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2007年03月18日

閑話休題 都知事選と週刊金曜日の投稿記事

閑話休題

都知事選と週刊金曜日の投稿記事

 私がブログを再開したのが1月9日であった。今日は3月18日であるから2ヶ月半が過ぎたということになる。私はニュースのない週末こそブログを書こうと思って始めた。それは、週末はニュースがなくなり暇をもてあます、そういう時こそ何か読みたいと思う人は多いと思うからである。事実私がそうである。だから読者の為に休日も書き続けることにしたのだ。幸いにも今日まで一日も休まず書き続けることができた。いつか途切れる時が来るとは思うが、いまのところ「意地でも書き続けて見せる」という気力はある。

 私は文字通り一人で、自らの手で、このブログを書いているので、このブログが途絶えた時は私に何かが起こった時だ。それは怠慢になったり、時間が無かったり、旅行したり、あるいは体調が悪くなったり、事故にあったりした時だ。離れている家人や親しい知人などは、私のブログが更新されている事を確認して、ああ、元気にしているなあと知ることになる。これからも途切れることなく書き続けられればと願うばかりである。

 ところで、私はブログを書くときは、自分の意見を述べることよりも、興味深い報道を通じて真実に迫ろうとすることに心掛けている。読者が、私が見つけた情報に接し、私の問題提起に関して、自分なりの意見を持つ、その手助けになればいいと思って書いている。読者の中には私の主張が強く出過ぎているという声もある。それは私の未熟さのせいであると反省する。このブログは、あくまでも読者が自分の意見を持つようになるための、情報提供、問題提起であり、刺激剤なのだ。そう思って書いている。

 私の意見について言えば、異論をぶつけられても私は一向に構わない。逆にまた同調する人たちからの励ましの意見を寄せられたからといって、その人たちと一緒になって何かをするという気持ちもない。私は生来の身勝手な人間であり、人とつるんだり、論争したりすることが嫌いだ。だからこのブログも言いっぱなしのブログである。しかしそれでは読者に対してあまりにも一方的であると思って、私に対する一対一のコミュニケーションの連絡ならメールで出来るように、ブログの管理人に頼んで作って貰っている。

 それを使って助言や、誤りの指摘や、箴言をくれる読者に対しては、私はこれを歓迎し、ありがたく受け入れ、そしてできるだけこまめに返答を書くことにしている(面倒になって書かない時もあるが)。これまでに、わずか数人程度ではあるが、明らかに議論を吹っかけてくる読者がいた。それが建設的で学ぶものがある意見ならいざ知らず、ただ喧嘩を売るようなものであったので読了することなく削除した。このブログは議論をする為のものではないし、また私はその時間的余裕も無い。この点はあらかじめ読者の皆様にはご了解願いたい。

 さて前置きが長くなったが、これから書くブログに限っては、その方針を逸脱し、論議を呼ぶ事を覚悟で、東京都知事選挙や今の政治状況についての私の意見をストレートに書いてみたい。勿論この場合も私の一方的な意見を述べるだけであって、読者との議論をするつもりは無いことは同様である。この点あらかじめご了承願いたい。

 さて私は、今回の都知事選はまったく盛り上がらないものになってしまったと思っている。浅野が出て石原と対決する構図が出てきそうになった時は、これを歓迎し、浅野を応援したいと思った。それは石原の再選に反対だからだ。その思いは今も変わらない。

 しかし今は浅野を応援することさえそれほど熱心でなくなりつつある。誰が勝ってもいい、都知事選などもうどうでもいいという思いのほうが強くなりつつあるのだ。石原の三選は好ましくない。しかし反石原の三人を見ていると、誰が良いか、特段の強い意見を持てなくなった。浅野が一番ましだろうとは今でも思う。それは浅野が一番石原に勝てそうだからだ。政策的には吉田が一番反石原ではっきりしている。しかし私が都民であったら吉田に入れる気はしない。「共産党では勝てない」というだけではない。入れたいという気がおきないのだ。黒川は、思った以上にいいことを言っている。まじめに都知事になる気があるのか疑わしいので黒川にも入れないが、石原と黒川の対決だったら、本当は面白い。黒川が保守だとか、同業者の建築家である安藤に石原が贔屓したから反発して立候補した、などというのは私には気にしない。むしろ人間臭くてよい。彼は本気で選挙戦を戦う気があるのかという疑問が付きまとう、だから入れる気にならないだけだ。

 こんな調子が続くと、結局は石原が勝つのだろうという気がする。それは私にとっては残念なことだ。しかし、もはや、それとても、かつてのように腹は立たないようになった。それほど熱気が感じられない選挙になりつつあるということだ。特定の候補者に、特別の利害関係から肩入れしている人たちは別にして、一般の国民、都民の多くは私のような考えではなかろうか。

 こう述べた上で、さらにもう一歩踏み込んで私の意見を述べてみたい。四人の候補者がテレビの前で自己アピールをしているのを見ながら、自分なりに考えた。その結論はこうだ。この選挙、ないし討論をつまらなくしたのは、一つには反石原候補が乱立し、しかもその候補の中に自他共に認める強力な反石原候補がいないからだ。これが最大の理由であろう。菅直人とか田中康夫とか細川護煕などの反石原候補者が早い段階で名乗りをあげ、石原との一騎打ちになっていたならば事情は異なったと思う。

 二つ目に盛り上がらないのは、メディアも識者も、そしてなによりも候補者が、政策論を重視するという愚を犯しているからだ。その事と関連するのであるが、共産党候補やその支持者が頑張っている理由に、「浅野も石原も政策においては大差ない、石原都政を否定する政策を一貫して明言している候補者は、共産党の吉田だけである」というのがある。これは思い上がりであり、勘違いだ。吉田の唱える政策は確かに石原の政策に対するアンチテーゼを示している。私も多くの政策において賛成だ。しかし、それを吉田や共産党がまるで自分の専売特許のような顔をして主張すればするほど鼻白むのだ。吉田の政策に賛成する都民がいるとしても、それを共産党の吉田が言うから反対する、と考える都民や国民は多いと思う。人を動かすのは、最後は政策ではなく、感情である。それが選挙であり政治だと思う。

 政策論に関して更に言えば、私は選挙にマニフェストが必要だと強調する意見にまったく与しない。国会議員でも首長でも、識者でも、今はあたかも「マニフェストを重視しない者は人にあらず」のごとくだ。なにしろそのまんま東までもが、マニフェストで勝ったなどと言い出す始末だ。

 しかしそれは違う。私は官僚だったから言うわけではないが、マニフェストなどは、ちょっと小ざかしい官僚が鉛筆を舐めれば誰でも書ける作文に過ぎない。その程度のものなのだ。しかもマニフェスト実現の目安として必ず持ち出されるのが数値目標であるがこれが、また官僚的発想なのである。数値目標が達成されたからと言って暮らしはよくなるのか。都政が良くなるのか。そうではないだろう。政治というものは官僚的なるものとの対極にあるものだと思う。

 そもそも政策の違いを見て候補者を決めるという一般都民がどれほどいるというのか。4人がテレビの前で政策論争を議論すればするほど、政策の違いが曖昧になり、4人の違いがわからなくなる。時間が来て討論番組が打ち切られた後で、決まって感じる後味の悪さは、皆もっともらしく言い合って自分を売り込んで見せるが、結局誰を入れたら良いか分からないほど心に響くものが残らないからだ。そして共産党の吉田の、「石原政策を変えるには自分しかいない、だから自分こそが選挙で選ばれるべきだ」という傲慢さだけが印象に残る。かくしてますます都知事選から気持ちがはなれていく。このような報道番組がこれからも毎日のように繰り返されると思うと憂鬱になる。

 この事と関連し、3月9日号の週刊金曜日に出てい興味深い投稿を紹介したい。雑誌の編集をしている70歳の自由業の読者は要旨次のように書いているのだ。

私は長年の「週刊金曜日」のファンです。意見に共鳴できるし、あまりにも情けない今の政治状況やジャーナリズムの堕落を見ると、週刊金曜日の果たす役割は大きいと思う。だから一生懸命週刊金曜日をまわりの者に宣伝しているのだが、講読者数が一向に伸びないのが残念だ。その理由は、「けしからん」と言い放ち、「俺たちだけが正しい」と説いている週刊誌になっているからだ。これでは「自画自賛のための集団」に終わってしまう。強弁や言い訳に終始するのではなく、一人また一人と民意を広げていく、地道な努力を続けていくことが求められているのではないか

 週刊金曜日の編集関係者は社民党支援者であるという印象を持つが、彼らもまた共産党と同じ愚を冒している。いわゆる左翼、護憲勢力とひとからげにされる人たちの限界だ。共産党と同じく社民党も、一般市民はその名前を聞いただけで、距離を置く。特に社民党は自民党政権と連立を組んで事実上解体した政党だ。民主党に行けなかった社会党左派が残って作った党であるから再生は不可能だ。

 結局のところ、護憲や反戦、反権力、正義、弱者の味方、などといったテーマを自分たちの独占物であると錯覚している人々である。それでいて、いやそれだからこそ、社民党と共産党は統一して政権党に挑まなければならないのに、統一どころかこの期に及んでも争っているのだから、どうしようもない。

 このような政治状況では無党派が増えるはずだ。無党派の中には、既存の政党のどれに投票するか決めかねているが最後はどれかの既存政党の候補者に投票するという人もいるだろう。初めからまったく政治には無知、無関心の、民主主義の権利を放棄した愚か者もいるであろう。しかし今の私のように、入れたくても、入れたい政党がないではないかという、政治に愛想をつかした人も多いと思う。そういう人たちにとっては今日の日本の政治状況は耐え難いほどの苦痛である。新しい政治を渇望する。

 今度の都知事選がどういう結果に終わろうとも、そして4月の地方選挙がどうなろうとも、問題は7月に行われる参議院選挙であり、その結果起きるであろう政界大再編の動きである。しかし、よほどのことがない限り、自公体制は崩れないであろう。これほどまでに自公政権の失政、悪政が重ねられても、それを倒すべき対立政党が存在しないからだ。民主党は政権交代ができる政党ではない。だからと言ってその他の野党が国民の支持を得て票を伸ばすとは思えない。わずかばかりの議席を増やしたところで、彼らは自分たちの党勢を伸ばして喜ぶかもしれないが、一般国民から見れば益はない。

 もはや日本の政治や政治家は最大の不良債権である。私たちの税金を使う一方でそれに見合う利益を国民になんら還元できないでいる。その一方で国家権力を独占し、政権政党の政治家は、我々の暮らしや経済活動を左右する法律を官僚と組んで一方的に作っていく。野党の政治家は、それを阻止するには少なすぎる。無力すぎる。

 私は既存の政治や、政治システムを全否定して、彼らが独占している国家権力を我々の手に取り戻す事のできるまったく新しい政治システムを作らなければならない時が来ていると本気で思っている。

 どうすればそれが可能か。どうすれば、自分の当選や、自分の利権を優先することなく、国民のために政治ができる政治家を出現させることができるのか。私はいまだその答えを見つけ出すことが出来ない。参議院選挙の後で起きるであろう政治的大混乱でさえ何も新しい物をもたらさないだろうと思う。しかしひょっとして何かが動きだすかも知れない。そこにかすかな希望を託したい。すべては参議院選挙後であると思っている。

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2007年03月18日

因縁の日米証券攻防劇

因縁の日米証券攻防劇

 53億円を粉飾したライブドアが上場廃止になり、その責任者である堀江貴文が二年半の実刑判決を受けた今となっては、組織的に経常利益を190億円も水増した日興コーデイアルの上場が維持され、金融庁、証券取引等監視委員会はもとより検察がまったく動かなかった事は、誰が見てもおかしい。

 その背景については色々な事が言われているが、はっきりしている事は米国金融資本が最後は利益を独り占めするに違いないと、私は数日前のこのブログで書いた。その直後に、日興コーデイアルグループの第2位株主(保有比率4.82%)であるみずほコーポレート銀行が、保有する株式のすべてをシテイに譲渡すると発表した。日本の証券市場をめぐる日米の攻防は、もはや揺ぎないまでに米国の勝利で終わろうとしている。

 しかし日本の大手銀行が米国の大手証券会社を買収しようとしていた時期もあったのだ。20年前の事である。それが米国の激怒にあって、不合理なまでに日本は譲歩させられた。その時点で今日の証券市場支配の日米逆転の構図が決まったのだ。

 この攻防劇を3月14日の産経新聞で編集委員の田村秀男氏がドラマテイックに描写している。それを私なりに脚色してここに再現してみたい。

1986年10月、ワシントンの米連邦準備制度理事会での公聴会で(米国証券会社のゴールドマン・サックスを買収しようとして公聴会に招致された)住友銀行の専務が、か細い声で、台本通り証言する。

「住友には証券業界進出という野心は一切ありません」

身長2メートルを超すボルカー議長ら居並ぶ幹部は、小柄な日本人のグループを威圧するような口調で、

「 I’m mystified.(意味が分からない)」とたたみかけた。(筆者註:この時のやり取りの詳細は田村の記事だけではよくわからないが、米国証券業界に進出する気がないのなら何故巨額の資金を投資するのか、米国の金融常識では理解できない、嘘をついているのではないか、というような追及を厳しく受けたのではないか、それに対して説得力のある反駁を英語で出来ない住銀の専務が引き下がったのではないかとし容易に想像できる)

結局、住友銀行はゴールドマン・サックスに議決権のない5億ドルを出資させられる羽目になる。資金繰りで苦境にあったゴールドマンは立ち直ったが、住銀はゴールドマンとの合併による証券会社設立計画まで放棄させられ、証券業界進出への道を断たれた。

当時日本の金融界は85年9月のプラザ合意後の円高と株式増資ブームによるジャパンマネーパワーを武器に米国金融界に買収攻勢をかけようとしていた。住銀はその先駆けだったのだ。だが、ワシントンは米国法を盾に日本の銀行の証券業を断固阻んだ。米国への出口をふさがれた日本の金融界は、以降、日本の株式投資、不動産融資に集中し、バブルを膨らませ、自滅していった

 それから20年たって、当時のゴールドマン幹部の一人であったロバート・ルービンは今やシテイグループ経営会議の議長である。そのゴールドマン・サックスが日興コーデイアルグループへのTOB(株式公開買い付け)を仕掛け、子会社化を狙ってきたのだ。ちなみにルービンとはクリントン政権下で大統領補佐官(経済担当)、財務長官を務めたあのルービンである。

 このルービンについては更に因縁めいたエピソードがあると田村は続ける。97年の9月、アジア各国の経済を崩壊させつつあったアジア通貨危機対策で、橋本内閣は、大蔵省(現財務省)の「アジア通貨基金」構想を閣議決定しかけたが、「官邸は直前になって大蔵省幹部にあきらめろと言ってきた」(元大蔵省幹部)という。この時財務長官であったルービンは、米国が仕切る国際通貨基金(IMF)体制を損なうという理由で猛反対し、中国の同調を引きだした。孤立した日本は敗れた。ちなみに橋本はそのわずか3ヶ月前の1997年6月、ニューヨークで講演し、「米国国債を売り飛ばしたいという誘惑に何度もかられたことがある」と口を滑らし、ルービンを怒らせている。

 以上の日米証券業攻防ドラマを述べた後で、田村は言うのである。日興コーデイアル買収については、上場維持になって株価がつりあがり、TOB価格が急騰してゴールドマン・サックスに一見不利になった。米国のことだから再びごり押しをして巻き返してくるであろう。いくら「日米同盟」を謳っても、金融だけは相手の言うとおりにならない」米国である・・・と

 しかしそれは違う。ゴールドマン・サックスは少々の株価上昇ではびくともしない。確実に日興コーデイアルを手にし、その後会社を建て直して企業価値を高め、莫大な利益を回収するシナリオは出来ているに違いない。米国は、「金融だけは相手の言うとおりにならない」国なのではない。「金融についても日本を支配する」国なのだ。日本に対して米国が譲歩する事はない。日本は最後はすべて米国の要求を飲ませられる国になってしまった。そういう日米関係が「日米同盟」の真実の姿なのである。

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