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2007年12月22日

予算編成を一度国民にやらせてみろ

予算編成を一度国民にやらせてみろ

  年末の一大行事は予算編成という事になっている。しかし毎年の予算編成で思う事は納税者である国民の気持ちが果たしてどこまで反映されているのか、という事である。一度でいいから国民に予算編成をやらせて見たらどうか。いや、もはやそういう時期に来ているのではないか。
  もちろんそんな事はできるはずがない。政府が国民に予算編成をやらせる事はありえないし、国民の誰がそれを行うかという、現実論、技術論から見た問題点は残る。国民が予算編成を行う事は現実にはありえない。
  しかし、毎年繰り返される予算編成のセレモニーを見させられ、そして新聞紙上に書かれる通り一遍の総花的な解説を見るにつけ、うんざりさせられるのは私一人ではないはずだ。
  予算は、硬直的思考から抜け出せない財務官僚と、利権誘導や選挙対策を優先する自民党政治家の、哲学なき駆け引きで作られてきた。昔も、今も、そして未来もそうなのだ。
  大蔵省の担当者が各省庁の責任者を呼びつけて予算案を内示する、それを各省の責任者がうやうやしく頭をさげて頂戴する。この季節になると決まってテレビに映し出される年に一度のあの光景は、官僚の自己満足を誇示する壮大なセレモニーに過ぎない。そしてその後に続く大臣、党三役による復活折衝などは政治家の顔をたてる芝居でしかない。そうして予算原案が作成されると、霞ヶ関、永田町は政治休戦となり一気に正月休みに突入するのだ。一年が終わるのだ。
   日本が右肩上がりの成長期であればそれも許されたかもしれない。しかし今の日本は、官僚や政治家がそれほど呑気にしていられる状況なのだろうか?官僚や政治家が仕事おさめをしても、生きていくために働き続けなければならない国民が今あふれている。
  来年度の予算原案が発表された翌日の新聞を読み比べてみた。数ある専門家のコメントの中で、早大大学院教授である野口悠紀雄氏のコメントが、圧倒的に的を得ていた。野口氏は元大蔵官僚だ。早くに官僚に見切りをつけ、経済学者に転じた野口氏は、多くの凡庸な御用学者とは一線を画した硬派の学者である。
  その彼が12月21日の東京新聞紙上において、「見通しなき国家を象徴」と題して次のような、簡潔にして要を得たコメントをしていた。

  「・・・来年度予算の財務省原案においては・・・基礎的財政収支(公国債収出入を除いた歳出と歳入の差―プライマリーバランスともいう)は5兆1800億円の赤字となり、5年ぶりに悪化した。
   これは次期衆院選挙をにらむ与党の歳出ばらまき圧力が極めて強かったためだ。今後の税収入の伸びはあまり期待できないので、「2011年までに基礎的収支のバランスを実現する」という政府の方針は出来ない可能性が高い。しかも国債の残高は増加し続けるので国債費も増加する。だから、仮に基礎的収入がバランスしても、全体の財政収支は悪化する。財政再建の見通しはまったくつかない状況だ・・・
 国と地方を合わせた債務残高の対国内総生産(GDP)比は約147%であり、先進国中で最悪だ。これを解決できる見通しがないことは、日本経済の今後に大きな不確実性をもたらしている。
 しかも来年度予算の内容には、「暫定的」とされている(もの)が多い。高齢者医療費の抑制も、地域間財政格差の是正のために導入された「地方法人特別税」もそうだ。つまり、全体的な収支だけでなく、個別政策についても、今後が見通せないのだ・・・
  予算は、一国の状況を象徴的に示すものである。来年度予算の財務省原案は、国の活動をコントロールする能力を、もはや行政も政治も持っていない事を示している。「漂流国家の漂流予算」としか言いようがない・・・」

  財務官僚も政治家も、この評論をどう聞くか。いや、わかっているに違いない。わからないはずはない。それでもこのような予算しかつくれなかったのである。わかっていながら日本経済を再建できないのである。それがこの国の為政者の現実なのだ。
  大学で学ぶ財政学の教科書に真っ先に出てくる原則は、「入りをもって出るを制す」である。何でもかんでも足らなければすぐ増税にたよる。増税は止むを得ないと当たり前のように言う。そういう官僚や政治家や御用学者は、一から財政学を勉強し直すべきだ。
   国民の金は彼らが自由に使えるものではない。金がなくなれば、その範囲でやりくりするほかはないのだ。軍事費も、思いやり予算も、ODAも、人件費も、何もかも、必要不可欠であると思われるものさえも削るしかないのだ。
   個人の家計は皆そうしている。したくなくてもそうしなければ生きられないからだ。すべて削っていって最後に残るのはぎりぎりの生活費だけである。家庭の主婦はみなそれでやりくりしているのだ。やりくりせざるをえないのだ。
   国家の財政だってそうなのだ。まず優先されるべきは医療費であり、介護費であり、社会保障費であり年金予算だ。すなわち国民の命と生活を守る経費こそ真っ先に講じなければならない。それらを優先させて、それで予算が残らなければ、やめればいいだけの話だ。やめたくても金がないのだからやめざるを得ない、それだけの話だ。
   それなのに、やれ米軍再編だ、思いやり予算だ、ODAだ、公共事業費だ、各省庁の人権費だ、既得権予算だ、などと、財源を横取りしあって膨らませていく、そして金が足らなくなったから増税やむなしだという。順番が逆だろう。無ければ出来ないまでの話だ。
   官僚や政治家に予算編成権を任せ続けていては日本に未来はない。それを来年度の財務省原案が示してくれた。それを野口教授が見事に解説してくれた。
  一度国民に予算編成を任せろという理由がそこにある。ありえない事をしなければならない時が来ているのかも知れない。

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2007年12月22日

歳末の心象風景

 歳末の心象風景

 今年も年の瀬がやってきた。もはや今の私にはそのような思いはなくなったが、働き盛りの若い頃、私はなぜか年末年始が嫌いだった。年の瀬の喧騒に淋しさを感じ、一月のカレンダーをめくる時、これから始まる一年の長さにうんざりする程の疲れを感じるのだった。何の理由もない。とりたてた不満や不安があるわけではない。いや充実した人生の只中にあっても、私にはそういう年末の心象風景があった。
 そして、そんな時何故か好んで思い浮かべるのがオー・ヘンリーの「賢者の贈りもの」の話であった。そのオー・ヘンリーの「賢者の贈りもの」について、12月22日朝日新聞土曜版連載、「愛の旅人」が取り上げていた
それを見つけてうれしくなった。
 貧しい若夫婦のジムとデラがクリスマスの夜にプレゼントを交換し合うクライマックスシーンを、私はこれまでの年末に何度思い浮かべた事だろうかと思う。もちろん毎年の年末に必ず思い浮かべるというわけではない。そして年末でなくても、突然思い浮かべることもある。
 しかし今年は、朝日新聞の小西淳一記者の文章と、舞台であるニューヨークの街を撮った山本壮一郎の一枚の写真が、私に「賢者の贈りもの」のクライマックスシーンを思い浮かべさせてくれた。

 ・・・帰宅したジムは、ばっさりと髪を切ったデラを見て驚く。かつら屋に髪の毛を売って、ジムの宝物である懐中時計に似合う鎖を買っていたのだ。ところがジムは懐中時計を売って、デラの長い髪に似合う上等のくしを用意していたのである・・・

   相手の大切な物のために自分の大切な物を犠牲にしてしまう。贈り物は無駄に終わるが、お互いの深い愛情をこれ以上はない形で確かめ合えたのだった、という話である。
   意外な結末で読者をあっと言わせるオー・ヘンリーサプライズの中でも、とっておきの心温まるサプライズ。1903年からニューヨーク・ワールド紙の日曜版に、一編100ドルの契約で書き続けられた短編の数々。「賢者の贈りもの」は1905年12月10日に掲載されたという。
   いつか歳末のニューヨークを訪れて、喧騒の夕暮れ時の喫茶店で、「THE GIFT OF THE MAGI」(原題)を読んで見たいと夢見る。

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2007年12月22日

お母さんがきっと助けてあげる

  お母さんがきっと助けてあげる

  横田早紀江戸さんの最新著「めぐみへ 横田早紀江、母の言葉」(草思社)を買い求めて、東京からの帰りの新幹線で読んだ。今の私に出来る事はそれくらいしかない。本を買って売り上げに貢献し、それを読んで、苦しく悲しい拉致被害者家族の心情の100万分の一でも、しばし共有しようとすることしか出来ない。
  この世の中には、ありとあらゆる不条理が存在する。どのようにあがいても逃れられない不幸がある。わが身がその不幸に見舞われない人は幸福だ。そんな人はわが身の幸福を感謝し、不幸な人の境遇に思いをめぐらすべきだと思う。
  これまでに何度も書いてきた事であるけれど、小泉外交の最大の罪は、米国に日本を売り渡した事である。しかし、それと並んで、いやそれ以上に卑劣な罪が、拉致問題について金正日と裏取引をしたことである。私はそう確信している。
  小泉という男の人間性のなせる業だ。私欲、名誉欲のなせる業だ。愛すべき国民を無視し、被害者家族の心を踏みにじって恬として恥じない姿。それは冷酷というよりも、自分さえよければという単純な無神経さ、厚顔さである。
  「わずかばかりの国民の命のために日朝国交正常化という一大事業が妨げられてはならない」などと発言した外務官僚や、生存していると言われた4家族が「めぐみちゃんたちはどうしたんですか」と詰め寄った時、「黙りなさい。皆さんのお子さんは生きているんですよ」と叱った福田首相(当時官房長官)ら、小泉政権の正体を、今更ここで批判する気にはならない。
  しかし、北朝鮮労働党と誼を結んできた左翼政党が、拉致問題を不問にし、今でも北朝鮮との国交正常化を最優先にしろと声高に叫ぶ。その事が平和主義だと言う。この事を私は許せない。ある左翼政党の一人は「めぐみちゃんは可哀想だけど、拉致被害者の中には自分の意思で北朝鮮に行った者もいるのだから」と私に言い放った。平和や人権を声高に叫ぶ左翼イデオロギストが小泉訪朝を誰よりも評価する。それこそが日本の政治のパラドックスである。
  早紀江さんの新著の中に出てくる言葉の数々は、いずれも新聞などで報道されたものばかりである。それらをこうしてあらためて読み返してみると、それは小泉電撃訪朝から始まり、完全に行き詰まったわが国の北朝鮮外交の蹉跌の記録として、鮮やかに蘇る。それはまた拉致被害者家族の苦しみと悲しさの堆積である。その言葉のどれ一つとして、私の心を揺さぶらないものはない。
   その中で一つだけここで書くとしたら、私は間違いなく、次の言葉を上げる。

   「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」

  私は男だ。母親になったことはない。母親の気持ちは想像するしかない。しかしこの言葉ほど私の心に響くものはない。読み返すたびに涙がこぼれた。
  若い母親が平気で子供を殺す事件が報道される中で、私はこの言葉に救いを見つける。世の中に希望を抱く。
  早紀江さんは菩薩だ。マリアだ。
  小泉元首相が決して正視する事のできない人に違いない。

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