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2007年10月12日

在日米軍の無法ー今度は青森だ

 在日米軍の無法―今度は青森だ

 昨日のブログで北海道室蘭市に米国原子力空母キティホークが寄港するという問題について書いた。
 今度は青森だ。12日の朝日新聞が、在日米軍が昨年4月に「民間用の青森空港を使用したい」と要請し、青森県がこれを拒否した事が、県の内部資料でわかったとスクープした。拒否するのは当たり前である。民間用の空港が、どうして米軍機との共用ができるというのか。
 私がこのブログで明らかにしたいのは、内部文書で明らかになったわが外務省の対応である。なんと外務省は県に対し、「空港を米軍に使用させろ。断るのであれば航空法や県条例に根拠はあるのか。日米地位協定では使用できる事になっている」などと申し入れてきたという。
  それでも断る県に対し、外務省は国土交通省を使って頼み込ませたという。
  それでも断った県に対し、外務省が「国土省から説明を聞いたが、再考しろ」と重ねて圧力をかけた。せめぎあいは翌日も続いたという。
  三村青森県知事は最後まで断り続けた。結局外務省の下っ端事務官はあきらめた。
  この一連のやり取りで何がわかったか。それは、米国の不当な要求は、筋を通せば断れるということだ。むしろ、ゴリ押しをするのは外務省の下っ端役人である。米国の機嫌をとろうとする官僚なのだ。国民に無理な要求を飲ませようとするのは、公僕であるはずの官僚なのだ。本当に重要なら外務大臣が知事に直接要請すべきだ。そうすれば嫌でも国民の前に明らかにされる。その不当さが暴露される。それは出来ない。その程度の要求なのだ。
  在日米軍がらみの、このような不条理は、恐らく全国いたるところで起きているに違いない。それらがすべて国民の知るところにならないといけない。
  もはや日本を守る事のない、米国の「テロとの戦い」為の在日米軍基地の為に、なぜ日本中が在日米軍がらみの話に、ここまで苦しまなければならないのか。誰もこの事に疑問を抱かないから外務省の下っ端官僚がむちゃくちゃな仕事をしているのだ。

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2007年10月11日

ああ、日本が消えていく。戦争国家米国に従属させられて消滅していく

 ああ、日本が消えていく。戦争国家米国に従属させられて消滅していく

  10日は講演で札幌を訪れていた。秋の北海道はいい。その爽快な気分を一つの新聞記事がぶち壊してくれた。
  帰りの朝、札幌駅で手にした11日付北海道新聞に、米海軍第七艦隊の空母キティホークが今月26日―31日に室蘭港へ寄稿するという記事があった。住民の間に懸念の声があがっているという記事があった。
  しかし室蘭市の新宮正志市長は北海道新聞の取材に対し、「断る理由はない」と述べ寄港を容認する考えを示したという。なんという市長だろうか。わかっているのかキティホークが大手を振って寄港すると言う事の意味を。市当局は、キティホークが核搭載をしているかどうについて、外務省から「事前協議がない以上、搭載はないと判断する」との回答を受けたと話しているという。わかっているのか室蘭市は。外務省がこれまでにどれほど平気で真っ赤な嘘をついてきたかと言う事を。
  もはやキティホークの受け入れは確実である、そう北海道新聞はあきらめ顔で書いていた。残念でならない。
  つい先日も非核三原則を破る密約の新たな証拠が米公文書により見つかったと報道された。それでも外務省は平然と「密約はない」と一蹴した。
  インド洋補給燃料のイラク戦争への転用疑惑に対し、米軍より「転用はない」との報告を受けたと、政府は国会で答弁した。野党はその明らかな嘘に対して、本気で政府を追及できないでいる。
  すべて嘘である事は皆が知っている。しかし誰も本気でその嘘を追及しようとしない。皆があきらめているのだ。野党議員はもとよりメディアもそして国民までもが。
   いつから日本はこんな嘘まみれの国になってしまったのか。かつてはこんな事はなかった。国会審議が中断し、政府が何らかの対応を迫られた。国民も反発した。今はすべてが押し通されていく。民主党が参議院で多数を占めたというのにこの体たらくなのだ。
   民主党の旧社会党の連中は何をやっているのか。旧社会党出身の代表代行は何をやっているのだ。陰の外相は何をやっているのだ。いまこそ彼らの出番であるはずなのに、その姿が全く見えない。その声が聞こえない。安全保障の論議が出来ないのだ。
  日米同盟を重視する小沢代表が、一人で自民党・官僚・米国連合軍と対決している。これでは勝てるはずはない。おまけに小沢代表は「テロとの戦い」には日本は協力するといっている。危ないから戦闘地域に自衛隊を出さないのは無責任だといっている。国連決議があれば戦闘地に自衛隊を派遣しても合憲だといっている。それは憲法違反だと、あの自民党に逆襲されているのだ。これはパラドックスだ。
  かつて私はこのブログで何度も警告した。テロ特措法を自民党との争点にしてはいけない。いまだ日米軍事同盟の危険性に国民は気づいていない。その国民を小沢民主党では目覚めさせる事は出来ないと。
  私はあらためて言う。今度のテロ特措法問題が単なる政争の具に終わり、日米軍事同盟のあり方についての根本的な見直し論議に発展していかなければ、結果として日米軍事同盟は加速、固定化していくと。もはや二度と日米軍事同盟見直しの機運は起きてこないと。かくて日米軍事同盟は永久的に固定化していくのだ。
  民主党は、それでも衆議院選挙に勝つかもしれない。そして政権交代が実現するかもしれない。自民党が勝つよりはいい。私も一度は民主党に政権を取らせたい。そのチャンスは今をおいてない。
  しかし私が素直に喜べないのは、民主党が政権をとっても日米軍事同盟は変わらないからだ。日米軍事同盟が見直されない限り、日本の自主自立はありえない、平和外交は有り得ない、憲法9条は、たとえ守られたとしても完全に形骸化する。
  憲法9条を死守すると叫んでいる国会議員は一体何をやっているのだろうか。何を考えているのだろうか。我々一般国民が何を叫んでも限度がある。政治家が率先して戦わなければならないのだ。国民を引っ張っていかなければならない。その為に政治家は巨額の報酬と大きな特権とそして何よりも自由な時間を与えられているのだ。
  ああ、この国の政治家の中から一人でもいいから出て来てくれ。米国との軍事同盟を終らせない限り平和国家日本を取り戻す事は出来ないと声をあげる政治家が。米国の鎖から解き放たれない限り、日本の明るい将来はないと力強く公言できる本当の政治家が。一人でもいいからそのような政治家が現れて欲しい。そのような政治家が現れるなら、私はその人の足元にひざまずいて、残りの人生を捧げてもいいと思っている。 

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2007年10月10日

拉致家族が気の毒でならない

拉致家族が気の毒でならない

 しばらく政局がらみの話を書く気にならない。無意味と思えるからだ。
 民主党が反撃にあっている。小沢党首のあらたな政治資金疑惑が発覚したり、小沢党首が唱える自衛隊のアフガン派遣が自民党の反撃にあっている。世論調査では自民党が支持を延ばし民主党が支持を下げている。政権交代の勢いが一気にしぼみつつある。あれほどの追い風を受けていた民主党がこの体たらくだ。民主党はやはり弱体だ。結束力がない。人材がいない。国民の期待に応える魅力がない。
  しかし自公政権は勘違いをしないほうが良い。悪あがきをしないほうがよい。もはや自公政権がこのまま復活する事はない。好き勝手できる時代は終った。仮に次の総選挙で「負け」を防いだとしても、6年間は逆転参議院のままだ。参院で否決された法案を衆院で再議決するためには三分の二の多数決を必要とする。自公がいくらこれからの衆院選で頑張っても、その数を取ることは不可能だ。要するにねじれ国会は当分続くのだ。どちらも自分たちだけで政治を動かす事はできないのだ。
  そしてそれは国民にとって理想的なのだ。どちらも国民の方に顔を向けなければならない。政策を国民の前で競い合わなければならない。自公勢力を支援する国民も、民主中心の連立を支持する国民も、自分たちの政治を実現する事は出来ない。
  「支持政党なし」の国民が主役になる時代が来る。自公政権でも民主中心の政権でも、どちらでもいいから、正しい政策を実行しろ、と注文をつける国民こそ主役になる時代が来るということだ。我々国民は、究極の政治批判者になり、年金を返せ、税金をねこばばするな、経済を活性化させろ、米国に追従するな、といった要求を、政治家や官僚にどしどし要求し続け、まともな仕事をしない、できない政治を批判し、監視し続ければいいのだ。
  この国の政治家と官僚たち、そしてそれらに迎合して自らも権力者であると勘違いしているマスコミ幹部たちは、決して一般国民の視点に立っていない。弱者の気持ちを分かろうとしない。それは至るところに現れているが、今日のブログで取り上げるのは拉致問題への取り組みである。
  今発売中の月刊誌「正論」11月号に、拉致被害者の一人である有本恵子さんの父親、有本明弘さんの手記が掲載されている。「どうしても言いたい!拉致隠蔽に群がった政・官・マスコミへの根本的不信」と題するこの告発記を読んで、私は強い怒りと深い悲しみにとらわれずにはいられなかった。およその推測はしていたが、この国の指導者たちの国民無視がこれほど酷いものとは思わなかった。
 かつて外務官僚が「わずか10名ぐらいの事で日朝国交正常化が妨げられてはならない」という暴言を吐いた事があった。私はかつての同僚がそのような気持ちで仕事をしている事を残念に思った。しかし、これは外務官僚だけの考えではなかったのだ。与野党の政治家が国を挙げてそう考えていたのだ。本気で拉致被害者の救済に立ち上がる指導者はいなかったのだ。だからいつまでたっても拉致問題が解決しないのだ。
 拉致家族は最初から今日まで切り捨てられ続けてきたのだ。そして今後もそうなるに違いない。官僚であったからよく分かるのだが、我々国民は国を相手にどんな願いを繰り返してもどうにもならないのだ。誰も助けてくれないのだ。それどころか国の機嫌を損ねると仕返しをされるのだ。意地悪をされるのである。なんという国であろうか。
  これは有本さんの告発の核心であるのだが、なぜ拉致問題は解決しないのか、それは勿論一番悪いのは北朝鮮の金正日政権である。しかし金丸訪朝以来拉致問題を隠蔽したまま国交正常化を急いだこの国の政治家と外務官僚、そしてそれに加担したマスコミの姿勢こそ罪深い。特に許しがたいのは「拉致は無い」と言い張って北朝鮮との友好関係を唱えていた左派イデオロギー政党の政治家と信奉者たちである。今でも反省するどころか、国交正常化を急ぐ事ばかり唱えている。
  平和や憲法九譲の大切さを訴えるのもいい。テロ特措法をめぐる論議を続けるのもいいだろう。日米軍事同盟の危険性を糾弾するのもいい。格差社会を問題とする事もいい。しかし拉致された国民一人さえ救えない国とは何か。政治家とは何か。私は拉致問題の行く末だけは、あらゆる動きを見逃す事無く追跡して行こうと思っている。

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2007年10月08日

野坂昭如の連載「七転び八起き」ほか

  野坂昭如の連載「七転び八起き」

  毎日せっせと新聞や雑誌を読んでいると、色々な出会いがある。その中の一つが毎日新聞に連載されている野坂昭如の「七転び八起き」である。
  野坂昭如といっても若い世代は知らない人が多いと思うが、昭和の高度成長期に活躍した作家であり、今でいうマルチタレントである。タレント参議院議員でもあったが、直木賞作品「火垂の墓」で戦争の悲惨さを訴えたりする全共闘、左派の硬骨漢でもある。
  その野坂は今では77歳のれっきとした老人となった。数年前に脳梗塞で倒れ現在リハビリ中という。その野坂が毎日新聞に4年ほど前から断続的に書いているのがこの「七転び八起き」である。 自らの過ぎし人生を思い起こしながら書いている、とりとめのない随想である。しかしその文章の中に、私は惹きつけられる言葉を時折見つける。勝手に決めつけて申し訳ないが、彼はこの先そう長くない自分の人生を自覚しながら、これがみずからの最後の作品であると思って書いているのではないか。不自由な自分の体と折り合いをつけながら、必死で、それでいて、ある種のゆとりを持って、生きている、その証としてこれを書いているのだと思う。
10月8日の文章には、次のような言葉があった。
・・・日本は小さな島国である。四面海に囲まれている。自給自足を捨てた資源のない日本は、諸外国と仲良くすることでしか生きのびられない。東洋のスイスである。国民がまずその事を知らなければならない。今、日本は前進するしかない。だが、時には立ち止まって考える事も必要である。日本はこれを忘れている・・・
 人間は遮二無二生きている時、絶頂にある時には見えない物がある。不遇の時、人生を降りた時にはじめて見える物がある。野坂の文章を読みながら、私はいつもそう思うのだ。


  それでもメディアに頑張ってもらいたい

 月刊「紙の爆弾」という雑誌がある。かつて「噂の真相」というスキャンダル雑誌があった。権力の悪を徹底的に告発・糾弾し続けた雑誌だ。それが廃刊になった後、今となっては唯一と言っていいほどのラジカル・スキャンダル雑誌である。
 その11月号に週刊金曜日の編集長北村肇のインタビュー記事があった。これが実に面白いのだ。
 北村は毎日新聞記者出身である。後に「サンデー毎日」の編集長も担当したが、そこで大手芸能プロダクション、バーニーズの内幕を追及した気骨あるジャーナリストである。それゆえに御用新聞記者から背を向けて、今では週刊金曜日の編集長となっている。
  その北村が、「雑誌の収入の半分以上は広告収入だから、広告主を全否定した商業誌は成り立たない、自分はそれでも圧力に屈することなく悪を追及したけれど、雑誌は倒産したら元も子もないわけだから、広告主に配慮して筆を曲げる事を一方的に批判する気にはなれない」と言っているのだ。いたずらにメディアの堕落を批判するのではない、この余裕がいい。
  テレビなどはもっと広告収入に依存しているのだろう。だから広告を取り仕切る電通などが幅を利かせるのだ。その現実を知らなければならない。メディアのジレンマに少しは同情しなくてはならないのかもしれない。
  メディアの商業主義の弊害はもう一つある。それは特ダネ合戦である。自社の特ダネは大きく報じるが、他社に特ダネされると後追い記事は小さくなる。沖縄返還のあらたな密約が発見された記事もその典型例である。
  10月7日の読売新聞は一面で、「核抜き本土並み」という沖縄返還の裏で、日米間に核持込の密約があった事をスクープした。この密約はこれまでにも様々な資料によって明らかにされてきた。しかし10月7日の読売新聞は、日大の信夫隆司という教授が米公文書の中からキッシンジャー元大統領補佐官のあらたなメモを見つけた事を報じた大スクープであった。だから翌日の各紙も一斉にこれを書かざるを得ない。しかしいずれも二番煎じだ。遠慮がちの小さな記事にとどまっている。
  しかしその中にも見落とせない記述がある。高村外務大臣が毎日新聞の問いに、「密約はなかった」と話しているのだ(10月8日)。
  この期に及んでもまだ外務官僚は嘘を言い続ける。その外務官僚の上に乗っかった政治家が、嘘を上塗りする。
  これはテロ特措法をめぐる虚偽答弁とまったく同じ構造だ。日米軍事同盟にかかわるおびただしい嘘の一部である。それは氷山の一角ではあるが、この国の外交の極めて深刻な病巣である。
  事実報道の特ダネ争いをするよりも、政府・官僚の嘘を追及する、その鋭さにおいてメディアには競い合って欲しいと思う。

  一般国民は政治論争に明け暮れる暇は無い(その2)

   10月6日のブログで私は書いた。「政治は政治家にまかせろ。それが政治家の最低限の仕事である。政治家は我々の税金で高額の給料を受け取っているのだ。我々がその政治家の行うべき仕事についてあれこれ議論に巻き込まれるのはおかしい。まともな仕事をしない政治家を監視し、批判するだけでよい」と。
   この私の考えを批判するかのような記事を10月8日の読売新聞の投稿欄で見つけた。
   法政大学教授・メディア文化論専攻の稲増龍夫氏が次のように書いていた。
   すなわち稲増教授は、小泉、安倍首相のパフォーマンス政治に疲れた自民党が福田非パフォーマンス政治に転じた事、そしてそれに皆が安心するという流れが出来つつある、この事に懸念しながら次のように言う。
    ・・・「落ち着いた政治」が、「政治に素人の有権者は、プロの政治家に任せておけばいい」という旧来型の密室政治への回帰を想定しているなら、それは絶対間違いである。
    パフォーマンスであろうがなかろうが、有権者の関心を積極的に喚起し、説明責任を果たしていくことはもはや不可逆的な流れである。「昔はのどかでよかった」と嘆く前に、役者=政治家、観客=有権者ともに、劇場の品格を上げることに力を注いでほしいものである。
  
   この意見はもっともだ。有権者が政治に関心を持つことはいい。政治家は常に国民によって監視されなければならない。それに私も異論は無い。しかし私が言いたい事は次の事である。すなわち現実はそう簡単に我々一般国民が政治論議に参加できない。ましてや政治に影響力を与える事はできない。それどころか有権者である観客は、メディアによって流される政治家と政治評論家、有識者の芝居を一方的に見させられるだけなのだ。彼らに影響を与えられる術をもぎ取られている。
   金を払って見に行く芝居は、つまらない出し物であればボイコットできる。お客様は神様なのだ。
ところが今の政治劇に対して一般国民はなす術が無い。政治議論の影響を与える事も出来なければ、議論に参加することさえ出来ない。一般国民が唯一政治に参加できるのは選挙の時だけであるが、その選挙さえも、国民の圧倒的な多数が解散・総選挙を望んでいるのに、政治家たちが自分たちの都合のいい時を選んで行う。
   国民が政治を監視できるシステムを作らない限り、メディアのおける政治番組の花盛りは、いたずらに政治家や政治評論家、御用有識者の売名行為や出演料稼ぎに加担するだけなのである。そんな事にかかわるよりは、もっと有益な事が我々の毎日にはあるということなのである。

 

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2007年10月07日

9・11以後の米国のあやうさ、日本のあやうさ

9・11以後の米国のあやうさ、日本のあやうさ

 10月7日の朝日新聞の書評欄に、米国カリフォルニア大学バークレー校教授であるジュディス・バトラー著のPRECARIOUS LIFE(邦訳 生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学  以文社)が紹介されていた。
 私が注目したのはその序文に書かれてあるという彼女の次の言葉だ。

(2001年秋に私が感じたこと、それは)と、彼女は次のように書いているという。

・・・アメリカ合州国が自らをグローバルな共同体の一員として定義する機会を失いつつあること、その代りにアメリカではナショナリズムが強化され、憲法で保障された権利が停止状態になり、あからさまなものであれ暗黙のものであれ、検閲が蔓延することになってしまったということだった・・・

  その言葉は、6年たった今、よりあからさまな形で進行して行った。ブッシュ政権の6年間を見事に言い当てた言葉だ。バトラー教授の慧眼に脱帽する。そしてなにもかも、しばらく遅れて米国の後を追いかけていく日本。その日本の将来を危惧する。日本にはバトラー教授はいないのか。

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2007年10月07日

嘘を認めたマリオン・ジョーンズ選手の勇気

嘘を認めたマリオン・ジョーンズ選手の勇気

  シドニー五輪の陸上女子短距離の金メダリスト、マリオン・ジョーンズ選手が5日、米国ニューヨーク州ホワイトプレーンズの裁判所前で、ドーピング違反を否定してきた事は嘘だったと偽証を認めた。あわせて引退を表明した。シドニー五輪で獲得した金3個、銅2個のメダル剥奪と成績抹消は避けられないだろうと報道されている。
  薬物を使用したからと言って優勝できるとは限らない。本人の実力が無ければ金メダルはとれない。しかし規則に違反したのである。嘘をついてそれを否定したのである。それは許される事ではない。当時マリオンの快走に喝采を送った一人として残念に思う。
  しかし、それにもかかわらず、あの愛くるしい顔で涙ながらに謝罪したマリオンの姿をテレビで見て、その勇気を称賛したい。それにつけても腹立たしいのは嘘にまみれた今の日本だ。
  毎週日曜日の午前中に各局が競って順番に流す政治番組は、どうやら限界が来たようだ。政治の指導者がまっかな嘘を平然としてつく。それをメディアが本気で追及しない。権力者たちの嘘とそれに加担するメディア。その嘘は視聴者のモラルを低下させ、国全体を偽装国家にする手助けをしているかのごとくだ。
  その中でもテロ特措法問題をめぐる政府・官僚の嘘は象徴的だ。動かしがたい嘘がばれても、なお政治家や有識者と称する連中は嘘を認めない。それどころか詭弁を繰り返す。それをメディアが無批判に報道する。極めつけは10月4日の読売新聞の社説である。その末尾でこう言っているのだ。「・・・仮に対イラク作戦への転用が判明しても、日本政府が取るべき道は給油活動の中止ではない・・・」と。語るに落ちるとはこの事だ。嘘でもいいから対米きょうりょくを続けろと言っているのだ。
  それにつけても今の日本は異常である。政治資金の嘘はどうだ。政治家の不正のあまりの多さに、もはや嘘が嘘でなくなりつつある。年金問題はどうだ。嘘を通り越して公務員の詐欺が至るところで行われていたのだ。郵政民営化の嘘はどうだ。民営化したと思ったら、日通と業務提携だ。民営化したといいながら、その後も手紙・はがき配達業を独占し、その儲けで「ゆうパック」を値下げする。それでも赤字が続くので日通の助けを借りて血の滲む営業努力を重ねてきた民間企業のヤマトを圧迫する。何のための民営化なのか。
  なぜこんな嘘が通るのか。政府の不条理が許されるのか。それは自民党が永久政権政党として権力を握り続けてきたからだ。自民党政権とそれに仕えてきたこの国の官僚組織がすべてを握ってきたからだ。
  嘘のない政治を実現するには政権交代しかない。政権交代によって旧政権の嘘がすべて明らかになる。民主・社民・国民新党の連立政権に多くを期待できないと考える人は多いかもしれない。確かに民主・社民・国民新党の連立政権が自公政権より素晴らしいとも思えない。しかし、政権交代がすべてに優先される。政権交代が起これば嘘はなくなる。彼らが政権を取って嘘をついたらは、たちどころに国民から見放されるからだ。それを今の政治家は皆知るようになった。どのような政党が政権を取ろうとも、嘘をついたらたちどころに政権を手放さなければならない、そういう政治が行われる日が一日も早く来なければならない。
  今の日本は政治家や政党の都合の為にいたずらに日にちを無駄にする余裕はない。一日も早い解散・総選挙が望まれる。野党はテロ特措法をめぐる自公政権の嘘を許す事なく、一日も早い解散・総選挙に追い込まなければならない。これは民主・社民、国民新党の為に言っているのではない。有権者であり納税者である国民が、これ以上政治の無駄を許さない、許せない、から言っているのだ。これは我々国民が、与野党の政治家に突きつけた最後通牒なのである。

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2007年10月06日

 政治と文学

 政治と文学

  昨日は一日中テレビの国会中継を見ていた。今に始まった事ではないが、そのあまりの不毛さに深いため息が出た。代表質問などというものは八百長だ。質問するほうも答える方も、こんなやり取りで生産的なものは何も生まれない事を知っている。質問を事前に知らせ、その答えを官僚が書いて総理や大臣が読み上げる。そこからは何一つ新しいものは生まれてこない。こんな国会審議がこれからも続けられていくのだ。それにもかかわらず、連日のメディアでは政治ニュースが真顔で取り上げる。政治番組が花盛りである。やれ解散・総選挙だ、やれ年金問題だ、テロ特措法問題だ、などと、あたかもそれがすべてであるかのように報道される。
  これは私の勝手な意見であるが、政治が我々の生活にあまりにも身近になり過ぎたために、私たちの生活にロマンがなくなってしまったのではないかと思う。人々が小説を読まなくなったかわりに実用書やノウハウ物ばかり読むようになった。その事と誰もが政治の話をするようになった事とは、おそらく相関関係があると思う。
  ついこの間までは、政治は政治家たちが独占して行う非日常的なものであった。権力欲にまみれたおやじたちが、タバコをくゆらし、料亭政治や派閥政治を繰り返して、我々国民の手の届かないところでこの国のあり方を決めていく、そういう時代が確かにあった。
  そんな政治には勿論弊害はあっただろう。しかし政治家は偉い人たちであり、利権まみれの悪も行うが、同時に国家大計も考える。そういう政治家を信用し、政治を任せる、一般市民は与えられた人生を、政治とは無関係なところで一生懸命生きる、そういう時代があったと思う。
  そんな政治や我々の暮らしを小泉元総理が一変させた。一国会議員にとどまっているような政治家が総理になってしまった。そこから日本の政治が変わった。難しい政策については何も語らず、政治家がタレントよろしくパフォーマンスに明け暮れるようになった。国民はそれを喜び、政治が身近になったと勘違いした。政治を語ることが何か高尚な事のように錯覚するようになった。テレビはこぞって政治番組を増やし、タレントや若い女子アナが老練の政治家に平然と議論を挑むようになった。
  政治が身近になったのはいい。政治家が世論の動向を恐れ、国民が主役になったのはいい。しかし同時に我々は人生における重要なものを失いつつあるのではないか。
  9月30日の日経新聞文化欄に詩人の荒川洋治という人が、「すぐれた文学作品は想像と思考の力を授けてくれる。人の心をつくる。人間の現実に、働きかける・・・」と書いていた。そして、「今は文学をだいじにしなくなった。本らしい本を読む人も少ない。人があつまると、何人かは文学談義をしたものだが、今は見かけない・・・」と続けていた。私が考えていた事と気脈を通じる文章であると思って読んだ。
 文学と言えば、10月6日の朝日新聞土曜紙面(BE ON SATURDAY)に、泉鏡花と芸者桃太郎の「恩師に背いた恋の成り行き」の話が載っていた。鏡花の師である尾崎紅葉は、一番弟子の泉鏡花に名家から妻を迎えさせようと考えていたらしい。ところが鏡花は神楽坂の芸者であった桃太郎に入れあげ、紅葉を激怒させる。その事を、朝日新聞の穴吹史士記者はこう書いていた。
 「・・・女関係に奔放で、自らも神楽坂の芸者を愛人にしていた紅葉が、鏡花と桃太郎の仲を血相変えてまで裂こうとした真意は、よくわからない。遊びと実生活、恋愛と結婚の区別をつけられず、打算を捨てて芸者ふぜいに打ち込む弟子の姿に、危うさを見たのかもしれない・・・桃太郎は、お座敷でも隅の方にひっそり座って、目立たない芸者だったという。父が早く死ぬ。母は芸者に出て(やがて)商人の囲われ者になった。その商人が破産。桃太郎は芸者屋に売られ、母は行方不明に。5歳の時だった。
 自分に数倍する不幸な境遇に、鏡花は激しく同情し、けなげに生きる姿に共感した。師にどう責められようと、この女を見捨てるわけにはいかないと決めたらしい。結婚を世俗的な利益の道具にもしかねない尾崎紅葉の生き方への、最初で最後の反抗であった・・・その後二人は仲むつまじく暮らし、桃太郎は鏡花の死を見取って、戦後まで生き、享年68歳で没した」
 「高野聖」、「婦系図」の世界である。政治の話などどうでもいいように思えてくる。

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