうとする。年明け草々に高村外相や山崎拓元副首相などがその事を内外でさかんに発言し、それがしきりにマスコミで報道されている。
そして16日の読売新聞では、政府は内戦が続くスーダンのPKO(平和維持活動)に自衛隊を派遣する事を検討するなどと報道されている。
このような動きに対して、護憲の立場からは、憲法9条違反が更に重ねられると懸念の声があがる。私もそう思う。
しかし私は、その一方で、やれるものならやってみろ、という気持ちでこの動きを突き放して見ている。自衛隊の海外派遣を増やせば増やすほど、矛盾にぶち当たり、困るのはむしろ政府、自衛隊だからだ。
何故か。それは、そもそも自衛隊の海外派遣そのものに矛盾があるからだ。
90年に始まった湾岸戦争の時、憲法9条にこだわった日本は金だけしか出さずに世界の評価を落としたと喧伝された。金だけでなく人を出してこそ責任を果たせる、そういうトラウマが自衛隊海外派遣の道をひらいたと言われたりもする。
これはとんでもない間違いだ。あの時日本の巨額な資金援助が多国籍軍の活動にどれだけ貢献したか、それは米国の関係者も認めている事実である。湾岸戦争にこれほど協力した国はなかったのだ。
しかしその事はここでは問わない。金を出すだけでなく人を出さなければならないと、日本の指導者は本気で思っているのか。金だけで済ませるなということは汗をかけということだ。戦地で汗をかくことは血を流せということだ。
果たして日本の自衛隊は血を流す覚悟があるのか。しかも祖国防衛とは何の関係も無い戦争のために、日本から程遠い外国の地で戦う覚悟があるのか。日本の指導者は、そんな戦争のために自衛隊に犠牲を強いる命令を下せるか。
日本の戦後史上初めて重装備をして戦地に自衛隊が派遣されたのがイラク戦争であった。しかし自衛隊は決して危険な地域でテロと戦った訳ではない。他国の軍隊に守られて復興人道援助に終始した。
アフガン活動への給油活動にしても、米兵や物資の輸送活動にしても、いずれも直接の戦闘行為に参加しているのではない。後方支援である。
そしてここからが私が一番強調したい点であるのだが、その理由は、憲法9条で禁じられているからでは決してない。憲法9条に違反する行為なら政府はとっくに始めている。憲法9条で禁じられているというのは口実である。政府は自衛隊が犠牲になるような危険な海外活動に対しては、たとえ主人の米国から命令されても応じないであろう。
自衛隊が欧米の軍隊と同様の戦闘活動に従事させられたなら、欧州の軍隊と同様に、確実に敵を殺し、敵に殺される。それだけは避けたいのだ。だから、いくら恒久法が出来ても、いくら国連決議に基づきPKOを積極化しようとも、政府は決して自衛隊を戦闘活動に従事させるような協力は行わないであろう。
それでは一体何のための海外派遣か。それは平和な日本で災害活動と訓練しかすることのない自衛隊に「それらしき」仕事を与えるためだ。そうして自衛隊組織の士気を維持し、組織防衛を図るためだ。政治家や官僚にとっては自らの自尊心を満たすだけの政治的格好つけなのだ。
日本の自衛隊は憲法9条によって守られている。それを一番よく知っているのは自衛官そのものに違いない。一度も武器に手をつける事無く定年を迎えた事を誇りに思うと言って去っていった自衛官がいた。そういう自衛隊こそ、世界に誇れる憲法9条下の自衛隊である。
2008年02月16日
国家公務員キャリア制度廃止は本当に実現できるのか
国家公務員キャリア制度廃止は本当に実現できるのか
16日の読売新聞は、政府が今国会に提出する国家公務員制度の改革基本法案の原案を大きく報道していた。その目玉はキャリア制度の廃止であるという。しかし報道されている法案の骨子のどこにもそのような明確な規定はない。この種の法案には必ず抜け穴がある。
東大や京大の法学部を出て国家公務員上級試験を目指す連中の目的は何か。国や国民のために尽くしたいと思って高級官僚になりたいという者がいたら、そいつは大嘘つきだと思えばいい。
上級試験を目指す者の頭にあるのは二つしかない。一つは天下りだ。出世競争に負けても天下りを渡り歩く人生が保証されている。現役時代の給料の不足を取り戻しておつりが来る第二の人生がある。しかもろくな仕事をしなくても高給と退職金がもらえるのだ。この優雅な人生があるからこそ官僚を目指すのだ。
もう一つは特権だ。国家公務員上級試験を合格した時点で、世間体で言う超エリートの身分が与えられる。この優越意識を手にする魅力は絶大である。おまけに許認可権や法案作成権、法解釈の裁量権などで、企業、国民を支配する物理的権力まで手中にする。権力志向が強い連中にはこたえられない優越感だ。
このうち天下りの廃止に対する官僚の抵抗がいかに強いかは、独立行政法人改革が一向に進まないことから明らかであろう。しかし、年金問題や道路建設問題などで官僚の卑小な実態がここまで明るみになった。国民がそれを知って怒りを抱いてしまった。もはやこの面における甘味は早晩なくなって行くに違いない。だからこそ高額収入が約束されている外資系企業などを選ぶ学生が増えているのだ。
しかし二つ目の特権が残っている限り官僚志望の学生がなくなる事はない。「高級官僚」の称号にあこがれる者にとっては、いかに天下りがなくなっても官僚の魅力は絶大だ。実際のところ、この国に官僚支配が続く最大の理由がここにある。国家公務員上級試験の存在がある。
だから、もし、今度の国家公務員制度改革によってキャリア制度が廃止されるとすれば、すなわち、一度に多くの国家公務員を採用し、あとは実力主義によって限られた幹部ポストを大勢の官僚が競い合うといった、真の能力主義制度が採用されるとすれば、それは、これまでの日本の官僚制度の死を意味する。革命的な事である。だから独立法人改革以上に困難な事であるのだ。
それが出来た暁には官僚制度は間違いなく変わる。そして官僚制度が変わるということは日本の行政が変わるということだ。行政が変わるということは政治が変わるということだ。
見ているがいい。決してそうはならない。そうなった時は、私はいつでもブログを書く事を止める。ブログを書く意味がもはや殆どなくなるからである。
2008年02月15日
後から声をあげる人たちを私は信用しない
後から声をあげる人たちを私は信用しない
亡くなった小田実の、いかにも彼らしい言葉がある。デモ抗議こそ民主主義における市民の意思表示だという信念を、自らの言動で示した彼でしか言えない言葉だ。
デモの本質は、前後、左右を歩く人たちが、名前も、身分も語らず、また聞きもせず、ただデモの目的に向かって声を上げて歩き続ける事であるという。
その小田が、デモに参加せずに後になってから、実は私も同じ考えを持っているんです、と近寄ってくる、「私はそういう人を信じないことにしている」という。
その小田の言葉を私は15日の朝日新聞「ウオッチ」というコラムを読んで思い出した。
松浦祐子という記者の書いたその記事は、東京地裁が下した「名ばかり管理職」の判決について、利益ばかりを追求する経営者は「名ばかり経営者」と言わざるを得ない、厚生労働省は労働者保護のために管理職基準の厳格な適用を企業に指導すべきだ、と書いている。
その主張に何の異論もない。しかし私がこの記事で注目したのは、その主張ではない。「こんな当然の判決が、主要新聞の1面をそろって飾るなんて」と、労働関係者は喜びながらも戸惑いを見せた、というくだりである。
労働基準法では、残業代の支払いを免除される管理職は、経営者と一体的な立場にある人に限られる。慶弔や疾病時でさえ休めなかったこの店長が、労働基準法にいう管理職に該当しないのは、労働法を知る人の間では常識だったというのである。
常識であったなら、何故その「労働関係者」たちは、経営者の非常識な雇用態度を糾弾し、正そうとしなかったのか。なぜ店長が孤立無援でマクドナルド本社訴えなければならなかったのか。自らの正当さを認めた判決が出た時、その店長は涙を流さねばならなかったのか。
経営者の不正を知っていながら黙って見過ごす労働関係者ばかりだったから、多くの労働者が「名ばかり管理職」の名の下に不当な労働を強いられてきたのではなかったか。そんな彼らが、「こんな判決は当然だ」と今になって言ってみたところで鼻白らむばかりだ。
かつてフリージャーナリスト立花隆が田中元首相の金権政治を雑誌で告発した事があった。これがきっかけで田中元首相は失墜する事になった。その時、大手新聞の記者たちは、悔しまぎれに、「あんな事は皆知っていた事だ」とうそぶいたという。だったら何故書かなかったのか。
「後から声を上げる人たちを私は信用しない」。この小田の言葉が今輝いて見える。彼らこそ世の中の悪をはびこらせる共犯者だと小田は言いたかったに違いない。
2008年02月15日
辺見庸の生き方に共感する
辺見庸の生き方に共感する
2月14日の毎日新聞「ひと」欄に辺見庸の生き方が取り上げられていた。その表題は、「闘病4年 政治の表層離れ新境地開く作家」とあった。私の目が釘付けになった。
辺見庸は、共同通信社の記者をへて91年に芥川賞を受賞した作家だ。しかし私の中の辺見庸はあくまでも権力と対峙する気骨の男である。特にイラク戦争以降の彼の政府批判の激しさは、多くの批判の中でも比類ない激しさだ。
辺見は04年、講演中に脳出血で倒れた。それは誰にでも起こりうる突然の病気であったのかも知れない。しかし彼がみずから述べているように、「売文稼業の者としてもっと他のことについて書いたりものを言ったりしたい人間」であった彼は、現状に対する義憤にかられて政権やメディアを激しく批判するようになったに違いない。
その激しい言論活動とひきかえに自らの健康を犠牲にしたのではないか。彼はまた05年には大腸がんを告白している。脳出血の後遺症と大腸がんと闘いながら、それでも反権力の言説を止めない辺見を、私は驚嘆と同時に、反骨に殉死するのではないかという一抹の不安を持って遠くから眺めていた。
その彼が、「辺見さん、人間、そう簡単に死ねるもんじゃないわよ。死ぬのも大変なのよ」、という女性看護師の言葉に気づかされる。
「生きる価値を考えるのがいかにぜいたくか。どんな状況でも、生き物はとにかく生き残ろうとする。表面的な政治より、死にひんする者たちの意思を書きたいと思うようになった」と、そのペン先を、「闘争」とは別の境地へ向けようとしているという。
私はこれを嬉しく思う。少しは休んでくれ。好きなことに専念して欲しい。そしてまた気が向いたら批判を始めて欲しい。とにかく生き続けることだ。
政治批判などに専念することは、それを商売にしている者たちにとっては割りのいい仕事かもしれないが、普通の人間にとってはくだらないことだ。
不正や嘘が明らかになり、それをどんなに指摘、批判したところで、権力を握っている者たちが改めようとしない限り何も変わらない。弱者は常にその悪の犠牲にされる。その事を我々は毎日のように見せつけられている。勝手にやっていろ、と突き放したいほどだ。
しかしあきらめるわけにはいかない。虚無的になってはいけない。権力者たちの不正、横暴に抗っていかなければ、権力者たちの悪が放置され続ける事になる。世の中は永久によくならない。
我々はそのような権力批判の役割を、一人の人間にまかせて安住してはいけない。その人間の言説に代弁させて、自らは安穏な生活に逃げ込んではいけない。辺見庸が休んでいる間に、一人でも多くが辺見庸の代役をつとめなければならない。そう思い思いながら、私はこの記事を読んだのだった。
2008年02月14日
井上康生がんばれ
井上康生がんばれ
愛燦燦という歌の詩の中に、「わずかばかりの運の悪さを恨んだりして、人は悲しいものですね・・・」というのがある。
私はこの言葉が好きだ。長い人生においては、いや短くてもいいのだが、どうしても思うように行かない時がある。そんなとき、人は神頼みになったり、不遜にも神を恨んだりする。自分のツキのなさをなげく。
私は井上康生がフランスで行われた柔道の世界選手権で破れ、北京五輪への道が絶望的になったという報道をつらい気持ちで読んだ。全盛期において、すべて一本勝ちで勝つことにこだわり、それを実現した井上康生がいた。
有頂天になるなよと思いながらも、私は井上康生のファンだった。その彼がアテネ五輪で金メダルを逸してから、坂道を転がるように負けるようになった。一時は復活の兆しを見せたのだが、長続きしなかった。
負けた井上を見るのはつらい。しかし私がもっと同情を感じるのは婚約者の女性に対してである。心ない週刊誌やスポーツ紙が彼女のツキの無さを殊更取り上げて、井上が負けだしたのはその女性とつきあいだしてからだというのだ。そして今回の敗北である。
運と女性について、私は小説家宮本輝が最近のテレビで話していた言葉を思い出す。羽振りのよかった彼の父親は、最後は破産状態で死んでいったという。その父親を回想する宮本は、母親を捨てて他の女性に走った時からおやじのツキが音をたてて落ちていったと思うと語っていた。
この言葉で思い出すのが某スポーツ選手の事だ。つきあっていた女優との話が明るみに出た時、彼はその女性をかばうことなく噂を否定した。その女性はそれを見て彼から去っていった。男女間の事を第三者がとやかく言う道理は無い。それを承知で敢て書けば、彼には、できれば胸を張ってつきあいを認め婚約発表をしてもらいたかった。そうしていたら彼は男を上げたに違いない。私は当時そう思ったものだ。そのスポーツ選手はその後めっきり活躍しなくなった。
ツキのない女性と一緒になるからツキが落ちるのではない。女性を粗末に扱うからツキが落ちるのだ。井上康生、がんばれ。今お前がなすべきことは、自分で選んだその女性を悲しませない事だ。もう一度頑張る事だ。それでもうまく行かなければ新たな第二の人生を見つければいいだけの話だ。私は本当に井上康生に頑張ってもらいたいと思っている。
2008年02月13日
少女が犠牲にならなければ怒れないのか
少女が犠牲にならなければ怒れないのか
95年に沖縄で少女が暴行された時、沖縄では8万人を超える抗議集会が開かれ、それが沖縄の米軍基地縮小の動きにつながった。ところがその動きもいつの間にか消え去り、なくなるはずの普天間基地も、沖縄内部のたらいまわしで、名護市にもっと強固な最新飛行場が建設されようとしている。
かつて私は沖縄で講演に招かれた時にこう言った。「少女が犠牲になった時しか怒れないとすればあまりにも悲しすぎる。大人たちは情けないと思わなくてはならない」と。
今回起きた少女暴行事件によって皆が怒りまくっている。福田首相、高村外相、石破防衛相、仲井真知事、みんな怒りの言葉を吐いている。しかしその怒りはよそよそしい。
なぜか。それは、その怒りが米軍基地の存在に向けられていないからだ。米軍再編を進めようとしているこの時期に、「なんと馬鹿な事件が起きたんだ」という、間の悪い事件そのものに怒っているに過ぎないのだ。そこには少女の犠牲へのまなざしはない。
同様の事はメディアの取り上げ方にも言える。新聞休刊日であったせいで今日の新聞は各紙とも一日遅れの間延びした記事であった。タイミングを逸した記事ほどつまらないものはない。しかしそのせいだけではない。記事の内容そのものがつまらないのだ。怒りの矛先は在日米軍の存在に向かわなくてはならない。しかし在日米軍の必要性を疑う記事は皆無である。
野党の反応も同様である。野党第一党の民主党は米軍再編に反対ではない。テロ特措法反対で懲りた民主党からは声が聞こえてこない。護憲政党の社民党や共産党は国民運動を起こすだけの影響力はもはやない。米軍再編問題、基地問題は政局にならないのだ。ここに今の日本の最大の矛盾がある。
この機会に日米安保体制の是非を国民的議論にまで発展させる政治家があらわれないものか。
冷戦が終わって久しい今日において日本を攻めてくる仮想敵国はもはや存在しない。仮にそれが北朝鮮であるとしても米軍再編はそのために進められるものではない。米軍再編は米国の軍事戦略の変化によって行われるものだ。
その変化とは、米国の唯一、最大の脅威はテロであるという認識から来ている。場所、時間を予測できない終わりのないテロとの戦いに備えるために、米軍をより機動的、合理的に再編する、そのために日本の基地と自衛隊を変えていく、これが米軍再編である。決して日本を守るためではない。
もはや日本を守るためではない在日米軍を維持、支援し続ける合理的理由はあるのか。ない。米軍再編に協力する必要性も意義もないのだ。それにもかかわらず、米国の言いなりになって協力を続ける政府。それを許すメディア、有識者、国民。
これは単なる知的怠慢でしかない。真実を直視しようとしない自己欺瞞だ。米国従属を仕方がないとあきらめる自己喪失だ。そんな国に明るい将来があるはずはない。
少女の犠牲に私たち大人が報いられるとすれば、戦後63年間続いた不誠実な日米関係を、平和で自立した健全な関係に作り直す決意を国民的総意で行う事でしかない
2008年02月12日
岩国市長選挙の結果から見えるもの(最終回)
岩国市長選挙の結果から見えるもの(最終回)
メディアを敵視してはいけない
メディア不信が叫ばれている。確かに最近のメディアは保守化していると思う。権力批判を恐れているかのようだ。岩国市長選挙についても、メディアがもっと取り上げていれば、そして選挙の実態を正しく伝えていれば、それだけで選挙結果が異なったものになったと思う。
リベラル紙とされてきた朝日新聞はすっかり様変わりした。保守派とリベラル派が分裂状態だ。岩国市長選挙の結果を報じる朝日にその姿を見た。他紙と比べても、社説がなかった。内容が乏しかった。岩国市長選挙の報道姿勢が定まっていないから書けないのだ。
テレビの報道姿勢はもっと極端だ。活字に比べ画像は圧倒的に影響力がある。そのテレビの報道姿勢が権力批判を忘れて娯楽的に走れば、国民が劣化するのは当然だ。TV報道の責任は大きい。
なぜメディアはこうなったのか。ジャーナリストがエリート集団(支配層)の集まりとなり自らを権力側に置くようになった、権力側の締め付けが強くなった、視聴率第一の営利団体になりスポンサー批判が出来なくなった、不勉強になり、調査報道の努力を怠るようになってり官製ニュースを安易に流すだけになった、などと、多くの事が指摘されている。いずれもそれなりに当たっているのだろう。
そのテレビの内情を、TBSの報道局長である金平茂紀という人が講演でしゃべっていた。その記録がアジア記者クラブ通信2月5日号に掲載されていた。その言葉は示唆に富んでいる。
彼はまず「テレビ不信」という批判が世の中に強まっている事はメディアも自覚しているという。そして、視聴者や市民の批判にさらされるところに行って話すような自分は例外的だと認める。テレビの報道関係者は、人を取材したり、批判する事は平気だが、自分が取材されたり批判される事にものすごく弱いという。その事はとりもなおさず権力者からの批判にも弱いということだ。批判されるような場に出て行くなという意見が多かった事を告白している。
彼はまた昨今の民放の番組において報道と娯楽が一体したような番組が激増している事を認めている。その理由として制作費がかからないことをあげている。報道局の素材を利用して、知ったかぶりのコメンテーターを呼んできて、スタジオでおしゃべりをしながら、何かを言った気になって終わりにする。これが一番安上がりだという。
金平氏はこの現状を、赤狩りのマッカーシズムに敢然と立ち上がった米国CBSのアンカーマン、エド・マローの1958年の伝説的演説を引用してつぎのように憂いている。
「テレビがエンタテイメントの享楽主義に走っていった場合、(それは)ただの真空管の詰まった箱に過ぎない」と。50年前にすでに今日のテレビの現状を警告していたマローはやはり格好いい。
そして金平氏は米国と日本のメディアの比較を次のように述べる。
「ブッシュ政権の全盛期には、ブッシュ大統領の軍歴疑惑を誤報したアンカーマンが降板したり、取材源を秘匿した記者が収監の危機に直面するなど、米国メディアは衰退した。しかしブッシュ政権が衰退してメディアが盛り返してきた。メディアが盛り返してきたからブッシュ政権がレームダック化したとも言える。それが僕らには羨ましい。9・11の後に硬直化した(米国)社会が変わってきた。日本との違いを考えると情けなくなる」
彼が述べていた肝炎訴訟に際する女性記者の活躍の話は興味深い。最後の断言は面白い。
「C型肝炎訴訟でテレビの女性記者が果たした役割はすごく大きい。この問題を掘り起こしてしつこくやったのはフジテレビの女性記者。会社の中でも孤立無援的なところから始めて、どんどんと人を巻き込んでいった。そして患者の全員救済に向けて国の譲歩を勝ち取った。厚生労働省にいる女性記者たちが原告団と密接に連絡を取りながらやっていた。大きな希望がもてる報道振りだった。(それにくらべ)男性はダメ」
そして最後の金平氏の言葉は極めて意味深長だ。
「憲法とかデモとか国旗国歌の話とか、そういうニュースがなかなか出なくて事件ばかりやっているのは事実だと思う・・・昨年の参院選の日に小田実氏がなくなった。選挙特番をずっとやっていた時だからその日はカメラを出せなかったのは仕方がないと思うが、葬儀のときぐらいカメラを出せと思うが出していない。生前親交のあった人たちが葬儀場からデモをした。その記録だけでも撮っておく必要があると思ったが、カメラ配置の打ち合わせで「(撮らなくて)いいよ」となった。本当に悔しい思いをした。そういうものに価値があるということを想像するだけの価値観が継承されなかった。僕らの責任なわけです。(撮らなくていいよと判断するような)人たちが多数派を占めているようなところで、国旗国歌で処分を受けた教師を取材しようなんて発想が出てくるなんて、到底思えない」
引用が少し長くなってしまった。私がこのブログで言いたい事はメディア人も苦悩しているということだ。いたずらにメディアの保守化を批判してメディアを敵視してはいけない。彼らもまたこの世の中のあらゆる人間と同じように、敵にも味方にもなる中立的な存在に違いない。
メディアの保守化、体制化は確かにその通りである。しかしメディアに生きる人たちも様々な考えの人がいるのだ。彼らが、あるいは組織の論理で、あるいは自らの生き残りの為に、自己規制、自粛することは、現実であったとしても、それもまた時代の中に生きる私たちと同様である。
私たちが考えるべき事は、権力迎合的になったメディアをいたずらに批判する事ではなく、考えを共有するメディア関係者を見つけ、味方につけ、国民の心に訴えることのできる報道を、こちらから創っていく努力をしていく事である。そういう報道の積み重ねで世の中の動きも変えられる、そう前向きに考えなくてはならない。
そのためには自らが魅力ある発信源にならなくてはならない。私はそう自らに言い聞かせている。
2008年02月11日
岩国市長選挙の結果をどうみるか(3)
岩国市長選挙の結果をどうみるか(3)
日米軍事同盟の実態を直視せよ、目をそらすな、逃げるな
平和や憲法の問題よりも生活にかかわる問題のほうが重要だという。その通りだ。しかしその生活が、小泉政権を境にどれほど急速に壊されていったか。例えば・・・
この4月から後期高齢者医療制度が新しく実施される事を知っている人が何人いるだろう。これは75歳以上の高齢者の自己負担を3割に引き上げる悪法である。
この問題を取り上げていたTV番組では、司会者も評論家も与野党の政治家も、皆が悪法であることを認めていた。自民党の政治家さえも反論できなかった。
どのような人生であれ、この世を長く生き抜いてきた人の人生は、それだけで十分価値がある。敬意をもって扱われるべきだ。老人はそれだけで大切にしなければならない。
若者は自分が老人になることなど想像もつかないだろう。現役の壮年者は、自分だけはいつまでも第一線で活躍し続けると思っているに違いない。しかし誰もが老い、死んでいく。最後の人生を優しく、手厚く、面倒をみる、それこそが国の責任であり、政治の責任である。
医療制度改革だけの話ではない。小泉改革の名の下に、すべてがおかしくなってしまった。今日本に必要な改革とは、税金の使い方の歪みを正し、国民生活を公正で豊かなものにする改革であるはずだ。ところが現実は、少子高齢化による財政赤字増をどうするのか、という問題にすり替えられ、国民の負担増が当たり前のごとく言われるようになった。
痛みを我慢しろという小泉改革は何だったのか。官僚の天下りや利権政治が温存され、大企業や高額所得者の税負担は手つかずのままだ。改革と叫びながら、何の改革もしなかった。できなかった。した事といえば、民営化といい、競争社会といい、国民生活の犠牲と引き換えに、米国の市場原理最優先の競争社会、米国金融資本に、日本を「改革」しただけであった。
おかしいと思わなくてはいけない。ついこの間まで世界第二位の経済大国であった日本が、そして勤勉で優秀な日本人が過労死に追いやられるほど働いてきたのに、なぜ国の経済が困窮していったのか。弱者や老人の面倒を見切れないほど余裕がなくなったのか。我々が汗水たらして国に納めた桁違いの金が米国に流れ込んだためだ。
日本を財布代わりに見立てた米国が悪いのではない。日本を属国として占領し続けた米国が悪いのではない。米国のそのような要求をはねつける事もせず、ひたすら日本国民に犠牲を強いてきたこの国の自公政権こそ糾弾されるべきなのだ。生活困窮の最大の原因は対米従属外交にある。
岩国市長選挙の結果を報じる11日の朝日新聞にこんな防衛省幹部の言葉が引用されていた。
・・・在日米軍再編の中で、日本側が主眼を置くのは沖縄の普天間飛行場の移設と、米海兵隊のグアム移転。それと比べれば岩国への空母艦載機移転は優先度が低い・・・
優先度が低い岩国市への艦載機移転に、なぜそれほどまでに政府・官僚はこだわるのか。日本国民の生活を優先すべき政府・官僚は、自らの保身の為に対米従属を優先させてきた。米国と交渉する気概をはじめから捨てて、こちらから進んで米国に迎合してきたのだ。
米海兵隊のグアム移転に3兆円の金をつぎ込む。米国のテロとの戦いの戦場であるアフガン、イラクに政府開発援助をつぎ込む。紛争地に援助することなどは私が外務省の経済協力担当官のときは考えられなかった事だ。米国のテロとの戦いに協力するため自衛隊の海外活動を主要業務に格上げし、恒久派遣法をつくろうと急ぐ。米国の高価な武器を、さらに不当な値段で購入し、役に立たないミサイル迎撃システムを都心の真ん中に配置して訓練する。
どこれもこれも莫大な税金の無駄遣いだ。それだけの税金でどれだけの老人の人生が救えるか。薬害犠牲者、被爆犠牲者が救えるか。年金問題を解決できるか。増税を避ける事が出来るか。
それにしてもメディアがどうしてこの事を国民に伝えないのか。反骨精神を忘れたメディア。この事について次回のブログで書く。
2008年02月11日
岩国市長選挙の結果をどうみるか(2)
岩国市長選挙の結果をどうみるか(2)
日米軍事同盟と護憲政党
イラク戦争に反対して外務官僚を棒に振った私は、にわか平和主義者、護憲主義者のごとく、思いを同じくする人たちと一緒に平和の重要性を訴える事になった。
平和はすべての外交に優先されなければならない。日本の平和を守るには憲法9条を変えてはいけない。憲法9条を世界に高らかに掲げる事こそ最強の安全保障政策である。そう私は確信するに至った。その意味で私は最強の平和主義者、護憲論者である。
しかし、護憲政党やそれを支える多くの人たちは、憲法9条の条文を守る事には熱心であり、9文改悪のための国民投票法制定には強く反対しても、日米安保体制と言う名の軍事同盟に正面から反対する事をやめてしまったかの如くである。私が護憲政党の活動に最も違和感を持つところである。
小泉政権5年半の最大の罪悪は、憲法9条に手をつけることなく憲法9条を否定する政策を既成事実化してしまったことだ。そして護憲政党はそれを阻止できなかったばかりか、国民を目覚めさせる事ができなかった。
もはや米国にとって改憲はどうでもいい事なのだ。改憲問題は日本が決める事だと突き放している理由がそこにある。米軍再編に日本が協力すればいいだけなのだ。
この矛盾を指摘した一人がダグラス・ラミス氏である。米海兵隊を経て反戦活動家となったラミス氏は、安保条約という日米軍事同盟を正面から否定しない護憲運動はあり得ない。日本の護憲論者はいつからか在日米軍反対を言わなくなったのかと主張する。
それに気づいている一般の日本人がいない訳ではない。しかし政治の場においてそれを叫ぶのは、もはや極左と言われるイデオロギー政党であり、彼らは社民党はもとより日本共産党さえも日米軍事同盟の加担者であると激しく批判している。これでは一般国民はついて来ない。
在日米軍問題を極左イデオロギーの占有物にしてはならない。米軍再編に無条件に協力しようとする自公政権の対米従属政策は、日米安保体制の是非をはるかに通り越した、日本の安全保障問題とはまったく関係のない米国の戦争に、日本の金と人を差し出すという、誰が考えても間違った政策なのである。本来ならば日本を愛し、日本の国益追及を最優先する保守、愛国主義者が真っ先に反対すべき問題なのである。いや立場を超えて、右も左も反対しなければならない問題なのである。
岩国市長選挙は終わってしまったが、むしろ私たちはこれをきっかけにして、米軍再編問題について真剣に考える時期が来たと捉えればいい。これを機会に護憲政党は力を合わせるべきだ。新しい政治の動きを起こさなければならない。国民を覚醒させなければならない。井原前市長はその事を訴えるために戦ったに違いない。その勇気を無駄にしてはいけない。
ブログの3では米軍再編に突き進む日本の将来の危機について書く。
2008年02月11日
岩国市長選挙の結果をどう見るか(1)
岩国市長選挙の結果をどう見るか(1)
政府と岩国市の苦悩が続くのはこれからだ
今日のブログで書きたい事は他にもある。しかし、井原前市長の応援に岩国市に駆けつけた一人として、やはりまず今回の選挙結果について書いておかなければならないと思う。
私を含め、井原前市長を応援した人たちにとって、今回の井原市長の敗北は残念なことである。しかし私はこの選挙の結果をもってして、「正義が負けた」とか、これで「米軍再編が一気に進む」などという悲観的な見方はしていない。ましてや「岩国市民には失望させられた」などという批判をする事は間違いだと思う。
考えても見るがいい。今度の選挙は政府にとって負けることの出来ない選挙だった。ただでさえ沖縄普天間基地移設問題で行き詰っている政府は、もしこの選挙で反対派の井原前市長が勝つような事になれば、米軍再編に反対するほかの地方自治体にも波及していく。その危機意識があったからこそ、権力にものを言わせ、あらゆる卑劣な手を使って勝ちに行った。井原前市長の苦戦は明らかであったのだ。深夜まで大接戦に持ち込んだ井原前市長とその支持者は大健闘したのである。
このブログで私が強調したい事はただ一つ。それは今度の選挙に勝った政府や福田新市長は、これからが苦悩する時であるということだ。福田氏に投票した岩国市民は、果たしてこれでよかったのか、と、福田市政が続く限り自問自答していかなければならないという事だ。
そして日本国民は、ひたすら対米従属を唱えて米国の一方的な軍事要求を呑んでいくという古い体質の政治家・官僚のために、さらに分裂させられていくだろう。米国自身が変わろうとしている時にである。ただでさえ国民が強者と弱者の分裂させられている時に、そして、今の日本はこんな問題で対立している時ではないのに、である。
政府も岩国新市長も、これから米軍再編を進めようとすればするほど、その政府の方針を受け入れようとすればするほど、必ず行き詰る。真実を語らずに金と力で米軍再編を進めようとする政府に正統性はない。「基地受け入れは反対だが政府と協議して解決していくなど」という矛盾を繰り返す新市長は、沖縄知事や名護市長の葛藤を繰り返す事になる。
かつて小泉政治に騙された多くの国民が気づき始めたように、岩国市民も国民も、そのうちに矛盾に気づいて大きく振り子を振り戻す時が来ることになる。なぜならば、米軍再編を受け入れていく事は、あらゆる意味で間違いであるからだ。一部の政治家や安全保障問題で生計を立てている人たち、さらには利権目当ての人たちを別にして、多くの善良な国民にとっては米軍再編は一利もないからである。
それにしても護憲政党、護憲政治家の責任は重い。このことについては次のブログで書く。
2008年02月10日
万能細胞をつくった山中伸弥教授に魅力を感じる
読者の助言に従って読みやすく行間を空ける工夫をしてみました
万能細胞をつくった山中伸弥教授に魅力を感じる
京大の山中伸弥教授のチームが、人の皮膚から万能細胞をつくる事に成功したというニュースが流れたのは、昨年末であったと記憶している。それ以来私はこの山中教授の言動を注意して見聞きしてきた。そして何故か山中教授に惹かれるものを感じてきた。
これほどの発見をしながら浮ついたところがない。整形外科医の落第生から基礎研究に転じた事を素直に述べ、研究は膨大な失敗の中からたまたま生まれた僥倖であると言い、失敗に耐えた若い研究生たちへの感謝を繰り返す。欧米との競争の厳しさや、克服すべき問題は山積する、しかし一日でも早く実用化にたどりついて患者を喜ばせたい、と淡々と語る山中教授には、昨今流行の自分を売り込むパフォーマンスがまったく感じられない。私欲優先の世の中に一服の清涼感を感じさせる。
しかし私が山中教授に惹かれるのは、これらの理由だけではない。どこかで目にした彼の次の発言に、山中教授の、国家権力に対する反骨心を見つけたからだ。彼は新しい細胞を発見するために膨大なペーパーワークを行政から求められ、予算をそのために雇う人件費に使わざるを得ない事、それを研究にまわせたらどんなに嬉しいか、だから一回の申請で済む万能細胞を作りたかった、というような発言をしていた。言葉はおだやかだが、今日の政府・官僚の無駄、無能に対する強力な批判であると思って読んだものだ。
その山中教授が10日の読売新聞で次のようにインタビューで答えていた。
・・・日米の幹肝細研究は、マラソンで言えば、米国は研究者を支援する体制が整い、個人に合わせたウルトラスペシャルドリンクが1キロごとにおいてある。一方、日本は一人で、「水があればいい。根性で行け」という。同じコースで走ったら勝てるわけがない・・・(どうすればいいか)。できることは二つある。一つは棄権すること。もう一つは、負けるとわかりつつも頑張る。棄権すると、ここから先の知的財産はすべて外国のものになる。日本発の技術が応用された時に莫大な特許料を払わなければならなくなる。だから棄権はできない。米国の十分の一でもいいから知財を出し続ける努力をすることだ・・・資源もない日本で、科学技術は世界で優位に立てる原動力。欧米と比べ貧弱な環境のなか、日本の若手研究者はよく頑張っている。研究環境をよくしてあげて、基礎研究に若い人が集まるようにしないといけない・・・
誰がこの言葉を否定できようか。行政が山中教授の反骨心に反撥して冷たいのではない事を願う。行政が万能細胞の発見の本当の凄さに気がついていない事がないように願う。医学会の権威、重鎮たちが一人の傑出した人物の成功を妬んでいるのではない事を願う。
山中教授と若い研究者たちの成果が、間違いなくノーベル賞を獲得して世界の人類に貢献できるよう、官民をあげて支援する日本にならなければいけないと思う。
2008年02月09日
選挙工作を思わせる二つの報道
選挙工作を思わせる二つの報道
9日の新聞を見てそう直感した。一つは佐藤ゆかりと野田聖子議員が自民党本部でそろって記者会見をしたという報道である。各紙が一斉に報じている。もう一つは朝日新聞が一面で大きく報道した「政府は名護市に米軍再編交付金を支給する方針を固めた」というニュースである。
なぜ佐藤と野田の共同会見なのか。それはもちろん岐阜1区が野田、東京5区が佐藤という形で2年半続いた刺客騒動が最終的に「和解」決着したからだ。しかしなぜ、佐藤という政治実績のない一年生議員がこれほどメディアに取り上げられ続けたのか。しかも彼女の政治活動に関する報道は一切されず、選挙区争いばかりが報道され続けたのだろうか。まずこの素朴な疑問を抱かねばならない。
それは小泉劇場の産物であるからなのか。女同士のバトルだからか。美貌議員であるからなのか。おそらくその全てであろう。我々の心の内にひそむ低俗な覗き見趣味を狙って、メディアが取り上げたのだ。そのようなメディアの習性を逆手にとって自民党が両者のバトルを宣伝し、利用してきたに違いない。ニュースが勝手に流してくれればくれるほど、自民党は何もしなくても両者の知名度は高まるのだ。
見ているがいい。めでたく和解したにもかかわらず両者のニュースは続く。なんだかんだと理由をつくって佐藤と野田の選挙報道は総選挙まで続いていく。そして総選挙中も「見どころ選挙区」の一つとしてガンガン報道されるだろう。両方とも当選させたい、という大衆心理をにらんでの手のいい選挙運動なのだ。
名護市への米軍再編交付金支給決定はもっと露骨な政府の選挙工作だ。おりしも岩国市では米軍再編を巡って市長選挙が大詰めを迎えている。あらゆる手を使って反対する井原市長を落選させようと政府は圧力をかけてきた。それでも井原市長は、踏みとどまっているという。苦戦しながらも接戦に持ち込んでいるという。未定の有権者の動き次第では劣勢を跳ね返すチャンスも残っているという。
政府にとっては決して負けられない選挙だ。これではまずい。勝利のためにダメ押しをしなければならない。態度を決めていない有権者の最大の関心事は「岩国市は財政破綻しないだろうか」という不安である。その不安心理をたくみに突いた名護市への交付金支給方針の決定である。
これまでは名護市は、政府が米国と合意して進めようとしている普天間基地移設案について反対して来た。だから交付金の給付対象から外されてきた。政府はあわてて環境アセス調査で譲歩する姿勢を見せ、これを沖縄知事らが評価するというシナリオがここに来て急速に動き出した。そう思っていたら、今度は交付金給付の決定である。交付金ばら撒きの決定を先行させて沖縄が移設建設の着工を認めざるをえない既成事実を作ろうとしているのだ。
このニュースを知って岩国市の態度未定有権者の心が動かないはずはない。やっぱり政府に従うと金が入ってくるのだ、と。これ以上の効果的選挙対策はない。名護市への交付金給付決定は8日の閣議決定である。岩国市長選挙は10日投票日である。タイミングが良すぎる。
2008年02月08日
内橋克人と原田泳幸
内橋克人と原田泳幸
強者が弱者を抑圧する事があたりまえのようになっている最近の風潮の中で、注目すべき東京地裁判決が続いた。
一つは、君が代斉唱時に起立しなかったことを理由に再雇用を拒否した東京都教育委員会に対し「裁量権を逸脱した違法」であるとして賠償を命じた判決であり、もう一つは、日本マクドナルドに対し店長は管理監督者ではないと残業手当を認めた判決である。この流れが続く事を願う。しかし現実はそうならないだろう。この事をマック判決に思いを走らせて書いてみる。
マック判決について二人の好対照な反応が新聞で報じられていた。二人とは内橋克人と原田泳幸である。内橋克人とは優勝劣敗の新自由主義に厳しい批判のまなざしを注ぎ続けている経済評論家の事であり、原田泳幸とは訴訟の当事者であり被告である日本マクドナルド社の取締役兼会長の事である。
2月7日の朝日新聞オピニオン欄で内橋は次のように述べていた。すなわち今回の判決が暴いたものは、労働時間を延長せざるをえない立場に勤労者を置きながら、支払うべき労働の「対価」を支払わずに済ませる、知的練磨にたけた「姑息術」の蔓延ぶりである。それは日本マクドナルド社に限ったことではない。企業は管理職という名札を乱発するだけで、人員を増やすことも残業代を支払う事もしない。すべての対価は生命を削って働く生身の人間に押しつけられる。「偽装管理職」とはまさに究極の人間合理化策である、と。
そして内橋は続ける。この数年、多くの労働者保護法が、労働規制緩和の名の下に葬りさられ、「偽装管理職」を追認するような幾多の法改正(ひところ騒がれたホワイトカラーエグゼンプションなど)が、経済界の渇望のもと待機中だ。私たちは企業社会の「経済的不道徳性」を突く鋭さを磨くほかにない。マック訴訟の原告・高野広志さんの勇気が尊厳ある労働への道を拓く、と。
これに対して好対照の反応を見せたのが日本マクドナルド社の原田である。多くの外食・小売業界ではすでに残業代支払いに切り替えている中で、コンビニ界最大手のセブンイレブンの対応が注目されていた。そのセブンイレブンが、判決後初めての企業として、店長に残業支払いを行う制度に切り替えたというニュースが8日の報道で流された。
その同じ日の報道で、日本マクドナルド会長の原田泳幸は、店長の給与水準が業界トップであることを誇示しつつ、「就労時間に関係なく成果を求められるのが管理職だ」と言って、制度を変更するつもりはないとの姿勢を見せた。控訴も辞さない態度である。大幅増益を発表した記者会見の席での発言である。調理日時を改ざんした不祥事の反省はとっくに忘れているかの如き強気の発言である。
私はもちろん内橋克人の側に立つ一人だ。しかし私が言いたい事はそれではない。今の日本では原田的な経営者が多数存在し、彼らの経営姿勢を評価する者たちもまた国民の中に多数いるという現実である。内橋の論理を受け入れる企業人はむしろ少ないとさえ思える。
私は思う。日本という国は、国民の考えがどんどんと二極化しつつあるのではないか。いや大多数の国民は中間層に違いないが、その中間層の国民が消極的ながらもどんどんと強者の論理にひきずられようとしているのではないか。そして強者が弱者に優越する社会が固定化しつつある。強者の中に弱者を思うものが少なくなる一方で、弱者の多くが強者に従属して我慢するようになりつつあるに違いない。
その事は、とりもなおさずこの国に政権交代が起こらない土壌を作っているのだ。政治が国民をつくり、国民は政治の大勢に従うものなのかもしれない。
2008年02月08日
政策論争をするほどに政権交代が遠のく
論戦をするほどに政権交代が遠のく
ここにきて政治が急速につまらなくなった。なぜか。それは国会が政局から政策論争に方向転換したからだ。政権交代は遠のいた。しかも、たとえ将来新しい政権が出来ても、それは国民の多くが期待している真の政権交代ではなく、自民党的な体質を受け継いだ保守連合や新党絡みの連立政権という形で行われるに違いない。そして政・官支配体制というこの国の形は続いていく。
8日の社説において、たとえば読売新聞が「民主党は『道路で』対案を示せ」といい、朝日は「論戦で(ガソリン税の)修正の糸口を」と書く。それは一見正論に思える。しかしその正論が正論として意味を持つのは、日本の政治が、政党を離れて国民のために正常に機能しているという大前提がある。論議を尽くした結果、与党や官僚が、自らの立場や利害を離れ、国民のためにこれを受入れるという政治が不可欠である。現実は決してそうなっていない。
かつて小泉元首相は、共産党の議員がどんなに正しい事を言ったところで、「それは共産党の考えだ」という一言で片付けた。国会答弁で一蹴した。それに対して共産党議員はなすすべがなかった。
民主党は野党第一党である。日本共産党と違って国民の幅広い支持を得ている。しかし政府・与党の野党に対する対応は基本的には同じである。官僚支配と一体になった自公政権は、そのシステムを崩そうとする野党の主張を受け入れる事はない。議論で負けても譲らない。そもそも議論が成り立たないのだ。官僚として国会審議のカラクリを見てきた私はそう断言する。
新年度予算案をめぐる国会論戦が始まり、テレビが毎日それを放映し、新聞にもその詳細が報じられている。議論はなされている。民主党は対案を出している。それでも議論が発展しないのだ。
与党政治家の八百長質問は論外としても、菅直人といい、岡田克也といい、蓮ボウといい、長妻昭といい、どんなに政府の非を問い詰めたところで議論が深まることはない。どんなに政府の政策の不正、不明が明るみになっても、言い逃れ一つで終わってしまう。
暫定税率が30年も続いているのはおかしいと言えば、あと10年は必要だと言い、ガソリン税を下げろと言えばその財源はどうするとやり返す。道路ばかりに予算を使うのはおかしいと言えば、必要な道路は造らねばならないと言う。特定道路財源の流用がばれれば、改めると頭を下げる。どんなに議論をしても深まる事はない。
政治の本質は権力の奪い合いだ。それは、司法権、警察権、徴税権といった国民の安全と暮らしを支配する権力である。その権力が国民の利益に反し、国民の生活を脅かす時、最後の手段は力ずくでこれを取り戻すしかない。かつての市民革命がそれであった。今や民主主義の世の中では暴力革命は許されない。だから国民は政治家に思いを託す。政権交代は民主主義国家における民主革命なのである。支配者と被支配者が交代するのだ。主客逆転するのだ。だからこそ欧米諸国の全ての民主国家で政権交代が起きている。最近の豪州に至っては長期政権を誇った首相が、特段の非があった訳ではないのに、政権を手放したばかりか、自らが落選までしている。
なぜ日本で政権交代が起こらないのか。何があっても権力を手放そうとしない自公政権の執念が強いのだろう。野党の指導者に国民を奮い立たせる指導者がいないのだろう。政権交代を求めるほどいまだ国民生活は悪化していないのだろう。日本国民が権力に対してあまりにも従順なのだろう。日本のメディアの反骨精神が希薄になっているのだろう。おそらくそのすべてが真実であるのだろう。
当分は不毛な政策論争ばかりが続くことになる。
2008年02月07日
ゴーストップ事件を知って今の世の中を考える
ゴーストップ事件を知って今の世の中を考える
2月5日の朝日新聞に67歳の無職の男性からの投書が掲載されていた。この投書は、日教組主催の研修会をホテルが拒否した事件に言及し、この一件は、日本が戦争になだれこむ契機の一つになった「ゴーストップ事件」を思い起こすものであったと日本の現状を危惧していた。
「ゴーストップ事件」とは何か。不詳にも私はまったく知らなかった。調べてみた。事件の概要はこうだ。時は1933年、場所は大阪市北区の天満橋筋6丁目交差点。信号機(ゴーストップ)の赤を無視して渡ろうとした陸軍一等兵を、大阪市曽根崎警察署の巡査が見咎めて、両者の間の喧嘩騒動となる。
一旦はおさまったかに見えたこの騒動は、その後憲兵隊が「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱した事は許せない」と抗議したことから、問題が「天皇の軍隊」と「天皇の警察」の対立に発展した。 最後は天皇陛下の「あれはどうなったか」という一言で、慌てた陸軍と内務省が急遽和解したという事件であるらしい。
この事件以降、現役軍人に対する行政措置は、警察ではなく憲兵が行う事となり、軍部が国家の帰趨の主導権を持つきっかけになったとされている。
軍国主義の30年代と、平和な今の日本とは、まるで結びつかないと大方の日本人は考えるに違いない。あらゆる言論が封鎖され、個人の基本的人権が奪われていた非民主的時代は、もはや過去のものだと考える日本人は多いだろう。しかし、当時も今も、目の前で起きている事の意味を正しく把握する事は難しいものだ。後で振り返って気づくのだ。
この国で起きている出来事の数々を、我々は後にどのように思い出すのであろうかと思う。国民が選んだはずの政治家は果たして本当に国民のために機能しているか。公僕のはずの官僚が国民抑圧政策のシナリオを書いている。
年金問題の最大の問題は受けとる権利のある国民が申請しなければならないという矛盾である。ずさんな仕事や流用で年金を払えなくしてしまった公僕が、今でもふんぞり返って国民に仕事を押しつけている矛盾である。国民は文句を言えずに年金特別便を書かせられている。
岩国市長選挙は、正しい事を言っている井原市長が再選されて当たり前にもかかわらず、基地を受け入れない市長は変人、奇人にさせられ、苦戦を強いられる。
一人でもいいから現れないものか。指導者の中から立ち上がろうとする勇者が。弱者がいくら悲鳴を上げてもどうにもならない。金もない、影響力もない、相手にされない。そんな弱者が立ちあがろうとしても、その代償はあまりにも大きい。指導者、権力者の中から勇者が現れなくてはならないのだ。成功者のなかから正義に立ち向かう人物があらわれなくてはならないのだ。
2008年02月06日
誰も言わない事を言う勇気
誰も言わない事を言う勇気
面白い記事を見つけた。2月4日の朝日新聞「私の視点」で民・民の天下りを廃止せよ、と主張している人がいた。神鋼電機会長の佐伯弘文という経営者である。
面白いのはその当人が8年前に親会社神戸製鋼の役員から子会社の神鋼電機に天下った人であるということだ。その当人が民・民の天下りはやめろと言っているのである。「お前に言われたくない」という声が聞こえてきそうだ。そんな批判を承知の上で佐伯氏は言っているに違いない。
その論旨は明快である。官から民への天下りの弊害は十分に言われてきたが、親会社から子会社への「民から民への天下り」の是非についてはまともな議論を聞いた事がない。しかし、ほとんどの民間企業で共通するこの天下りも、大きな弊害があると、次のように言うのだ。
「・・・ (子会社に天下りする)当人は行く先の業界も現場も殆ど知らない。適切なリーダーシップなど取れるわけがない。子会社の従業員もトップや幹部は親会社から来る者と思い込みやる気を失っている。天下った当人に意欲があっても人事の都合で次が来る。天下り組は「老後の安住の場」と考えがちだ。そんな経営陣の言動が社員の情熱や愛社精神を失わせる・・・欧米諸国ではこうした天下りはあまり見かけない。株主はじめ利害関係者の目が厳しく、安直な人事は認められないからだという。残念ながら日本の株主総会で、天下り人事が議論されたという話は聞いた事がない。日本の企業社会は甘すぎるのである・・・自分の代で天下りは終えようと決め親会社と交渉した。改革も徹底した。幹部を内部から登用した。人は育てるものだ。彼らの目つきが変わったのを感じる・・・親子を対等の立場におき、子会社が真にやる気を起こす風土をつくること。日本中の子会社が活性化すれば日本経済が強くなるに違いない・・・」
私は官から民への天下りほど、民・民天下りを悪く言うつもりはない。官僚の天下りのように税金の浪費や官業癒着の弊害はないからだ。民間企業の人事は民間企業の収益の範囲で自己責任で行われるものであるからだ。
佐伯氏の「民・民天下り廃止」の提言に関して私が付け加えるとすれば、人間はある年齢に達したら現役を退いて若者に活躍の機会を譲るべきだという事である。
どのように能力のある人であっても余人をもって代えがたい人はまれである。いや、人はたとえ能力があっても、一定の年齢になったら後進に道を譲らねばならない。若者を育てる意識を持たなくてはいけない。すべての肩書きを捨て、過去の権力を捨て、自分に正直になって、今までの人生でできなかった言動を自由に行う、公共善の実現に貢献する、そういう時期を人生の最後には持たなくてはいけないのではないか。若者を生かす人間が多いか、少ないかで、国の将来が決まると私は思っている。
再び佐伯氏に戻ろう。私は佐伯氏とはもちろん一面識もない。彼の人となりも何も知らない。しかし彼は人の言わないことを言う人に違いない。それは日本の社会では勇気のいる事だ。その一点で私は佐伯氏を評価する。
2008年02月06日
もうとまらない政界再編の動き
もうとまらない政界再編の動き
政治がまったく機能していない。なぜか。それは自民党と民主党の主要な政治家たちが、さまざまな思惑から、政権交代に向けての正面衝突のリスクを避け、政権側に身を置くための最善の生き残りに奔走し始めたからだ。その結果国民生活は置いてきぼりである。
思っても見るが良い。参院選後の半年あまりの間、我々の生活にプラスになることが一つでも政治から生まれたことがあったか。薬害訴訟の和解であるとか、いくつかの良いことはあっただろう。しかしそれらは「解決して当たり前」、「放置されてきた悪が正されたに過ぎない」、という意味で、まったく後ろ向きな成果に過ぎない。年金にしても医療・介護にしても景気回復、格差是正にしても、国民が渇望している前向きの政策はまったく進んでいないのだ。その間にも日本が劣化し、国民の暮らしが追いつめられていく。
振り返れば昨年夏の参院選直後は、これでやっと政治の何かが変わる、という期待を国民に抱かせた。ねじれ国会が自公政権の横暴を止め、安倍退陣劇は自民党の破綻を国民に見せつけた。テロ法問題やガソリン減税をめぐる福田自民党と小沢自民党の攻防は、やがてそれが解散・総選挙につながり、政権交代の実現の有無について、やっと選挙で白黒がつけられるのではないかと誰もが期待た。
ところがどうだろう。いつのまにかすべてがウヤムヤに終わり、あたりまえのように解散・総選挙が遠のいた。いまや政治家たちは大連立、政権再編、新党結成の動きに公然と走り、雑誌や新聞もその事を書き始めた。おそらくこの流れは加速する事はあっても止まる事はないだろう。
そのような様々な動きの中で、私が特に注目したのが、月刊現代3月号に出ている橋本大二郎と江田憲司の対談である。橋本大二郎は橋本龍太郎元首相の弟であり、江田憲司は通産官僚から橋本元総理の秘書官をへて国会議員になった男だ。その二人を講談社が引き合わせただけかもしれない。
しかし、たとえそのような営業目的の対談であったとしても、その中で吐露されている二人の言葉は極めて意味深長だ。明らかにメッセージを送っている。
二人とも、自民、民主の両党を否定し、もはや新党を立ち上げるしかない、しかし新党を立ち上げる事は容易ではない、誰か流れを作ってくれればそれに乗りたい、と誘いをかけているのだ。
その中で橋本は、民主党を支えているのは連合であり、その連合を支えているのは自治労である。自治労がいかに知事としての自分の仕事に足かせになったか、と真っ向から自治労を批判している。これは民主党に対する痛烈な否定である。
一方の江田は、次の総選挙の後では自民党も民主党も存在するのかどうかもわからないのに、誰一人として党を出て一緒にやろうとういう政治家はいない、と今の政治家を全否定している。
それでいて二人は、「無所属ができることは新党を立ち上げるか、政界再編の中で触媒や接着力の役割を果たすしかないが、私には新党を立ち上げる資金力はない」(橋本)と言い、「政界に新風を吹き込む大きなチャンスです。是非御一緒させてください」(江田)と橋本にエールを送る。
おそらくこの対談を、政界再編に走り出した政治家の多くが注目して読んでいるに違いない。平沼新党や東国原知事らの「せんたく」の動きなどと絡んで動き出すに違いない。
それにしても、大連立と言い、政界再編といい、動き出している政治家はみな保守、日米同盟重視の政治家ばかりだ。護憲政党の中から、対抗する新たなリベラル政党の動きがまったく見えてこない。ここに日本の政治の深刻な限界がある。
2008年02月05日
これが米国の現実であり、日米同盟関係の実態である
これが米国の現実であり、日米同盟関係の実態である
米国では4年に一回の大統領選挙が熱を帯びてきている。とくに今年の選挙はブッシュの再選はなく、ブッシュ政権下の副大統領であったチェイニーが後を引き継ぐという事もない。まったく新しい政権が誕生する事になる。しかも混戦である。熱を帯びるのは当然だ。
しかし誰が新しい大統領に選ばれようとも、米国の将来は多難である。これを見事に示したのが4日に発表されるブッシュ大統領の最後の予算教書演説である。
今日の各紙は一斉にその内容を報じている。一言で言えば、クリントン政権の財政黒字を引き継いだブッシュ政権は、その7年あまりの間に全てを消費しつくしたばかりか、過去最大(04年度の4127億ドル)の財政赤字に匹敵する4000億ドルを超える財政赤字を残して去ろうとしているということだ。
しかも、この赤字解消は、今度ばかりは容易ではない。あらゆる経済指標が米国の先行き不安を示している。ブッシュ大統領自らが「景気の減速を示す深刻な兆候が出ている」、「52ヶ月ぶりに米国内の雇用者数が減少した」などと認めざるを得ないのである。
米国経済悪化の最大の原因は、サブプライムローン問題という形で露呈した金融資本主義の行き過ぎである。実物経済の100倍とも200倍とも言われている巨大なペーパーマネーを作り出し、本来の経済活動を無意味なまでに貶めてしまった。その米国のグローバリゼーションが、文字通り世界経済を襲った。
今ではあらゆる識者がこの米国経済の空洞化の深刻性を指摘し始めた。サブプライムローン問題の全貌は誰もつかみきれず、だからこそ効果的な対応策は見出せないと、皆が言っている。問題が深刻化するのはこれからだ、と警鐘を鳴らしている。
それにもかかわらず、米国の株価は上昇している。この異常な現象にこそ、米国経済、いや世界経済の異常さが現れている。それは一言で言えば金融創造で膨れ上がった巨大なペーパーマネーに世界経済が汚染されてしまったということだ。不健全なマネーゲームから抜け出せなくなっているという事である。濡れ手で粟をつかむ形で手にした金は、もはやどのように危険な状況であっても、投機に向かわざるを得ないのだ。そしてその投機に勝つためには、誰かにババをつかまさなくてはならない。世界経済は、嘘や情報操作という不正と、常に抱き合わせになってしまった米国経済に付き合わざるを得なくなってしまったのだ。
しかし、私が今日のブログで指摘する米国の異常さはこれではない。これほどまでに赤字が膨らんでいる財政を抱えてなお、米国の2009年度(08.10-09.9)の国防予算案は過去最高の5154億ドル(前年度比7・5%増)の要求がなされているという事である。しかも、ブッシュ大統領は、この国防予算とは別に、イラクやアフガニスタンにおける対テロ戦争経費として700億ドルの補正予算まで要求しているという。
史上最高の赤字財政の中で、史上最高の軍事予算を組み続ける、そんな手品のような事がどうしてできるのか。それは世界から金をかき集めているからだ。そしてその米国を無条件で支え続けて来たもっとも忠実な国が日本である。
今日本は国民の生活さえ満足に面倒を見られないほど財政状況が悪化している。そんな中で政府は更なる増税が不可避だという。その一方で政官財による税の無駄遣いが国民の怒りを買っている。しかし本当の問題は、そのような無駄遣いとは桁違いの予算が日本国民の犠牲の下に米国に流れているという事なのである。
政府はその事を正直に国民に説明しなければならない。その上で、それでも「日米同盟維持は国益だ」と言わなければならない。メディアはその事を国民の前で大きく報道しなければならない。
2008年02月04日
岩国市長選挙とこの国の行方ーメディアよもっと報道してほしい
岩国市長選とこの国の行方―メディアよもっと報道してほしい
井原勝介前岩国市長の応援集会が2日岩国市民会館で行われ、私はその集会に駆けつけた。その時感じた事を今日のブログで書く。
結論から先に言えば、昨日から始まったこの選挙は、いまの日本の閉塞した政治状況を端的に表している。そして一週間後に判明するこの選挙の結果は日本の将来を示すことになる。岩国の市長選挙はそういう選挙なのである。
この選挙は普通の市長選挙ではない。日本中の国民が注目しなければならない国政選挙としての意味を持つ選挙だ。しかもそれは与党と野党の対立という国政選挙にとどまらない。それは巨大な国家権力の悪政と弾圧に抗する一般市民、住民の直接的な闘いである。もっとも根源的な選挙なのである。
日本のいまの政治状況は、「国民生活最優先」という掛け声とは裏腹に、国民の意思を無視した政治家たちの党利党略、自己保身の政治に堕している。その事は、テロ特措法、ガソリン税の顛末や、総選挙から逃げて大連立、政界再編という生き残りに奔走する政治家の姿を見れば、もはや歴然としている。
国民は置いてきぼりだ。国民の暮らしと安全はどんどんと脅かされている。それにもかかわらず政治はなんら手を打つ事は出来ない。年金しかり、医療・介護しかり、格差問題の放置しかりだ。もはや徒手空拳の市民、国民が、政府の悪政・嘘に対して直接に抵抗していかなければならないほど切羽詰った状況になっている。
市民の力が、メディアを動かし、メディアが世論を動かして政治を変えていく、そういう状況を作りださないかぎり日本を救う事は出来ない、そういう状況の中で岩国市長選挙が行われるのである。
何がいまの日本の最大問題なのか。それは、一つには政府が米国に従属して国民生活を困窮に追い込んでいること、二つには、その政府が、自ら犯している不正を隠すために情報操作や嘘を繰り返し、それを批判し、抵抗す国民をどんどんと抑圧しようとしていること、この二大巨悪である。私がブログを書き続けるエネルギーの原点はこの巨悪に対する怒りである。
この選挙には、もう一つの苦しく悲しい葛藤がある。今岩国市民は、政府に楯突いてもろくな事はないとあきらめはじめつつある市民と、権力の横暴に屈してはいけないと、それでも声をあげる市民との間にに、分裂させられようとしている。どちらが正しい、悪いというものではない。いずれの住民も権力の 犠牲者である。非難さるべきは住民を分断させる権力の卑劣さである。
井原支援の応援に集まった2000人を超える住民によって市民会館は埋め尽くされた。その前で応援演説をした私は、いままでのどの集会で話した時よりも勇気づけられた。
しかし同時に、過去2回の選挙を勝ち抜いた井原前市長の、「今回は厳しい戦いだ」という言葉に、決して楽観は許されない選挙であると直感的に感じ取った。
私も井原前市長も長年官僚を経験して来たから知っている。国家権力が本気で抵抗するものを叩き潰そうとしたらとてもかなわない。今回の選挙がまさにそうである。国民より米国政府を優先する政府にとって米軍再編を妨げるあらゆる障害は潰さなければならないのだ。
移駐容認派市議や経済界に擁立された福田候補が勝てば、ただのつまらない市長選挙で終わることとなる。「国の言いなりではなく、移転に伴う騒音や治安問題などで個別、具体的に国と交渉する」(4日毎日新聞)と争点隠しをする福田候補が勝てば、岩国は沖縄と同様に永久に米軍問題に悩まされる事になる。住民は引き裂かれ続ける事になる。
それとは対照的に、もし井原前市長が勝てば、日本の戦後史に残る革命的な市長選挙となる。だから政府は危機感を募らせるのだ。
岩国市長選挙を岩国市民だけの責任にしてはいけない。全国の国民が共に考え、その選択の苦渋を分かち合うべきだ。メディアはこれからの一週間、この岩国市長選挙を大きく報道して欲しい。どのような報道であろうとも、それが一人でも多くの全国の国民が知るところになれば、それだけでより公正で透明性のある選挙が確保される事になる。どのような議論が繰り返されようと、議論をすればするほど日米軍事同盟の欺瞞性が明るみになる。
公正で透明性のある選挙が確保されればおのずから正しいほうが勝つ。米軍再編の実態が明らかになればなるほど対米従属の政府の誤りがわかる。それだけで十分だ。岩国住民と全国の国民に真実を知らせるだけでよい。
2008年02月02日
中国ギョーザ騒動の裏で隠されているもっと重要な事
中国ギョーザ騒動の裏で隠されているもっと重要な事
容易に想定された事とはいえ、メディアは中国ギョーザ問題一色だ。
中国ギョーザ問題は国民の生命にかかわる事であるから大騒ぎとなるのは当然だ。しかしこの問題は日中政府の冷静な対応で早急に問題を解決すべき「危機管理」の問題である。政治的に悪用されてはいけない。
なぜ私が危惧をこめてそう主張するか。
一つは、この問題が日中両国の関係に悪影響を及ぼすおそれがあるからだ。それはお互いの政府、国民にとって何のためにもならない。日中両政府はこの認識に立って、一日もはやく原因を突き止め、対応策をとる、そして国民を安心させ、日中経済関係に与える悪影響を取り除くべきである。原因が中国側の衛生問題にあるのなら、いたずらに中国の非をあげつらうのではなく、その改善策を両国で協力して講じればいい。もし今度の事件が単なる事故によるものであればそれは自己防止策の問題である。そして、もし今度の事件が犯罪的行為であれば、犯罪者を突き止める。犯罪の責任が日中いずれにあるかによって、問題の様相はまったく異なってくる。要するに、今急がれるのは真相究明を早急に行って問題を解決する、国民の不安を取り除き、日中経済関係に悪影響を与えないように危機管理をする、これである。その責任はもちろん両国政府にある。
中国ギョーザ問題の大騒ぎを危惧するもう一つの理由は、この報道に隠れて、もっと重要な問題から我々の関心が遠ざけられる事だ。だからと言って今度の事件が陰謀であると言うつもりはない。しかしそこまで疑うぐらいに、我々はメディアの影響力、情報操作力を知らねばならない。そして権力がメディアを利用する事実を思い起こさねばならない。
ガソリン税問題があっという間にうやむやに終わってしまった。私はこのブログで何度もガソリン問題がすべてだと書いてきた。それはもちろん極論である。他にも重要な問題は多々ある。賛成・反対の二者択一ではなく、様々な議論を重ねて結論を出すべきだと言うのは建前としてはそうである。
しかし昨年7月の参院選挙以降の政治の現実を見たときに何が一番重要であるか。それは小泉改革で破壊された日本を、政権交代という最もドラスティックな形で立て直す事ができるか、どうか、という問題であった。自民党永久政権と官僚癒着がここまで弱者の国民の生活を犠牲にしてきた、その事実が明らかになった中で、昨年の参院選挙によってまがりなりにも参院で野党が優勢になった。「ねじれ国会」のおかげで小泉・安倍政権の一方的な強硬姿勢に歯止めがかけられそうになった、だからはやく総選挙を経て、自公政権の継続でいいのか、政権交代を望むのか、国民が決めるところまで日本の政治はたどり着いた。そして自公政権は世論からの支持を今度こそ失いかけていた。ここで解散に追い込めれば歴史が変わっていたのだ。自公政権は必死だった。なりふり構わず政権を維持しようとした。
ガソリン減税問題の熱が醒め、すべて吹っ飛んでしまった。本来はこの日本政治史上の大問題がメディアで大報道されなければならないのに、もはや幕引きムードだ。おまけに政治は政界再編に走り出した。かくして日本の政治は何も変わらないまま国民だけが取り残されていく。
その一方で異常な事が置きつつある。日教組が集会を拒否された。別に日教組の肩を持つつもりは無いが、右翼の街宣が怖いからと言って裁判所の判断を無視して反権力組織の集会を拒否するなどということは憲法無視が大手を通っているということだ。しかし誰も騒がない。護憲政党はやられっぱなしだ。
メディアでつくられた大阪府知事が地方住民は国政に関与するなと、岩国市の基地受け入れ反対を批判する発言をした。それが当たり前のごとく報道されている。この国は間違った方向へ大きく歩き始めつつある。
猛烈な勢いで政府の圧力が井原岩国市長にかかっている。岩国住民の包囲網が敷かれている。メディアはその事に警鐘を鳴らそうとはしない。あと数時間後、私は岩国市民にこの危機を訴える。
2008年02月01日
時の政権とあまりにも近すぎる危うさ
時の政権とあまりにも近すぎる危うさ
今日から2月。今年に入って一月がたった。毎日ブログを書き続けているなかには、書きたい事がない日もある。書く気力が萎える時もある。そういう時は我ながら出来の悪いブログになる。最近は特にそうだ。もういいだろう、そろそろ書くことを止めようか、などと思う事がこれまで何度あったことだろう。
そういう時に、いい言葉に出会うと力が湧いてくる。2月1日の朝日新聞の社説にそれを見つけた。
その社説は、安倍首相の肝いりで出来た教育再生会議が、福田首相に最終報告書を提出して役割を終えた事を次のように評していた。
・・・時の政権の影が色濃ければ、その行く末も政権とともにあるものだろう。福田政権になって、文部省や官邸はすっと距離をとり始めた。これに対し、委員からは不満や恨み言が聞かれた。
しかし、どうだろう。提言そのものに力があれば、旗振り役の安倍氏が去っても、その提言は世論の支持を得たのではないか・・・大切なのは、政治や行政の思惑から離れて一から議論を積み上げることだ。時の政権がやりたいことを後付けするのでは意味がない・・・(教育再生委員会は)時の政権とあまりに近すぎるという危うさを抱えていた・・・(その)寂しき幕切れから学ぶべき事は多い。
そういえば集団的自衛権を合憲解釈にしようとする会議もあった。いずれ同様の運命をたどることになろう。政権が変わっても、いつの政権側について諮問会議や懇談会の常連に名を連ねる識者や財界人もいる。いつの世も、権力者におもねる事は世渡り上手の常である。
しかし同時に、誰の心の中にも反骨心はある。自立心がある。矜持がある。その葛藤に悩みながら人はバランスを保って生きるのではないか。
ところが小泉政権あたりから、この自制心がなくなってしまった。日本中が強者に寄り添うようになってしまった。強者の悪や不正に正面から異議を唱えなくなった。愚かな強者は自分が英雄だと勘違いしてますます強権的になる。誰もが人気者、スターになりたがる。その行き着く先が今日の日本ではないのか。
何でもかんでも権力に楯突けばいいと言うものではない。しかし、時の政権とあまりにも近すぎる危うさは、人間が持つ最後のよりどころである自立心、自尊心を捨て去る事にある。その結果自分自身を見失う事になる。日本が再生できるとすれば、すべての日本人がこの危うさに気づくことである。
