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2007年09月16日

人の心とは、涙とは、そして人間とは

 人の心とは、涙とは、そして人間とは

  私がブログを書くときは、様々な状況で書く。普段は机に向かって一心に書くのだが、時には旅先で、時にはテレビを見ながら、音楽を聴きながら、あるいは酒を飲みながら書く。そのテーマは殆どが政治や外交や世の中の不正義に対する問題提起であり告発である。今も米国の中東政策の不正義について書いているところだ。
  書くことに行き詰まりテレビに目をやったら、たまたま動物とのふれあいのバラエテイ番組が流れていた。その日は過去に流した番組の名場面を再演する番組であった。司会者のみのもんたが、あの番組は思い出深い番組だったと紹介したその番組は、盲導犬がその役割を終えて、犬の養老院で老衰死を待つ犬と、それを介護し、看取る人の心の交流を描いた番組であった。
  この読者の中には、その番組を私と同様にたまたま目にされた方もいるだろうと思う。そういう方には、私がこのブログで表現する事がいかに無力であるかと思って読まれているであろう。たしかにあのシーンとそれを見た者の心の震えについては、到底文章では表現できない。しかし書いてみる。なんとか伝えたいのだ。
  盲導犬のラブラドールの寿命は14年ほどである。だから12歳ごろになると、その役目を終えて解放され、すべての盲導犬がそうであるかどうかは知らないが、晩年を犬の養老院で過ごす幸せな犬がいるのだ。
  まず盲導犬の調教師の男性が、犬の養老院に一匹のラブラドールを連れてくるところから始まる。その調教師は、長年首にはめられていた盲動用の首かせを自分の手ではずし、長年ご苦労だったね、と言って送り出す。この場面がまず感動的なのだ。いい歳をした大の男の目から涙が溢れ出す。もの心ついた時から盲導犬用に訓練され、その一生のすべてを盲導犬として過ごした犬を見てきた者だけが知る、ねぎらいと感謝の涙である。おそらくその犬の10年余りのひたむきな活動が走馬灯のように思い起こされてきたのだろう。つらい時もあったに違いないが、犬は一言も喋らずに働き続けた。いや、喋っていたかもしれないが人には伝わらない。その犬が年老いてお役ごめんになるのだ。もはや人間にとって何の意味もない。実利とか功利だけで考えるならば、後は死を待つだけの不要な犬だ。しかし人の心は実利や功利だけで動かされるものではない。もはや不要になって犬ではあるけれど、限りない愛情と惜別の情を抱き、思わず一掬の涙が流れたのだ。「よろしく頼みます」と言って、犬の養老院の職員に引き渡し、去っていく調教師と、よぼよぼと歩き出して養老院に向かう老犬の姿は、下手なドラマのシーンよりも圧倒的な感動がある。
  次に、養老院で働いている女性職員の犬に接する姿が映し出される。養老院で晩年を過ごす老犬は様々だ。比較的元気な犬もいれば横たわって動けない犬もいる。四肢が不自由になって歩けない犬もいる。そのような犬の一匹一匹に丁寧に接し、食事を与えたり、入浴させたりする職員が聖母のように見えてくる。
  そして最後は死を見取る犬と人間の心のふれあいである。横たわったまま一言も発する事のできない犬でも、その瞳だけは何かを物語っている。画面から訴えるラブラドールの瞳は、この上なく優しく暖かい。やがて犬は息を引き取る。この別れの場面は圧巻だ。その番組を見ているタレントのすべてが涙を流している。
  人の心とは、涙とは、そして人間とは何か。人間がどのように邪悪であっても、そしてこの世の中は限りない不正と悪が横行しているとしても、人は皆善人に戻る瞬間はある。神や菩薩に近づく瞬間がある。そこに救いがある。心がなごみ、癒される瞬間がある。

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2007年09月16日

アーミテージの言葉のすべてを否定する

アーミテージの言葉のすべてを否定する

  私が自らの経験で自信を持って語れるのは日本の外交であり、その中でも中東和平の問題である。だから16日の読売新聞一面に掲載されていた「地球を読む」の中のアーミテージ前米国務副長官の寄稿、「中東の安定化に関する日本の役割」について、どうしてもこのブログで反論しておかなくてはならない。中東問題について無知な日本人相手に、いかさまな主張を展開しているからである。
  もし読売新聞が、米国の要人の言葉を借りて日本人の頭を情報操作しようとしているのであれば、なるほどCIAの手先になって日本洗脳の片棒を担いだ正力松太郎(警察官僚から政治家となり、A級戦犯と指定されたが不起訴となって読売新聞の社主となる)を社主と仰いだ読売新聞のやりそうな事である。もしアーミテージの論が正しいと信じて、日本の読者を善意で啓蒙するつもりであるとすれば、無知もはなはだしい。中東問題をもう一度勉強し直して来いという事だ。
  アーミテージ発言の最大のいかさまは、昨今の中東の混迷の原因がイラン、シリア、レバノン、パレスチナの過激組織のせいであると一方的に決め付けていることである。パレスチナに対するイスラエルの圧制については一言も言及がない。それどころかイスラエルのオルメルト首相の弱体、不人気が、中東を不安定にしていると言っている。強いイスラエルが必要であると言っているのだ。この米国の一方的な親イスラエルの態度こそ、中東問題が混迷し続ける最大の原因であるのだ。
  つぎにアーミテージが述べている事は、アラブ世界内部の重心がエジプトからサウディアラビアに移動しつつあり、あらゆる和平計画の指導的役割はサウディアラビアが中心勢力になりつつある、それは好ましい、という指摘だ。それは決して正しくはない。米国にとってはそれが都合がいいかもしれない。しかしサウディアラビアにとっては致命傷になりかねない。反米が高まるアラブにおいては、エジプトにしてもサウディアラビアにしても、軍事独裁制や世襲王族制の国が米国に追従する事による内部崩壊が進みつつある。特にサウディアラビアの王族支配については、米国の軍事的庇護のもとに、王制の安全と引き換えに石油収益を米国と山分けしている事について、原理主義者の抵抗はもとより、一般国民の不満が高まりつつあるのだ。これ以上親米的な役割をサウディが中東問題で果たそうとすれば、原理主義、反米武装抵抗組織に政権が転覆させられかねないジレンマを抱えることになる。サウディアラビアほめ殺しだ。
  最後に、反米の嵐が吹きすさぶ中東において日本は信頼を得ている、だから中東全域の政治と出来事にもっと積極的に役割を拡大しろと、注文をつけている点だ。日本がこれまで中東から好印象を持たれていた事は事実である。しかしその日本が、9・11を契機に、これまでかろうじて保ってきた中立、等距離外交をすっかり放棄し、対米従属一辺倒になってしまった。その結果、アラブの信頼と好感を失いつつある。いまならまだ敵意を抱かれるところまで行っていない。しかし米国が日本に中東政策の代役をさせようとするのなら、そして日本が対米従属外交を中東の地においても行うのなら、日本は間違いなく中東の信頼を失う。そればかりか敵意さえ抱かせることになる。日本が危なくなる。
  日本人はアーミテージのいかさまな甘言にそそのかされてはいけない。

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2007年09月16日

優しい世代

  優しい世代

 12日の毎日新聞「発信箱」で、礒崎由美という記者が、「優しい世代」というタイトルのコラムを書いて一つの問題提起をしていた。東京でこの夏に行なわれた20歳―30歳の若者のトークライブにおける激論を聞いた後の所感であるという。
 会社や組織を嫌い、わが道を行くタイプは昔からいた。しかし最近の若者の労働観はどこか違うというのだ。
 「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」、「人をけ落としてまで生きたくない」、「社長だけ高い給料をもらうなんてオレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」などと言う若者の言葉を聞きながら、その心象風景に当てはまる言葉を探せば、少し違和感はあるが「優しさ」ということではないか、と磯崎記者は次のように書いているのだ。
 「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないか、と言うのである。
  おそらく礒崎記者はバリバリ仕事をする有能な記者であろう。自分は決してそのような生き方をしない。人をけ落とさないまでも、すくなくとも自分は競争社会に勝ち抜いて成功しようとする上昇志向の人であろう。だからこの若者のトークに少し「違和感」を持つのだ。私自身がそうであるから磯崎記者の心が読める。
  しかし、彼女がこのような記事を書いたの、低賃金に甘んじても自分の好きな生き方をしたい、それが少しでも人にためになればそれだけで満足だ、という若者たちの生き方に、ひょっとしてそれも正しい生き方なのではないか、感じ始めたのではないか。もっと言えば、重労働低賃金に耐える青年から「お年寄りの笑顔を見るとつらい事も忘れるんです」と聞くと、自分の生き方よりも立派なのではないか、自分が果たしてそのような生き方ができるか、と、彼らの生き方に敬意すら抱き始めたのではないか。その思いが、彼女を「複雑な気持ち」にさせているに違いない。それもまた今の私の心境である。
 もう三年ほど前の話だが、私は講演で北海道の片田舎を訪れたことがあった。その時出会った若者の言葉を思い出す。可愛い奥さんと二人で東京から最近移り住んだというその若者は、土地を借りて乳牛の放牧で生計を立てていた。年収約300百万円と聞いて、「牛の数を増やせばもっと収入が増えるのに」とたずねた私に、「それはその通りです。しかし今は食べるものは自給自足だし、ここは物価も安いし・・・300万円あれば十分です」という答えが返ってきた。私は自らの愚問に恥じ入ったものだ。
思えば私の人生は、他の多くの同世代の人々と同じように、学歴社会、終身雇用制度の下に競争社会を生き抜き、勝ち抜いてきた。その生き方に悔いはない。しかしすべてが終わった今その人生を振り返る時、もっと自由な生き方もあったと思う。
そしてここから書くことが今日のブログの言いたい事である。うまく表現できないが私が言いたい事はこういう事である。
 経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか。
 それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう。
  富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人はいるだろう。権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人がいてもいい。しかしそのような人生に積極的な価値を見出さない人たちが、堂々と自分の好きな人生を選べるような社会こそ理想ではないのか。そんな社会を実現する事こそ政治の責任ではないのか。ところが現実はどうだ。生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか。
  このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う。誰が自民党の総裁になろうとも、誰がこの国の総理になろうとも、まず政治家は真剣な政治を行う事が先決だ。

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