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2007年12月31日

今年最後のブログ

07-12-31

  今年最後のブログ

 今年最後のブログは月刊現代2月号の作家高村薫の言葉を引用して終わろうと思う。彼女の言葉を借りて私の思いを述べる事にする。
 来年は年初早々からまちがいなく政治の年になる。解散・総選挙がいつになろうとも、その結果日本の政治状況は大きく混乱し、再編の動きが爆発することだろう。そして、その再編が従来のような既存政党、既存政治家の離合集散であれば、日本の政治はさらに劣化、混迷し、日本の外交も、経済も、社会も、さらに行き詰まっていく事だろう。その可能性は強い。
 日本の政治システムや、望まれる政治家像は、これまでとはまったく違った考え方に基づいて作り直し、選び直さなければならない時期に来ていると思う。私が繰り返し述べてきた「既存政治の全否定」である。あらたな政治、もう一つの政治を、混乱と破壊の中から作り直さなければならない時がいつか必ず来る。来年はその事が判明する年である。
  もちろん、そのような変革は容易なことではない。しかし少なくともそのきっかけが生まれるかそうでないかによって日本の将来は大きく変わっていく。
  来年の政治は戦後の日本政治史の最大の見世物となるだろう。政治とは無縁の一般国民は、政治屋やその政治屋たちにの周りに群がって利用し、利用されて生計を立てているおびただしい「政治業界」の連中の苦悩と生き残りをかけた争いを、高みから見物していればいいのだ。そうするとおのずからどの政治家が、どの政党が、本気になって国民の生活を考えているか、自らの利益を後回しにして、世の為、人の為に、税金で与えられた歳費と特権に値する仕事をしているかがわかる。
 その時初めて我々は動き出せば良い。真の政治家を支持し、そのような政治家の手による真の政治を実現すればいいのだ。
 国民が政治を動かす。世論が政治を翻弄する。そういう現象が本格化する年にするためにも、私は高村薫の言葉を今年最後のブログに書くことにした。

         まずテレビを消すことから始めようー「劣化」の責任は私たちにもある。
                        高村薫
                 (私的抄訳―かっこ内は私のことば)

   これまで、私たち普通の生活者には、政治というものは・・・複雑かつ難しいもので、素人にはどうにもならないという思いがありました。だからこそ、選挙で政治家を選んで、政治をやってもらっているのだという意識でずっといたのです・・・ところが・・・なんてことはなかった・・・要するに利益供与であったり、談合であったり、癒着であったり、(官僚の面従腹背に踊らされていたり)・・・に過ぎなかった・・・「靖国神社に行って、何が悪い」という子供じみた首相が(5年半もこの国の首相を続ける事が許され)、二世、三世議員が、昔からの地縁、血縁の利を受け継いで政治家になる・・・その政治をつくりだしたのは、私たち有権者であり、メディアなのです。テレビ映りとパフォーマンスで政治家が出来上がる世の中にしたのは、私たちです。
  とんでもない話ですが、政治家という職業は、若い人たちのいい転職先になっている。昔から官僚組織では出世コースから外れた人を(各省の利権を代弁する形で政界へ送り込む慣例があった)しかし、今は一般の人たちでも、一発当てて政治家になろうとしています。また、そういう人たちを党が募集して公認する。芸能人なりスポーツ選手なり、少し名前が売れている人にとっては楽な転職先だといえるでしょう・・・さらに言えば会社勤めは嫌だと思っている若い人達にとっても、魅力ある転職先になっている。これではほとんど失業対策です。
  ところが私たち有権者は、そういう候補者であったとしても、政権交代を望むならば、この小選挙区制度では彼らに投票しないと仕方がない。救いがたい悪循環です・・・
 世界は物凄いスピードで動いている。アジアも目覚しくかわっていく。ところが日本は、対外的に何も力を発揮することもなく、ただその流れに置いていかれている。日本が国際社会の中で孤立しているのも、政治の停滞が原因です
  ・・・今後、この政治の停滞による国民の直接被害は免れないでしょう・・・漠然とわかるのは、私たちの生活が今後、一層厳しくなることだけです。しかしそれがわかったとしても、生活者は対処しようがありません。(この国を動かしている政治かも官僚も企業人もメディアも、生活に困っていないので本気になって世の中を変えようとしないからです。変えなくても困らないからです)。
 ・・・08年はおそらく消費税の増税があるでしょう・・・国民が稼ぎ出したお金は、果たして順当に配分されているのだろうか、その一つ一つを、冷静に洗い出さなければいけないという必要性を強く感じています・・・
 ・・・私は将来日本では生活が立ち行かなくなる老人が大量発生すると思っています・・・日本という国は諸外国と違って、社会福祉の多くを企業に依存してきたため、国が低所得者層の生活を基本的に保障するという体制になっていません。そのため、まともの老後を送ろうとするとお金がかかる国であり、その傾向はさらに進むということを覚悟しておかなければなりません・・・国が社会福祉の考え方を180度転換しない限り、国はあてにならない・・・
 ・・・このまま格差がどんどんと広がっていくと、結局は、荒廃した都市と、荒廃した生活だけが残るのではないか。日本ではいま余裕が失われています。余裕がないから、弱いものは弱いものを叩くという現象が顕著になってきている。それはまるで東京が地方を圧倒するように。けれど、本当は、そんなことをしている場合ではありません。日本自身が世界の中で弱いものになっていく。
 ・・・中国や、インドなど、これから大きくなっていく国々と相対していくときに、(日本は世界の国々と競い合って無理をしようとするのではなく)思い切って小さな賢い国になっていく必要があると思います。・・・(環境を重視し、欲望のまかせるままに自然を破壊しない)その結果、日本には自然が豊富に残っていて、人間にとって住みやすい環境が整っているということになれば、中国やインドの人々にとっても憧れの国となるでしょう。そうなることでしか、国際社会の中で日本が生き残る道はないのです・・・
 ・・・私たち一人一人が(これからの日本の将来と人生設計を真剣に考えたとき)このままの政治でいいはずはないという結論に行き着くはずです。しかし繰り返し述べたように、残念ながら私たちには現段階で未来を託す選択肢があるとはいえません。
 二大政党といわれても、困惑するばかりです。新しく生まれ変わる事ができない自民党と、昔からの連合を引きずっているために決して国民を幅広く代表するような政党になりきれない民主党。その二つのうちの一つを選べといわれても、どうすればいいんだというのが多くの国民の本音ではないでしょうか。次の総選挙で私は生まれて初めて白票をだそうかと思っているほどです。「選挙には行きます。けれど、投票できるようなまともな政治家がおりません」という意思表示です・・・
 ・・・政治よりも先に、私たちが変わる他はないと思います。政治はいつも、私たちよりも、何歩も遅れてくる。私たちが変われば政治も変わる。この事を自覚して、有権者は少しは政治的になるべきでしょう。
 その第一歩は、政治に明確な関心を持つことです・・・政治家が馬鹿なことを言えない、馬鹿な報道も出来ない、そういう世論を作り上げるのです。政治家が、よほどよく勉強して、よく状況を読んだ上で発言したり、行動しなければ、即刻、有権者から見放されるという高い政治意識をつくるために、私たちは成熟した有権者であらねばならないのです。
 2008年を迎えて、今私たちにできることは、自分の頭で考えるようにしてみることです。まずはテレビを消して、世の中で起こっている事を、きちんと確認する。新聞に目を通し、月刊誌を読んで考える。そうすればおのずと私たちがいまなすべきことが見えてくるはずです。

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2007年12月30日

  わが国に真の対中外交はあるのか

 わが国に真の対中外交はあるのか

 わが国に真の対中国外交があるのか。今回の福田訪中にどのような意味があったのか。
 結論から言うと、福田首相や外務省は年内に急いで訪中を済ませておきたかった、ただそれだけの訪中であったと言うことだ。小沢民主党代表に先を越されたということもある。しかし、それよりも来年に入れば国内政治で訪中どころではなくなる。いま訪中するしかなかったのだ。
 それにしても、小沢民主党にしても福田首相にしても、何故訪中を競い合う理由があるのだろう。解決を急ぐ懸案があるとすれば東シナ海問題である。しかし小沢民主党訪中団はこの問題を意図的に回避した。福田訪中ではさすがに議題にあげられた。そして政治決着が期待された。しかし激しい交渉をした気配はない。
 共同記者会見で福田首相は「積極的な進展が見られた」と言っているが、温家宝首相は「協議は一歩前進」しただけだと言った。要するに首脳間ですら政治決着できなかったのだ。
 その一方で小沢訪中も福田訪中も競って日中友好関係を演出した。その日本側の都合に中国側は喜んで全面的に協力した。中国側に失うものはなく、日本側に得るものは何もない。
 それどころか、日中友好を強調するあまり、福田首相は台湾を切り捨てる発言までした。
 この台湾問題に関して言えば、既に21日にライス米国務長官が、台湾の陳水偏総統が進める台湾の国連加盟の是非を問う住民投票について、「挑発的な態度だ」などと痛烈に批判した。米国が台湾を切り捨てたからこそ、日本も対米追随よろしく米国の後について台湾を切り捨てる政策に出たのだ。
 この台湾問題については10月31日の産経新聞「正論」の欄で外務省OBの岡崎久彦氏が次のように書いていた。
・・・台湾の国連加盟住民投票は、来年行われる台湾総統選挙における民進党と国民党の政争である。住民投票で台湾名での国連加盟申請が認められれば選挙で民進党に有利に働く。国民党に勝たせたい中国と米国が内政干渉をしているのだ。内政干渉は近代国家間で厳しく禁じられている。日本はそれにつきあう法的、道義的理由はまったくない・・・
  日米同盟至上主義者の岡崎氏と私は考えが違う場合が多い。しかしこの台湾問題不干渉に限ってはまったくその通りだと思っている。たとえ中国が日本に反対してくれと言ってきたとしても、外交の原則を曲げるわけには行かない、日本は内政干渉を当然のように行う米国とは違うのだ、とやんわりと断るべきなのだ。それで中国が怒るようであれば中国が間違っているのである。
  因みに台湾有事は、北朝鮮の暴発と並んで、日本政府が在日米軍の必要性を繰り返し強調してきた理由の一つであった。その台湾有事が、米国の対中重視政策によって遠のいた。北朝鮮の暴発のほうは、米国が対北朝鮮宥和政策を取り始めた時点でとっくに消えている。かくして在日米軍は周辺の脅威から日本を守る為にあるのではない、その事が決定的に明らかになったのだ。
  それでも福田訪中はよかったと私は思っている。小泉元首相がもたらした愚かで不必要な対中喧嘩外交は、小泉自身の個人的うさ晴らしになりこそすれ、国際政治の観点からは不要な軋轢を日中間に生んだだけの愚かな外交であった。それに閉口した多くの国民や経済的利害を優先する経済界に押されて、安倍前首相は訪中し、氷を溶かした。しかし安倍訪中は小泉元首相によって凍結された首脳レベルの交流を回復したに過ぎない。たとえ安倍政権が続いていたとしても日中関係はそれ以上進まなかったであろう。
  少なくとも福田首相は日中友好関係を進めようとしている。それはいいことだ。そして福田首相が真の日中関係を築けるかどうかは、桜の季節に予定される胡錦涛主席の訪日などを通じる今後の対中外交のなかで明らかにされる事になる。
  言葉だけの日中友好を謳いあげる事は誰でもできる。重要な事は、友好関係を取り戻した中国との間で、どこまで利害が衝突する問題について対等な交渉ができるかだ。それを行う覚悟があるかだ。中国の不当な要求を跳ね返し、日本の正当な要求を中国に飲ませる、そのような厳しい交渉をしてもなお揺るぎのない日中友好関係を築く事ができるかである。
 それが出来て初めて、「戦略的互恵」外交と言える。福田対中外交はその時初めて正しく評価される事になる。もっともその時まで福田首相はこの国の指導者にとどまっていられるかどうか。それが最大の問題である。

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2007年12月29日

 ブット氏を殺したのは米国である

  ブット氏を殺したのは米国である

 危惧されていたとはいえ、そして彼女にその覚悟はあったとはいえ、やはりブット氏暗殺事件は衝撃的である。
 真犯人は誰か。イスラム過激派から政敵まで諸説が入り乱れている。そしてこの手のテロの後にはアルカイダが犯行声明を出すこともお決まりだ。
 しかし直接手を下した犯人が誰であれ、ブット氏を殺したのは米国である。この事を示してくれる的確な記事が12月29日の日経新聞に掲載されていた。
 国際部長沢倫一郎記者の手による米国の対パキスタン政策の歴史に思いをはせる時、誰もがブット氏を殺したのは米国である事の意味を理解するだろう。
 今日のパキスタン混乱の最大の原因は、二転、三転した米国の対パキスタン政策の無責任さにある。
 79年の旧ソ連によるアフガン侵攻を機に、米国は「ソ連共産主義の拡大阻止」の名目でパキスタンに軍事・経済援助を行った。旧ソ連と親密なインドに対峙する米国・パキスタン連合というわけだ。
 しかし旧ソ連のアフガン撤退後、パキスタンの核開発疑惑などを理由に米国はパキスタン支援を縮小する。そしてインドに対抗して行った98年のパキスタンの核実験を境に、米国・パキスタン関係は一層悪化する。この変転めまぐるしい米国の態度はパキスタンに根強い対米不信、反感を植え付けた。
 そして9・11である。米国は、「対テロ戦争への協力と民主化(親米化)」への見返りとして、ムシャラフ軍事独裁政権に支援を約束した。その裏で、「テロとの闘いに協力しなければ砲撃で化石時代に逆戻りさせるぞ」とムシャラフ大統領を脅かす。わが国指導者たちが崇め奉るアーミテージ元国務副長官の卑劣な言葉である。
 ブット氏は、批判の高まるムシャラフ軍事独裁政権と連合を組ませるために米国によって帰国を認められた。過激派に対する穏健連合、軍事独裁に対する民主化(親米)連合政権をつくろうとする目論見である。
 しかしこの米国の場当たり的な政策こそ、一方において反米感情をあおり、他方においてイスラム過激派やテロ組織アルカイダの反発を招いたのだ。その結果パキスタンの混迷は極限に達しつつある。これ以上の犠牲者が出ない保障はまったくない。
 米国の言いなりになってきた国は必ず崩壊している。日本がそうならないことを願うばかりだ。

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2007年12月28日

外務省人事の感想を聞かれて

 外務省人事の感想を聞かれて

 来年早々にも外務省幹部の人事異動が行われると盛んに報道されている。三年間務めた谷内事務次官が退職し、藪中外務審議官がその後任者として昇格する。駐米大使は藤崎一郎となり、次官や駐米大使の噂のあった海老原紳は結局駐英大使となる。谷内人事の真骨頂である。
 これらの人事について、一部メディアやブログの読者から感想を語って欲しいと頼まれた。しかし語る気にはならない。私にそれを語らせるのは酷というものだ。もちろん思いはたくさんある。しかし、小泉首相の対米追従外交を批判して外務省から追放された私が、今さら外務省の人事を語ってみても誰にも相手にされないだろう。
  谷内や藤崎はともに米国研修の日々を過ごした同期だ。藪中は一年後輩、海老原は二年後輩にあたる。皆、長年同じ釜の飯を食った仲である。何を考えているかまでわかる。因みに私の同期は中国、韓国、そして国連代表部などの枢要な大使についている。文字通り彼らは日本の外交を動かしているのだ。
  こころざし半ばで自分だけが辞職に追い込まれた無念さは大きかった。しかし時はすべての思いをやわらげてくれる。大きなものを失ったかわりに、もっと大きなものを私は手に入れた。それは自らに忠実な、自由で、自立した人生である。私の残された人生が彼らの人生と交差する事は、もはや二度とないだろうと思っている。
  今はただ、彼らの活躍を願うばかりだ。嘘をつかず、政治におもねることなく、ひたすら国民のために本物の外交をしてもらいたい、そう願うのみである。
  しかし残念ながら彼らにそれは出来ないであろう。彼らはこれまでにあまりにも多くの嘘を重ね、政治におもねり、そして国民の利益に反する外交を重ねてきた。偽りの外交を続ける事により、何が正しい外交であるかが判断できなくなってしまったのだ。
  「国民に知恵がついてきたので外交がやりにくくなった」などと、間違っても思わないで欲しい。これからの外交は君たち一握りの官僚に独占させるには、あまりにも重大で、難しいものになってしまった。その外交に向かい合うには君たちの資質と能力はあまりにも卑小である。日本の外交は国民とともに進めていかなければならない。これが私の感想である。

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2007年12月27日

沖縄集団自決検定をめぐる騒動が示したもの

沖縄集団自決検定をめぐる騒動が示したもの

 26日、沖縄集団自決検定問題に関する検定調査審議会の最終報告が政府に提出された。それを渡海文部科学相が承認し国民に発表した。これにて決着した一大騒動の顛末を解説するのが今日のブログである。
 今年3月、(沖縄の集団自決は)「日本軍が強制した」という教科書の記述が今年の検定で削除された事が判明した。それを知った沖縄県の政府、住民がこぞって猛反発した。その反発は日が経つにつれ大きくなり、9月29日の11万人(主催者発表)大集会でピークに達した。その勢いに押される形で教科書会社が相次いで訂正を申請し、政府は教科書検定調査審議会に再審査を命ぜざるを得なくなった。
 それから約2ヶ月後、教科書検定調査審議会の日本史小委員会は、申請を再審議し、少なくとも「軍の関与はあった」とする教科書の記述を認める見解を報告書の中で明らかにした。これが経緯のあらましである。  
  この顛末が教えてくれた中で、私は特に次の二つの点に注目したい。いずれもこよなく今日的な問題である。
  まず第一点として、国民(沖縄県民)の声に圧倒されて政府が政治決断を迫られたという事である。この事は薬害訴訟における政治決断と極めて酷似している。その政治決断は100%沖縄県民の要求を満たしたものではない(この点でも薬害訴訟と酷似している)。すなわち「軍の強制」を明確な形で認めたものではない(被害者の一律救済は認めたものの国の責任を認める点についてはなお不明である)。それにもかかわらず、少なくとも軍の関与があった事は否定できないとした。この事実は重い。これまでには考えられなかった事だ。政府の決定が国民(住民)の声に押されて覆された。薬害訴訟の場合と同様に、これまでには考えられなかった新しい動きである。
  二つ目は、今回の騒動も、やはり官僚の仕事のいい加減さが招いた騒動であったということだ。年金問題や薬害被害が、社会保険庁や厚生省の官僚のずさんな仕事や不作為の罪でもたらされた事は既に明らかにされている。そしてこの沖縄集団自決検定騒動も、文部科学省の官僚の軽率な行為によって引き起こされたのだ。
  かつて私は琉球新法の取材に対して次のように答えた事があった。すなわち、この検定は、戦後レジームを見直そうとする安倍首相などの政治主導でなされたものではなく、文部科学省官僚の軽率な判断だったに違いないと指摘した(9月23日琉球新法、直言「集団自決」検定⑦)。その私の指摘を裏付けるように、12月27日の朝日新聞は次のように書いている。「多少の反発はあるだろうと思っていたがそんなに反対される問題じゃないと思っていた」(作業に携わった職員)、「これほど大問題になるとは思っていなかった」(当事者)。この程度の認識で沖縄県民の心を踏みにじる検定作業をしていたということである。
  最後に2点付け加えておきたい。承認された教科書の中には、「2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の『集団自決』に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった」と記述する教科書があったという(東京書籍『日本史A』)。吹き出しそうな教科書の記述であるが、実はこれこそが正しく、良心的な記述に違いない。この記述をきっかけに読み手が自分で史実を突き止め、判断するようになればいい。政府の押しつけの情報を鵜呑みにしない態度が養われることになる。
  もう一つは、今度の報告を発表する際、渡海文部科学相は、「政治的介入を行った事はない」と強調していた。一部大手新聞の社説も「政府は教科書検定に対する政治介入の愚を繰り返してはいけない」などと書いていた。言葉遣いが間違っている。政治介入とは政府の意向を押しつけることである。国民の反発に負けて方針を変更する事は、政治介入ではなく政治判断という。

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2007年12月26日

 国の在り方が変わる兆しを感じる

 国の在り方が変わる兆しを感じる

 二つのニュースに、この国の在り方が根本的に変化する予感を感じる。
 一つは、民主党が、政府・自民党が独占してきたこの国の税制に手をつけ始めたことだ。もう一つは、リニア中央新幹線が民間企業の自己負担で着工される可能性が出てきた事だ。
 この二つの動きは、実は大事件なのだ。これまでの常識を一変させる出来事なのだ。それを強調したくてこのブログを書いた。
 民主党はもはやただの野党ではない。テロ特措法が凍結された事からも明らかなように、政府・自公政権の政策を変える力を持つに至った。その民主党小沢代表が、選挙対策か本心か知らないが、ここに至って国民生活優先を声高に叫ぶようになった。とうとう政府の独壇場であった税制に手を突っ込んできたのだ。自民党や財務官僚は腰を抜かしているに違いない。
 民主党が政府税制案に対抗して独自の税制改革案を出した事は、テロ特措法の場合と比べて比較にならないほどインパクトがある。一つには、平和や安全保障という抽象的な問題ではなく国民生活に直ちに結びつく問題であるからだ。二つには、だからこそ国民の関心が高く、国民もこの国の税制について注視するようになる。政府の独占物であった税制も、ついにこれからは国民の声を無視できなくなるからである。
 財源がどうのこうのと難しい議論は不要だ。税制論議は専門家や税調のお偉方の教科書議論であってはならない。大多数の低所得者の生活から遊離した税制はありえないのだ。消費税を上げない、ガソリン価格を引き下げるために暫定税率を廃止する、そういうだけで国民は民主党案を支持する事になるだろう。それでいいのだ。その後始末は官僚に任せればよい。政治とはそういうものなのだ。
 年明けの予算国会は税制論議一本になるかもしれない。選挙に怖れる与党も野党も、国民の叫びを聞かざるを得ない。たとえそれがガソリン価格の引き下げ一つであってもだ。今までには考えられなかった事だ。この蟻の一穴からすべてが変わるかもしれない。
 もう一つは、リニア中央新幹線が民間の手によって実現する見通しになったというニュースである。このニュースの核心は、名古屋止まりであるという点だ。その背景にはトヨタの資金力が勿論ある。おりしもこの発表が行われた同じ日、トヨタ車の販売台数がGMを抜いて世界一になったという発表がなされた。
 赤字であえぐ国家を尻目に、資金力の豊富なJR東海とトヨタが、名古屋―東京間のリニア中央新幹線はペイする、いやペイさせる、と判断したのだ。これをテコに名古屋―東京を一大首都圏にすると決断したのだ。
 当然のことながら国交省はおもしろくないだろう。数々の理由を並べて承認を渋るかもしれない。官僚の唯一の砦である許認可権を手放したくないからだ。
  しかしもう官僚が権限だけを振りかざす時代は終わった。「国の整備を待っていたら先が見えない」から自己負担方式に踏み切ったと、記者会見でJR東海の代表が言ったという。これは象徴的な発言である。一民間人がここまで言うようになったのだ。
  リニア中央新幹線の実現の有無は最後は国民の判断だ。国民がそれを喜んで利用するかどうか。地域活性化のために地方が積極的に参加しようとするか。新駅誘致がしたければ政治家に頼むのではなく経費負担などによって自助努力の用意はあるか。大きく取り残される大阪人がどう参加しようとするか。すべては国家、政府抜きの、国民、住民の判断である。
  日本の将来は国民が決める。そういう時代の始まりを予感させる。国が全てを決めてきた時代の終わりを予感させる。そういう二つのニュースである。

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2007年12月25日

米国とイスラエルが世界を支配しているのか、彼らこそ世界から孤立しているのか

 米国とイスラエルが世界を支配しているのか、彼らこそ世界から孤立しているのか

 小さな記事であったが、12月24日の毎日新聞に、ここ20年来全会一致で承認されてきた国連総会における予算案承認の慣例が、はじめて破られたという記事があった。当然のことながらパンギムン事務総長は、たとえそれが形だけのものであるにしても、遺憾の意を表明した。
 投票した143カ国のうち、イスラエルが棄権して米国が反対したのだ。何が問題だったか。それは01年に南アフリカで開かれた世界人権差別撤廃会議の事後処理の為の経費670万ドルが、全体の予算案41億7000万ドルの中に含まれていたからだという。
  670万ドルの金額が大きすぎるというのではない。わずか0.16%に過ぎない。670万ドルが無駄であるというわけではない。無駄な国連予算は他にいくらでも見出せる。
  反対の理由はただ一つ、世界人権差別撤廃会議においてイスラエルに批判が集中したからだという。自らへの批判を一切許さないイスラエルの異様なまでの攻撃的な姿がそこにある。そのイスラエルを全面的に支持する米国の異常さがそこにある。
  そして今日25日の新聞には、イスラエル政府が23日、占領地ヨルダン西岸と東エルサレムのユダヤ人入植地に新たにユダヤ人のための住宅を建設する新年度予算を発表したと報じている。
  米国の音頭で7年ぶりに和平会議が開かれたのは、わずか一ヶ月前だ。世界中がそれを歓迎し、こんどこそ和平交渉が始まるかもしれないと、かすかな希望を抱いている時に、そして両者間で和平交渉が始まった矢先に、和平工程表(ロードマップ)の基礎となる「入植の凍結」を、平然と正面から否定するイスラエルという国を、我々は一体どう考えればよいのか。ここまで米国の顔に泥を塗る国を、それでも甘やかす米国とはどういう国なのか。他の国ならたちどころに軍事攻撃をして破壊するくせに。
 パレスチナ問題への関心が日本で希薄であるのは、中東が日本から遠いからではない。パレスチナの真実を伝える事ができない現実があるからだ。報道への目に見えない圧力があるからだ。
 そして、パレスチナ問題を報じるメディアや専門家も、パレスチナ状況の悲惨さを報じることに熱心では会っても、その原因であるイスラエルや米国のパレスチナ政策を正面から批判する事はない。パレスチナ問題の99。9%はイスラエル、米国の誤ったパレスチナ政策に原因があるというのにだ。
  我々は考え方を改める時期に来ているのではないか。米国とユダヤ金融資本が世界を支配している、だから彼らを批判する事は得策ではない、皆がそう思っているに違いない。しかし、米国とイスラエルは圧倒的な国際社会の中の、たった二つの国である。孤立しているのは米国とイスラエルなのだ。世界の良識ある有力者が声をあわせてその事を本気で言いだせば、世界は一変するに違いない。それは反ユダヤ主義でもなんでもない。平和と人権尊重を求める普遍的な人類の良識が発する声である。
  いかなる国も世界の国民を敵に回して存在し続ける事はできない。たとえ軍事力と資金力で一時的に世界を支配することに成功しても、けっしてそのような無理が永久に続く事はない。そのような無理を続けていくうちに自らが滅びる事になる。米国とイスラエルの国民がその事に気づく時が一日もはやく来て欲しいとクリスマスの祝日に思う。

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2007年12月24日

人の死を考える

 人の死を考える

 癌との闘病を告白し、自らの寿命を知りながら最後まで政治活動を続けた山本孝史という国会議員が逝去した。
 おりしも薬害肝炎訴訟が政治決着した。薬害肝炎訴訟の最大の問題は、致死にいたる薬害が放置されてきたという事だ。「もっと生きたい」といいながら死んでいった被害者の女性が自ら撮影したビデオがテレビで放映された事があった。それを見た人たちは間違いなく政府の無責任さに怒りを覚えたに違いない。
 人は死に向かい合う時、どういう思いを抱くであろうか。この問いを自問する時に、私は決まって思い出す文章がある。それは学生時代に読んだ芥川賞受賞作「されど われらが日々」(柴田翔著)の中の次の言葉だ。主人公が、見合い相手の叔父さんらしき副社長について語るくだりである。最近胃の調子が悪いとぼやく副社長に、そのお嬢さんが冗談交じりに、「おじさま、近頃、よくそんなことおっしゃるわね。胃癌よ、きっと」、と冗談交じりに語りかける。
  それは、屈託ない明るい表情で、まったくの冗談交じりに話しかけた言葉だった。しかし、それまで上機嫌だったその副社長はその言葉に表情を一変させて、「馬鹿なことをいうな!」と怒ってその場を去っていったのだ。その光景を見た主人公の言葉である。

   ・・・それにしても、自分の心に陰画のように焼きつけられた副社長のあまりに暗い表情を反芻していると、人間の幸福とは一体何だろうかという疑いが、次第に心の中に拡がってくるのを、どうしようもありませんでした。自分の死を想った時、あれほど暗い表情をしなければならないとしたら、人間の生きて、持っている幸福とは、一体何だろうかという疑いです・・・副社長は、今、この上ない幸福な境遇にあるはずです・・・人生の前半を官界で過ごし、戦後実業界に移り(実力者となる)・・・家庭的幸福という点は、他人のうかがい知りうるものではありませんが、社会人としては、これ以上望むべくもない高い地位と、充分な報酬と、将来の仕事に恵まれているのです。そうした副社長が、なお、自らの死を想った時、あれほど苦しげに淋しげな表情を浮かべなければならないとすれば、地位や報酬や仕事とは、人間にとって一体何なのだろうか。そう、ぼくには思えた・・・

  学生運動に興味がなかった私は、左翼運動にのめりこんだ若者の葛藤を描いた柴田翔の「されどわれらが日々」の内容に、ピンとくるところがなく、その小説のストーリーも殆ど思い出せない。しかし、このくだりだけはなぜか強烈に印象に残っているのだ。
 毎日新聞に連載されている野坂昭如の「七転び八起き」の事についてはかつてこのブログで書いた。人生の終章をリハビリに費やしている野坂の文章には、かつての氏のぎらぎらした生き方を超越したすがすがしさを感じる。その12月24日の連載にこういうくだりがある。

 ・・・こと病気においてのみ、人間は平等である。死を前にして人間に上下はない。人間は所詮自然の一部に過ぎない・・・
 
  こういって彼は、半日もかけて待ち続けた大病院の診療が、わずか一分で終わってしまう現状をなげき、「それでも都市部は恵まれている。地方の医師不足は深刻だと聞く」と、この国の医療状況を憂う。

 「死を前にして人間に上下はない」

  本当だろうか。私はその日の午後、東京都内で開かれたフォトジャーナリスト土井敏邦の「パレスチナ記録の会」の報告会に出席し、彼がガザから収録してきた最新の映像を見てきた。その中で武装抵抗組織ハマスに参加した14歳の少年の語る姿があった。「家族から別れる事はもちろんつらい。しかし殉教者として死んで行く事におそれも、ためらいもない」と語る彼の生は、イスラエルに弾圧されたまま絶望的な生を生きるパレスチナ人にとっては、紛れもない現実なのだ。それ以外の生は彼にはない。
  栄華を極めて一日も長く生き永らえたいと思う人間もいれば、絶望の中に死と隣りあわせで生きている人間もいる。「人間は死んでしまえば所詮自然の一部」に過ぎない、それは確かに真実かもしれない。しかし、すくなくとも生きている人間の生には、天と地ほどの違いがある。
  それを不条理だと考えて、われわれは少しでも正義の実現のために尽くそうと考えるのか、不条理こそ現実だと割り切って目をつむり、自分の幸福な生の実現に邁進するのか、どちらが正しいなどと断言できないところが悩ましく、悲しい。

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2007年12月23日

 福田首相の政治決断を素直に喜ぶ

福田首相の政治決断を素直に喜ぶ

  ひょんな事からインターネットの囲碁対戦にはまってしまった。一日中見知らぬネット対戦相手と夢中で囲碁をしてしまった。この調子では、これからはブログを書く時間もなくなりそうだ。つまらないブログを書いているよりずっと健全な生き方かもしれない。
  そんな囲碁の最中に、福田首相が薬害被害者一律救済の政治的決断を下したというニュースが飛び込んで来た。よかった、よかった。素直に喜びたい。福田首相の英断をたたえたい。福田首相も枡添大臣も被害者も、皆これでよかったのだ。
  このまま政治的判断を下さなければ、支持率は更に下がって福田政権は交代させられる。選挙で負ける。テレビ番組を見ていても、あの竹村健一や三宅久之までが町村官房長官や福田首相を批判していた。町村官房長官も、弁明をしながらこれでは持たないという顔をしていた。だから福田首相は政治的決断を下すしかなかったのだ。
  それでも私は福田首相の政治的決断を素直に称えたい。歓迎したい。遅きに失したとか、当然だとか、なぜ議員立法なのか、などというつまらない評論はもういい。よく決断した、ありがとう、と言えばいいだけの話だ。
  果たして本当に一律救済が行われるのかという不安は関係者の頭によぎるかもしれない。なにしろ政府のやることだ。なにか裏があるのではないか、などと疑心暗鬼になる気持ちもわかる。しかし福田首相はもはやケチな真似はできないだろう。それをやったら、それこそ批判は倍になって返ってくる。福田首相は頓死するだろう。だから福田首相は覚悟を決めて政治的決断を下したと私は思う。
  原告訴訟の人達の訴えが政府を動かしたのだ。この言葉につきる。応援する野党議員たちも、そして支援者たちも、よく支援した。ごくろうさんと心から感謝したい。
  もはや自公政権は世論の声に応える政治をするしかないだろう。嘘やごまかしの官僚主導の政策では国民の支持を得られない。そんな事をやっていたら来る総選挙で惨敗必至だ。このことは野党にとっても同様である。
  ひょっとして今回の政治的決断をきっかけに、国民に顔を向けた政治主導の正しい政策が行われるかもしれない。薬害訴訟の原告団が見せた今回の熱意は、日本のおける新しい民主政治の夜明けかもしれない。
  そう願いながら、再びネットの囲碁の世界へ戻ります。よかった、よかった。

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2007年12月22日

予算編成を一度国民にやらせてみろ

予算編成を一度国民にやらせてみろ

  年末の一大行事は予算編成という事になっている。しかし毎年の予算編成で思う事は納税者である国民の気持ちが果たしてどこまで反映されているのか、という事である。一度でいいから国民に予算編成をやらせて見たらどうか。いや、もはやそういう時期に来ているのではないか。
  もちろんそんな事はできるはずがない。政府が国民に予算編成をやらせる事はありえないし、国民の誰がそれを行うかという、現実論、技術論から見た問題点は残る。国民が予算編成を行う事は現実にはありえない。
  しかし、毎年繰り返される予算編成のセレモニーを見させられ、そして新聞紙上に書かれる通り一遍の総花的な解説を見るにつけ、うんざりさせられるのは私一人ではないはずだ。
  予算は、硬直的思考から抜け出せない財務官僚と、利権誘導や選挙対策を優先する自民党政治家の、哲学なき駆け引きで作られてきた。昔も、今も、そして未来もそうなのだ。
  大蔵省の担当者が各省庁の責任者を呼びつけて予算案を内示する、それを各省の責任者がうやうやしく頭をさげて頂戴する。この季節になると決まってテレビに映し出される年に一度のあの光景は、官僚の自己満足を誇示する壮大なセレモニーに過ぎない。そしてその後に続く大臣、党三役による復活折衝などは政治家の顔をたてる芝居でしかない。そうして予算原案が作成されると、霞ヶ関、永田町は政治休戦となり一気に正月休みに突入するのだ。一年が終わるのだ。
   日本が右肩上がりの成長期であればそれも許されたかもしれない。しかし今の日本は、官僚や政治家がそれほど呑気にしていられる状況なのだろうか?官僚や政治家が仕事おさめをしても、生きていくために働き続けなければならない国民が今あふれている。
  来年度の予算原案が発表された翌日の新聞を読み比べてみた。数ある専門家のコメントの中で、早大大学院教授である野口悠紀雄氏のコメントが、圧倒的に的を得ていた。野口氏は元大蔵官僚だ。早くに官僚に見切りをつけ、経済学者に転じた野口氏は、多くの凡庸な御用学者とは一線を画した硬派の学者である。
  その彼が12月21日の東京新聞紙上において、「見通しなき国家を象徴」と題して次のような、簡潔にして要を得たコメントをしていた。

  「・・・来年度予算の財務省原案においては・・・基礎的財政収支(公国債収出入を除いた歳出と歳入の差―プライマリーバランスともいう)は5兆1800億円の赤字となり、5年ぶりに悪化した。
   これは次期衆院選挙をにらむ与党の歳出ばらまき圧力が極めて強かったためだ。今後の税収入の伸びはあまり期待できないので、「2011年までに基礎的収支のバランスを実現する」という政府の方針は出来ない可能性が高い。しかも国債の残高は増加し続けるので国債費も増加する。だから、仮に基礎的収入がバランスしても、全体の財政収支は悪化する。財政再建の見通しはまったくつかない状況だ・・・
 国と地方を合わせた債務残高の対国内総生産(GDP)比は約147%であり、先進国中で最悪だ。これを解決できる見通しがないことは、日本経済の今後に大きな不確実性をもたらしている。
 しかも来年度予算の内容には、「暫定的」とされている(もの)が多い。高齢者医療費の抑制も、地域間財政格差の是正のために導入された「地方法人特別税」もそうだ。つまり、全体的な収支だけでなく、個別政策についても、今後が見通せないのだ・・・
  予算は、一国の状況を象徴的に示すものである。来年度予算の財務省原案は、国の活動をコントロールする能力を、もはや行政も政治も持っていない事を示している。「漂流国家の漂流予算」としか言いようがない・・・」

  財務官僚も政治家も、この評論をどう聞くか。いや、わかっているに違いない。わからないはずはない。それでもこのような予算しかつくれなかったのである。わかっていながら日本経済を再建できないのである。それがこの国の為政者の現実なのだ。
  大学で学ぶ財政学の教科書に真っ先に出てくる原則は、「入りをもって出るを制す」である。何でもかんでも足らなければすぐ増税にたよる。増税は止むを得ないと当たり前のように言う。そういう官僚や政治家や御用学者は、一から財政学を勉強し直すべきだ。
   国民の金は彼らが自由に使えるものではない。金がなくなれば、その範囲でやりくりするほかはないのだ。軍事費も、思いやり予算も、ODAも、人件費も、何もかも、必要不可欠であると思われるものさえも削るしかないのだ。
   個人の家計は皆そうしている。したくなくてもそうしなければ生きられないからだ。すべて削っていって最後に残るのはぎりぎりの生活費だけである。家庭の主婦はみなそれでやりくりしているのだ。やりくりせざるをえないのだ。
   国家の財政だってそうなのだ。まず優先されるべきは医療費であり、介護費であり、社会保障費であり年金予算だ。すなわち国民の命と生活を守る経費こそ真っ先に講じなければならない。それらを優先させて、それで予算が残らなければ、やめればいいだけの話だ。やめたくても金がないのだからやめざるを得ない、それだけの話だ。
   それなのに、やれ米軍再編だ、思いやり予算だ、ODAだ、公共事業費だ、各省庁の人権費だ、既得権予算だ、などと、財源を横取りしあって膨らませていく、そして金が足らなくなったから増税やむなしだという。順番が逆だろう。無ければ出来ないまでの話だ。
   官僚や政治家に予算編成権を任せ続けていては日本に未来はない。それを来年度の財務省原案が示してくれた。それを野口教授が見事に解説してくれた。
  一度国民に予算編成を任せろという理由がそこにある。ありえない事をしなければならない時が来ているのかも知れない。

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2007年12月22日

歳末の心象風景

 歳末の心象風景

 今年も年の瀬がやってきた。もはや今の私にはそのような思いはなくなったが、働き盛りの若い頃、私はなぜか年末年始が嫌いだった。年の瀬の喧騒に淋しさを感じ、一月のカレンダーをめくる時、これから始まる一年の長さにうんざりする程の疲れを感じるのだった。何の理由もない。とりたてた不満や不安があるわけではない。いや充実した人生の只中にあっても、私にはそういう年末の心象風景があった。
 そして、そんな時何故か好んで思い浮かべるのがオー・ヘンリーの「賢者の贈りもの」の話であった。そのオー・ヘンリーの「賢者の贈りもの」について、12月22日朝日新聞土曜版連載、「愛の旅人」が取り上げていた
それを見つけてうれしくなった。
 貧しい若夫婦のジムとデラがクリスマスの夜にプレゼントを交換し合うクライマックスシーンを、私はこれまでの年末に何度思い浮かべた事だろうかと思う。もちろん毎年の年末に必ず思い浮かべるというわけではない。そして年末でなくても、突然思い浮かべることもある。
 しかし今年は、朝日新聞の小西淳一記者の文章と、舞台であるニューヨークの街を撮った山本壮一郎の一枚の写真が、私に「賢者の贈りもの」のクライマックスシーンを思い浮かべさせてくれた。

 ・・・帰宅したジムは、ばっさりと髪を切ったデラを見て驚く。かつら屋に髪の毛を売って、ジムの宝物である懐中時計に似合う鎖を買っていたのだ。ところがジムは懐中時計を売って、デラの長い髪に似合う上等のくしを用意していたのである・・・

   相手の大切な物のために自分の大切な物を犠牲にしてしまう。贈り物は無駄に終わるが、お互いの深い愛情をこれ以上はない形で確かめ合えたのだった、という話である。
   意外な結末で読者をあっと言わせるオー・ヘンリーサプライズの中でも、とっておきの心温まるサプライズ。1903年からニューヨーク・ワールド紙の日曜版に、一編100ドルの契約で書き続けられた短編の数々。「賢者の贈りもの」は1905年12月10日に掲載されたという。
   いつか歳末のニューヨークを訪れて、喧騒の夕暮れ時の喫茶店で、「THE GIFT OF THE MAGI」(原題)を読んで見たいと夢見る。

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2007年12月22日

お母さんがきっと助けてあげる

  お母さんがきっと助けてあげる

  横田早紀江戸さんの最新著「めぐみへ 横田早紀江、母の言葉」(草思社)を買い求めて、東京からの帰りの新幹線で読んだ。今の私に出来る事はそれくらいしかない。本を買って売り上げに貢献し、それを読んで、苦しく悲しい拉致被害者家族の心情の100万分の一でも、しばし共有しようとすることしか出来ない。
  この世の中には、ありとあらゆる不条理が存在する。どのようにあがいても逃れられない不幸がある。わが身がその不幸に見舞われない人は幸福だ。そんな人はわが身の幸福を感謝し、不幸な人の境遇に思いをめぐらすべきだと思う。
  これまでに何度も書いてきた事であるけれど、小泉外交の最大の罪は、米国に日本を売り渡した事である。しかし、それと並んで、いやそれ以上に卑劣な罪が、拉致問題について金正日と裏取引をしたことである。私はそう確信している。
  小泉という男の人間性のなせる業だ。私欲、名誉欲のなせる業だ。愛すべき国民を無視し、被害者家族の心を踏みにじって恬として恥じない姿。それは冷酷というよりも、自分さえよければという単純な無神経さ、厚顔さである。
  「わずかばかりの国民の命のために日朝国交正常化という一大事業が妨げられてはならない」などと発言した外務官僚や、生存していると言われた4家族が「めぐみちゃんたちはどうしたんですか」と詰め寄った時、「黙りなさい。皆さんのお子さんは生きているんですよ」と叱った福田首相(当時官房長官)ら、小泉政権の正体を、今更ここで批判する気にはならない。
  しかし、北朝鮮労働党と誼を結んできた左翼政党が、拉致問題を不問にし、今でも北朝鮮との国交正常化を最優先にしろと声高に叫ぶ。その事が平和主義だと言う。この事を私は許せない。ある左翼政党の一人は「めぐみちゃんは可哀想だけど、拉致被害者の中には自分の意思で北朝鮮に行った者もいるのだから」と私に言い放った。平和や人権を声高に叫ぶ左翼イデオロギストが小泉訪朝を誰よりも評価する。それこそが日本の政治のパラドックスである。
  早紀江さんの新著の中に出てくる言葉の数々は、いずれも新聞などで報道されたものばかりである。それらをこうしてあらためて読み返してみると、それは小泉電撃訪朝から始まり、完全に行き詰まったわが国の北朝鮮外交の蹉跌の記録として、鮮やかに蘇る。それはまた拉致被害者家族の苦しみと悲しさの堆積である。その言葉のどれ一つとして、私の心を揺さぶらないものはない。
   その中で一つだけここで書くとしたら、私は間違いなく、次の言葉を上げる。

   「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」

  私は男だ。母親になったことはない。母親の気持ちは想像するしかない。しかしこの言葉ほど私の心に響くものはない。読み返すたびに涙がこぼれた。
  若い母親が平気で子供を殺す事件が報道される中で、私はこの言葉に救いを見つける。世の中に希望を抱く。
  早紀江さんは菩薩だ。マリアだ。
  小泉元首相が決して正視する事のできない人に違いない。

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2007年12月21日

流浪の民にさせられようとしているパレスチナ人

流浪の民にさせられようとしているパレスチナ人

 このブログに限っては公開情報を読み解くものではない。私のブログには珍しく、生の情報に基づいて書いている。
 21日、私は訪日中のレバノンの友人と食事をしながら話した。話題はもっぱら最近のレバノン情勢についてである。その中で友人は最新情報を提供してくれた。想像はしていたがここまで米国の中東政策が進んでいるとは思わなかった。彼が語ったあらましはおおよそ次のごとくである。

 米国はレバノンを完全に支配下に置こうとしている。その支配を旧宗主国のフランスを代理人として行おうとしている。フランスはレバノンのかつての宗主国だ。その形を保ちながら、実際は米国の意のままにレバノンを動かそうとしている。イラク攻撃の時米国に楯突いたシラク大統領はもはやいない。その寵児であったドビルパン外相はスキャンダルで失脚させられた。かわってユダヤ人でありイスラエル情報機関に属していた経歴のあるサルコジを大統領選挙で勝たせ、そのサルコジがレバノンの米国代理統治者の形をつくった。
 もはやブッシュ政権の残された唯一の関心事はイスラム原理主義の武装抵抗組織、アルカイダをイラクから排除し、イラクの治安を回復することだ。
その為にシリア、イランと取引を始めた。見せかけのパレスチナ和平実現のため、彼らの理解と協力を得ようとしている。
  パレスチナ問題はパレスチナ人のイスラエルからの追放という形で解決しようとし始めた。大方のパレスチナ人は平和な生活を望んでいる。そのようなパレスチナ人を米国はどんどんと国外に移住させようとし始めた。周辺諸国や欧州諸国に受け入れろと命じている。もちろん米国へも移住させる。かつてパレスチナ人に対しては厳しかった入国査証が今では一変して緩和された。
  移住に抵抗し、最後まで闘うと宣言するハマスの強硬派を徹底的に抹殺し、親米パレスチナ人の傀儡国家を樹立し、イスラエルとの共存を図る。それが中東和平の実現である。実質的なイスラエル国家の樹立である。
  レバノンのに対しては、隔離していたパレスチナ難民をレバノン国民として受け入れろと強烈な圧力をかけ始めた(註レバノンはアラブの中では唯一キリスト教が優勢な国で内戦の原因となったパレスチナ人は難民キャンプに隔離してレバノン国籍を与えない政策をとっている)。
 レバノンにデンマーク大使館が2ヶ月前に開設された。先日着任したばかりのデンマーク大使と話したが、新大使は自分の仕事はもっぱらレバノンのパレスチナ難民をデンマークに受け入れる事だと言っていた。レバノンに存在する40万人のパレスチナ難民のうち2万5千人の難民をデンマークは受け入れる事にした。
 米国とイランの間にどのような取引が為されたかはわからないがイランの指揮下にあるレバノンの反米武装抵抗組織ヒズボラは最近めだって大人しくなった・・・

  果たして米国の思惑通り事が運ぶのであろうか。もしそうだとしたらパレスチナ人はかつてのユダヤ人のごとくディアスポラ(国なき流浪の民)となるということだ。2000年もの間ディアスポラであったユダヤ人が、今パレスチナ人を追放し、自らの国を手に入れようとしている。歴史の残酷な皮肉である。

 

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2007年12月21日

年金問題と薬害問題に共通するもの

年金問題と薬害問題に共通するもの

  テレビに映し出される薬害肝炎の原告団は圧倒的に女性が多い。それは被害者の中には出産時に非加熱製剤を止血剤として投与され、感染した者が多いからに違いない。
  しかしそれだけではないと思う。不正義に対し、自らの犠牲を省みず闘う強さが女性にはあるのだろう。保身や世間体に右顧左眄する世の男には真似の出来ない純粋さがある。潔さがある。
  世の中の母親たちよ。そしてすべての女性たちよ。いまこそ彼女たちの支持者となって男どもが動かすこの国の政治を変えなければいけない。
  薬害問題の本質は何か。それは、政府・裁判所が示す和解案が、国や製薬会社が危険性を認識していたのに必要な対策をとらなかった85年8月―88年6月の期間に責任を限っているのに対し、被害者たちの求めるものは、国や製薬会社の責任はそのような狭義の、形式的な責任にとどまらず、被害者は等しく生命軽視の態度からくる、国、製薬会社の過失、不作為責任の犠牲者であると主張し、皆平等に救済されなくてはならないとする点である。
 それは、突き詰めて言えば、薬害被害者の認定をめぐる技術的問題や、その範囲が無限に広がることへの財政負担を盾にとる国と官僚の論理に対し、そのような姑息で責任逃れの態度こそ、罪のない国民を犠牲にした元凶であるとする、常識論、根本論のぶつかり合いなのである。
  政治決着というのは、技術的、理論的には一見正しく見えても、根本のところで保身的、責任回避的態度から導き出される結論を、庶民、国民、弱者の視点にたって上書きする決断の事である。
  年金問題と薬害問題に共通して言えることは、国の責任で犠牲者を明確にしなければならないのにそれを被害者の責任に転嫁する。そして膨れ上がる財政負担のおそれを盾に、責任範囲を限定することである。そのあやまりを正し、限られた国の予算を予算編成で責任を持つ、たとえば1機216億円かかる米国製の戦闘ヘリコプターの購入をやめる(21日読売新聞)、そういう覚悟をするということだ。福田はもとより枡添えさえも、そのような政治家でなかったということだ。官僚の延長の政治家でしかないということだ。
  12月21日の読売新聞に官僚を評価する際に性善説にたつか性悪説にたつかで福田首相と石破防衛相の間で違いが見られる、という記事を見つけた。よくあるくだらない禅問答だ。その問いに正しい答えなどあるはずは無い。 
  しかしこれだけははっきり断言できる。官僚は、キャリアもノンキャリアも等しく責任逃れをする。保身に走る。なぜならば少しでも正義感のある官僚ならば、いずれ行き詰まって辞めていくからだ。官僚を続けられるということは、保身や現実的打算を優先するあまり目の前の不正に目をつむる厚かましさを持てる者たちである。
  その事を批判する資格はだれも無い。しかしそのような者ばかりが残る官僚組織にまともな仕事が出来るはずはない。間違いは放置され、繰り返される。年金問題や薬害問題の本質はまさにそこにある。

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2007年12月20日

 そろそろ日本の政治家も9・11の真相を追究すべき時ではないか

 そろそろ日本の政治家も9.11の真相を追究すべき時ではないか

  読者の中には、私のブログで是非とも取り上げてもらいたいと、様々なテーマとそれに関連する情報を送ってくる者がいる。
  それらの多くは貴重なものであり、勉強になるものである。しかし私はこれまでその要望に応える事をしなかった。
  その最大の理由は、私には自分の関心事を書き続ける事で精一杯で、とても他人の関心事について、調べ、書く余裕がないからである。
  このブログは公共のものではない。一私人の独断と偏見に基づいた放言ブログである。良くも悪くも私と言う一私人がその全人格を投影させて書いている、こよなく個人的なものである。他人の関心事まで書いてしまうと、ブログの性格や運営方法を大きく変化させなければならない。私にはその気はない。
  しかし読者からいただく助言や情報は貴重なものがあり、大いに助けられている。そしてその中から、どうしてもブログで書いておかなければならないと思うテーマもある。今日のブログがそれである。

  9・11が米国やイスラエルの陰謀であるという説が当初より世界中で囁かれてきた。確かにそれらの情報を読んでみると、あまりにも多くの疑問点があの同時多発テロ事件にはつきまとう。個人的には陰謀は大いにありうる事だと思っている。
  陰謀説を唱え、その真相を突き止めるために活動している人達に私は敬意を表するものである。もし9.11が陰謀であったなら、これまでのあらゆる議論が一変し、日本の対米従属政策が完全に破綻する。何とか真相が突き止められないかと思う。
  しかし私は自分自身がこの問題を追及する事はしてこなかった。それは一つには、たとえそれが真実であったとしても、ブッシュ政権や日本政府は決してそれを認めないと思うからであり、それでも陰謀説を主張して真相究明を求めるならば、常軌を逸した奴という烙印を押されたり、不測の事態に巻き込まれるおそれがあると思うからである。
  そんな中で、読者の一人が、イタリアのコシガ元大統領が最近のイタリアの新聞で「9・11事件は米国政府の内部犯行だ」と発言した事を、週刊金曜日の記事を添付して教えてくれた。

http://www.amakiblog.com/archives/2007/12/post_426.html
http://www.kinyobi.co.jp/
http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol683

  そういえば確かこのニュースは既に大手新聞でも小さく報じられており、私もそれを読んだ記憶がある。しかしここまでコシガ大統領が話していたとは知らなかった。
  いくら現職を退いたからと言っても、コシガ大統領は85年から92年までイタリアの大統領を務めたほどの人物である。しかも92年に辞任した経緯が、ボローニア駅爆破事件に自分も関与していた事を認め、その責任をとって辞職したという筋金入りの告発者である。
  因みにボローニア駅爆破事件とは、80年のボローニア駅で起こった無差別テロ事件であり、未だに真相は明らかにされていないが、当時のアンドレオッティ首相が、米国とNATOが操っていた謀略活動の存在を認め、ボローニア駅爆破事件もイタリアの右翼集団を使った反共謀略であった事を暴露した事件である。
  コシガ元大統領は「コリエル・デラ・セラ」紙上で次のように話したという。
・・・欧米のすべての諜報機関は知っている。9・11はアラブ諸国に非難を差し向けさせ、アフガンとイラクの戦争に西側を参加させるために、米CIAとイスラエルのモサドによって計画され、実行された事を・・・
   9・11には、レーダーやスクランブルの担当者の中に工作員を侵入させるなど、高度の専門家が動員されていた・・・

  イタリアの元大統領がここまで話しているのである。それにもかかわらずこの発言が大きく報じられる事はない。その事がますます9・11陰謀説を強めさせている。日本の政治家もそろそろ本格的にこの問題を追及したらどうか。

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2007年12月19日

 封印された鹿島建設の所得隠し事件

  封印された鹿島建設の所得隠し事件

  鹿島建設が所得隠しをして国税局から追徴課税されたというニュースがNHKや大手新聞によって報じられたのは12月11日であった。それから一週間、この事件は何もなかったかのように封印されてしまった。
  この事件は単なる所得隠しではない。日本を代表する企業キャノンが、大分市に新設した事業所の受注に絡んだものだ。キャノンの御手洗会長は日本経団連の会長でもある。
  しかも下請け工事を発注したように装って約6億円の裏金を作っていたという事件だ。裏金の使途を鹿島は国税当局にさえ明らかにしなかった、出来なかった。その為「使途秘匿金」と認定され制裁まで受けている。異常な事件といえよう(12月11日読売新聞)。
  しかもその後の報道によれば、裏金の一部はキャノンの会長である御手洗富士夫氏と同郷の、懇意にしていたコンサルト会社社長の口利き謝礼として渡った疑いがあるという。御手洗会長は報道陣に対し、「(私は)関係ない。迷惑している」と一蹴したが、大分県の広瀬勝貞知事(元通産省次官)はコンサルタント社長について、「選挙の関係でお世話になり、よく知っている。キャノンのことは彼も知っているので教えてもらっている」、「いろんな人の情報を得ながらやるわけだから、そういう意味では一つの役割、意義があったかもしれない」と、事業所誘致に影響があった事を認めているというのだ。限りなくきな臭い。
  キャノンの御手洗会長は財界総理として日本経済はもとより政治までも動かす影響力を持っている。その事は、前任者の奥田トヨタ会長が小泉元首相の長期政権と二人三脚で日本を動かした事からも明らかである。
  だとすればこの不祥事の真相次第では大きな問題に発展する可能性がある。事件の推移から目が離せないと誰しもが考えたに違いない。
  しかし不思議な事にその後のメディアの追及はまったく見られなかった。そしてこの事件はあたかも何も無かったかのように慌てて封印された。
  そう思っていたら、12月19日の日刊ゲンダイが「人と事件」のコラムで、松崎隆司の署名入り記事として次のように書いていた。

 ・・・経団連会長、御手洗富士夫氏のお膝元で今、大問題が噴出している・・・(裏金の)大半が地元のコンサルト会社「大光」に流されているとされている・・・実は、大光の大賀規久社長は兄弟そろって御手洗氏とはじっこんの仲。大賀社長の兄は県立佐伯鶴城高校の同級生でキャノンの同期入社。キャノン退社後大分県で建材販売会社を経営。横浜市にある御手洗氏の自宅の設計・施工も行っている。大賀氏も高校の後輩だ。
 「御手洗氏は大分に帰ると、大賀氏としばしば会っていました。こうした関係を利用して大賀氏は、キャノンが大分で建設した2工場の従業員寮を建設し、運営している。また大賀氏が経営する警備会社『デユーク』は2工場の警備業務を請け負っています」(地元事情通)。取引する工場は大分以外にもあるというから、御手洗、大賀両氏の関係はまさに親密といえよう。
  (しかも)大賀氏は単に御手洗氏の知り合いというだけではない。大分の大型建設工事の仕切り役として知られ、広瀬勝貞大分県知事をはじめ元警察官僚、元熊本国税局長などとその人脈は幅広い。県発注の大型工事などでは、「業者の『大賀詣で』が頻繁に行われていた(前出の地元事情通)。
  今回のキャノン工場の建設は当初、大林組が優勢とされたが、結局、鹿島が落札。この裏で大賀氏が動いたとも伝わっており、地元政官財の『フクサー』ぶりがうかがえる。
  大賀氏が手にした裏金がその後どうなったか定かではない・・・」

  一タブロイド夕刊紙でも、ここまで調べられるのである。なぜ大手新聞は書かないのか。追及しないのか。間違いなく「本件はこれ以上書かない」という暗黙の了解がある。その不自然さが事件の疑惑を限りなく深めている。やはりこの国は偽装だらけの国だ。

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2007年12月19日

想像力を働かせて読む

 想像力を働かせて読む

 思い起こせば1月4日にブログを書き始めて一年が経とうとしている。その間の思いとこれからの事については、近く連載で書き綴っていくつもりだ。
 私のブログの原点は、誰にでも手に入る公開情報を通じて、少しでも真実に近づく事であり、そのためにはあらゆる公開情報にアンテナをめぐらし、それを自分の頭で考え、想像力を働かせて読む、そのヒントを読者と共有する事にある。
  その為には私が目にした興味ある公開情報を、一切の解説をつけずに掲載したほうがいいのかもしれない。しかしやはりどうしても解説したくなる。自分の独断と偏見をそこに投影したくなる。そして文章が長くなる。
  今日のブログは極力そのような解説を控え、記事の紹介を通じて読者の想像力に訴えようと、つとめて書いた。しかしこれが結構難しいのだ。果たして成功したかどうか。

 1.COP13 「日本の姿、見えなかった」 (12月19日朝日新聞)

 経済同友会の桜井正光代表幹事(リコー社長)が18日の記者会見で、地球温暖化防止への政府の対応に、次のように疑問を投げかけたという。政府の環境外交が、環境問題に消極的な財界人からも批判されているのだ。
 「日本の姿が見えなかった」、「数量設定などの話で日本の主張が見えなかった」と桜井は述べたという。
  姿が見えなかった理由は勿論数値目標に反対する米国と足並みを揃えたからだ。しかし12月16日の産経新聞は一面でポスト京都の国際枠組みづくりに向けて、米国が中国、インドなどの発展途上国のリーダーと協力してロードマップ(工程表)をつくる事になった、と報じている。そこには日本の名前はない。
  本来ならばこれこそが日本が率先して行うべき環境外交である。真っ先に批判さるべき米国が、同じく数値目標に反対する開発途上国の親分である中国、インドを糾合し、新たな合意づくりに貢献する役割に転じているのだ。中国もインドも米国に協力するに違いない。
  日本の姿が見えないのは、米国に追随して数値目標に反対したからではない。開発途上国との合意作りを率先して行うことなく、米国に追従するしか能のない外交に終始しているからである。その結果、米国に置いてけぼりを食わされ、日本の存在が見えないままに、それでも米国に従属していくしかない、そんな日本の姿がある。そこが問題なのである。

2.「レバノンは大シリアの一部」 (12月19日 朝日新聞)

 シリアのメクダド副外相は17日朝日新聞記者との会見で次のように語ったという。
・・・(レバノンについては)「大シリアの一部」とみなして大使館を設置していないが、「シリアに敵対しない政府」が成立すれば相互設置を認めたい・・・

  私は米国の中東政策に反対している。しかしその米国の中東政策に抵抗しているシリアが正しいとは決して思わない。シリアは巨悪米国に踊らされて来た卑劣な小悪国家である。レバノンとシリアにどのような歴史的繋がりがあるにせよ、いやしくも戦後独立国となったレバノンとシリアは、二つの独立した対等な主権国家である。それを、レバノン内戦のドサクサにまぎれてレバノンに軍事介入し、レバノン停戦の監視役と称して今日までレバノンを軍事占領してきたシリアという卑劣国家。その暴挙を黙認してきたのが米国である。シリアの暴力によってパレスチナの反米武装抵抗を抑えるのに役立ったからだ。自らの手を汚す事無くシリアに代理暴力を引き受けさせたのだ。
 9・11以降米国の中東政策は一変した。もはや中東すべてを民主国家(米国の言うなりになる従米国家)につくり変え、中東を安全な地域にするしかないと考えた米国。だから一転してシリア独裁政権を転覆しようとした。しかしイラク戦争の混迷で再び政策を転じ、シリアを許し、見せかけの中東和平の片棒を担がせようとし始めた。なんの事はない。昔の政策に戻りつつあるだけなのだ。
  メクダド副外相のインタビューの味噌は、中東和平の実現のためにシリアが米国やイスラエルとの関係改善をほのめかしている点だ。シリアは自らの生き残りのためには米国・イスラエルと手を結ぶ用意があるというメッセージを送っているのだ。
  こうして、切り捨てられるのはパレスチナ人であり、なす術のない小国レバノンである。国際政治の現実がそこにある。

3.いま亡国の永田町の各政党事情(12月19日 日刊ゲンダイ)

 これはもう解説はいらない。今の日本の政治状況を見事に言い当てている言葉である。大手新聞の政治記者はここまでは書けない。仕事に疲れて電車で帰宅するサラリーマンの憂さ晴らしタブロイド夕刊新聞、日刊ゲンダイならではの言い回しである。そしてそれはまさしく本質を突いている。
 括弧書きは私が勝手に補足した言葉である。私は日刊ゲンダイのよきお抱え記者になれるかもしれないと思う。

  「選挙に負けるのを恐れ現有勢力のまま悪政を強行する自民・公明党。参院第一党でありながら国民の期待通りには動けない民主党。弱小なくせに独善の共産党が肝心な時に自民党(を助ける役をする)。(そして)あってもなくても関係のないその他の政党。(年末の日本をおおいつくす日本の政治状況は)民主主義と程遠い現状、実情。

4.沖縄が沿岸案を飲まないなら見切り発車だ (12月19日 毎日新聞)

 守屋前防衛事務次官が小泉元首相の意向と威光をバックに米軍再編を強行した事は既に明らかになっている。それを示す小泉元首相の言葉を19日の毎日新聞「守屋天皇の時代(上)」の中に見つけた。
  普天間飛行場の名護市移設案修正協議が大詰めを迎えていた06年3月28日の夜の事だという。東京都内の日本料理店に小泉首相、額賀防衛庁長官、自民党の山崎拓前副総裁が集まり、その席に守屋次官も加わっていた。
  沖縄住民の意向を一顧だにせず、勝手にブッシュ大統領に米軍再編への協力を約束してしまった小泉対米従属首相は、「普天間移転とその他の米軍再編の協議はパッケージ(一括同時決着)だ」と米国に脅かされ、普天間移設に合意してしまった。沖縄の住民が反対するからといって、今更米国に変更を迫る訳には行かない。そういう背景の中で発せられた小泉元首相の本音の声である。
  ・・・地元の意向を受けた山崎氏が大幅修正を求めたが、小泉首相は拒否。沖合いへ移動する距離をめぐる議論で「『1メートルではどうか』と山崎さんは言ったが、小泉首相は『1センチ』だと答えたという。そう守屋次官は証言したという・・・

  「1センチなら移動するくらいは許してやろう」などという発言はふざけた発言ではないか。小泉発言はさらに続く。「守屋次官を続投させてくれ」、「(移設)工事を(早く)やれる(ようにする)事が肝心」、「環境問題はタブー。海に触るな。」

 頭は空っぽだが、世論をごまかす知恵には長けた「食わせ者」首相小泉の面目躍如の言葉の数々ではないか。沖縄住民はこの言葉を決して忘れてはならない。
 
 5.ダグラス・マッカーサーの言葉(12月19日 毎日新聞)

 ・・・私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。私の権力は至上のものであった・・・
 
  これはマッカーサーが回顧録の中で語った言葉であるという。「権力の館を歩く」という連載の中で御厨貴東大教授はこの言葉を引用し、さらに次のように語っている。
 ・・・住居としたアメリカ大使館と第一ビル(総司令部がある日比谷の執務室)の2キロを車で毎日6年間、定時に判で押したように二往復し、パーティにも出ず、日本人とも会わず・・・権力の神秘性を保とうとした・・・(そのマッカーサーに会うために)吉田茂は75回も彼の執務室を訪ねた・・・
  そんなマッカーサーを少なくとも当時の日本人は、天皇陛下から一国民までこぞって崇拝し、トルーマンに解雇されて日本を去るマッカーサーとの別れを惜しんで、羽田への沿道を埋め尽くし、涙したのだ。
  以来60余年、米国の日本占領が完成しつつあるというのに、誰も本気で異を唱える事の出来ない日本人の原型がそこにある。

 6.「沖縄のために能力を出しつくした」と真顔で語る稲嶺恵一前沖縄知事(12月17日 読売新聞)

 どういうつもりで読売新聞はこういう記事を掲載したのだろうか。12月17日の「高校グラフィティー」という記事の中で、首里高、那覇高の卒業生である高良倉吉琉球大学教授と、稲嶺恵一前沖縄知事の言葉を紹介している。

 首里高の卒業生である琉球大教授高良倉吉(60)は、95年の琉球大学の教授に就任した半年後に米兵による少女暴行事件に遭遇した。事件への怒りは胸にたぎっていたが、基地撤廃を求める抗議集会での発言には強い違和感を持ったという。そして2000年にその思いを集約した論文「沖縄イニシアティブ」を発表した。その論文は、日米同盟が果たす安全保障上の役割を評価し、米軍基地の存在意義を認め、その上で基地と住民の生活を両立させる方策を求めたものであるという。
  どうしてこのような発想が沖縄人から出てくるのであろうかと思う。この特集記事の筆者である読売新聞西部社会部の吉田尚大は、「沖縄のタブーに挑戦する論文だった」と褒めちぎっている。しかし、基地と住民の生活が両立できるはずはない。どんな理屈を並べ立てても両者は本質的に相矛盾するのだ。

 また、那覇高の卒業生である稲嶺恵一(74)前沖縄知事は二期務めた沖縄知事を述懐して、
 「沖縄のために能力を出しつくした」と言ったという。
稲嶺は本気でそう思っているのだろうか。沖縄のために8年間で何を成し遂げたというのだろうか。
98年8月に革新系の大田昌秀知事と戦う保守系候補として名前が挙がったとき、稲嶺はラオスに出張し、ゆったりと流れるメコン川を見て、「大きな流れには逆らわないで従っていこう」と決意したという。
その考えこそ、今大問題になっている普天間飛行場移設問題の元凶である。それを「最善ではないが、ベターな選択」と言い放つ稲嶺の本性をあらわす言葉である。「『沖縄のため』という責任感に支えられた8年間であった」と公言できる稲嶺の無神経さが発した言葉である。


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2007年12月19日

「検察を支配する『悪魔』」(講談社)という本を書評する

「検察を支配する『悪魔』(講談社)」という本を書評する

  いつかは書いておきたいと思っていた事がある。それは出版界における昨今の検察批判の風潮についてである。そして検察批判の象徴として「国策捜査」という言葉がもてはやされている。私はそこに出版業界の売れれば何でも良いという浅薄な商業主義を感じ取る。
  「国策捜査」とは何か。それは、国家組織を守り、時の権力に逆らう者を取り締まる、「政治的予見をともなった捜査」というほどの意味である。
  この言葉を流行らせたのは鈴木宗男事件に絡んで起訴された外務省職員の佐藤憂である。佐藤はその著作、「国家の罠」(新潮社)の中で、自らを取り調べた西村尚芳検事が口にした「君は勝てっこない。なぜならばこれは『国策捜査』なのだから」という内輪の私語を世に暴露して、自分が捕まったのは「時代のけじめ」をつける為の国策捜査だったと言い立てた。
  起訴や拘留という非日常的な状況に縁遠い善良な一般市民は、その言葉に恐れ、驚き、内部情報に聞き耳を立てる。検察の捜査は恐ろしいものであり、すべて国策捜査であるという風潮ができあがる。検察の横暴に怒る国民の心情を見事に射止めた所業である。
  確かに検察の横暴は許せない。権力に迎合した検察の官僚的姿勢は目に余るものがある。それを国策捜査と呼ぶかどうかは別にしても、検事は、他のすべての官僚と同様に、権力に顔を向け、弱者国民の利益を守ろうとする姿勢に欠ける事はあらゆる情報が教えてくれている。
しかし、検察を批判する時は、批判すべき人間が、王道から批判しなければならない。さもなければ検察を利する事になるのだ。係争中とはいえ、訴追されている当事者が、あたかも自らが「国策捜査」の犠牲者であると言わんばかりに検察を批判する。それを出版業者が持ち上げてどんどん書かせる。そんな風潮に私は不健全さを感じるのである。
  田中森一というヤメ検が古巣の検察批判を重ねている。あたかも自分の行った闇世界の弁護が、闇世界に生きるしか術のなかった弱者の立場を理解した正義であるかのように語っている。とんだ勘違いだ。闇社会に生きる者こそ善良な一般市民を食い物にする悪に違いない。
  私の手元に一冊の本がある。田原総一郎と田中森一の対談をまとめた「検察を支配する『悪魔』」」(講談社)という新刊本である。田中は既に「反転―闇社会の守護神と呼ばれて」(幻冬社)の中で、やくざや犯罪人の弁護士を買って出た理由を明らかにし、彼らの弁護を通して検察の実態を暴露している。それが20数万部売れ、今やヤメ検田中は出版界の寵児になった。その田中に飛びついた田原総一郎が出した対談本が「検察を支配する『悪魔』」なのである。
  その本の中で田中は検事を辞めた理由として、上層部からの介入により政治家の犯罪を最後まで追及できなかった無念さを書いている。その彼が、検察捜査の法技術上の越権を糾弾し、犯罪性の有無は当事者の心のあり方まで踏み込まないと正しく判断できないと主張する。
  いいだろう。それでは田中の言う闇社会の弁護は、彼らの善の部分を心から信じて弁護したというのか。検事在職中に闇の世界が動かす桁違いの金の魅力に惹かれ、その金目当てに検事を辞して、普通の弁護活動に飽き足らず最初から闇社会の弁護をするつもりではなかったのか。「貧しい環境で育ったゆえに、アウトローの世界にしか生きる事の出来ない境遇の者たちに惹かれて彼らの弁護をしたいと思った」などと書いている事が偽りのない本心であるのか。
  田中の心を誰も覗くことは出来ない。しかし許永中という稀代の悪人と誼を交わし、自らもその犯罪の謀議にかかわった疑いで起訴された田中が、まったくの冤罪であるとは私には思えない。田中が検察の国策捜査の犠牲者であると思う気にはなれない。
 検察はもちろん官僚であるがゆえの保身がある。権力者と対立できない悪がある。しかし検察の名誉のために言っておきたい。彼らは権力に弱い意気地なしではあっても、ハナから正義を否定する悪者集団ではない。国策捜査ばかりを重ねている権力の手先集団ではない。
 検事の経験を逆手にとって、検事を辞めた後はもっぱら「闇社会の守護神」として金儲けに走る、そんなヤメ検が検察批判をする事は、真の検察批判の足を引っ張るようなものだ。私が田中森一の言動に不快感を覚えるのは、そこである。
  それにもかかわらず私はこの対談本を一読することを薦める。この本に唯一価値を見出すとすれば、田中が数々の政治家の権力犯罪を、これまでに書かれることのなかった率直さで暴露している事である。暴露された政治家の多くは既に鬼籍に入っている。そのほとんどが過去の事だ。しかし田中の告発が正しいとすればこの国の大物政治家のほとんどは犯罪人であったということだ。犯罪人であったにもかかわらず検察がそれを見逃した事だ。ここに検察の真の不正義がある。検察が批判さるべきはまさにその一点である。
  それを教えてくれただけでもこの本の価値はある。1600円を払って買い求める価値はある。そういう本である。

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2007年12月18日

広河隆一の記録映画「パレスチナ1948 NAKBA(ナクバ)」が完成した!

広河隆一の記録映画「パレスチナ1948 NAKBA(ナクバ)」が完成した!

 一枚の郵便が私の手元に届いた。フォトジャーナリスト広河隆一製作・監督の記録映画「パレスチナ1948 NAKBA(ナクバ)」が完成した事を知らせる手紙である。心から祝福したい。
 私は1月20日のこのブログでこの映画の事を書いた。そのブログの中で私はフォトジャーナリスト広河隆一の人生を捧げてつくろうとしている一つの記録映画が、ひょっとすると世界を揺るがす事になるかもしれないという予感を書いた。その予感はこの映画が無事に完成したことによって、今現実のものになろうとしている。
 私が外務官僚になって良かったと思う事を一つだけあげろと言われたら、私は間違いなくレバノンという国に駐在し、パレスチナ問題を知った事であると答えるであろう。いや、知らなければ良かったのかも知れない。知らなければ私は外務省を辞める事もなかっただろう。外交官生活を全うして楽な人生を終えたに違いない。人の痛みに思いを寄せる事もなく、自分の幸せだけを考えて人生を終える事になっていただろう。
  しかし私は知ってしまった。知る事によって、パレスチナ人の悲しみ、苦悶を知り、それに共感するアラブの民の心情に触れた。なによりも国際政治の欺瞞とこの世の不条理に憤る事になった。そして官僚を離れて一人になった私は、この世の中には、他人の苦しみを自分のことのように共有し、その苦しみを分かち合い、少しでも助けになりたいと思う、多くの善良な人達がいる事を知った。広河隆一さんとその広河さんを助けてこの映画を完成させた、見知らぬ多くの人達もそういう人達である。
  今日の国際政治の最大の矛盾がこの映画に凝縮されている。強者の横暴も、弱者の救いのない悲しみも、隠された真実も、イスラエルと言う国家の欺瞞も、そして何よりも米国のイラク攻撃の真の理由も、すべてはこの映画に凝縮されているのだ。
  「たった一枚の写真が世界を変えることもある」と信じて写真月刊誌「DAYS JAPAN」を刊行し続けている広河隆一氏が、「たった一本の映画が世界を変えることもある」と、今ライフワークの映画を完成させたのだ。
  来年3月東京渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに全国で上映されるという。一人でも多くの日本人に見てもらいたいと思ってこのブログで紹介させてもらった。
    関心のある読者の為に問い合わせ先は以下の通りである。

  『1コマ』サポーター事務局   山田雅子
  TEL/FAX  045-894-0763
  E-mail YIU27625@nifty.com

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2007年12月18日

井原勝介岩国市長を応援する

井原勝介岩国市長を応援する

  米軍の空母艦載機部隊の岩国移転に反対し補助金交付を打ち切られた岩国市。その不当さと闘っている井原勝介岩国市長を応援するシンポジウムが16日に岩国市で行われた。パネリストの一人として招待された私は、新幹線を乗り継いで栃木県の那須塩原市から山口県の岩国市まで駆けつけた。井原市長に会って一言激励したかったのだ。岩国市民に私のメッセージを届けたかったのだ。その思いで駆けつけた。

私が送ったメッセージの趣旨は次のとおりである。掛け値なしの私の本心である。

  「人と協力する事の出来ない人間、いつまでたっても官僚から抜け切れない人間であると、私はよく批判される。そんな私が、わざわざ栃木県から岩国市まで駆けつけてきた。その理由はただ一つ、今日ここに集まった皆さんと共に、井原市長を応援したかったからである。
  元キャリア官僚の井原市長が、国の不合理な暴政と闘っている事に私は心から共感する。感動すら覚える。私も元官僚である。国を相手に闘う事のつらさ、厳しさを誰よりも知っているからだ。
  井原市長の主張には一点の誤りも無い。言う事を聞かないからといって理不尽な補助金カットを行おうとしている国の政策は、どう考えても間違いだ。住民から選ばれた市長が、「苦しめられてきた住民にこれ以上の更なる犠牲を求める訳にはいかない」と国に申し立てを行う事のどこが間違っているというのか。話し合いを拒否しているのは政府や外務省の方なのである。
 私ができる事は、国際政治という観点から井原市長を応援することである。国際政治の観点から見た政府の誤りを指摘し、皆さんに目覚めてもらう事である。   
  今日は特に二つの点を強調したい。
  一つは、在日米軍のために我々が犠牲を払う必要性はもはやなくなりつつあるという事実である。皆さんの中には、米軍が日本を守ってくれる以上、我々も少々の犠牲は甘受しなければならないと思っている人がいるかもしれない。この認識こそ大きな間違いなのである。政府・外務省の嘘に騙されているのである。
   1951年に日米安保条約が締結されて以来、日米安保体制は今日まで日本の国是になってきた。その安保体制とは、極東におけるソ連共産主義の脅威から守ってもらう代わりに日本全土に米軍基地を受け入れると言うものである。終戦直後の判断としては、それは正しかったかもしれない。しかし国際情勢は変化する。 
   この日米安保体制は、冷戦が終わった時点で大きな転換期を迎えた。ソ連共産主義の日本に対する脅威はなくなったのだ。
   そして9・11が在日米軍の役割を決定的に変えてしまった。9・11を契機に米国は「テロ」を唯一・最強の脅威と公言して世界の米軍を再編するようになった。もはや在日米軍基地は日本を守るためではない。米国の「テロとの戦い」の展開基地となるのだ。この事は米国自身も公言している。政府・外務省はその事を一言も国民に説明することなく、受け入れるしかないの一点張りである。私たちはその不誠実さに気づかなければならない。
   米軍再編に協力するよう求められた外務省は、その内容を知って腰を抜かさんばかりに驚いたという。それは、安保条約を超え、憲法9条を否定するものであったからだ。とても呑める代物ではない。しかし米国の要求は断れない。
   本来ならばここで安保条約を作り直し、憲法9条改憲を行わなければならなかった。しかし国民の反対を恐れる外務省にはとてもそんな事はできない。そこで外務官僚が考え出した浅智恵は、「米軍再編への協力は憲法9条や安保条約とは関係のない事である、世界に影響力を有する日米両国が、世界の平和のために軍事協力を進める事は当然だ」と強弁し、政府だけで決定できる共同発表という紙切れだけで対米軍事協力を約束してしまったのだ。その名も「日米同盟:未来のための変革・再編」と呼称する紙切れである。
   とんでもない超法規的措置である。こんな一方的な政府・官僚のごまかしのために、これ以上日本国民が犠牲を強いられる理由はまったくないのである。
   もう一つは、政府が進めている国民分断政策の卑劣さである。米軍再編に従う自治体には無駄金さえもばら撒く一方で、岩国市のように住民の反対の声を伝えようとする自治体には必要な金さえもビタ一文出さない、この日本政府のやり方は、私に米国のパレスチナ政策を思い起こさせる。
   イスラエルの不当な弾圧政策に抵抗するパレスチナ人を、米国は親米従属派と抵抗派に分断し、一方には金や武器を与え、他方には金も食料も医療品までも拒否する。かくて親米派と抵抗派が分裂し、殺しあう。やがて抵抗派の内部でも、これ以上抵抗すると生きて行けないからあきらめよう思い始めるグループと、最後のひとりになっても闘うという強硬グループに分断され、内部対立に引き裂かれる。こんな悲しいことは無い。岩国市民は決して分断されては行けない。今こそ結束しなければならないのだ。我々はオリーブと塩だけでも生きていく事が出来ると叫ぶパレスチナ人の心意気を私は今思い出している・・・」

  集会を終え、帰路につく私を岩国駅まで私を見送ってくれた井原市長に、私は車の中で「国家権力のする事だから、最後は艦載機部隊の移転を強行して来るでしょうね」とあきらめ顔でつぶやいた。その私のつぶやきに答えた井原市長の次の言葉は衝撃的であった。
  「いや、そうならないかもしれません。米国にとって艦載機部隊の岩国移転はそれほど重要な事ではないと聞いています。その移転のために住民の反対を招くような補助金交付の打ち切りというやりかたを、米国はむしろ不快に思っているのではないでしょうか。もっとうまくやれないのかと。岩国住民の反対が続けば、日本政府よりもむしろ米国のほうが移転しなくてもいいと言い出すかもしれません。少なくとも移転の一時凍結は出来るかもしれません・・・」

 この井原市長の発言に私は目からうろこが落ちる思いがした。米国の方ばかりを向いて政策を進める日本政府は、その米国の考えさえも十分に理解しないまま、国民に不必要な犠牲を強いているのだ。それほど稚拙な政策が行われてきたのだ。
 政府や外務省が唱える日米同盟至上主義は、米国の政策の転換ではしごを外される日がやがて来るに違いない、そういう思いで私は岩国を離れたのであった。井原市長ら岩国市民の闘いはこれからが正念場である。米軍基地を抱える住民たちはもとより、全国のすべての国民が注目していかなければならない闘いである。

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2007年12月16日

「反米大陸」という集英社新書に学ぶ

 「反米大陸」という集英社新書に学ぶ

  本屋で伊藤千尋の集英社新書「反米大陸」を見つけ、読んだ。おもしろかった。勉強になった。「中南米の歴史は、アメリカによる侵略と支配の歴史だ」という文章から始まるこの本に米国の正体を見つけた。ノーム・チョムスキーが米国の外交を批判する時、米国の対中南米政策を真っ先に引用する、その理由がここにある。
  いまや完成されようとしている米国の対日占領政策。そんな日本に住む我々は、反米派であれ、親米派であれ、また対米従属派であれ、この本を虚心坦懐に読むべきだ。その上であらためて日米関係の将来に思いを馳せるべきだ。それでも米国に従うしかない、と言い張る者は、一人になった時自分の胸に手を当てて自分の心に問うがよい。それは本心か。保身のために自らを偽っているのではないか。南米の市民の反骨魂を前にして恥ずかしくないかと。
 この本は何を教えてくれるのか。
 それは、9・11をきっかけに、国際法も国連も踏みにじり、ありとあらゆる暴虐を尽くすようになった米国が、実はとっくの昔から南米でそれを行っていたという事である。
 それは、暗殺、拷問、政府転覆を現地人に教える「米軍アメリカ学校」をつくる米国のおぞましさである。南米の軍人を米国の手下として教育するため米陸軍は1946年、パナマに「米軍アメリカ学校」をつくった。「米軍クーデター学校」、「米軍虐殺学校」、「米軍独裁者学校」などとあだ名された学校の科目は、反政府派市民の弾圧、拷問の方法、クーデターの起こし方、諜報機関の作り方などであるという。この学校の卒業生たちがそれぞれの国に帰ってクーデターを起こし、米国の傀儡軍事独裁政権を樹立するのである。そんな学校が今でも場所を米国本土に移して存在しているのである。
 そして、なによりも、米国の傀儡政権に抑圧され、その対米従属政策の犠牲になってきた南米の国民たちが、米国の新自由主義の犠牲になって生活を破壊された今、立ち上がった事である。その波が怒涛のように南米大陸を駆け巡ったのである。

 著者伊藤千尋の次の言葉がいい。

  「・・・南米に反米政権が次々に生まれたとはいえ、反米の流れがそのまま定着するとは思えない。やがて揺り戻しがあるだろう。アメリカの政治、経済の力は、貧しい南米の国が太刀打ちするには、あまりにも巨大だ。だが、正統な選挙によって自分たちの政府を作り上げ、自立を目指す南米の人々の力を侮るべきではない・・・過去、南米諸国はお互いに反目し合い、そこを利用されてアメリカに一本釣りされたが、今は結束するようになった。経済が理由で反米になったがゆえに、経済で結束したのだ・・・歴史は進んだのだ」

  「・・・アメリカと手を切れというのではない。アメリカとはこれまでどおり、仲良くすればいい。だが、外交の手はアメリカ(とだけ組んでいれば良いのではない)」

 そして伊藤はこの本を次の言葉で締めくくっている。

 「・・・アメリカにただ従うだけなら、日本は生き残るどころか、アメリカの餌食になる、それは中南米の歴史が示している・・・その中南米が、いまや結束し、対米自立への道を歩み始めた・・・自立する中南米から学ぶべきは市民の力である。政府を変えたのは市民の力である。格差を広げ、弱肉強食の社会をつくろうとする政府に対して、市民が反対の意思を、投票やデモの形で明確に表明した。中南米の人々の強さは、逆境にめげずに自分たちの夢を持ち続け、それを社会に反映させようとする力だ。アメリカでさえ、市民の力がブッシュ政権の暴走を食い止め、中間選挙での共和党の敗北をもたらした。アメリカと中南米の歴史から私たちが学ぶべきものは、すこぶる今日的な課題なのだ・・・」

 読者はここに来て気づく。伊藤千尋の「反米大陸」という本は、南米の歴史を語りながら、日本人に突きつけた、「政権交代の書」、いや「自立した人民革命政権」樹立の勧めに他ならない。

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2007年12月15日

現代の「戦争」はもはやかつての「戦争」ではない

現代の「戦争」はもはやかつての「戦争」ではない

 12月15日の朝日新聞「異見新言」において「中世化する戦争」と題して明治大学の佐原徹哉準教授(バルカン近現代史)が書いていた。現代の安全保障論議を行うときは、戦争の基本的性格が中世的世界へ逆戻りしつつある現実を押さえる必要があると。
 その論旨を一言で要約するとこうだ。

  「・・・そもそも、近代とは、(中世における)封建領主などの交戦権を持った自治集団が解体され、国家が暴力を独占する事に一つの特徴がある。国家は暴力を統制して、内には警察、外には正規軍として(暴力を)再編し、交戦権を独占した。その結果、戦争は主権国家間の武力行使に限定され、無法状態が抑止されることになった。ジュネーブ条約のような戦争のルールづくりも行われ、非戦闘員の保護・大量殺害兵器の禁止などの歯止めがかけられた。第二次大戦後は更に、戦争を国連の枠組みに封じ込めて一層の歯止めとする流れとなっていた・・・
  しかし冷戦後は(圧倒的に軍事大国となった米国が)国連の枠組みを崩した。湾岸戦争での「有志連合」を嚆矢に、国連の外で自由に戦争が出来る既成事実を積み上げ、正規の手続きを経ない戦争を行えるメカニズムを作ろうとした。「懲罰」という表現が用いられるようになった。その典型がテロとの戦いである。
  米国の新たな戦争政策は、正規軍と非合法武装集団の境をあいまい化させ、(米国軍の代理である)義勇部隊や軍隊民営化(戦争の下請け化)がエスカレートされるまでになっている・・・こうした動きが現代の戦争をますます悲惨なものに変え、民族浄化などという残虐行為につながってくる・・・戦争はもはや国同士ではなく、国家対民兵、あるいは民兵同士の戦いに変わっている・・・
  現代の戦争は、大国によるルール違反を契機に様々な武装集団が出現し、グローバル化の圧力で動揺する社会の亀裂からあふれだした矛盾を吸い上げながら拡大の一途を辿っている・・・」

  佐原準教授のこの現代戦争論を一面的だと退けてはいけない。はや世界中の主権国家が束になってかかってきても負けない程の超軍事国家となった米国に正面から戦いを挑む主権国家は今では存在しない世の中になった。この事に異論を唱えるものはいないはずだ。
  しかしその米国が、「テロ」を唯一、最大の脅威と位置づけ、「テロとの戦い」を、非対称の戦いであり、終わりのない戦いであると世界に公言して戦争を続けているのである。「戦争」はもはやかつての「戦争」ではないのだ。現代の「戦争」を根本的に考え直す必要があるのだ。
  このような現実の中にあって、いまだに旧態以前とした冷戦下でのパワーポリテックスの考えに胡坐をかいて安全保障論を繰り返す「干物」学者や有識者、そしてその議論を鵜呑みにして日米同盟絶対視の考えから一歩も抜け出せない日本政府や外務官僚の考え方はもはや時代遅れなのだ。
  安全保障論を担うこれからの政治家や官僚、学者は、今目の前に繰り広げられている米国とイスラエルのパレスチナ弾圧政策と、それに最後まで抵抗するハマスやそれを支持するアラブ諸国の国民の心情を正しく理解する事が必須である。同時にまたこれからの「戦争」をたしなめ、その「戦争」から国を守る最善の安全保障政策こそ憲法9条である事に気づくはずである。

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2007年12月14日

読売新聞の日米共同世論調査を読み解く

 読売新聞の日米共同世論調査を読み解く

 12月14日の読売新聞は米ギャラップ社と読売新聞社が共同で行った日米世論調査(11月中旬実施)の結果を大きく報じていた。それを報じる読売一面トップの見出しは、「日米関係の評価悪化 両国ともに2000年以来最低」というものであり、その理由として、米国の対北朝鮮政策の変更が日本世論の対米評価を低くし、海自の給油活動停止が米国世論の対日評価を低くしたようだ、などと書いている。
 しかし世論調査の内容を詳しく見てみると日米両国民の意識は根本的なところで大きく食い違っている事がわかる。
 たとえば「信用している組織や公共機関」では、日本国民では「新聞」の61%がトップであり、以下「病院」(54%)、「裁判所」(53%)であるのに対し、米国民では「軍隊」が78%と8年連続でトップであるという。そして「教会」が75%と続く。つまり米国民は圧倒的に軍事優先の国民であり宗教色の強い国民であるということだ。日本人とは違う。
 そして両国民の最も顕著な違いは、どの国に軍事的脅威を最も感じるかというところに現れている。すなわち米国民は中東(76%)に脅威を圧倒的に感じており、その後に北朝鮮(65%)、中国(57%)、ロシア(45%)と続く。他方日本国民は、北朝鮮(74%)に圧倒的な脅威を感じ、その後に中国(63%)と続く。中東の脅威に至ってはわずか34%である。
 因みに海上自衛隊による給油活動に対する米国民の反応は賛成17・7%、どちらかといえば賛成35.4%と合わせて53.1%である。この数字を読売新聞は「米国では海自の補給活動は一定の評価を得ているようだ」と強引に肯定的に書いている。しかし給油をただで協力してもらっている米国民のわずか17.7%が賛成しているだけである。「どちらかといえば」の35.4%とあわせてやっと過半数を超える程度である。安倍、福田両政権が、「中断すれば日米関係に深刻な影響をもたらす。何があっても継続しなければならない」と危機意識を持って騒ぐほどに米国民は関心はないのだ。
 圧倒的に多くの米国民が軍隊に信頼を寄せ、その軍隊が戦う最大の脅威を中東に感じる国、米国。その米国を「最も価値観を共有する国」、であり、だからこそ「日米軍事同盟は日本外交の最優先政策である」と言い続ける日本政府や官僚は、繰り返し何度も言わせてもらうが、実は実態を見ない思い込みの対米従属外交を続けているのである。その事をあらためて教えてくれる日米共同世論調査である。

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2007年12月14日

政治家は国民をなめきっていると思う

 政治家は国民をなめきっていると思う

 国会が再延長された。しかも一ヶ月もの長さだ。なぜだ。これまでにまともな審議をした日がどれほどあったというのか。
 再延長は新テロ法を衆院三分の二で再可決する為だという。その為の日数稼ぎだという。
 そういう事なのだ。延長したからといってほとんど審議は行われないに違いない。うそだと思うならこれからの国会審議を注視するがいい。やれ審議拒否、やれ問責決議、やれ解散・総選挙などと、政争に明け暮れ、国会は与野党の駆け引きの場に終始するに違いない。何が十年年ぶりの越年国会だ、何が正月を返上しての緊迫国会だ。見ているがいい。予算編成が終われば国会は休会だ。お屠蘇気分だ。
 国民をなめていると思わないか。国民の悲鳴をそっちのけで政権取りの政治に目の色を変える。どの政党が政権をとったところで、どんな政党が合従連衡してみたところで、年金問題は解決できない。米国の命ずる戦争から日本を解放することは出来ない。値上げ一つ防ぐ事が出来ない。そんな政治家たちの政治ごっこに一日に1億円もの税金が無駄遣いされるのだ。
 12月14日の読売新聞の次の二つの記事がこの正体を見事に物語っていた。
 一つは、自公両党は、13日の参院外交防衛委員会理事会で、新テロ法案について、もう「十二分に質疑した」として14日に採決を提案した、という記事だ。これを野党が拒否した。それを受けて自民党の脇雅史という国対副委員長が13日の記者会見で、「今後は与党側は質問しない」、「新しい質問はもうない」と言い放ったというのだ。それなら何故国会を延長するのだ。質問時間はすべて野党にゆずるのか。日ごろ質問時間の短さに悩まされて十分に追及できない共産党や社民党に自公は質問時間を譲るのか。それなら話はわかる。しかしそれもしないで国会を延長するのであれば延長は無駄であるということだ。野党も野党である。国会延長を批判するくらいなら、さっさと法案を拒否し、自民党にはやく再議決をさせるべきだ。どうせ審議しても福田政権がまともな答弁をするはずはない。野党に福田政権を追い詰める鋭い質問はできない。そんな事はこれまでの審議で嫌と言うほどわかっているはずだ。はやく再議決させて問責決議を行い、解散・総選挙に追い込めばいいのだ。国会延長などまったく不要なのだ。
 もう一つの記事は、13日に行われた参院外交防衛委員会の防衛問題集中審議での自民党議員の質問についての記事である。椎名一保という自民党議員が持ち時間45分のうち33分を使って額賀財務相の宴席問題に対する民主党の主張にいちいち反論したという。「名誉にかかわる問題なので、時系列に沿って事実を解明したい」として民主党の薄弱な根拠を厳しく批判したという。その上、自らの質問時間を使って額賀大臣に釈明の機会を与え、額賀大臣に、「合理的根拠がなかったと国民も受け止めている」と答弁させているのだ。そしてその質疑をテレビに中継させ、「額賀さんの名誉回復に役立った」とほくそえんでいるのだ。これは国会審議の目的外使用であり、流用・横領ではないのか。こんな質問を許すほど民主党は甘いのだ。隙があるのだ。しまりがないのだ。
 この国の政治家は与党も野党も国民を舐めきっている。国民は一日も早い総選挙を迫ってろくでもない政治家を根こそぎ落選させるぞ、と脅かさなければならない。主役は国民である事を今こそ思い知らせなければならない。

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2007年12月13日

ポル・ポト虐殺政権を支持した米国

ポル・ポト虐殺政権を支持した米国

 13日の産経新聞に在バンコクの鈴木真というジャーナリストの超一級の記事を見つけた。こういう記事を見つけると私は宝物を見つけたような気になる。200万人ものカンボジア国民を大虐殺したポル・ポト政権を米国のキッシンジャーがベトナムに対抗するために利用したという史実を暴いているのだ。キッシンジャーはポル・ポト政権の残虐行為を知りながら、ポル・ポト政権を容認したのである。
 機密指定を最近解かれた米国の外交文書の中に米国とタイの外相会談の議事録がある。会談は1975年11月26日、ワシントンで行われた。ポル・ポト政権の誕生から約7ヶ月半後である。当時国務長官であったキッシンジャーはタイのチャチャイ外相(後の首相)と昼食をとりながら冗談をまじえて和気藹々の雰囲気で話したという。キッシンジャーはバンコクの駐タイ米大使の公邸が気に入ったと語り、「この仕事を辞めたらタイに行こうか」と軽口をたたいた。「(自分は英語にもなまりがあるくらいだから)なまりのあるタイ語を話す」などと出身国ドイツなまりの英語を話す自分をチャチャイ外相の前で茶化して見せたという。
 そしてベトナム戦争に話が及ぶ。当時はベトナム戦争とカンボジア内戦の終結直後とあって、話題はインドシナ情勢に集中した。米国に敗戦の煮え湯を飲ませた北ベトナムをキッシンジャーはこき下ろした。
 「北ベトナムは世界で一番たちが悪い。北朝鮮やアルバニアも相当厄介だ。だが最悪なのは北ベトナムだ・・・」
 そしてキッシンジャーはソ連の後押しを受けたベトナムが東南アジアの最大の脅威だとして、その進出を阻止するためにはカンボジアの後ろ盾である中国と手を結び、カンボジアをベトナムの攻勢からの盾として使う戦略をチャチャイ外相に説く。そこで出たのが次のような発言である。
 「・・・カンボジアに伝えて欲しい。我々は連中の味方になるだろうと。連中は人殺しの悪党だ。だが、それは障害にはならない。我々は連中との関係を改善しようと思う」
  このキッシンジャーの言葉をジャーナリスト鈴木真はこう述べてその記事を締めくくっている。
 「・・・米国が掲げる人権や自由と、国際政治の力学のどちらが、米国にとってより重いのか。その格好の例証がカンボジアである・・・」
 格好の例証はカンボジアだけではない。アラブの反米・反イスラエルのテロを押さえつけるために独裁国家シリアを利用する。イランを掣肘するためにイラクの独裁者サダム・フセインを利用する。ソ連のアフガン侵攻を防ぐためにはオサマ・ビン・ラデンを支援して戦わせる。役目が終わったら一転して切り捨てる。これが米国の外交である。
 キッシンジャーは米国に先んじて中国との国交正常化を果たした田中角栄を「ジャップ野郎」と罵っていた事も、既に別の秘密資料の公開で明らかになっている。キッシンジャーだけではない。ベーカーもクリントンもブッシュもライスもラムズフェルドも、日本の事を影で何と言っているか、我々は知っておかなければならない。
  それを知ってか知らずか、日本政府や官僚は、「日米同盟はすべてだ」とい続けて米国に従属する外交を進めてきた。さぞかし米国は笑っているだろう。あきれているだろう。そして勿論馬鹿にしているのだ。
 日本政府や官僚たちは一体何だろうか。米国に雇われた代理人か。明らかにそういう売国奴はいる。しかし大半の者は極めて単純だ。米国という国をまったく理解していないのだ。国際政治の現実を見つめられないのだ。驚くべき無能者、お人よしに違いない。

 

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2007年12月12日

日本経団連の政治献金は贈収賄にあたらないのか

日本経団連の政治献金は贈収賄にあたらないのか

 企業献金が当然のように語られてきた。しかし税制優遇にせよ、残業代ゼロ法案にせよ、企業に有利な政策を政府に求める事との見返りに政府・与党に政治献金する事は、利益誘導にあたらないのか、贈収賄とどこがちがうのか。
 かねてから疑問を抱いていたが、12月11日、12日の朝日新聞の連載「揺れる日本経団連」を読んで、あらためてその思いを強くした。
 経団連は毎年政党の「通信簿」を作って公表している。政党の政策課題をA-Eの5段階で評価し、高い評価の政党に多くの献金を公然と行ってきた。そしてその結果今日まで献金のほとんどが自民党に渡ってきた。
 ところが7月の参院選挙の結果、民主党への政権交代の可能性が囁かれるようになった。その結果、日本経団連が揺れ始めたという。自民党が慌て出したという。そして今でも日本経団連からの政策評価が低い民主党が、経団連に言い寄っているという。
 福田内閣の発足から間もない10月初旬に開かれた自民党と日本経団連の首脳懇談会でこんなやりとりが交わされたという。
 「民主党の政策でも、良いものは評価を上げることもありうる」
 「我々が結党以来の(最も)困っているときに、なぜそんな事をいうのか・・・民主党の政策は(資金計画の裏づけのない)約束手形みたいなもの。政策評価は、そうした面を含め、しっかり比べて欲しい」
 その一方で日本経団連が11月に公表した政策評価では、例年通り民主党の政策にはA評価はゼロ。それどころか6項目で評価を下げ、事実上の最低評価となるD評価が増えている。一方自民党の政策は例年通りA評価が9個ある。
 民主党のある幹部は「私たちもまじめに政策を作っている。正直、こんなに低いものかという思いはある」と不平をもらし、またある議員は「政策を金で売るつもりはない」と反発する。
 数ある政策の中で税制は経団連にとって最大の関心事である。消費税の引き上げや法人税の引き下げを柱に、数々の租税特別措置を求めている。租税特別措置とは、特定の政策を後押しする目的で、本来払うべき税金を軽減したりする「隠れ補助金」である。
 昨年度は残業手当を廃止するホワイトカラーエグゼンプションの導入を目指して経団連は自民党に働きかけたが、世論に押された野党、労組の反対にあって、自民党はこれを見送った。
 自民党も民主党も企業献金は欲しい。だからといって経団連の要求を呑んでしまっていいのか。経団連という利益集団に配慮していいのか。
 民主党は違法な労働形態である「偽装請負問題」に絡んで、キャノン会長でもある御手洗経団連会長の参考人招致を要求する構えを見せたが実現はしていない。おりしもキャノン大分工場受注をめぐって鹿島建設の所得隠しが発覚し、その一部が使途不明金として御手洗経団連会長や元通産省次官の広瀬大分県知事の知人に渡っていたという疑惑が報道された。これが真実であれば大スキャンダルである。しかしこの疑惑は押さえこまれつつある。騒ぎは広がらない。民主党も追及する姿勢は見られない。
  金で政策に手心を加える、これを利益誘導と呼ぶのではなかったか。

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2007年12月11日

これを読んで憤りを覚えない国民が一人でもいるだろうか

これを読んで憤りを覚えない国民が一人でもいるだろうか

 以下は月刊文芸春秋の特集記事である「暴走官僚」からの抜粋である。これを読んで憤りを覚えない国民がいるだろうか。

  2008年度からスタートする「特定健康診査・特定保険指導」について、果たして何人の国民が知っているか。「メタボ退治」と称してウエスト、血圧、中性脂肪値、空腹時血糖値などの基準を定め、適正値を達成できない人には「自己責任」として最大10%の医療費アップを官僚はまじめに検討中であるという。指導の理由は「メタボだと早死にするから」だという。冗談じゃない。早死にしようが遅死にしようがこっちの勝手だ。死ぬ時期まで国に「指導」されてたまるか。

 2009年度までに始まる裁判所制度。法律をよく読んでみて仰天した。裁判所がくじ引きで選んだ一般人は、通告を受けたら原則として拒否できない。それはもう第二の徴兵制である。いやそれ以上だ。裁判官に選ばれたら、評議上知りえた秘密を漏らしたら罰せられるのだ。
 75%もの国民が「参加したくない」と答えているにもかかわらず、強硬に導入する政府を許していいのか。もともとは民事裁判の迅速化が期待されていた裁判員制度にもかかわらず、いつしか刑事裁判に国民が参加させられる事になった。裁かれた者の恨みを買って殺されるという事態が起こらない保障はない。誰が身の安全を守ってくれるというのか。

 筆者は国の特別会計・雇用保険料で運営される厚生労働省の独立行政機関に勤めていた。ある期間そこの経理課に勤めていた。そこで見たものは湯水のような公金浪費の毎日であった。ある日経理課のパソコンと銀行のパソコンを電話回線でつなぐ事になった。契約しているAシステム管理会社に相談すると4000万円かかるという。いくらなんでも高すぎると思って別のシステム会社を呼んで相談したら市販の39800円のソフトを買うだけでいいと言われた。それを課長に言うと、「でも、A社に頼まないわけにはいかないでしょう」と言う。A社は元大蔵事務次官で当時衆議院議員であった者が理事長を勤める会社であるからだ。
 年度末は予算消化が仕事だ。経理課長は全職員に通達を出した。「必ず予算を使い切ってください。決められた予算どおりでなくても、言い訳ができるなら目的外使用でも構いません」。私は部長から「お母さんと旅行でも行ってきなさい」と言われて現金を渡された。それで本当に母と温泉旅行してきた。これは私の職場だけの事ではない。どこの省庁も同じである。

 何故年金官僚たちの責任が問われないのか。5000万件の年金記録消失が問題になったのは今年始めである。安倍首相(当時)は最後の一人までチェックして正しい年金をきちんとお支払いします」と公言した。しかしそれが不可能であることが今になって明らかになった。しかし厚生労働省の官僚は最初からそれが不可能である事を知っていた。知っていながら安倍総理に嘘を言わせたのだ。07年7月25日、新しく作られた第三者機関の年金記録問題検査委員会(座長松尾邦弘元検事総長)が第一回目のヒヤリングをした。その時、社会保険庁の青柳親房運営部長が口を尾滑らせた。「私どもはその5000万件というつかまえようもない記録をいくらいじっても意味はないともともと思っていました」と安倍総理の指示が無意味だから、何もせずに放置してきたことを認めたのだ。要するに年金官僚たちは、年金制度にとって最も重要な記録のところで、もはや手のほどこしようのない欠陥がある事を早くから認識しながら、何も手を打ってこなかった。そして「面倒な記録にあくせくしなくても、年金の受給手続きに来た人に、自身の加入期間を証明させればいい、証明できなければ社会保険庁の記録が正しいと押し切れる。年金を受給したい人は、多少受け取り額が少なくても、背に腹は代えられないとの思いから、提示された年金額を了承するものなんです・・・」

 昨年6月に成立した「医療制度改革関連法」に基づき、20数年ぶりとなる医療大改革」が始まっている。その一つが現在35万床ある「療養病床」を2011年度末までに6割程度削減し、患者を自宅や介護施設などに移す政策だ。そのあおりを受けて、行き場のない「介護難民」が4万人近くうまれるという。認知症の母と二人で住む老齢の男性は言う。「昨夜も、興奮して眠れない母の腕をさすりながら、『大丈夫だよ』と言い聞かせているうちに空が白み始めた。こちらが疲れ果てた頃、ようやく寝入った母の横顔を見つめていると、つい思い浮かんだ。『このまま目を覚まさなければ・・・』と。」

 以上はほんの一例だ。これを読んで我々は背筋を凍らせる事であろう。日本は崩壊しつつある。誰も止められない。誰も解決策を見出すことが出来ない。何とかしなければならないと皆が感じていても、何も出来ないまま時間が過ぎていく。事態はもっと深刻になっていく。

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2007年12月11日

国民が求めているのは真剣で本物の外交である

国民が求めているのは真剣で本物の外交である

 「国民に知恵がついてきたから仕事がやりにくくなった」
 これは後に外務次官まで上り詰めた外務官僚が部下を前にして語った言葉である。10年ほど前の事である。
  この外務官僚の期待に反し、世の中は外交に関する報道が格段に詳しくなった。それに伴って国民が外交に関心を持つようになった。誰もが外交について意見を持つようになった。その結果外務官僚が独占していた外交の粗末さが国民の知るところとなった。
  もはや外務官僚はごまかすわけにはいかない。嘘をついても必ずばれる。外務官僚は真剣な外交を国民の前で行わなければならないのだ。果たして外務省にその能力があるのか。外務省、外務官僚の外交能力が、今まさに問われているのだ。いつまで経っても行き詰まった外交から脱しきれないでいる。ひょっとしたら外務省には激動する国際情勢に対応できる外交能力がないのではないか。冒頭の外務次官の言葉は外務省の能力のなさが国民にばれる事への深刻な怯えではなかったのか。
 どうやらブッシュ政権は中東政策を転換させたようだ。「テロとの戦い」を勇ましく戦っては見たがうまく行かない。もはや時間は限られてきた。このまま強硬路線を貫くよりは、フィニッシュを飾る事に専念し始めたようだ。効果がないとわかっていながら中東和平の国際会議を開催し、和平に熱心なブッシュ政権を演出しようとした。米国情報機関が突如としてイランの核疑惑を否定する発表をした。イラク攻撃は行わない、行う余力はない、というメッセージなのだ。「親愛なる委員長殿」という呼びかけでブッシュ大統領は金正日総書記に親書を発した。非核化に向けてなんとか協力してくれ、協力する振りをしてくれ、少々の事には目を瞑るから世界に向けて米国に協力したと言ってくれ、そういうメッセージなのである。
  米国の同胞である英国はさすがにそのようなブッシュ政権の変化に気づいている。11日の朝日新聞は小さな記事ながら重要な報道を流していた。ブラウン英国首相は9日、イラク南部バスラ州の治安維持の権限を2週間以内にイラク側に渡すと発表した。その英国は来春から英軍を4500人から2500人に削減する事を10月に発表したばかりだ。
  ブッシュ政権はもはやテロとの短兵急な正面戦争がうまく行かない事を悟って、長期戦に切り替えようとしている。米国の同盟国もその事に気づき始めた。イラクから手を引き始めた。米国もそれを認めざるを得ないのだ。
  そんな中でただ一人、給油活動の継続こそ日本の国益だ、日本外交の最重要課題だ、といい続けているのが福田首相だ。福田首相にそれを言わせているのが外務省、外務官僚である。ブッシュ政権の本心をつかめないままに、米国に協力することが国益だと一人相撲をしているのだ。
  国民よ、目覚めよ。この国の総理大臣や外務官僚はこの程度の仕事しか出来ないのだ。自らの頭で考えよ。政府に情報公開を求めよ。政府の嘘を見抜け。そうすればおのずからわかる。「テロ特措法」延長問題をめぐるこの国の政治の大騒動が、いかに馬鹿げたことであるか、ピントはずれであるかを。
  この茶番劇は年末を控えてクライマックスになる。面白い事が何もない今年の年末だ。国民はこの顛末を興味深く注視すればいい。この上ない外交の勉強になる。外務省は正しい外交の反面教師である。

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2007年12月11日

薬害肝炎被害者の直訴を傍観するこの国の政治家たち

 薬害肝炎被害者の直訴を傍観するこの国の政治家たち

   政治家の使命とは一体なんだろうか考えさせられる光景である。
   薬害肝炎被害者たちが誠意ある救済を求めて福田総理に直訴した。これほどまでに行政の罪が明らかになっているというのに、官僚主導のこの国の行政は国民の願いにまともに向かい合っていない。もはや政治的決断しかない。そう決意して被害者たち自らが立ち上がったのだ。被害者全員の一律救済を実現するのは国の当然の義務である。誰もそれを行おうとしない。被害者が立ち上がるしかないのだ。何の後ろ盾もない弱者の一人一人が力を合わせて叫ぶしか、為す術(すべ)がないのだ。
   ところが福田首相は面会を拒否した。裁判所が和解案を提示する前の面談は困難だという。しかしそれでは遅い。官僚である裁判官が政府に全面的な非を認める和解案を出すはずはない。公正な解決が行われないまま終わってしまう。だからこそ被害者たちは首相の政治決断を求めているのである。時代劇に見られる光景である。弱者の庶民が代官やお侍のすそにすがって命がけの嘆願をしているのである。それを福田将軍は振り払ったもだ。
   福田は愚かだ。支持率回復の絶好の機会を逃がした。自民党を救う最後のチャンスに気づかなかった。官僚主導の政治しかできない福田の限界である。小泉政治と違ったスタイルの政治でごまかそうとした福田政治の底が知れた瞬間だ。福田は自民党政権最後の首相になるだろう。そうならねばならない。
   しかし、福田は政権政党の政治家だ。政権政党は官僚の上に乗ってこの国を支配してきた。その政党の政治家が官僚と対決できないのは考えてみれば当然なのだ。政権政党の政治家は一般国民の敵なのである。選挙支持者のためには、あるいは支援組織のためには利益誘導でもなんでもするが、それ以外の一般国民の事などまるで念頭にない。これが与党政治家の実態だと割り切れば腹も立たない。
   腹が立つのは、そのような政権政党を攻撃し、政権交代を求めている野党の政治家たち、特に、弱者の味方を標榜している護憲政党の政治家たちの冷淡さである。
   罪のない国民が、輸血を受けたばかりに肝炎に罹って死んでいく、その責任を誰もとろうとしない。被害者の救済が公正に行われる事がない。こんな不条理があろうか。しかもその薬害は行政の過失がなければ防げた事が明らかになっている。それなのに政府や官僚は被害者の救済に誠意を見せようとしない。そんな政府と官僚の罪を糾弾し、救済策を命じることこそ野党政治家、とくに護憲政党の政治家の仕事ではないのか。政治家がそれを行わなければ誰が行う事が出来ると言うのか。
   なぜ菅直人は立ち上がらないのか。福島みずほや志位和夫が先頭に立ち、薬害肝炎被害者らをともなって官邸に乗り込もうとしないのか。テロ特措法や守屋疑惑追及に忙しく、解散・総選挙問題に明け暮れる彼らが、なぜ目の前の差し迫った孤立無援の被害者の救済のために、行動を起こせないのか、起こそうとしないのか。
   そして川田龍平である。彼は今何を考えているのだろう。何をしているのだろう。彼は自らの薬害被害の体験を活かし、政府、厚生官僚の罪を糾弾し、政府の姿勢を変える事を訴えて国会議員になったのではなかったか?薬害肝炎被害者の苦しみ、悲しみ、怒りをもっとも共有できる国会議員ではないのか?その川田龍平がめでたく国会議員となった今、被害者の先頭に立って、彼らを率いて官邸に乗り込み、福田総理に政治的決断を迫らなければ、一体誰がそれを行うというのか。
   もし川田龍平が、他の護憲政党と一緒になって、平和・反戦や原子力問題や社会問題に取り組もうと考えているのなら、そして今後末永くこの国の政治家として居座り続けようとしているとしたらとんだ勘違いだ。そんな政治家は他にも山ほどいる。そしてそれらは結局は何も出来ずにただの政治家に堕していく。政治家であることに安住して税金の無駄遣い政治家に成り果てていく。川田龍平を支えている取り巻き連中がそれを許しているとすれば、彼らは川田龍平を国会議員に送り込み、彼を利用して国政を私物化しようとしている連中に違いない。
  私の考えが間違っている事を切に願う。この国の政治家は与党を目指す政治家はもとより野党、護憲を売り物にする政治家も、誰一人本気になって弱者のために犠牲になる政治家はいない、そんな覚悟のある政治家が一人もいないからこそ、この国の政治は良くならない、私は本気でそう思っている。

 

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2007年12月10日

増税を許してはいけない

 増税を許してはいけない

 本日発売の月刊文芸春秋に、元大蔵省(財務省)官僚の高橋洋一(現内閣参事官)という人物が、「大増税キャンペーンに騙されるな」という論文を寄稿している。これは国民の必読の論文であると思ってこのブログでとりあげることとした。
 その論文の主張は一言で言えばこうだ。膨大な赤字を抱えた日本の財政を立て直すには増税止む無しという風潮が政府からしきりに流される。善良な国民は、そしてある程度生活にゆとりのある国民は、日本を救うためにはそれも仕方がない、などと思い始めている。しかしその前に真実を知らなければならない。本当に増税は不可避な状況なのか。増税しなければ年金も社会保障も医療保険もなにもかも立ち行かなくなるのか。決してそうではない。政府の説明の裏には、財政均衡主義(極端に言えば財政さえ立ち直れば国民経済が苦しくなって構わないという考え方)を最優先する大蔵(財務)官僚に主導された国民搾取の政策がある。政府にはまだまだ国民から集めた膨大な余剰資金がある。それを吐き出させるまでは安易な増税を許してはいけない、こういう主張である。
  もっとも、私は高橋氏が文春に寄稿した動機の不純さを疑っている。彼は自ら認めているように小泉・竹中「構造改革」に協力して財務省を離れ、今は政府内部の改革派(上げ潮派)と増税派(与謝野、谷垣派)の政争の一方に与している政治任用の官僚に過ぎない。しかも小泉・竹中改革は偽物だ。本当の改革には手をつけず、米国金融資本に日本経済を売り渡すことを改革と偽った小泉・竹中のブレーンである。
  しかも小泉一派の中川秀直などが盛んに増税反対を唱えているが、それは決して国民生活をおもんばかっての増税反対ではない。選挙目当ての一時的反対である。要するに現在政府内部で行われている増税反対、賛成論議は、政治家・官僚の権限保持のための論議であり、保持した権限の奪い合いの内輪もめに過ぎないのだ。
  しかしその事を十分認識した上で高橋氏の論文を読めばいいのである。元大蔵(財務)官僚が明らかにする増税の実態を知る事は国民にとって有益である。国民はこれを読んで目覚め、政治家や官僚に抵抗していかなければならない。
  高橋論文で私が注目した主要点はたとえば次の通りである。
  まず高橋氏は「増税ありき」の根拠になっている財政諮問委員会の増税試案の嘘を暴いている。この試案は民間有識者の増税試案という形になっているが、実際は財務官僚がすべて原案をつくり諮問会議がそれを追認するだけである。しかもその財務省試案は都合のいい数字ばかりを並べたて増税止む無しという結論を誘導しているのだ。一例をあげれば、なぜ歳出の増加が不可避であるのかという説明のところで、公務員の人件費増や公共事業費の増を当然のごとく盛り込み、本来行われるべき無駄な歳出の削減努力が一切なされていないという。安易な歳出の増加を増税で手っ取り早く賄うという事である。
  次に、財政赤字を強調する一方で、実は膨大な政府資金の余剰があるという事実である。この事については、最近では「埋蔵金の有無」という世俗的な問題にすりかえられている。しかし埋蔵金などではなく、れっきとした政府予算の余剰金なのである。すなわち各省が所管しているおびただしい特別会計の中に、一般会計の規模をはるかに超えた余剰金、積立金がある。その原資は様々な形で国民から吸い上げた金なのである。たとえば財務省は為替変動に対応する(為替介入)資金として16兆円の積立金持っている。外国為替資金特別会計である。国交省は自賠責保険特別会計を持っている。保険料を取りすぎて資産超過になっているという。国交省はまた道路特別会計を持っていて、その資金は余っている。それを使って無駄な道路を作ったりしている。これら特別会計はそれぞれの省庁が管理する既得権になっている。だからそれぞれの省庁は決して手放そうとしない。各省の隠し財源になっているのである。
  赤字財政に苦しんでいるはずの国家財政にもかかわらず、日本政府は300兆円もの金融資産をほしいままに動かしている。日本の名目GDPは500兆円というからその約6割である。この比率は先進国の中でもダントツに大きく、たとえば米国の約10倍であるという。日本政府は世界一金を持っているのだ。日本の官僚は世界一大きな資金を動かす権限を持っているのだ。それにもかかわらず、その予算を国民生活の為に適切に使っていない。国民に還元していない。しかもこの事実が最近までほとんど議論されないまま隠されてきたのである。
  この現実を国民が少しでも知ったなら、金が足りないからと言って当然のごとく増税を行う、そんな暴政を認めるわけにはいかない事がわかる。増税はビタ一文許してはいけないのである。

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2007年12月08日

「国家はいらない」という本

「国家はいらない」という本

  たとえばこの一年に限ってみてもいい。政府は国民の生活のために一体どんな施策を講じてくれたと言うのか。政権を放り出した安倍前首相が再び議員復活を宣言したという。防衛疑惑は何も明らかにされないまま終わりそうだ。テロ特措法をめぐる大騒動はいつまでたっても進展しない。膨大な時間の無駄だ。本来なら終盤国会の緊張した時期である。それにもかかわらず用もないのに明らかな政争目的で大挙して訪中する民主党の暴挙を誰もおかしいと声をあげない。あれほど改革、改革と叫んでいたのに、行革を進めようとする渡辺行革大臣が孤立している。自民党はおろか、世論もマスコミも渡辺大臣を頑張れと応援する風でもない。
  たまたま本屋で目にした「国家はいらない」(洋泉社)という本を買い求めて読了した。そしてこれは今の日本国民にとって必読の書であると思った。日本の混迷の原因は、実は国家の機能不全、あるいは、不適切、不必要な干渉の結果もたらされたものである事がわかるのだ。
  著者の蔵研也という40過ぎの学者について私は何も知らない。しかしそこに書かれている内容は、常日頃から私が考えている事を見事に表現してくれている。国家なんかいらないと言う事である。いや、より正確に言えば国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事である。彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識である。
  「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである。
  勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある。
  彼は面白いエピソードを引用しながら、「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している。
 すなわちこういう事である。街で見かける募金活動の多くは許可を取ることなく活動してその募金を私物化している。いわゆる詐欺である。それにもかかわらず、募金をする人々は多い。この事が示しているのは、人々の心には他人の事を思いやる、あるいは社会全体のために何かをしたい、しなければならないという意識があるのだ。「公益」への希求が誰の心の中にもそれなりにあるのだ。その心があるからこそ、「公益性がある」と言われれば仕方がないと思って協力し、我慢をするのだ。
   しかしこの「公益性」という言葉ほど曖昧なものはないと蔵氏は言う。そしてあまりにも多くの既得権益者が自分の都合の良いようにこの「公益」という言葉を持ち出し、結果として既得権も組織も何もない一般国民の生活を搾取する事になっていると蔵氏はいう。その典型が政治家や官僚やそれにつながる多くの公益法人、公益事業、公益法人とそこに働く既得権益者なのである。
この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。
  世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。だから「国家はいらない」と言うのだ。
  我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。現実に何が行われているか、それを詳しく、正確に、知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である。 

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2007年12月07日

星野ジャパンの感動を産経抄と分かち合ったけれど・・・

星野ジャパンの感動を産経抄と分かち合ったけれど・・・

  すでに多くの人が感動覚めやらぬ気持ちで星野ジャパンの勝利について書いている。今更私が書いてもと思うが、それでも一言書かせていただきたい。
   私は団塊の世代である。御多分にもれず野球少年であった。野球の普及が洋画の導入と並んで占領下の日本人に対する米国憧憬化政策であったとしても、私にとっては、野球もハリウッド映画も、青春の懐かしい思い出である。反発も、否定もする気はない。
  しかし歳を重ねるたびに興味の対象も変わっていく。野球も映画もかつてのような情熱はもはやなくなった。星野野球に対する興味もなくして久しい。星野仙一に対しても、やたらグラウンドで好戦的、挑発的な態度を見せる男という印象で、好きになれなかった。
  その星野が北京代表をかけた対韓国戦、台湾戦で見事な采配を見せた。それどころか勝利のインタビューで感動的な言葉を連発した。私の彼に対する評価は大きく変わった。
  偶然目に入った対韓国戦で星野ジャパンの奮闘振りに引き込まれた。そして北京を賭けた対台湾戦では開始前から熱を入れてテレビに見入った。
  試合は本当に感動的であった。結果的には大量点を取って大勝したが、6回に逆転2点ホームランを打たれて逆転された時は、テレビのアナウンサーが繰り返して絶叫していた通り、敗戦が頭によぎって「凍りついた」。それを逆転した。無死満塁でスクイズを敢行して同点に追いつくという星野作戦が素晴らしかった。しかしやはり私の感動は星野監督がインタビューで繰り返した「選手を褒め称えたい。皆が一丸となって勝利に執着した結果だ」という言葉に尽きると思う。監督にそういわせた選手も凄いが、その選手一人一人を褒め称えた星野監督はもっと凄い。あの無責任男小泉純一郎によって分断され、ばらばらになってしまった日本が忘れていた結束と統一と無私の気持ちの素晴らしさを、ほんの一瞬でも我々の心に取り戻してくれた。だから我々はこれほどまでに感動するのだ。
  その上に真っ先に長嶋茂雄に報告に行ったのが良い。長嶋が元気であればオールジャパンを率いていたのは間違いなく彼だ。その長嶋は病身を押しても北京を目指したかったと伝えられた。その長嶋の無念を知っている星野は、監督を引き受けるのがつらかったに違いない。だからこそ真っ先に報告に行った。その心配りが憎い。
   と、私には珍しく他人を褒めちぎったところで、このブログを気持ちよく終えたかったのであるが、それではこのブログの「らしさ」がない。このブログで書きたかった事は実は次の最後のくだりである。
   12月5日の産経新聞の論説「産経抄」がやはり星野ジャパンの勝利をたたえていた。産経は右翼新聞と言われている。私もそう思う。しかし右翼は純情なところがある。熱いところがある。だから星野ジャパンの勝利にも素直に喜ぶのである。産経抄とともに私も星野ジャパンの勝利の喜びを分かち合った。
   しかし、喜びを分かち合った産経抄の文章のなかに次のようなくだりがあった。三塁に猛スライディングして逆転優勝を呼び込んだ主将の宮本慎也選手が、「国と国との勝負。『戦争』のつもりで戦った」と語った事が引用されていた。その言葉を殊更に引用して、日の丸を背負って戦う愛国心の素晴らしさを、産経抄は強調した。
   宮本選手がたとえそうしゃべったとしてもそれを引用してくれるな。政治を持ち込むな。感動に水をかけてくれるな。宮本選手のイメージを損なってくれるな。
    何があっても戦争はいけない。軽々に戦争と言う言葉を口にしてはいけない。平和だからこそスポーツも楽しむ事ができるのだ。産経新聞の限界がそこにある。残念だというほかはない。

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2007年12月06日

年金問題は解決しないー不毛な議論を繰り返す政治家と官僚の罪

年金問題は解決しないー不毛な議論を繰り返す政治家と官僚の罪

  このブログで年金問題を取り上げるのは始めてである。今まで書かなかったのは勿論この問題が私の専門外であるからだが、それよりもなによりも、この問題が大きな社会問題となり、政治家や専門家、ジャーナリストを含めあまりにも多くの人々がこの問題を論じてきたからだ。
  その結果議論が拡散してしまった。そもそも官僚がいじくりまわして出来た複雑な年金制度である。誰もその全貌をつかんでいない。それに加えてその年金制度の根底が崩れてしまったのだ。議論が迷走するのも無理は無い。焦点の定まらない議論が問題を更に複雑にし、書くほうも読まされるほうも訳がわからなくなってしまった。もはや誰もが、何から手をつけて良いかわからない状況になっている。そうして世間の関心が薄れていく。年金をもらえない人達が放置されたまま、年金を納めろという取立てだけは厳しく残ったまま、すべてが官僚の言うなりで問題が誤魔化されていく。
  そんな中で、12月6日の読売新聞は年金の積立金を運用していた独立行政法人が、サブプライム問題で1兆6000万円あまりの運用損失を出していたという記事をスクープした。まだこんな事をしていたのか。この記事を読んでどうしても一言書いておかねばならない気になった。最初で最後の年金問題に関する私の意見である。
  長妻昭民主党議員の質問主意書で5000万件以上の納付記録消失が明らかになったのは今年の2月である。それ以来年金問題は国民的問題になり7月の参院選挙での自民党惨敗の原因の一つにもなった。枡添要一が威勢のよい発言を繰り返し人気を集めた。その勢いをかって厚生労働大臣になり問題の解決に取り組んだ。しかしその結果はどうか。一つでも具体的な進展があっただろうか。納付した国民が納付に見合った年金を受け取れるようになったか。納付を義務づけられている国民が年金制度の信頼を回復したか。答えはいずれも否である。それどころか何一つ具体策が進展していない。
  だからといって私は枡添大臣一人を責めるつもりはない。彼もただの政治家であったという事が明らかになっただけのことだ。つまりこの年金問題は、与党といい野党といい、これまでの厚労官僚行政の上に乗ったままで改革を行おうとする限り、何も出来ないと言うことなのだ。威勢よく厚生労働省に乗り込んで行った枡添要一は、官僚の壁にぶつかって身動きが取れなくなったということだ。これまでのすべての政治家と同様に、彼もまた官僚と対決し、官僚行政を打ち破ろうとする力量と覚悟がなかったということだ。 
  何故年金問題は解決しないのか。それは政治家と官僚が今の年金制度を前提にした弥縫(びぼう)策に奔走しているからだ。それはすべて責任逃れのなせる業だ。
  考えても見るが良い。そのような方法で解決することは少なくとも次の二つの点で不可能である。一つは年金の積み立て資金の一部がなくなってしまったという動かしがたい事実である。サブプライム投資の運用損は言語道断であるとしても、そうでなくとも既に官僚の不正着服や不正使用、流用などによって、納付者の積立金の一部は失われている。その額の多寡が問題ではない。もはや原資の一部がなくなった以上どうして適切で公正な支給が行えるというのか。
  二つ目は、納付記録の一部が消失してしまったという事実である。官僚がどんなに徹夜で名寄せの作業を繰り返しても、消失した記録を正確に再現する事などできるはずがない。それが出来たとしたら文書捏造である。官僚の責任逃れの為に多くの職員の徒労と更なる無駄遣いが一年近く繰り返されたのである。
  年金制度は一度チャラにして根本的に作り直さなければならない。それが政治家の仕事である。どのような制度にするのか。財源をどうするのか。そんなことは誰にもわからない。しかしはっきりしている事は制度を単純化し、透明化し、そして国民間に公平感を持たせる制度を早く国民の前に提示することである。
  それから最後のどうしても指摘しておきたい事がある。今日の年金問題の原点は、戦時中に年金制度を導入した花澤なにがしという厚生官僚が、「どうせ使うのは数十年先だから当分の間は戦費でもなんでも使える」などという不届きな発想で国民からカネを集めた、その基本姿勢にあるという事だ。この官僚根性がなくならない限り国民のために適切で公正な年金制度は永久に実現しないと心得たほうが良いということである。
  まだまだ多くの積立金が残っているはずだ。まずそれを全部使う形で受給資格のある国民に適切、公平に支給する。そしてそれがなくなりかけた頃に税金でも保険でもなんでもいいから国民的議論を進めてあらたな制度を打ち立てる。そうすることによって現在の積立金の数字も明らかになり官僚の無駄遣いも阻止できると言う事だ。物事は単純に考えたほうがいい。とくに官僚の横暴が巣食っている年金制度においては。

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2007年12月05日

  どこの国の事か

 どこの国の事か

 まず次の文章を黙って読んで見て欲しい。

  「・・・確実にわかったことがある。第一に・・・リーダーが国民の参加なしに密室の中で決まった。第   二に、カリスマ政治が完全に終わり既得権益集団間の利益分配政治となった・・・
   資本、財産、金融の自由化は市場の透明性と情報公開が大前提となる。体制に癒着した富裕層   に対する累進課税と資産公開の実施も必須である。これらは政治の問題である・・・
   誰もが頭では政治の民主化の必要をわかっている。しかしできない。自ら既得権益を手放す人は   いないだろう。いまや(国内経済と)国際経済は深く結びついており、国内経済の混乱を実は国際    社会も望まない。こうして政治腐敗が蔓延する中で体制劣化は進む。が、本質的な政治改革はな   いままに、惰性状況の深みにはまる・・・」

  これは日本のことではない。12月5日の読売新聞にのっていた、慶応大学法学部長の国分良成教授が、「中国 50年来の政治体質」と題して寄稿していた評論の一部である。
  「私の関心は現代中国における民主や自由の問題」であるといって中国の専門家を自認する国分教授は、さる10月に開催された中国共産党第17回全国代表大会について

  「・・・胡錦濤権力は固まったのか、江沢民勢力は依然として強いのか、などに世界中のジャーナリズムや論壇が関心を向け、議論が百出したが、結局よくわからない。中国政治研究の常といえば常だ・・・」

 と前置きした上で、「しかし確実にわかったことがある」と言って上記のごとく書いていたのである。
 おそらく国分教授は気づいていないに違いない。中国を批判するつもりで書いた自らの文章が、そっくりそのまま、今の日本の政治批判になっている事を。
 あまりにも面白いと思ったので今日のブログに書いてみた。

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2007年12月04日

収入増のともなわないインフレが弱者を苦しめる

収入増のともなわないインフレが弱者を苦しめる

 タクシー代が値上がりになったと大騒ぎだ。しかし値上げはこれだけではない。既にガソリン代は上がっているし、その他の消費財もどんどん値上がりしている。
 12月1日の毎日新聞は12月以降に値上げが予定されている商品、サービスの一覧表を紹介していた。ガソリン代やタクシー代のほかにも食パン・菓子パンが12月1日より平均8%、即席麺が来年1月1日から7-11%、インスタントコーヒーが1月5日から11%、味噌、かまぼこ、ビールが2月1日から3-15%、ヨーグルト・乳飲料が3月1日から3-10%値上がりする、といった具合だ。
 それでも政府が発表する消費者物価指数は依然として前年同期比で下落しているという。おかしくはないか。この点について12月1日の朝日新聞「読み解く経済」のコラムで山田厚史編集委員は、統計と実感にギャップがある理由を、次のように説明している。
  たとえば「品質調整」という手法である。価格は同じでも性能が二倍になると、統計では価格は半分になったと見なすという。これによればパソコン、薄型テレビ、デジタルカメラなどのIT関係の新製品は(性能がよくなったので)旧型の製品の値段より低く調整されることとなる。これが統計上の物価を引き下げていることになるのだ。
  もうひとつ、消費財の平均価格を統計数字に使ってみても、消費者の負担感覚を正確には反映しない。高齢者や低所得者とそうでない者との間には買う消費財の内容が異なる。これを「階層別消費」と呼ぶらしい。すなわち高齢者や低所得者は家計に占める日用品の比率が高い。地方に住んでいる人は車に依存することが多いからガソリン価格の上昇が生活を直撃する。これらのグループは「値上がり」の影響を受けやすい。その一方で、先端技術の機器を購入するのは都会生活者、若者、高額所得者が多い。このように全体をひとくくりにした消費者物価指数は、消費者全体、とくに低所得者層の負担増の感覚を、正確に反映していないのだ。
  政府が操作する消費者物価指数に惑わされてはいけない。この国の大半の国民生活に影響を与える日常生活品やサービスは確実に値上がりしているのだ。しかもその値上がりが本格化するのは来年以降なのである。
  その昔、経済学の教科書で、賃金の上昇が見られない中でのインフレは悪性のインフレであると教わった。今まさに日本経済はそのような状況に突入しようとしているのではないか。賃金・ボーナスの低迷が続き、家計の収入増が伴わない中で、消費者物価の上昇だけが起これば、間違いなく悪性インフレが進行する。
  我々は政府の統計などに惑わされる事無く、来るべきインフレに備えて自己防衛に専念しなければならない。

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2007年12月03日

この国はすでに戦時下にあるのではないか

この国はすでに戦時下にあるのではないか

  朝日新聞の土曜日ビジネス版に中国人ジャーナリスト、莫那富(モーバンフ)という人が連載で書いているコラムがある。その12月1日のコラムに、ー入管で感じた「戦時下」―と題して、11月20日から導入された外国人を対象にした新しい入国管理制度への所感が述べられていた。この新しい入管制度は、「テロリストの入国を水際で防ぐ」という理由で、来日した外国人に等しく指紋採取と顔写真の撮影を義務づけるという制度である。
  我々は外国人ではないからその異常さに気がつかない。この国のメディアの書き手も大部分は日本人だから気づいていないと見える。だから人権や個人の自由を規制するあらたな制度については書き立てるメディアも、外国人のみに適用されるこの新しい入管制度についてはあまり熱心に取り上げる事はない。
  しかし、この莫さんの記事を読んで、私はあらためてこの新外国人制度の異常さに気づいた。およそ先進国の中でここまで行う国は少ない。イスラエルや米国でもこれほどではないだろう。日本を訪れる外国人はさぞかし腹立たしい思いをしているに違いない。
  莫さんは決して激しい調子で批判しているのではない。しかしその穏やかな表現の下で、莫さんの怒りが沸騰している事がよくわかる。断片的にその言葉を以下に引用してみたい。

「・・・長年の居住実績を持ち、厳しい審査を経て永住資格を認められた外国人も例外ではない・・・指紋採取と顔写真を始めた直後に日本に戻ってきた私は、空港の空気の異常さに閉口した。入管職員が物々しく外国人を誘導する・・・
   指紋を採取され、顔写真を撮られながら私は理解に苦しんだ。平和憲法を掲げる国なのに、なぜ自国以外の国の人間すべてを敵と見てしまうほど警戒しなければならないのか・・・もしかしたら新幹線への乗車の際にも外国人はこうした待遇を受ける時代への心構えを今から持たなくてはならないかもしれない・・・
   成田空港の入管職員の襟に『ようこそジャパン』というバッジがあった。『ようこそ戦時下の日本へ』に書き直した方が正確ではないか・・・」

 最後のくだりは強烈な皮肉である。そういえば小泉元首相は観光客の誘致を始めた総務省(旧運輸省)の宣伝ビデオに嬉々として登場し「ようこそジャパン」と呼びかけていた。そのビデオが空港のいたるところで放映されていた。よほど自分の容姿に自信があるのか、あるいは手のよい動く選挙ポスターか、などと思って眺めていた事を私は思い出す。観光誘致をしておきながらまったく矛盾する政策を政府は取り始めたのだ。
  しかし私が「ハッと」驚いたのは、この国は戦時下にあるのではないか、という莫さんの指摘である。そして、それは実はその通りなのではないかと思った。これがこのブログの訴えたい事である。
  米国は「テロ」と戦っている国である。しかもその「テロとの戦い」を「最終的な、終わりのない戦い」であると米国みずからが世界に公言している。その戦いはこれからどんどんとエスカレートしていくに違いない。
  その米国との軍事同盟を強化し、米国と一体になって「テロ」と戦おうとしている日本は、間違いなく戦時下にある。そう思ってあらためて小泉政権下において急速に進められていったわが国の政策を冷静に振り返ってみると、今更ながらに「テロとの戦い」という名目の下で、我々の日常生活が規制され、不便な暮らしを強いられるようになってきた事に気づく。普通でない政策が、静かに、しかし広く、深くこの国を覆い始めている事に気づく。
  銀行の送金手続きが不必要に煩瑣になった。個人情報保護法の名の下にやたらに個人の行動が監視されるようになった。戦車が商店街を平気で通り、東京のど真ん中で迎撃ミサイルパトリオットの移動訓練が行われる。戦争帰りの米国空母が大手を振って日本の港に寄港する。国民生活にまわるはずの予算が米軍再編の協力のために使われ、米国の戦争への忠誠度に従って住民への予算配分が決められていく・・・
  数え出したらきりがない。そしてそれらの政策に反対しない大連立政権が早晩実現する雲行きになってきた。これはもう大政翼賛政治である。
  問題はこの異常さに本気になって警鐘をならすメディアがなくなったということである。従って国民の大部分が問題意識を持っていない事である。それもまさしく巧妙な政府の情報捜査、情報管理の結果であろう。
  この国は間違いなく戦時下に入りつつあると思う。

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2007年12月02日

なぜ本物の対中外交ができないのか

 なぜ本物の対中外交ができないのか

  2日の朝刊各紙はいずれも日中経済閣僚会議を大きく取り上げている。対中強硬姿勢の小泉政権や、あいまい姿勢の安倍政権とは一線を画し(2日毎日)、福田政権はアジア重視の外交であるという。
  本当だろうか。福田政権がどこまで本物の対中外交を実現する事が出来るだろうか。今回会議の内容の無さを見るにつけても極めて疑わしいと思わざるを得ない。
  6閣僚が雁首をそろえて行われた閣僚会議は、小泉元首相の対中敵視外交で冷え切った日中関係以来はじめての閣僚会議であるという。名前も「戦略的互恵関係」を目指す経済ハイレベル会議と仰々しい。しかしそこで合意された内容は極めて不十分だ。環境や省エネ分野での技術協力、知的財産権保護に関する情報共有の進化、日本の米150トンの追加輸出、これだけだ。しかも環境問題にしても知的財産権保護の問題にしても日中の立場の違いは平行線だ。米の輸出に至っては余剰米を中国に買ってもらったに過ぎない。東シナ海ガス油田開発という最も重要なエネルギー開発については来年の福田首相の訪中まで先送りである。果たして福田首相は東シナ海油田開発問題について「戦略的互恵」の解決ができるだろうか。しっかりと見届ける必要がある。
 同じ2日の日経新聞に、小さな囲み記事で、インドネシアのバリ島で3日から始まる国連気候変動枠組み条約締約国会議に米国が送る閣僚はシュワブ通商代表部代表一人になる見通しであるという事が報じられていた。その最大の理由は北京で開かれる米中戦略経済対話と重なるからだという。そのシュワブ代表も国連会議を途中から退席し米中戦略経済対話に向かうと言う。米国がいかに中国との経済会議を重視しているかである。
 米中戦略経済対話は、今回始まった日本と中国の経済閣僚会議とは、その成り立ちの経緯も、対話の内容も、決定的に違う。中国の金融開放に寄与しつつ巨万の利益をゴールドマンサックスにもたらしたポールソン前CEO(経営最高責任者)は、昨年7月に財務長官に就任し、直ちにその年の12月に多数の閣僚を引き連れて北京で米中戦略経済対話を始めた。以来米中の間では、年に二回米国と中国の交互で戦略対話を繰り返し、貿易、金融面で世界経済を動かすが如き関係が着実に進んでいる。12月12日から北京で始まる米中戦略経済対話は第三回目になる。
  米中戦略経済会議と日中経済閣僚会議の違いはあまりにも大きい。何故か。日本の閣僚のように知見もコネもない日替わり閣僚が雁首をそろえて形式的に参加する日中経済閣僚会議と違って、米中戦略経済対話を率いるポールソンは米国屈指の対中金融マフィアの親分である。そのポールソンは昨年7月に財務長官を引き受けるに際し、「財務長官を、国防長官や国務長官と同等の地位に引き上げてくれるなら、受けましょう」と注文をつけ、ブッシュ大統領は二つ返事でこれを飲んだという(板垣英憲著 ロックフラーに翻弄される日本 サンガ新書16頁)。米中間には、たとえば米空母キティホークの香港寄港を中国政府が拒否し、これに米国が反発するなど、常に政治的な緊張関係をはらんでいる。しかしそのような潜在的政治的、軍事的緊張関係にもかかわらず、米中は世界経済の運営を分かち合う利益共有者の関係になっている。そして米中双方の指導者は、この米中の経済的相互依存関係を、米中の政治的・軍事的関係に優先させ、政治的、軍事的緊張をコントロールさえしているのである。
  ひるがえって日中関係はどうか。米国以上に緊密な経済関係を有していながら、小泉対中敵視政策は経済関係までも後退させた。驚くべき稚拙な外交である。国民経済の多大な損失である。
  中国との経済関係重視は欧州も米国に負けてはいない。サルコジ仏大統領は11月26日に訪中し3兆円規模の旅客機や原子炉の売り込みに成功した。ECもすでにエアバスの売込みをはじめとして様々な分野での対中経済外交を進めてきた。
  歴史的にも地理的にも近い日本が、なぜ欧米に遅れを取る醜態を演じているのか。それは一重に日本人の中にある歴史認識についての分裂、対立の故であり、一部の日本人の心に頑迷に潜む対中蔑視の感情の故である。
  米国が良くて中国が悪いという事が誤りであるように、米国が悪くて中国が良いという事では決してない。米国も中国も国益最優先の国である。国益を実現する為に軍事力を誇示する軍事的覇権国家である。
  日本はそのいずれでもない。憲法9条を持つ日本はその技術力、経済力で国益を実現する国である。米国に従属する外交が誤りであるように、戦争責任を追及されて黙ってしまう対中譲歩外交もまた誤りである。
   国の総意として過去の侵略の事実を認め謝罪する。そうした上で自主、自立した毅然とした対中外交を進める。戦後62年も経つと言うのになぜこのような当たり前の外交が出来ないのであろうか。
本物の対中外交ができる指導者は福田首相でも、重要問題山積の国会会期中にもかかわらず50人もの国会議員を引き連れてパフォーマンス訪中を行う小沢民主党代表でもない。未だ日本の政治家に本物の対中外交が出来る人物は現れない。それが日本国民の不幸である。
 
 

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2007年12月01日

無為の時間にどれだけ耐え切れるか

無為の時間にどれだけ耐え切れるか

  日々のブログから離れて独り言を書いてみたい気になった。
  私は、考えに行き詰った時、自分の行動に意味を見出せなくなった時、庭に出て土を耕す事にしている。この上ない心の安らぎを得ることが出来る。二年前に那須塩原市に移り住み、100坪あまりの庭に木々を植え、草花を咲かせて眺める毎日を過ごすようになった私は、思いついたら庭に出て土を掘り起こす。幸いにも那須塩原の荒地には石ころが土の中に無限に転がっている。掘っても掘っても石が出てくる。それを掘り起こしてはまた耕す。一日中そうする事もある。まったく意味のない行動である。それに疲れたらコンピューターの前に座って「ひまつぶし」というゲームを行う。文字通りのひまつぶしだ。意味もないゲームに熱中し続ける。人がそれを見ると正気の沙汰ではないと思うかもしれない。しかし今の私にはそのような無為の時間を過ぎすことと、寸暇を惜しんで金儲けにいそしむ事や、他人との競争に身を削る毎日を送る事との間に、それほどの違いはないと思える贅沢を得るようになった。そしてその思いを更に深めていけば、この世の中には様々な理由によって無為な時間を過ごさざるを得ない境遇の無数の人達がいるという事に気づく。その人達と、秒刻みで仕事に励む成功者との間で、さしたる違いはないのかも知れないのだ。
  断っておくが私は有意義な時間を過ごそうと寸暇を惜しんで励む人が悪いと言っているのではない。かつての私がそうであったように、人間は人生のある一時期は必死で働いたり、成功目指して頑張る時を持たなければならないと思う。そういう時間をもてる自分を幸せに思わなくてはならないと思う。
しかし人間は、いつかはそういう時期を卒業し、無為な時間の中で自分自身と正面から向き合い、対峙しなければならない時期がくる。その時点で人間は皆平等になる。差別なく、あらゆる人を許せるようになる。許されるようになる。
  かつて南アフリカの初代黒人大統領になったネルソンマンデラが、政治犯としてロビンアイランドの牢獄に27年間つながれていた時、毎日毎日石ころを右から左に運んで、今度はそれを左から右に運ぶ、そんな無意味な一日を一年中強いられたという話を聞いた事があった。当時はまだ私は40歳前の働き盛りの時である。それまでの私の人生がそうであったように、一瞬たりとも無駄な時間を過ごしたくない、一瞬たりとも有意義な時間を過ごさないと罪悪感を抱く、そんな自分であった。だから、マンデラのような無為な時間を過ごすという事は考えられない事であった。耐えられない思いで聞いていた。
  しかし今こうして人生の大半を終え、人よりわずかばかり先んじて引退を迫られた私は、その逆境をバネに過去の自分と決別し、一つの極地に到達しつつある。人間はある年齢を超えたら、無為な時間に耐えられる心のゆとりを持たなければならないのではないか。欲望も、迷いもなく、自然のままに生きる。わずかな、残された生を、自分のみに忠実に生きる、最後はそういう人生に辿りつかなければならないのではないか。
  もちろんこれは私の考えである。人は様々だ。80歳や90歳を超えてもあくなき名誉欲、自己実現欲にとらわれて生きる人もいる。死ぬまで働き続け、人に囲まれ、ちやほやされ、上昇志向を抱き続ける人もいる。そういう人生を私がとやかく言う筋合いはない。また、自らの限界を悟る事のできる人であっても、それに気づく年齢は人によってまちまちだ。それもまったく問題はない。
  しかし、それでもやはり私は思う。人間は、いつかは無為な時間を過ごす事を素直に受け入れなければならない時が来るのだ。その時はすべてが平等になる。富める者も貧しい者も、成功した人も失敗した人も、健常者も非健常者も、醜いもの美しい者も、すべては平等になる。心優しくなれる。神というものが存在するとすれば、その時こそ誰もがその神に等しく近づける時であるに違いない。 

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2007年12月01日

この国では真の政権交代は決して起こらない

 この国では真の政権交代は決して起こらない
    ―額賀喚問中止と朝青龍問題の底に共通するものー

  この国では残念ながら真の政権交代は起こらないであろう。たとえ政権交代が起きたとしてもその政権は本質的には自民党的なものに収斂していくであろう。決して革命的な変化は起こらない。額賀喚問中止と朝青龍復帰問題のニュースを見て、そしてそれを報ずるメディアの対応振りを見て、私はつくづくそう思った。
  額賀喚問中止のニュースには失望した。今更ながら民主党の腰砕けぶりと野党の慢性的な結束のもろさを思い知らされた。はやりこの国では野党共闘などというものはありえないのだ。野党共闘がなければ政権交代は起こらない。あるのは政界再編と連立の繰り返しでしかない。そしてその中心はやはり自民党である。
  朝青龍の謝罪会見はこんなものだろう。彼に本心からの反省を求める事は無理な話しだ。むしろここまで流暢な日本語を話せるようになった朝青龍に感心する。横綱審議会の面々を前にして一人で対峙して(みせかけの)謝罪をやってのけた、その度胸と強さを賞賛したいほどだ。情けないのは横綱審議会の面々である。あれほど厳しい事を言っていた各界の名士といわれている連中が、この程度の謝罪で、明らかに不満気な顔をしながら、「一応これで」と幕引してしまったのだ。極めて自民党的だ。
  この、一見無関係に見える二つの出来事の背景にある心象風景に私は日本と言う国の特性を見る。日本人の姿を見る。それはよく言えば大人の態度であり、白黒をつけない曖昧さであり、謝罪をするものをそれ以上追い込まない寛容さであろう。しかし、他方においてそれは「間違っているものは間違っている」、「嘘は嘘だ」という原則論を押し通せない弱さであり、筋を最後まで押し通す事によって招く他者からの反発や孤立へのおそれである。この国では一人筋を通せば変わり者、異端者という烙印を押されてしまう。そのつらさ、厳しさ、馬鹿らしさを私は身をもって痛感してきた。
  問題はそれが権力者の悪にまで適用されるとどうなるかである。
  朝青龍の場合はまだいい。彼は相撲は強くてもいわゆる権力者ではない。横綱といえども一私人だ。しかも(八百長という噂はたえないが)自分の体一つで横綱にのし上がった人物だ。今後彼は土俵という場でその真価を証明しなければならない。彼の評価はフアンの反応で最終的に判断が下される事になる。
  しかし額賀喚問問題は話は別だ。権力者の犯罪と嘘の有無がかかっている問題である。自民党政権の存続がかかっている問題である。そのような問題までも、世間の目をおそれて徹底的な追及が出来ないとすれば、この国では永久に正義は実現されないであろう。権力者の悪は最後のところで逃げ延びる事となる。
  12月1日の朝日新聞に次のような記述があった。民主党の国対幹部は「本当はやめたくなかったんだ」と言って残念がった。それが想定外の共産党の気変わりで「数の横暴」に対する批判を恐れる羽目になったというのだ。しかしそのような混乱の中でも司令塔がしっかりしていれば正しく対応できたに違いない。しかし鳩山幹事長からの相談に小沢代表は「幹事長に任せる」と言って逃げ、その鳩山幹事長は野党共闘を重視し、小沢不在のまま幹部を集めて協議し喚問の見送りを決めたというのだ。天下分け目の政局でこの体たらくである。その一方で原因をつくった共産党幹部は、与野党攻防に与えるダメージを心配し、「民主党に冷や水を浴びせたいわけじゃないから、うちも困ったんだよ」などと逃げ口上をはいたという。福島党首の再任で忙しい社民党の声は、例によってまったく聞こえてこない。
  最後まで追い詰める事は美徳ではないとするこの国の特性と、いつまでたっても結束できない野党、そんな今の日本においては決して真の政権交代は起こらないであろう。ここまで政権担当能力のなくなった自民党でも、それでも政権を担い続けるのである。それに変わる政権がすっきりした形で生まれないのである。日本の将来は暗い。国民生活はますます苦しくなる。

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