無為の時間を過ごす至福
無為の時間を過ごす至福
両親が亡くなり、姉が一人では寂しいと娘を頼って上京して以来、京都にある実家が空き家のままだ。暇を見つけては墓参りをかねて京都にもどり家の掃除をする。
ただでさえ暑い京都の夏であるが、今年の夏はとりたてて暑かった。その暑さも10月の声を聞いてさすがに去りつつある。おくればせの秋が古都に駆け足でやってくる。
雨戸を開けて家の中に空気を通す。掃除機をかけ、くまなく拭き掃除をする。さすがに汗がにじんでくる。不揃いに伸びた生垣の芽を刈り込み、落ち葉を掃き集めて袋にまとめる。
裏庭には、二年ほど前に88歳で逝った母が大切にしていた鉢植えが、今もそのまま並んでいる。これを枯らすと悲しがるだろうなあと思いながら水を遣るのだが、それでも家を訪れることが間遠になったりして、いくつかを枯らしてしまった。かんにんしてな、と心でつぶやく。
仏壇を拭き、水と花と供え物をあげて線香をつけ、手を合わせる。線香の香りが、住人のいない部屋を包み込む。
実家のすぐ裏は寺になっていて、そこに両親の墓地がある。散歩代わりに北野天満宮まで脚をのばし、帰りに花を買い求め、墓参りをする。
気がついたらもう日が傾きつつあった。彼岸が終わって確実に日は短くなりつつある。
一日をこうして過ごした。仕事に明け暮れていた頃には考えられないほどの無為の一日だった。何一つ生産的な事はしなかった。意味のある事はしなかった。
こうしている間にも世の中はめまぐるしく動いているに違いない。政治が、経済が、社会が動いている。しかし今の私には、もはやそんなことはどうでもいいことなのだ。
その昔読んだ堀秀彦の「銀の座席」(朝日新聞社)をなぜか思い出した。老哲学者が晩年を一人で暮らし、老いを直視して日常を生き続ける随想記である。人間にとって一番大切なもの、それは人によって異なるだろう。しかし若さだけは一様に人に訪れる。誰も取り戻す事は出来ない宝物なのだ。
人は皆、好調なときには、永遠に生き続けたいという思いを持つ一瞬があるに違いない。私は今でもそう思う時がある。あれもしたい、これもしたいという欲望がある。しかし同時にまた、残りの時間が確実に少なくなりつつある現実と折り合いをつけて生きることが、やっと出来るようになった気がする。
無為な一日の中に至福を感じる余裕が持てるようになった。肌に当たる風に季節の変わり目を感じ、道行く見知らぬ人に挨拶の言葉をかけてみる。木々や花に息吹を感じ、行き交う子犬を可愛いと思う。すべてに優しくなれる気がする。何事にもとげとげしかった若い頃の自分は、まぶしく、懐かしくもあるけれど、二度とあの頃にもどってもう一度人生を繰り返してみたいとは思わない。十分に生きてきた。頑張って生きてきた。
会社の社長まで極めた七十半ばの老人が、その歳になってなお政府系金融機関の社長に選ばれ、「人生に不可能はない」、などと片意地張った人生訓を垂れていた。エネルギーのある人だ。そういう人は偉いと思う。しかし今の私にとっては、人生観において対極にある人だ。人生の最後の瞬間まで権勢を保ち、他人の追従に囲まれて生きるのもいいだろう。しかし無為の時間に至福を感じとる、そういう心のゆとりを、人は死ぬ前に持つ必要があるのではないか。私は本気でそう思っている。