人の心とは、涙とは、そして人間とは
人の心とは、涙とは、そして人間とは
私がブログを書くときは、様々な状況で書く。普段は机に向かって一心に書くのだが、時には旅先で、時にはテレビを見ながら、音楽を聴きながら、あるいは酒を飲みながら書く。そのテーマは殆どが政治や外交や世の中の不正義に対する問題提起であり告発である。今も米国の中東政策の不正義について書いているところだ。
書くことに行き詰まりテレビに目をやったら、たまたま動物とのふれあいのバラエテイ番組が流れていた。その日は過去に流した番組の名場面を再演する番組であった。司会者のみのもんたが、あの番組は思い出深い番組だったと紹介したその番組は、盲導犬がその役割を終えて、犬の養老院で老衰死を待つ犬と、それを介護し、看取る人の心の交流を描いた番組であった。
この読者の中には、その番組を私と同様にたまたま目にされた方もいるだろうと思う。そういう方には、私がこのブログで表現する事がいかに無力であるかと思って読まれているであろう。たしかにあのシーンとそれを見た者の心の震えについては、到底文章では表現できない。しかし書いてみる。なんとか伝えたいのだ。
盲導犬のラブラドールの寿命は14年ほどである。だから12歳ごろになると、その役目を終えて解放され、すべての盲導犬がそうであるかどうかは知らないが、晩年を犬の養老院で過ごす幸せな犬がいるのだ。
まず盲導犬の調教師の男性が、犬の養老院に一匹のラブラドールを連れてくるところから始まる。その調教師は、長年首にはめられていた盲動用の首かせを自分の手ではずし、長年ご苦労だったね、と言って送り出す。この場面がまず感動的なのだ。いい歳をした大の男の目から涙が溢れ出す。もの心ついた時から盲導犬用に訓練され、その一生のすべてを盲導犬として過ごした犬を見てきた者だけが知る、ねぎらいと感謝の涙である。おそらくその犬の10年余りのひたむきな活動が走馬灯のように思い起こされてきたのだろう。つらい時もあったに違いないが、犬は一言も喋らずに働き続けた。いや、喋っていたかもしれないが人には伝わらない。その犬が年老いてお役ごめんになるのだ。もはや人間にとって何の意味もない。実利とか功利だけで考えるならば、後は死を待つだけの不要な犬だ。しかし人の心は実利や功利だけで動かされるものではない。もはや不要になって犬ではあるけれど、限りない愛情と惜別の情を抱き、思わず一掬の涙が流れたのだ。「よろしく頼みます」と言って、犬の養老院の職員に引き渡し、去っていく調教師と、よぼよぼと歩き出して養老院に向かう老犬の姿は、下手なドラマのシーンよりも圧倒的な感動がある。
次に、養老院で働いている女性職員の犬に接する姿が映し出される。養老院で晩年を過ごす老犬は様々だ。比較的元気な犬もいれば横たわって動けない犬もいる。四肢が不自由になって歩けない犬もいる。そのような犬の一匹一匹に丁寧に接し、食事を与えたり、入浴させたりする職員が聖母のように見えてくる。
そして最後は死を見取る犬と人間の心のふれあいである。横たわったまま一言も発する事のできない犬でも、その瞳だけは何かを物語っている。画面から訴えるラブラドールの瞳は、この上なく優しく暖かい。やがて犬は息を引き取る。この別れの場面は圧巻だ。その番組を見ているタレントのすべてが涙を流している。
人の心とは、涙とは、そして人間とは何か。人間がどのように邪悪であっても、そしてこの世の中は限りない不正と悪が横行しているとしても、人は皆善人に戻る瞬間はある。神や菩薩に近づく瞬間がある。そこに救いがある。心がなごみ、癒される瞬間がある。
