無為の時間にどれだけ耐え切れるか
無為の時間にどれだけ耐え切れるか
日々のブログから離れて独り言を書いてみたい気になった。
私は、考えに行き詰った時、自分の行動に意味を見出せなくなった時、庭に出て土を耕す事にしている。この上ない心の安らぎを得ることが出来る。二年前に那須塩原市に移り住み、100坪あまりの庭に木々を植え、草花を咲かせて眺める毎日を過ごすようになった私は、思いついたら庭に出て土を掘り起こす。幸いにも那須塩原の荒地には石ころが土の中に無限に転がっている。掘っても掘っても石が出てくる。それを掘り起こしてはまた耕す。一日中そうする事もある。まったく意味のない行動である。それに疲れたらコンピューターの前に座って「ひまつぶし」というゲームを行う。文字通りのひまつぶしだ。意味もないゲームに熱中し続ける。人がそれを見ると正気の沙汰ではないと思うかもしれない。しかし今の私にはそのような無為の時間を過ぎすことと、寸暇を惜しんで金儲けにいそしむ事や、他人との競争に身を削る毎日を送る事との間に、それほどの違いはないと思える贅沢を得るようになった。そしてその思いを更に深めていけば、この世の中には様々な理由によって無為な時間を過ごさざるを得ない境遇の無数の人達がいるという事に気づく。その人達と、秒刻みで仕事に励む成功者との間で、さしたる違いはないのかも知れないのだ。
断っておくが私は有意義な時間を過ごそうと寸暇を惜しんで励む人が悪いと言っているのではない。かつての私がそうであったように、人間は人生のある一時期は必死で働いたり、成功目指して頑張る時を持たなければならないと思う。そういう時間をもてる自分を幸せに思わなくてはならないと思う。
しかし人間は、いつかはそういう時期を卒業し、無為な時間の中で自分自身と正面から向き合い、対峙しなければならない時期がくる。その時点で人間は皆平等になる。差別なく、あらゆる人を許せるようになる。許されるようになる。
かつて南アフリカの初代黒人大統領になったネルソンマンデラが、政治犯としてロビンアイランドの牢獄に27年間つながれていた時、毎日毎日石ころを右から左に運んで、今度はそれを左から右に運ぶ、そんな無意味な一日を一年中強いられたという話を聞いた事があった。当時はまだ私は40歳前の働き盛りの時である。それまでの私の人生がそうであったように、一瞬たりとも無駄な時間を過ごしたくない、一瞬たりとも有意義な時間を過ごさないと罪悪感を抱く、そんな自分であった。だから、マンデラのような無為な時間を過ごすという事は考えられない事であった。耐えられない思いで聞いていた。
しかし今こうして人生の大半を終え、人よりわずかばかり先んじて引退を迫られた私は、その逆境をバネに過去の自分と決別し、一つの極地に到達しつつある。人間はある年齢を超えたら、無為な時間に耐えられる心のゆとりを持たなければならないのではないか。欲望も、迷いもなく、自然のままに生きる。わずかな、残された生を、自分のみに忠実に生きる、最後はそういう人生に辿りつかなければならないのではないか。
もちろんこれは私の考えである。人は様々だ。80歳や90歳を超えてもあくなき名誉欲、自己実現欲にとらわれて生きる人もいる。死ぬまで働き続け、人に囲まれ、ちやほやされ、上昇志向を抱き続ける人もいる。そういう人生を私がとやかく言う筋合いはない。また、自らの限界を悟る事のできる人であっても、それに気づく年齢は人によってまちまちだ。それもまったく問題はない。
しかし、それでもやはり私は思う。人間は、いつかは無為な時間を過ごす事を素直に受け入れなければならない時が来るのだ。その時はすべてが平等になる。富める者も貧しい者も、成功した人も失敗した人も、健常者も非健常者も、醜いもの美しい者も、すべては平等になる。心優しくなれる。神というものが存在するとすれば、その時こそ誰もがその神に等しく近づける時であるに違いない。
