映画評から映画を想像する
映画評から映画を想像する
阿久悠の惜別がメディアで語られている。驚くべき数の作品を残したものだと改めて感心する。
映画か歌か小説家か、どれでもいいから、人の心に永遠に残る作品を一つでもいいからつくることができればどれほど素晴らしいことであろうかと思ったりする。いつか挑戦してみたいと夢を抱く。
そこで今日のブログは映画についてである。
9月11日の朝日新聞に沢木耕太郎の映画批評「銀の街から」が掲載されていた。その映画評を読みながら、映画「キャンディ」を想像する。
人生は愚かで残酷なものだ。「幸せな人生はどれも同じだが、不幸な人生はそれぞれに異なっている」とは誰かの言葉である。これもその不幸の一つだ。
不幸はとどまってくれない。不幸は容赦なく加速していく。しかし人はその不幸に、なんとか美しさを見つけようとする。ほんとうは不幸に美しさなどない。あるのは悲惨さだけである。絶望だけである。しかし人間である以上、その不幸に負けていく人間に美しさを見つけようとする。救いをどこかに求めようとする。ましてやそれが男女の恋の人生であれば。
若く美しいふたりの男女が恋におちいるところから物語は始まる。
詩人志望のダンと画家志望のキャンディ。
冒頭のシーンが二人の人生を象徴する。二人は遊園地で楽しんでいる。高速のドラムの回転によって遠心力が生まれ、二人は壁に押し付けられながら幸せそうにキスをしている。だが、その壁が不意にはずれてしまうと、ふたりはどこまでもとばされていってしまうことになる・・・
一緒に暮らしはじめたものの、ダンは定職につこうとしない。そのうちドラッグに手を染め、ダンに導かれてキャンディもやがてドラッグの常用者となる。二人に稼ぎがあるわけではない。家族や知り合いに無心してはドラッグを手に入れようとする・・・
しかしそんな生活がいつまでも続くはずはない。質入をしたり、万引きしたり、他人の物を転売したり、果てはキャンディが売春を始めることになる・・・
二人は徹底的に愚かである。愚かな二人の愚かな物語だ。だが、愚かさにもかかわらず二人は美しい。いや、愚かゆえに美しい、と沢木耕太郎は評する。
二人はドラッグから抜けだそうと努力する。キャンディが妊娠する。盗んだ金で食料を買い込み、アパートの一室にこもってドラッグを断とうと必死の努力をする。希望を抱かせるほんの一瞬である。しかし、ドラッグは若い二人を手放すほど優しくはない。キャンディは死産をしてしまい、やけになった二人はまたドラッグの世界に戻っていく。
二人はもつれあいながら、幸せだった「天国」から地上に落ち、そして「地獄」へと下降に下降を重ねていく・・・
この映画のミソはキャンディ役のアビー・コーニッシュの美しさにある。その美しさがこの映画を美しく、痛ましくしている。キャンディの父親がダンに「おまえはあの美しい娘に何をしたんだ」となじるシーンがある。「あの美しい娘」と叫ばせるにふさわしい絶対的な輝きがキャンディにはある。その美しさがこの映画を際立たせているに違いない。
